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2021年6月

2021/06/30

■節子への挽歌5064:来客を受け容れる場所がなくなってしまいました

節子

リフォーム後の片づけがうまくいきません。
どうも意欲が減退して、少しずつは整理されてきていますが、相変わらず倉庫状況が㋒つづいています。
一番困っているのは、お客様を受け容れる場がないことです。

この家をつくる時には、人が集まれる場所をつくろうと少し広目のリビングをつくりました。
自治会の集まりをやったり、まちづくりのグループの立ち上げもそこでやりました。
しかし、ジュン家族との同居で、そこは今はジュン家族のリビングになったので、応接スペースとしては使えなくなりました。

明日も市役所の人が4人ほど、説明に来てくれるのですが、上がってもらう場所がありません。
天気がよければ庭のテーブルで対応できるのですが、雨だったどうしようか迷います。
まあそんなわけで、2階のリビングを来客対応可能にしようと思うのですが、それにしてはあまりに散らかっていますし、テーブルと椅子もあまりにお粗末すぎます。
さてさてそうするか

この季節は固定資産税などでわが家は一番経済的に困窮する時期です。
また引き落としできませんという連絡が届かないようにしないといけません。
ですから新しい家具は残念ながら購入できません。

節子がいた頃は、こんなことは一切考えなくてよかったのですが。
まあ私もお金をもらえる仕事もしていたからかもしれませんが。
対価をもらう仕事をしなくなってから、もう15年前後経ちますが、何とかお金に困らずにやっているのが不思議です。

 

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■湯島サロン「司法と行政は誰の味方か」報告

都市再開発が進み、最近の東京はどこもきれいで、若い頃、夢見ていた未来都市のようになってきています。しかし、その一方で何か大切なものが失われているともよく言われます。都会の主役が人間からビルや施設になってきてしまったような気もします。そこに暮らしていた人々の生活はどうなったのか、時々、気になっています。

中野のワールド会館を舞台に、「ビルオーナー倒産で残されたテナントの命運」をかけて、いま裁判を争っている当事者から、生々しい「地上げ」事件もからんだお話をお聞きする今回のサロンは、そうしたことを改めて思いださせてもらう良い機会でした。

テーマの「司法と行政は誰の味方か」に関しても、それぞれが考えさせられたと思いますが、私は、司法と行政は、国民の味方ではなく、法律の味方でしかないという思いを改めて強くしました。

印象的だったのは、参加者のおひとりが「私たちの住む場所がなくなるのではないかという不安を感じた」と言い、発表者のおひとりが「裁判で精神的に消耗してしまっていたが話を聴いてもらっただけでも仲間ができたような気がした」というようなことを口にされたことです。

日本の裁判は、当事者になると心身ともに心底消耗してしまいますが(私も体験しています)、時代の流れを変えていくためには、誰かががんばって取り組まなければいけないこともある。そうであれば、できるだけ多くの人が裁判で消耗している人への理解や支援を意識していくことが大切だと、改めて思いました。
湯島がそういう場になればという思いさえ持ちました。
そのためにも、もう少し湯島を維持しようと改めて思いました。

今回のサロンで取り上げられた事件は、案内文でも紹介しましたが、今回も最後に添付しておきます。事件を通して、今回話をしてくださった釈源光さんや西田聖志郎さんが感じている危機感やメッセージについてもそこに言及されています。
ぜひお読みください。

サロンではそうしたことがお2人から説明され、話し合いが行われました。
よくある「地上げ事件」とも言えますが、話し合うことで、問題の理解も進み、それが意味することの考えも深まります。そして、それは決して自分とは無縁な話ではないということに気づかされます。同じようなことが、いつ自分の問題になって襲ってくるかもしれません。
「地上げ事件」だと簡単に片づけてしまえば、それでお終いですが、そうした言葉で片づけてしまう私たちの生き方が、いまの社会をもたらしているのかもしれません。

釈源光さんは、この事件から学ぶことが多いと言います。そして、改めてテナントによるビルの《自主管理》という提案もしています。そうしたことをきちんと考えておかないと、自分たちと同じような状況に追い込まれる人が増えるばかりではなく、それが「地上げ」手段に悪用されてしまうことも危惧されています。おかしなことはおかしいと言い、行動を起こさないといけないと源光さんたちは考えています。

サロンの内容をきちんとお伝えする自信がないので省略しますが、なんらかの形でもっと多くの人に知ってもらえるような方策を考えようということになりました。またその準備ができたらご案内します。

サロンは単に話し合うだけではなく、参加者が「知ったものの責任」として、何かできることを考え、行動するようになればと思っています。
そう考えれば、できることは誰にも必ずあるはずです。
改めてそんなことを考えさせられたサロンでした。

Genkou202106

《事件の概要と問題提起》

目下、私たちが想定外のコロナ禍に見舞われたことで、特に2000年代から顕著になり始めたこの国の周回遅れの新自由主義の流れは、スローダウンを余儀なくされたようにも見受けられます。
とりわけ、‘70年大阪万博以降の高度成長下における都市部の再開発ブームやビル建築ラッシュのドサクサの半世紀のなれの果てでなお機能する老朽化した商業ビルでは、何が負の遺産として残り、その間に入居したテナントに一体何が起こるのか、勿論関係当事者以外は知るよしもありません。

私たちは、東京中野区の繁華街にある「ワールド会館」という、築52年にもなる名物ビルで、飲食店等を営んでいたテナント商店会の生き残りメンバーですが、現在、原告のビルオーナーとの間で民事係争約5年近くに至り、当該裁判は既に二審段階に突入しています。

さて、争点は、7年前までいた以前の同ビルオーナーの会社が倒産し、ある日を境に管理を放棄して逃亡したことにより、当時17軒あった商業テナントの利用する《ビル一括契約》が解除され、水道・電気の供給が全面停止される通知が来た結果、賃借人たる当該17軒が、生き残りをかけてビル設備の《自主管理》をせざるを得なくなったことの可否が、まさに問われているのです。

ちなみに、ある意味この「オーナー不在下でテナントが《自主管理》」という前代未聞にして不条理極まりない悪夢は、今後の日本の行く末すらを俄かに暗示していなくはないでしょうか?
というのは、21世紀以降にも各地再開発で推進された巨大ビルや超高層ビル群が、やがて資産価値なき老朽化に至り、日本経済が地盤沈下した暁にも、オーナー倒産という事態が、必ずしも起こらないとは限らないからです。

一般に、老朽化した倒産ビルは、殆どの場合、差押不良資産として債権回収機構等に叩き売られた後、悪質な海外系不動産会社などの地上げ対象や再開発の対象になり易いのですが、賃貸借契約を交わした当時のビルオーナーが消えた後に、置いて行かれたビルの各テナントの権利関係は、この国では果たしてどこまで守られるのでしょうか?

私たちの場合には、一審判決では主張は一切認められず、全面的に敗北してしまいました。
やはりこれは、司法のネオリベ化や行政の優位性などがつとに指摘される昨今の風潮を受けて、平等原理や基本的人権を蔑ろにしたり、金儲け優先で社会の弱い立場にある人々を救済しない傾向が近年高まりつつある中での憂慮すべき問題なのでしょうか? その可否と背景に横たわるものを皆さんと共に考えていきます。

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■7月オープンカフェサロンのご案内

ワクチン接種も進み、人が集まれるようになってきたので、湯島のサロンも以前のように月に1~2回でいいかなと思い、7月のサロンは決めていませんでした。
定例化したサロンは、これからも引き続き開催していきますが、サロンのスタイルも少し見直そうかと思っています。

しかし、放っておくとそのまま7月も終わってしまいかねないので、とりあえずというのもおかしな話ですが、テーマのないオープンカフェサロンを開催することにしました。
7月3日に、湯島では井田さんが「茶の湯サロン」を開催しますが、まあ「コーヒーサロン」もあってもいいなと思った次第です。

今回は試験的に、生の豆を煎るところから始めます。
豆は「グアテマラ」の有機栽培珈琲です。
うまく煎れるかどうかの保証はありません。
事前に試しておけばいいのですが、ぶっつけ本番です。
焙煎に失敗したら、私が普段飲んでいるモカブレンドになります。

ただ別にコーヒー談義をしたいわけではありません。
話は参加者次第でいかようにも変わりうるサロンです。
私は話の準備は全くせずに、ただコーヒー豆だけを用意しておきます。

よほどお暇の方も、暇など全くないと思っているそれ以上にお暇な方も、どうぞ気楽にお越しください。
もちろん暇でない方も、いつものように歓迎です。
参加申し込みは不要ですし、出入りも自由です。

