■湯島サロン「自分にとっての生きる意味」報告
私としては、4月以来の大きなテーマの総括を意識して企画したサロンだったのですが、開催日が近づくにつれて、何を話したらいいか迷いが出てきて、問題提起もできないままに、いささか私自身をさらけ出しすぎてしまった赤面サロンになってしまいました。
そんなわけで、報告もなかなか書きにくいです。
最初に参加者それぞれから「生きる意味」ということに関して一言ずつコメントしてもらい、その後、第2ラウンドで、各自から今度は「自分にとっての生きる意味」を語ってもらうことにしました。
第1ラウンドは順調に回りました。
第2ラウンドは私から話させてもらいましたが、迷いをそのまま話したためか、いろいろと突っ込まれてしまい、なんだかかなり「いじられてしまった」感じで、次の人になかなか回らず、話が広がってしまいました。
誘いに乗ってしまい、いささか話しすぎてしまったような気がします。
困ったものです。
次第にそれぞれの「生きる意味」も話されだしましたが、答えを出すことが目的ではなく、それぞれが惰性で生きるのではなく、時にちょっと立ち止まって考えようというのが趣旨だったので、話の流れに任すことにしました。
話を聞いていて、感じたことを書いて報告に代えます。
大きくは4つくらいの生き方に別れるような気がしました。
①誰か特定の人(たち)のために生きる(他者が生きる意味を与えてくれる)
②自分の楽しみを得るために生きる(自分の中にこそ生きる意味がある)
③使命を果たすために生きる(生きる意味は与えられている)
④生きているから生きる(生きる意味は問うべきではない)
①は他者のために生きることですが、他者が特定の人か、不特定多数の、たとえば「社会のため」「国家のため」「会社のため」かで全く異質なものになります。
②は明快ですが、この生き方だと自分の命を自由に扱えることになりかねません。
③は、その「使命」とは誰のためかということになり、①と②に還元されてしまいます。
④は「生きる意味」など考える意味がないということになります。
こう整理してしまうと、あまりにも退屈な感じがしますが、それぞれ私には大きな示唆を感じます。
たとえば、この後、「自殺」や「安楽死」のテーマを取り上げたいと思っていたのですが、そこにもつながっていくはずです。
あるいは「社会のため」とか「会社のため」という言葉の無意味さ(危険性)もわかってくるはずです。
そして、昨今ではみんな④の世界に取り込まれているのではないかということにも気づかされるはずです。
ちなみに、サロンでは「使命」などそれぞれに関して、具体的な話もありました。
「生きる意味」といえば定番のヴィクトール・フランクルの話もでました。
おかしな報告になってしまいました。
こんなはずではなかったのですが。
「〈な〉と〈あ〉と〈た〉」「自己非自己と利己利他」「トランスヒューマニズム」「宗教と信仰」「自我と関係」などを集大成するまとめのサロンを構想していたのですが、羊頭狗肉ですみません。
でもちょっとだけ、「生きていることを無駄にしていないだろうか」と考えてくれる人がいたらうれしいです。そうすればコロナパンデミックの中での生き方も変わるかもしれません。
ちなみに、「4つの生き方」については、オープンサロンなので話題にしていきたいと思っています。
サロンもできればいいなと思っています。賛同者がいたら、懲りずにまたやろうと思っています。
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