〇日時:2021年7月11日(日曜日)午後2時~4時(開場は15分前から)
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円

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2021/06/28

■湯島サロン「私が考える理想国家」報告

「理想国家」と壮大なテーマだったせいか、参加者は少なかったのですが、逆にかなり真剣な議論が展開し、サロン終了後も全員、場所を移して、話し合いを延々と続けるという盛り上がりでした。

最初に、リンカーンクラブ代表の武田文彦さんから、いま取り組んでいる著書「指針-日本・第三革命論」(仮題)の構想、そこで目指している「理想国家」のビジョンの一部と実現のための具体的な課題の紹介があり、それを材料に自由な話し合いが行われました。

リンカーンクラブは「究極的民主主義」を標榜し、選挙だけでの民主主義ではなく、できるだけ国民一人ひとりが政策や行政にかかわっていけることを目指しています。

武田さんの構想している理想国家は、「国民一人ひとりが自立していて、不安から解放されている国家」です。そういう国家を実現するためには、国家体制を大きく変革しなければいけませんが、それを武田さんは「革命」と称しています。

ここでいう革命は、暴力的なものではなく、既存の選挙制度を通して行おうと言うのです。しかし、それは単なる政権交代ということではありません。現在の与党に代わった新しい政党が、国家体制(国家の仕組み)を国民主権へと大きく変えていかねばいけません。そうでなければ、10年前の民主党政権のように、政権与党は変わったものの国家体制には何の変化も起きずに単なる「権力闘争」に終わってしまいます。

そうならないためには、まさにこれからの日本の国家体制をどう変えていくかの「国家構想」や「統治指針」が重要になってくるとともに、国民一人ひとりの意識を変えていかねばいけません。そこにこそ意味がある。だから革命なのです。
当然、「政党」のあり方も変えていかねばいけませんが、武田さんはその具体的な方法を考えています。常識的な発想からは出てこないような奇策ではありますが。

国民主権国家の日本では、主権者の意識が変われば、国家のあり方も「革命的」に変わりうるのです。しかし、主権者の意識を変えるのは簡単ではありません。精神論や教育ではなく、私たちの発想や行動が変わっていくような仕組みが不可欠です。武田さんの構想の一つのポイントは、その仕組みづくりと言ってもいいでしょう。
国民に「変えるべき」だと思わせるのではなく、「変えたくなる」気持ちにさせる。
そうした「楽しい革命」が、武田さんの目指す「革命」のような気がします。

たとえば、そうした変化を引き起こす具体的な方策として、投票率を革命的に上昇させる仕組みや与党の暴走を止める「野党権」の制度化など、いくつかの提案もありました。
いずれも説得力があります。

話し合いに入る冒頭に、武田さんは「明治維新」と「1945年敗戦」の2つの違いと共通点を参加者一人ひとりに問いかけました。
武田さんは、その2つを「革命」と捉えていて、明治維新から77年後に起こった敗戦から来年が77年に当たることに言及し、来年こそ、3番目の「革命」を起こす時期だと言うのです。そして、いよいよ国民の出番が来たというのです。
お願いや要求する政治ではなく、国民みんなでつくる政治を、というのが武田さんの考えです。

かなり勝手に解釈して紹介していますので、不正確かもしれません。

武田さんは構想実現に向けて動きだそうと改めてリンカーンクラブ活動を再開していく計画です。これからまた時々、武田さんの構想を紹介してもらい、話し合うリンカーンクラブサロンも再開したいと思います。
昨今のような、国民から遠く離れてしまった政治を私たちの手に取り戻したいと思っている方で、武田さんのリンカーンクラブ活動に興味を持っていただける方がいたら、ぜひまたサロンにご参加ください。
武田さんは今、「同志」を探していますので。

Lc202106

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2021/06/27

■自治体行政の仕事の邪魔をしているのは私たち住民かもしれません

わが家の近くに都市計画道路手賀沼公園・久寺家線がやっと開通しそうです。
といっても開通は来年の3月ですが。
この道路が話題になってからもう長い時間がたっていて、5年ほど前にはもうほとんど出来上がっていたのですが、最後のわずかな部分の土地買収問題などで止まってしまっていたのです。最後の説明会が行われてからも、もう10年以上たっていて、もうみんな問い合わせさえしなくなってきていた気もします。

昨日は、その住民説明会がありました。
新型コロナ対策もあって、近隣自治会からの参加も2人以内とされていました。
私の自治会ではありませんが、説明会に参加するのかある人に訊いたら、開通が決まってからの説明会は遅すぎるよと、その人は参加しないそうでした。
先月の別の道路の説明会には参加し、質問までしていたのですが。

前回の道路の説明会もそうでしたが、今回も行政のご苦労がよくわかります。
しかしたぶん行政と住民との関係が一番の問題なのかもしれません。
生活環境を整える行政とそれに依存する住民という関係があまりに強い。
道路や道は住民みんなが生活を支えてもらうものですから、行政だけではなくもっと住民が一緒になって取り組むべき課題だろうと思います。
基礎自治体の行政のやり方は、そろそろ基本から見直すべきでしょう。
この問題は、昨日の湯島のサロンでも話題になりました。

道路に関しても、「自動車優先の道路」から「生活中心の道」へと基本の発想を変えるべきではないか。
私たち住民は、もっと基礎自治体行政に対する共創感覚を持つことが大切ではないかと思います。行政の仕事の邪魔をしているのは、もしかしたら私たち住民かもしれませんね。
説明会に参加して、そんなことを改めていろいろと考えていました。

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2021/06/26

■節子への挽歌5063:2人ともさほどウナギ好きではなかった

節子

久しぶりに武田さんと食事をしました。
のびのびになっていたウナギをごちそうになったのです。
例によって武田さんは特上を注文しろというのですが、どうも気が進まないのですが、まあ今回は彼の希望を聞いて特上にしました。
湯島の近くの老舗で、先日もテレビで取り上げられていたところですが、期待ほど美味しくはありませんでした。

食べた後、どうしていつもウナギにするのかの話になりました。
武田さんは、私がいつも「ご馳走してもらうならウナギ」と言っているので、ウナギにこだわっているが、自分はさほどウナギが好きなわけではない、というのです。
私は、前に一度、ウナギは普段食べていないので、ウナギがいいと言ったのだそうです。
確かに言いましたし、ご馳走になるのならウナギというのはある意味での決まり言葉でした。しかし、武田さんと同じように、ウナギがさほど好きというわけではありませんし、おいしいウナギにはめったに出会えません。
何だ、2人ともさほどウナギにこだわっていなかったのかという話になりました。

ウナギもお鮨も、考えてみれば、本来は庶民の食でしょう。
なぜそれが今や高級料理になってしまったのか、考えてみると面白い話です。
それにいずれも、とびぬけておいしいわけではありません。
美味しいかどうかは食材に大きく依存していますし。

たまにウナギはいいのですが、普段のランチのウナギはおなかが膨れすぎてしまいます。
私たちのような老人には、向いていません。
次回からごちそうになるのは、一汁一菜の和食ご飯がいいですが、そんなお店はなかなか見つかりません。

でもまあ武田さんは、ちょっと高くないとご馳走した気にはならないのでしょう。
ご馳走を受けるのも、それなりに大変なのです。

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2021/06/25

■オリンピックは政治問題?

天皇陛下がオリンピック開催でコロナ感染拡大を懸念していると拝察しているという宮内庁西村長官の発言が問題になっています。
なかには、天皇による政治問題への言及は国民主権を侵害するとまで発言している人もいます。たとえば、今朝の朝日新聞に政治学を専門にする一橋大学の渡辺名誉教授は明確にそう述べています。

しかし、問題はそこにではなく、「オリンピックが政治問題になってしまっていること」ではないかと私には思えます。
国民への感染拡大の懸念も政治問題?
私には理解できません。
政治って何なのでしょうか。

スポーツも何なのか、私にはよくわからなくなってしまっていますが。

 

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■節子への挽歌5062:こんな話はなかなか聞いてもらえないとある人がやってきました

節子

昨日、サロンの前に話したいことがあると言って一人の女性が訪ねてきました。
話し出したのは、新型コロナの話です。

1年以上前、まだコロナ騒ぎが始まりだした頃に、彼女はある体験をしました。
そこから何かおかしいと感じて、新型コロナのことを調べだしました。そして行き着いたのが政府のホームページにある「スマートシティ構想」や「ムーンショット計画」。

彼女が言うには、政治や経済などには全く無知の自分でも、マスコミの一方的な情報を鵜吞みにせずに、ネットで調べれば、いろいろなことが見えてくる。そして見えてくると、知らなかった自分が恐ろしくなる。
そして映画「マトリックス」の話になり、自分はいったい実在するのか、マトリックスで描かれたような形で存在するとしたら、一体生きることに意味があるのか。
でもこんな話はなかなか聞いてもらえない。

新型コロナが気になりだしたのは、私も昨年のはじめですが、冷静にきちんとフォローしていくとおかしなことばかりです。
私にはいまでも新型コロナウイルスの脅威は本当なのかという疑問があります。
まさに情報操作によってつくられた物語としか思えません。
もちろん危険がないなどといっているのではなく、インフルエンザや肺炎や脳梗塞と同じく危険はある。だから十分に注意しなければいけませんが、逆に今の状況は注意すべきことから注意をそらさせ、脅威を広げているようにさえ思うこともあります。
行政とマスコミが協力してはやらせようとしているようにさえ思うこともある。

サロンでもコロナ騒ぎは話題になりますが、みんなマスコミ情報をベースに語っているので、退屈です。ほとんどがだれかが語りつくしたことの二番煎じの話ばかりです。
しかし彼女の話は違います。
きちんと自分で調べ、行き着いたのはとんでもなく遠くにある事実だったわけです。

こういう行動ができるのは、生活者としてしっかりと生きている女性だからかもしれません。
男性たちは事実よりも情報をベースにもう一つの事実をつくってしまい、そこに安住してしまいがちです。
知識が現実を見えなくしてしまうことも少なくありません。湯島のサロンでも何も語らずにとうとうと話す人も少なくありません。
「自分」を主語として言動する人たちが少しずつ増えてきているとしたら、まだ未来に期待が持てるかもしれません。

そんな気がしました。
彼女にはサロンをやってもらうことにしました。

 

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■半藤一利さんの最後の著書「戦争というもの」

テレビで半藤一利さんの最後の著書「戦争というもの」を知りました。
半藤さんが孫の北村淳子さんに編集を託した本だと聞きました。
半藤さんが何を次世代に残そうとしたのかに興味があって、早速に読んでみました。

太平洋戦争中の語られた言葉のなかから、孫にも知ってほしいと思ったものを半藤さんが選んで、その背景などを紹介しています。
それを読んでいくと、戦争のむなしさやおぞましさが自然と伝わってくる本です。
半藤さんの人柄も。
半藤さんならではの本のような気がします。

当初、半藤さんは37の言葉を考えていたそうですが、それも手書きのメモで本書に掲載されています。

本書の最初と最後に、半藤さんの手書きの言葉が書かれています。
冒頭の言葉は、「人間の眼は、歴史を学ぶことではじめて開くものである」。
巻末の言葉は、「戦争は、国家を豹変させる、歴史を学ぶ意味はそこにある」。

歴史をきちんと学べる国になってほしいと最近つくづく思います。
いまの学校教育にはあまり期待できませんが、そもそも歴史は、教えらえるものではなく学ぶものだと思います。
気楽に読める本なので、ぜひ若い世代の人に広がるといいなと思います。
できれば若い世代で読みあってほしいものです。

 

 

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2021/06/24

■司法はなぜ政治に従属してしまったのか

夫婦同姓を定めた民法の規定は憲法24条の「婚姻の自由」に違反しているという訴えの裁判は、今回もまた最高裁によって「合憲」とされました。

日本の裁判は、この種の問題には「権力への忖度体質」が強いので、予想はしていましたが、『夫婦の姓についてどのような制度をとるべきかという立法政策と現行法が憲法に適合するかという問題は「次元を異にする」としたうえで、「この種の制度の在り方は国会で論ぜられ、判断されるべき事柄」と結論づけた』という朝日新聞の記事を読んで、改めて日本の司法は政治の道具でしかないのだなと思いました。

日本は本当に「法治国家」と言えるのか。
最近の日本の政権は、法は自分たちのものと思っているようにさえ思いますが、司法もまたそれに従属しているような気さえしてきます。

学校では「三権分立」を学びましたが、日本国憲法をよく読むと、日本は三権分立体制なのか疑問が生まれます。
大学時代に、砂川裁判の「統治行為」判決は学んでいましたが、それはとても特殊な状況の中で起こったのだろうと考えていました。しかし、その後も事態は全く変わらず、日本の憲法は、その時々の政権にいいように解釈され利用され、司法もまたそれに迎合しているように思えてなりません。
今回もまた、その繰り返しのように思います。
朝日新聞に、早稲田大学の棚村教授が「人権を守る最後の砦としての司法の役割を放棄したに等しい」とコメントを寄せていますが、同感です。

ただ、夫婦別姓に関しては、私は独自の考えを持っています。
もちろん別姓を認めるべきだと思いますが、しかしむしろそろそろ「姓」から解放されてもいいのではないかと思っています。
「家族」の捉え方も、血縁や結婚にこだわる必要もない。
そう考えていますので、問題はむしろ「血縁家族」を核とした統治の発想を見直すべきだろうと思います。

誤解のないように言えば、「家族の大切さ」は人並み以上に持っているつもりです。
なにしろ私がいまあるのは、妻や娘たちのおかげですから。

今度の日曜日に湯島で、「司法と行政は誰の味方か」をテーマにしたサロンをやります。
話題は夫婦別姓ではなく、全く別の事件ですが、司法の在り方はテーマになると思います。

 

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■節子への挽歌5061:元気の出ない朝になりました

節子

梅雨入りした割には雨が少ないのでたすかっています。
今日も雨のない静かな朝です。
早々と目が覚めてしまいました。
2年前だったら、このまま畑に行って草刈りでしたが、最近はその元気はありません。
それが歳のせいなのか、気持ちのせいなのかはわかりませんが。

朝起きて、最初にやるのが、まずは節子の位牌にあいさつし、それからパソコンを開きます。
夜にはパソコンはやらないので、メールなどが入っていたり、フェイスブックへの書き込みがあったりしているので、それに目を通します。
そこでその日の大きな気分が決まることも少なくありません。
うれしいメールが多いと元気な1日、そうでないと元気の出ない1日になることも少なくありません。
私はかなりそうしたことから影響を受けやすいのです。
困ったものです。

今朝はちょっと長いメールが2つ、短いメールが1つ届いていました。
長いメールは、いずれも元気の出ないメールでした。
一つは県知事への直訴状を書いたので目を通してほしいというもの。
もうひとつは、以前に届いていた状況が大きく改善されたがしかしある人が動いてくれないという愚痴のようなメールです。
いずれも行政が絡んでいます。後者は地元ではなく、遠い都市の話ですが。

前者は、私とは正反対の意見で、読んでいて気分が悪くなってきました。
こういう「善意の市民」が行政をダメにしていくのではないかと思いたくなるほどです。
返事は簡単で、私は真反対の意見ですと書くだけでいいのですが、ついつい余計なことまで書いて、発信してから後悔して、少し気分が落ち込みました。

後者は、人の悪口は誰であれあまり気分のいいものではありません。それにそこに登場するのはみんな私の知っている人ばかりで、言っていることの意味もほぼ同意できるのですが、でもなんで私に言ってくるのかがわからない。結局、その人の恨みつらみの闇の気分が乗りうつってきて気が吸い取られてしまう。

その2通で、今日はどうやらいい日にはなりそうもありません。
もう一通は、うれしいメールでしたが、これまたいささか気の重い話を聞くために会う約束のメールです。近々会う約束をしました。

こうしてみると、私のところにくるメールの多くは、私的なものよりも「コモンズ的」なものが多いのに気づきます。
これまでの生き方が反映しているのでしょう。
静かな自分の安らかな暮らしに浸りたい気分は、節子がいなくなってからは考えられなくなったようです。ですから半分うれしく半分穏やかではないことが多いのです。

こう書いていたら、空の様子も少しずつ雲が増えて、暗くなってきました。
今日は湯島に行って、まずは2組の人と会い、続いてサロンなのですが、あんまりいい日にはならないかもしれません。
ちょっと気が重くなった朝になってしまいました。

さてテレビ体操でもして、気持ちを一変させましょう。
私の気が変われば空もまたもっと明るくなるかもしれません。
流れを変えるのは、自分しかいませんので。

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2021/06/23

■湯島サロン「トランスヒューマニズム-意識とはなにか」報告

前回のトランスヒューマン(超人間)を目指した先端技術の動向の話に加えて、今回は「意識に関する最新の仮説」を紹介してもらい、それも踏まえて、トランスヒューマニズムの技術動向をどう受け止めるかが今回の課題でした。

話し合いに入る前に、山森さんはなぜ「意識なのか」について話してくれました。

トランスヒューマニズムの課題を深く考察するには、まずは人間とは何なのか。特に、我々の道徳判断、道徳認知や理性、差別の気持ち(感情)や欲望などはどこから生まれるのか。人間は賢明で崇高な意識をもった優れた存在に進化できるのか。突き詰めれば「意識とはなにか?」を可能な限り科学的な根拠を基に振り返って見る必要がある。

そして続けてこう話されました。

人間は長い間、戦争などお互いに殺し合い、精神的に進化していないが、意識について科学的な研究を進めることによって、人間が高邁な精神活動を持つ存在へと進化することの可能性を肯定したい。

人間の意識を高めることができれば、トランスヒューマニズム分野の先端技術の成果は人間にとって好ましいものとなるだろう。逆に言えば、人間の意識がいまのままだったら危険であると山森さんは警告しているわけです。

そこで山森さんは、デイヴィド・チャーマーズ(哲学者)によって提起された意識の「ハードプロブレム」論からはじまり、ジュリオ・トノーニ(精神神経科医)の意識の統合情報理論、ロジャー・ペンローズ(数理物理学者)やスチュアート・ハメロフ(麻酔科医)の量子脳仮説などの仮説を紹介してくれました。
山森さんは、量子脳仮説が魅力的だと考えているようです。たしかにこの仮説であれば、汎神論にも死の超越にも論を広げやすいような気がします。

こうした仮説や知見に基づいて、すでに脳や意識を管理する技術も急速に進んでいます。それに関しては前回の山森サロンでいろいろと紹介がありました。
意識についてもいずれ解明され、コンピュータへの転送も可能になると山森さんは考えていますが、具体的な実装化は50年以上かかるだろうと言います。

そして、こう呼びかけます。

人類はおのれの運命を決するためのツールを発見しつつあるのかもしれないが、我々が何者になるかは我々次第である。技術が実用化される前に、このような科学技術を社会のなかでどう使いこなすか。脳科学などの知見や技術等を有効に、かつ正しく活用し、人類の暴走を制御していくシステムを作り上げ、人類の道徳観などを高めることが必要と思うが、そのためにはまず、市民である私たちがそうしたことを知ることから始めなければいけない。

山森さんの呼びかけを受けて、話し合いがはじまりました。
まさに見えてくるのはサイボーグ009やブレードランナー、あるいはマトリックスの世界です。そんな話から始まりましたが、私にはやはり大きな違和感がありました。
「意識」さえ科学技術の対象となり管理されるのであれば、そこでの「倫理」あるいは「高邁な意識」とは何なのか。まさに「ハードプロブレム」なのではないか。
山森さんが指摘したように、もし「人間とは何か」が問題であれば、人間と意識の関係とは何なのか。生命につながる科学技術の根底には、「死を乗り越える」という目標があるように感ずるが、「死」とは人間にとって何なのか。そんなことを強く感じました。

ちなみに私にとって、人間(生命)の最大の特徴は「死」だと考えています。
死があればこそ、生があり、生命がある。科学技術がもしそれを否定するのであれば、その行く末は生命(人間)の否定ということになる。
前回と今回の話を聞いていて、私が強く感じたのは「優生思想」でした。
そのせいか、前回も今回も何となく気が滅入ってしまっていました。
でも人によっては、生命科学技術は希望の光なのでしょう。
そこをこそ議論したかったのですが、これは「そもそも科学技術とは何か」にもつながり、なかなか難しい。

今回、いま日本で進められているムーンショット計画を知って、衝撃的だったという2人の女性が参加していました。
その計画の目標の一つは、「2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」とあります。これを読んでどう感ずるでしょうか。
一読すると素晴らしい世界をイメージしますが、よく考えてみると人間が人間でなくなるような気もしてきます。

このテーマはさすがに1回や2回では消化できません。
参加者から、結局、「意識とは何だろう」という疑問が解けなかったという声もありました。
そこで、今回のアフターサロンとして、「ムーンショット計画をどう受け止めるか」と「意識と自分」の2つのテーマのサロンを企画したいと思います。

ひきつづき関心を持ち続けていきたいと思います。

Yamamori41

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■第15回万葉集サロン「贈答・問答歌が拓く〈意識〉- 男と女の〈わ〉と〈な〉の共生と分有」報告

15回の万葉集サロンは、男女の贈答・問答歌の応酬を読みました。
テーマは「男と女の〈わ〉と〈な〉の共生と分有」。

最初に、升田さんは古事記の冒頭に出てくるイザナキとイザナミの国生みの話をあげながら、鸚鵡返しの反復法と言葉の秩序から生まれる呪法について話してくれました。
言葉の繰り返しの受け答えは、意識をシェアして人の間に「関係」を生み出します。
「こんにちわ」と声をかけられたら「こんにちは」と対応する。そうした無意識の反復対話の効用はとても大きく、社会の起点かもしれません。

しかし、国生み神話が示しているように、言葉の秩序(例えば発言の順序)を間違うと呪法は発効しない。言葉が人間をしばっていたのです。
しかも、反復対話で使われる言葉には、大きな意味を含意した「記憶言語」が多く、それが他者との関係を生み出す基盤になっている。贈答・問答歌は、そうした基盤の上で他者(多者)との「意識」の分有を広げ、そこから自らの「意識」が生みだし、個の誕生へとつながっていったというのです。
これは私の解釈なので、不正確かもしれません。いささか自信がありません。

対話する歌が多いのが万葉集の特徴だそうです。
記憶言語のやりとりの中から自分の言葉を育てていき、次第に意識や感情が他者にも自分にも見えるようになってきた。そう考えると、なぜみんなが(歌人でもないのに)あれほど歌を歌い、問答し合ったのか、そしてそれを公開していたのかが、納得できるような気がします。

今回は私にはうまく消化できなかったので、間違った報告になりかねないので、升田さんが案内文で書いてくれた解説を再掲します。
これを読むとサロンでの話の大筋がわかると思います。

「歌垣」に源流が求められている万葉の問答歌は、歌垣の場(神の場)における男女の「掛け合い」、「歌闘い」の領域を超えている。同語反覆による応酬の繰り返しは対話性を生み、「意識」として吐露される。本来呪詞であった序詞や枕詞 ー「た」の大いなる言語の仕組みを持つ歌は、それを助けた。
互の「歌」「言」に追随しながらも反駁し、しかも対立ではなく「分有」するところに、相互の意識が顕在化してくる。男と女の自己意識は言語上の「好き」か「嫌いか」ではなく、「歌」「言」を等価に分有することによって負けを知らない生き生きとした活気に溢れている。

当日は、このような背景を説明しながら、久米禅師と石川郎女、湯原王と娘子、佐伯宿禰赤麿と娘子の応酬歌など、いろいろな歌を読んでくれました。

キーワードのひとつは、心を「引く」で、梓弓や信濃の真弓なども話題になりました。
このあたりは歌と一緒に紹介しないと伝わらないでしょうが、そうなると私の乏しい感性では無理なので、言及は避けます。
言葉に関する興味ある話もたくさんありましたが、それも省略。
引き込んだ心を、どこに向かって射るのか、そもそも当時の恋とか愛というのはどんなものだったのか、というような下世話な話も、いつか取り上げてもらいたいと思いますが、今回はそこまで行きませんでした。まあちょっと類した話はありましたが。

万葉集とは関係ないかもしれませんが、升田さんは、たしか「意識の分有によって、最初の頃は憎み合うことはあまりなかった」と話してくれました。聞き違いかもしれませんが、これは「我」と「汝」の関係を考える上でもとても示唆に富んでいるように思います。しかし、意識が育つにつれて、そうした感情や心も生まれてくる。
「意識」「思い」「心」。
万葉集には、そうしたことが人に育っていく様子を読み取るヒントがたくさんあるようです。「意識」とは何かを考える上で、とても示唆に富む話です。
なんだかまた大きな課題を投げかけられた様な気がします。

万葉集サロンの報告なのに、いつも歌が出てこなくてすいません。
しかし万葉集から見えてくることは山のようにあるようです。
私はどうもそちらに関心が向いてしまいます。
「歌」に関する報告は難しいので、歌をきちんと読みたい方は是非サロンにご参加ください。

Manyoushu15

 

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■節子への挽歌5060:今年もサクランボが届きました

節子

今年も山形からサクランボが届きました。
佐藤一大さんが毎年贈ってきてくれるのです。
一大さんは、一度、湯島のサロンにも来てくれたことがあるので、節子も覚えているでしょう。
当時ははつらつとしたっ若者でした。

最近は山形には行っていません。
一大さんとももう10年以上、会っていないかもしれません。
にもかかわらず毎年サクランボを送ってきてくれるのです。
どうしてそうなったのか全く記憶がありませんが、一大さんが私にサクランボを送ってくれるようになったのは、仕事の関係もなくなってからかなり立ってからです。
そして毎年贈ってくれるようになった。

一大さんと出会いは、山形市が取り組んでいた、市役所の組織文化を変えることを目指した「共創プロジェクト」の時です。
その時の最初の一番若い担当職員は今は副市長です。
一大さんは、私の記憶では確か私がかかわった最後の頃に担当になったのですが、そこで苦労したはずです。

幸いに私とは気持ちがつながりましたが、私は少しずつそのプロジェクトからはなれていき、市長が変わった後はプロジェクトも終了しました。
その後、今度は市民が中心になって全国ベースの大きなプロジェクトを起こすことになり、市民たちから頼まれて私もかかわるようになりました。
市も協力することになり、その担当が一大さんでした。
これもまた感動的なプロジェクトでした。

長々書いてしまいましたが、まあそれだけの縁であり、しかも今はもう何の関係もないのですが、毎年サクランボを送ってきてくれるのです。
まずは節子に供えました。
プロジェクトが終わったら節子と一緒に山形に行く予定でしたが、節子は病気になってしまい、それはかないませんでした。

昨夜、一大さんの家にお礼の電話をしました。
仕事が忙しいはずなので、まだ帰っていないだろうと思いましたが、案の定、まだ仕事でした。
実は彼は、いまワクチン接種の仕事に取り組んでいるのです。

奥さんにお礼を言うと、若いころにいろいろと指導してもらったそうで、といつもの言葉を口にされました。
指導などあまりしていませんし、一大さんに特別のことはしていません。
しかし彼は毎年サクランボを送ってくれる。

人は本当にそれぞれです。
彼からのサクランボは、私にはとてもうれしい贈り物です。
また会える機会が来るといいのですが。

 

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2021/06/22

■意思を表明することの勇気

サッカー・ワールドカップ予選の日本戦で、ミャンマー代表のピエ・リヤン・アウン選手が3本の指を揚げた行為に感心しましたが、その後の経緯を知るにつれて、それがどれほどの勇気ある行為だったのかがわかり、感心は感謝の念に変わりました。
「感謝」というのもおかしな話ですが、不思議に感謝の念が強まってきたのです。
こういう勇気ある行為を行う人のおかげで、私のような軟弱な人間も何とか自由を享受できているのです。

以前、湯島のサロンでミャンマーや香港の話が出た時に、日本の現在はそことどう違うのだろうかと問いかけたことがあります。
議論は深まりませんでしたが、日本の方がよりよい社会だと思っている人がほとんどのようでした。
しかしそうでしょうか。
私には、状況はそう違わないようにも思います。
でも日本では実際の運動は起こっていません。

報道の仕方一つで、事実の見え方は真反対にさえなります。
いまや世界中の動きが見えるようになったと思いがちですが、どのメディアを通して世界を見るかで、世界は違って見えてくる。
さらに他国の事件の情報が多くなるにつれて、「灯台下暗し」的に日本の事件は見えにくくなってしまってきている。そんな気がしてなりません。

私は、マスコミ報道は参考にはしますが、それがすべてだとは思わないようにしています。報道情報を前提にしてしまうと事実が見えなくなるばかりではなく、考えることさえも忘れてしまい、それを事実と考えてしまいがちです。
最近のワクチン議論を見ているとまさにそれを感じます。
ワクチン待望論者もワクチン拒否論者も、みんなある情報をベースに、それを補強するための情報ばかり集めて、もう自分では考えなくなってしまっている。一部の情報に依存しすぎるためにほかの情報が見えなくなってしまっている。これでは何のための情報かわからない。
理解を深めるのではなく、対立を深めるための情報になってしまいかねない。
さびしい話です。

マスコミ報道や専門家の意見は、あくまでも判断材料の一つです。判断を他者に丸投げする生き方は楽ですが、そういう生き方からは他者を非難する発言は出てきますが、自らの人生を賭した行動は出てこない。

この数日のオリンピック関連の政府の動きを見れば、香港やミャンマーの人たちだったらどうするでしょうか。
そう考えると、香港やミャンマーが日本より本当にひどい状況なのか、私にはよくわからなくなります。
少なくともいまの日本人よりも国民たちは賢明で知的だとは思いますが。

 

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■節子への挽歌5059:青木さんとの草むら談義

節子

今日も雨が降らなかったので畑作業に行きました。
この時期、雨のために作業できない日が数日続くともうやる気を失うぐらいに野草が元気になるのです。

今日は道沿いの花壇部分の草刈です。
作業を始めたら近くの青木さんがやってきました。
節子の話になりました。
青木さんは、節子にお世話になったと時々言います。
あまりお世話にはなっていないと思いますが、花かご会の関係かもしれません。

そこからお互いに斜面の草の上に座って少し床屋談義的な話になりました。
いま話題のオリンピックや菅政権批判など、かなり手厳しい話が出ました。
農作業をみんなでやっていたころは、作業の合間にみんなお茶を飲みながら、こういう話で盛り上がっていたのかもしれないとふと思いました。
日本人は、みんな政治に関心が高く話し合っていたのかもしれません。

おかげで作業はあまり進まなかったのですが、それでも45リットルの大きな袋に4袋も刈り取りました。
ものすごく繁っている場所にも少し切り込みだしました。
しかし、そのあたりはかなり大変です。
数年前に再会した時には、蛇に出会ったり野鳩の卵を見つけたり、いろいろありました。
しかし今回はまだそういう意外なものには出合っていませんが、鎌だとか鍬だとか、農機材などが出てきます。
しかもじめじめしていてあまり気分がいいものではありません。
やはり開墾作業は太陽の強い陽射しの下がいいです。

ミョウガがたくさん出ていました。
成長しすぎていて、食材にはなりませんが。
里芋も目が出ていました。
芋ができているかどうかはわかりませんが。
2年前の頑張りをちょっと思い出しました。
やはり何か野菜を植えてもいいような気がしてきました。

青木さんが話していました。
自分が小さい頃の我孫子はみんな貧しかったが活気があった。
いまはみんな豊かになったかもしれないが活気がなくなって、人付き合いも変わってきた。
畑に行くと必ずといっていいほど、青木さんがやってきます。
おかげで以前よりもずっと親しくなりました。
節子のおかげですね。

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■節子への挽歌5058:再会の先延ばし?

節子
こんなメールが届きました。

身勝手ながら私達の為にも意気軒昂で長生きしていただき、奥様には申し訳ありませんが、ちょっと再会を待っていただければと考えております。

節子がなくなって数年後に、たぶん認知症予防ゲームの普及活動に関連して、知り合った方からのメールです。
彼女の伴侶は滋賀県に単身赴任されていて、彼女も時々滋賀に出かけているそうです。
湯島では、「茶色の朝サロン」というのをやっていますが、そのサロンを初めたきっかけは彼女が「茶色の朝」の本を私に読むようにと薦めてくれたからです。

彼女は新型コロナの関係もあって、この1年ほど湯島には来ていませんが、そのためあることができないままになっていることを気にしているのですが、私が「まあ私ももうしばらく現世滞在の予定ですので急ぐことはない」と返信したことへの返信が上記のメールです。

彼女はこの挽歌を読んだことがあるようです。
おそらくもう読んでいないと思いますが(何しろ挽歌の内容が私の日記のような退屈なものになってしまったので、読者は急減しています)、こういってもらえるのはうれしいことです。

しかし最近私の気分はちょっと変わってきています。
それはどうも彼岸と此岸はつながっていて、いまもなお私は節子と一緒にいるのではないかという気配を感ずるようになってきているのです。
確かに私には節子は見えない。しかし節子は私を見ているのではないか。そんな気がしてきています。

同時に、彼岸に行ったからといって、会えるわけでもないだろうという思いも出てきています。いいかえれば、会うとか会わないとかは、彼岸ではあまり意味がないことのような気がします。
たまたま現世では、別々の個体として存在しただけで、本来は一つだったのかもしれません。

そう考えていて、節子に会ったころ書いたショートショートの「とばっちり」を思い出しました。
そこに、今朝感じたことをすでに書いていたような気がするのです。
どこかにあるはずです。
今度探し出して読み直してみようと思います。

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2021/06/21

■節子への挽歌5057:今日もいい汗をかきました

節子

天気がよくなったので、畑の開墾作業に行きました。
梅雨時は野草の成長が早く、ちょっと手を抜くとすぐ土を覆ってしまいます。
たとえば、いまは畑にも繁茂している琉球朝顔は1日に10センチ以上のびます。
梅雨入りして行けないことも多いので、今日はがんばろうと思い、出かけました。
それでかなり「殺気」があったのか、今日は不思議に昆虫との出会いはありませんでした。しかも「殺気」は自らにも向かい、右手にけがをしてしまいました。

まあ軽いけがをすることは悪いことではないのですが。
明日からしばらく休めますし。

がんばったおかげで、かなり畑になりそうな部分が増えました。
もうひと頑張りすれば畑にもなりそうな気配です。
節子がいたら、畑担当でいろいろと植えてくれるのでしょうが、私にはそういうのはあまり興味がありません。
それでせっかく飢えてもダメにする恐れも多いので、いまのところ予定はありません。
それに、ちょっと時期遅れで、収穫は難しいでしょう。

花壇部分もかなりがんばりました。
しかし花類はほとんど痕跡さえありません。
節子は斜面を活用したロックガーデン構想を持っていましたが、今やひどい状況です。
すいません。

それにしてもなぜここに花壇をつくろうとしたのか、いまとなっては不思議です。
そもそも畑をやろうと思ったのも節子です。
節子が元気だったらいまごろは野菜は自給自足できたかもしれません。

明日からはまた天気が悪いようでしばらく畑開墾作業はお休みです。
今日もまた、いい汗をかきました。

 

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■法治国家におけるダブルスタンダード

仕事で海外に行った友人がいま2週間の隔離期間でホテルに缶詰めになっています。
2週間隔離期間ルールは首相には適用されないようですが、オリンピック関係者も適用除外のようです。

しかも、たとえばウガンダの選手団の一人が陽性だったのに、同じ飛行機に長時間同乗していた選手たちは、「濃厚接触者」にも該当せずに、「隔離機関」中も練習できるようです。
オリンピックは今や「法」を超えた「超法規的」な「印籠」になっているようです。
それを振りかざされると誰も何も言えなくなる。
これこそ「法治国家」に内在する「ダブルスタンダード」ともいうべき、「もう一つの法」かもしれません。

「法治国家」というと、「法」が最高のルールのように思いがちですが、それはあくまでも表層的な形式です。
法治国家を成立させるためには法を定め、法を運用する権力が存在しますから、法治国家には必然的に超法規なるものが存在します。
「あるもの」が存在するということは、その「あるもの」ではないものの存在を前提にしていることは言うまでもありません。
ですから、法治国家は必然的にダブルスタンダードな国家でもあるわけです。
わかりやすく言えば、「何が法か」「法は何か」を判断する、法を超えたものがあるということです。

そうした法治国家というものの本質を、オリンピックは可視化してくれています。
しかし、ダブルスタンダードは別にオリンピックだけに関わっているわけではありません。
社会をよく見ていくと、至る所にダブルスタンダードがあります。
しかしそんなことを気にしていたら生きづらい。だから常識を身につけて、ダブルスタンダードを見ないようにしていくのが、賢い生き方なのでしょう。

今日もテレビで出会った言葉ですが、「言えることと言えないことがある」とある「識者」が話していました。
それこそがダブルスタンダードな生き方なのです。

世に言う「有識者」とは、ダブルスタンダードを使い分ける人、つまり「2つを識別できること」が「有識」なのかもしれません。
私はそう感じているので、以前も書いたことがありますが、「有識者」とは本来的な無識者、信頼できない人と位置づけています。
他者にかかわる事柄に関しても、他者に言えないことを持つ人生を過ごしたくはないからです。

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■5056:意識は自分のプロデューサー

節子

湯島のメダカも自宅のメダカも、最近はみんな元気です。私の生命力とつながっているとは言いませんが、どこかにつながりがあるような気もします。
生命は実に不思議な存在です。決して個体としての身体に閉じこもっているわけではないようです。

昨日のサロンは、トランスヒューマニズム。今回は「意識」がテーマでした。
その前の日の万葉集サロンでも「意識」がテーマになりましたが、これまた不思議なのですが、意図したわけではないのに、サロンの話題がつながることがあるのです。

むかし、湯島で何回か「心とは何か」という集まりをやったことがあります。
もう節子はいなくなった後だったような気もしますが、闘病中だったかもしれません。
その頃の記憶はどうも時間の流れに沿っていなくて、前後関係が全くないのです。
私はそこで、心のマルチネットワーク的な話をしていた記憶があります。
主催は三浦吾五郎さんで、私が「心」のセッションを担当したのです。
ユングの集団無意識や、それこそ昨日も話題になったアカシックレコードや虚空蔵をベースに、その時々の状況の中で人は違った自分として現れるというような話です。
それをプロデュースするのが「意識」。つまり私のプロデューサーが意識というような話でした。
では意識とは自分なのか。昨日もそれは「自我」かという質問がありましたが、自我と意識とは全く別のものでしょう。

こういうことは、節子との別れを経験してから実際に体感したことを踏まえて最近では仮説というよりももっと身近な現実になってきました。
しかしなかなか言葉にできない。

一度、湯島で「意識と自分」というテーマでサロンをやろうかと思います。
しかし「知識の多い人」が多いので、話し合いは難しいかもしれません。
知識は視野を広げてもくれますが、多くの場合、世界を狭める効果のほうが大きいことをこの頃痛感します。

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2021/06/20

■マスクはもう下着と同じですね

昨日、サロン終了後、参加者と一緒に帰路につきました。
出てしばらくして、マスが話題になったおかげで、私がマスクをオフィスに置き忘れてきたことに気づきました。急いで戻り、マスクを装着して帰路につきました。
一人だと気づかずに駅まで行ってしまい、そこから戻ったことも2回ほどあります。

今日は午前中、湯島に来る前に娘が買い物に行くのに同行しました。シニアデイなので私が同行すると5%割引になるので時々駆り出されます。最近、価格上昇が急速に進んでいるようです。
私も店内に入り、一緒に買い物をして、娘がレジをしている間に、ひとり先に店を出ました。
出口で、めずらしい人に会いました。
その人は急いでいるようで、挨拶だけですれ違いましたが、マスクをしているのにどうして私だと分かったのだろうと不思議に思いました。
そしてハッと気づいたのですが、私はマスクをしていなかったのです。

自責の念に駆られました。
娘にどうして注意しなかったのかと言ったら、娘も気づいていなかったようです。
店の中では、お店のスタッフはもちろん何人かには不快感を与えたかもしれません。
すれ違った人は、もしかしたらマスクをしていない私に困惑していたのかもしれません。
マスクをしていない人がいるととても気になる一方、家族のような近しい人の場合はマスクをしていないことにむしろ気づきにくいのかもしれません。

マスクはいまやいつでも身につけていなければいけない「下着」のようなものかもしれません。
ワクチン接種以後、状況は変わるでしょうか。
しかし一度身についた「常識」は、そう簡単にはなくならないでしょう。

先日、自宅近くの道であった人から、もうワクチンは受けましたか、と訊かれました。
私はワクチンは受けないつもりです、と応えたら、「確信犯」ですね、と言われました。
確信犯という表現にちょっと引っかかりました。
ワクチンをすることは、いまや社会の常識、基本ルールになっている。
しかるべき理由がないのにワクチン接種を拒否することはいまや「犯罪」と同じなのだという気がしてきました。

私は社会の常識からますます外れてしまっているようです。
もちろんいまは店内や電車内では基本的にマスクはしています。
私はワクチンこそ接種しませんが、感染しないように、また万一感染しても発症しないように、ワクチンを受けた兄よりは注意しているつもりです。
しかし、その兄からは、他の人のことも考えろと厳しくし叱られています。

私には暮らしにくい時代になってきました。

 

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■節子への挽歌5055:小学校時代の同級生のいま

節子

昨日のサロンには小学校の同級生が2人、参加してくれました。
というか、同級生の升田さんの万葉集サロンで、そのサロンには必ずもう一人の同級生の永作さんが参加してくれるのです。
時々、他の同級生も参加してくれることもありましたが、参加するのは全員女性です。
女性の同級生はみんな元気です。

昨日のサロンの途中に、サロンとはまったく別に男性の同級生からメールが入りました。
それも別の同級生に関連したメールです。
こちらの話題は、余命や病気など、とても重いのです。
高齢期に過ごし方は、どうも男女では大きく違うようです。
これまた生物の宿命でしょうか。

昨日のサロンの報告はまた時評編で書きますが、相聞歌が中心でした。
この種の歌を読んでも、最近はあまり何も感じなくなってしまっている自分に気づかされました。
言葉に気持ちを読み取れなくなってきたのかもしれません。
これも年齢と関係しているかもしれません。
あるいは、節子のせいかもしれません。

万葉集のサロンはもう昨日で16回目ですが、男性と女性とでは反応が全く違うような気がします。
女性は生きている、そんな気がします。
升田さんの万葉集サロンは、私には画期的なサロンのように思います。
これまでたぶんこういう視点で万葉集を読んだ人はいないなのではないかと思ってしまうほど、壮大な読み方で、昨日は「神々の沈黙」の話まで出てきました。

一度また小学校時代の同級生の集まりをやろうかと思います。
一時期やっていましたが、男性と女性とでは話題があまりにも違うので、別々になってしまい、さらにコロナの関係で途絶えてしまいました。
ワクチン接種で、みんな外出自粛の呪縛から解放されるでしょうか。
しかしワクチンのおかげでまた流行がぶり返すかもしれませんが。

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2021/06/19

■節子への挽歌5054:湯島がメダカでにぎやかになりました

節子

湯島のメダカが復活しつつあります。

最近湯島にあまり行けないでいますが、代わりにメダカたちに勤務してもらうことにしました。今日は欠員になっていた大人のメダカを1匹、ベランダ常駐役に追加、部屋担当として新たに子メダカ3匹をお願いしました。
室内の水槽は小さいので危険だとナチュラリストの木村さんからは注意されていますが、小さい時から育てれば大丈夫ではないかとそのアドバイスに逆らっての過酷な勤務です。
小さすぎて、よほどしっかり見ていないと見つからないのですが、先陣の1匹はかなり大きくなり、動きが見ていなくても感じられます。
今日、連れて行った一番小さなメダカは、一応、水槽に入れたのですが、私の視力では見つかりません。しかしそのうちに大きくなって、姿を現してくるでしょう。

フェイスブックに写真も載せましたが、水槽はベランダに一つ、テーブル上に2つです。
テーブルに水槽があるだけで場の雰囲気は変わります。
水槽の魚を見ていると心が安定すると言われますが、たしかにそうです。
見ていて飽きません。

ただ現在は水槽に砂を入れていませんので、それが心配です。
ベランダの方には木村さんがきちんと土もいれていますので、大丈夫ですが、テーブルの方は石だけです。
水草をもっと入れたほうがいいと昨日もみんなから言われましたが、水草は多ければ多いほどいいわけではありません。
問題はこれから夏になって室温が上昇することです。
これを乗り越えられるかどうかが課題です。
週の真ん中あたりにもう一度湯島に行くのがいいかもしれません。

以前はベランダの水やりに湯島に言っていたことがありますが。まあ人生はそんなものなのかもしれません。
誰かのために生きている。
その「誰か」にまたメダカが加わったわけです。

しかしこれはよく考えてみると、生きることへの未練の象徴かもしれません。
私にもまだ生き続けるという気がどこかに残っているようです。
自分ではなかなか自分がわからない。
困ったものです。

 

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■節子への挽歌5053:時評編を復活します

節子

このブログは、もともと時評編から始まっています。
時評を毎日書くことで社会への感度を維持しようと思ったのがそも祖茂の動機でした。
節子を見送った時に、どこに向けたらいいかわからない思いをブログに書くことで生活を維持しようと思い、挽歌編を書き出しました。
しかし時評編もあったおかげで、自分の世界だけに落ち込むことはなかった気がします。

ゾーエとビオスを生きる。
それによってむしろ社会がよく見えるようになった時期もありました。

しかし次第に社会への関心が低下したのかもしれません。
時評編がかけなくなりました。
しかしそれと同時に挽歌編もまた書けなくなってきたのです。

パソコン環境が変わってしまったのも一因です。
書籍に囲まれた書斎の定位置にあったデスクトップパソコンが寝室に移り、寝室は私にとってはあまり居場所がいいところではなくなり、いつもはリビングのノートパソコンでブログを書くようになってしまったのです。
そこだとどうもパソコンに集中できずに、関心が散乱しがちです。
書斎の存在意味はあるようです。

社会が見えなくなってきたのもブログを賭けない理由だと思っていましたが、それは間違いかもしれません。
時評を書かないから社会が見えなくなってきたのかもしれません。
ものごとの理由はいかようにもつけられるものです。
節子がいなくなってしまったので社会への関心を失ったという説明も可能です。
そしてそれはかなり事実です。

しかし、もう一度やはり生活を変えていこうと思います。
社会への関心を高め、社会に関わっていくという姿勢をもう少し取り戻したい。
そう思うようになってきました。

毎日は難しいかもしれませんが、時評編を復活しようと思います。
節子に話しかけるように。
挫折しなければいいのですが。

 

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■「支配者たちの卑劣な格言」

アダム・スミスは経済学者というよりも道徳学者だったという人がいます。
最近話題の渋沢栄一も「論語と算盤」という著書を残していますが、そもそも経済は「経世済民」、つまり道徳の話だったとも言えます。

そのアダム・スミスが、「支配者たちの卑劣な格言」と呼んだものがあります。
それは、19世紀前後に広がった、次のような「新しい時代精神」を示す格言です。
「すべては私たちのために、他の人々のためには何も無用」。
「自分以外のことはすべて忘れ、ただ富を獲得せよ」

一時期、日本でも広がった「〇〇ファースト」というスローガンは、まさにこの格言を象徴したものだと私は思います。
いまでもこの「〇〇ファースト」という言葉を使う人がいますが、こういう言葉に出会うといつもアダム・スミスの「道徳感情論」を思い出します。

アダム・スミスは「他者への共感、完全な平等という目標、そして創造的な仕事のための基本的人権」を強調していたと思いますが、経済活動をしている現在の人たちにさえ、そういう発想はもう消えてしまっているのかもしれません。
しかし、「〇〇ファースト」発想は、「支配者たちの卑劣な格言」にとどまらず、どうも社会に蔓延しだしているようです。

たとえばそんな姿をワクチン接種の予約取り風景に私は感じました。
3・11の後の買いあさりの風景も思い出しました。
つまり支配者の行動は、被支配者にも広がっている。
まさに「悪貨は良貨を駆逐」するのです。

経済が道徳と相反するものになってしまった。
人を救うはずのお金が、人を滅ぼし始めた。

私が、お金から解放されたいと思い、ワクチンもしない理由のひとつがここにあります。

 

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2021/06/18

■社会の実相が見えなくなってしまった

いまも私はブログを書いていますが、日記のような内容の退屈なブログになってしまっています。
以前は「時評編」と「挽歌編」があり、社会を生きるビオス編とむき出しの自分をさらけ出すゾーエ編とに分かれていました。
挽歌編は毎日、時評編もほぼ毎日書いていました。
さまざまな分野に関してそれなりの問題提起をし、自分でも行動していました。

しかし今は時評編はサロンのお知らせと自分の生き方の反省くらいで、週に1~2回くらいしか書き込めなくなりました。
社会に対する関心が弱まったのも一因ですが、そればかりではありません。
社会が見えにくくなってきているのです。
新聞やテレビから見えてくる社会は、どうも実体がつかみにくい。
ネットから見えてくる社会は私の見たい世界でしかありません。
いずれからも社会の実相は直接的には見えてこない。
社会の実相が見えなくなれば、時評編は書けなくなります。
頭は反応しても、心身が動かないからです。

かつてはそれなりに行動していましたから、行く先々で実感できた実相もありました。
しかし最近は出歩く範囲は狭くなり、出会う人も限られてきました。
社会は遠くなってしまった。

そんなわけで時評編が書けなくなっています。
しかし、これは私の言い訳でしかありません。
見ようと思えば実相は見えてくる。
以前の自分に戻ろうと思います。

ブログの時評編を再開することにしました。
とても難しいとは思いますが。

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■節子への挽歌5052:おいしいお漬物が食べたいです

節子

私の好物は「おいしい漬物」ですが、最近はおいしい漬物に出会えるのはめったにありません。
おいしい漬物とおいしいお味噌汁とおいしいご飯があれば、それでもう満足なのですが、残念ながらそのセットに出会えることはほぼありません。

もっともこれは、節子がいた頃からの話です。
節子は料理がうまかったわけではありませんし、しかもお漬物が好きではなくて、自分では滅多につけることはありませんでした。
当初はがんばって挑戦していましたが、何しろ自分は好きではありませんので、うまくなるわけはありません。
残念ながら私は市販の漬物は、ほとんどおいしいとは思いません。

私の食嗜好はグルメではないばかりか、何を食べてもめったに特別においしいとは思わない代わりに、特にまずいとも思わないことです。
会社時代にはいわゆるグルメ通なる人がいましたがその人がおいしいと薦める者も、私にはただの食事でした。
ご馳走するほうもまったく張り合いがないと思いますので、一応、おいしいとは言うものの、料理しない食材のままのほうがおいしいだろうなと思ったりします。

ただ漬物は私には欠かせないものです。
白菜のお漬物はできるだけ常備してもらっていますが、半年前頃からユカが日常的に食材を買いに行っているスーパーの白菜のお漬物が塩味がききすぎるようになり食べられなくなってしました。
間違いかなと思って食べ続けましたが一向に変わらない。
メーカにまで手紙を出しましたがなしのつぶて。

以来、近くのお店でいろいろ試しましたが、どれもこれも私好みではありません。
たまたまちょっと離れたところにあるスーパーによって購入したら、まあ何とか私の好みに近いの、最近はそれを常用しています。
でもちょっと遠いのと、時に売れ切れているのです。
しばらく欠かしていたので、今日はユカに連れて行ってもらい、3つも買ってきました。

最近、夕食はできるだけご飯は食べないようにしているのですが、今日はお米を炊いてもらい、私好みの白米と漬物とみそ汁の3点セットです。
節子はいつも「修さんの食事は安上がりでいい」と笑っていましたが、それはともかく、おいしいお漬物を食べたいものです。
節子の漬物はあんまり特においしくはなかったですが、もう一度食べたいです。
ユカも時々つくってくれますが、そもそも漬物好きでない人の漬ける漬物は、やはりおいしくはない気がします。
ユカは、それなら自分で漬けたらと言いますが、私が漬けたらおいしくないどころかつかるかどうか危ないです。

漬物はやはり、漬けるよりも食べるほうがいいです。

 

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2021/06/17

■節子への挽歌5051:スーパーでの買い物

節子

久しぶりにユカと一緒にスーパーに買い物に行きました。
近くのスーパーでは時々シニアデーというのがあって、その日は高齢者は5%引きなのです。それで時々私も一緒に行って買い物してくるわけです。
今日はその日でした。

もっとも私が行くとついつい余計なものを買ってしまうので、5%割引以上の買い物になるかもしれませんが、買うほうとしてはなんだか得をした気分になるわけです。
お金から自由になろうと思っていますが、まあこんなことを考えるようではまだまだだめなようです。

節子とはよく一緒に買い物に行きました。
わが家の財布は節子が担当でしたので、私は支払ったことはありません。
いまはユカが節子代わりに支払いを担当してくれています。
だから今もお金に煩わされることはありません。

いまも時々ユカに付き合ってスーパーに行きます。
私にとっては気分転換のほかに、世間の動きを知るための一つの場です。
売り場の価格の動きや物の並び方、あるいはお客さんの動きなどから、いろいろなことがわかります。
それが実に面白いのです。

この1か月ほどで、間違いなく物価上昇が起きているようで、それも私の感じではかなりの高率です。
価格の感覚がみんなおかしくなっているのかもしれません。
同時に、かなり高額なものが売れているようにも思います。

面白いのはスーパーだけではありません。
そこに行く途中の専門店などの様子も面白い。
いろんなお店に行くのも面白い。

でもこれからの社会がどうなっていくのかには、いささかの不安がありますが。

 

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■いよいよパンとサーカスの時代

思ってもいなかったのですが、オリンピックが開催されそうです。
開催されることはないだろうと思っていた私にとっては驚きですが、冷静に考えれば、こういう時期であればこそ開催しなければいけないのでしょう。

ノーム・チョムスキーがあるインタビュー(2002年)で応えていた「観戦型スポーツの役割」を思い出しました。そこで彼はこう応えています。

本当に重要なことに関係しないように、人々を遠ざけるのが「観るスポーツ」の役割なのです。

彼は高校時代、自校のフットボールチームが勝った時の興奮を思い出して、こうも言います。

「観るスポーツ」が持つもう一つの効用は、「ショービニスム(好戦的盲目的愛国主義)」を築き上げる素晴らしい方法になることです。このような完全に非理性的な忠誠心を、まだ小さい頃から育て上げ、それを見事に他の分野に移行させるのです。
共同体に対する非理性的忠誠心というこの感覚は、権力ヘの従属訓練、すなわち「ショービニスム」のための訓練なのです。それらは「観るスポーツ」によって、強調され、誇張され、引き出されます。非理性的競争、権力機構に対する非理性的忠誠、極めて恐ろしい価値観への受動的黙認などが、実際に「観るスポーツ」によって、強調され、誇張され、引き出されます。権威主義的態度に対して、実際、これ以上に根本から貢献するものを想像するのは困難です。

そしてこう付け加えています。

私が思うに、「観るスポーツ」が、権力をもった巨大な組織・協会によって実際これ  ほどまでに支えられているもう一つの理由がここにあるのです。

さらにこうも言っています。

大半のテレビ番組の役割は一般的な人々を本当に重要なことから関心をそらすことなのです。

そういえば、最近のテレビ番組は「食」の話が多いです。
まさにローマ時代の「パンとサーカス」を思い出します。
もはやそこまで行ってしまったとしたら、この先の成り行きは明白かもしれません。

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2021/06/16

■節子への挽歌5050:ワクチン

節子

ワクチン接種が進んでいるようで、急にまた会食の呼びかけなどが増えてきました。
そいう風潮にはあきれるしかありませんが、しかしそういう現実を拒否するわけにもいきません。
なかにはあまり会いたくない人からのお誘いもあるのですが、誘いを断るのはあまり気持ちのいいものではありません。
できることなら縁を切りたい人からの誘いでも、私には断る勇気がありません。
憂鬱ではありますが、まあそうはいってもあってしまえば、それなりに楽しく過ごしてしまうことも多く、それがまた自己権をを引き起こします。
困ったものです。

湯島のサロンをお願いしていた友人からは、全員、ワクチン接種している条件でサロンをやってもいいという連絡が来ました。
肝心の私がワクチンを接種することはないでしょうから、このサロンもまた開催されることはないでしょう。
残念と言えば残念ですが、仕方ありません。

新型コロナにおびえるかと思えば、ワクチンには絶対の信頼を与えてしまう。
そういう生き方は私にはできません。
しかし、いまや社会はそうなってしまった。
チョムスキーやフレイルが言っているように、もはや現代の先進国の住民たちはみんな家畜化教育の成果を享受することになれてしまったのでしょう。
そこまでして生きたいのかと思いますが、私もそう変わらないのかもしれません。

先日も近くの人から、もうワクチン受けましたか、と言われて、私は受けませんと言ったら、確信犯ですね、と言われました。
ワクチンを受けないことは「犯罪」になる時代になってしまっているようです。

節子なら、たぶんワクチンを接種したでしょう。
節子にも接種しないように私は説得したでしょうか、節子が同意する可能性は低い気がします。
逆に節子に説得されたら、私も接種したかもしれません。
節子に誘われたらたとえ地獄でも同行したでしょうか。
そういう生活があった頃が懐かしいです。

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2021/06/15

■節子への挽歌5049:着るものはできるだけ少なく、食べる物もできるだけ少なく

節子

関東も昨日梅雨入りで、今日は雨の予想だったのですが、今朝は晴れました。
やわらかな朝です。

しかし、昨日も雨だったので、畑作業はいつも以上に泥だらけになるのでやめました。
特に作業衣もないので、次々とズボンが汚れて、ただでさえ少ないズボンがますます少なくなってしまいます。
作業衣と外出着は分けろとユカは言いますので、できるだけそうしていますが、いつの間にか間違ってしまい、どれもこれもみんな汚れてしまうわけです。
困ったものです。
だからちょっと見、ホームレス状態の衣服が多くなってしまったのです。

会社時代は、普段着と外出着は分けていました。
しかし会社を辞めた後、その区分は次第になくなり、いまはどこでもユニクロのコットンパンツとTシャツです。スーツやジャケットはほとんど着なくなりましたし、靴さえ履かなくなった。
これでは緊張感がなくなるのも当然です。

一昨日のサロンに話に来てくれた友末さんは、ネクタイにスーツで来てくれました。
けじめをつけるためと言っていたような気がしますが、にもかかわらず、あまりにカジュアルに対応してしまいました。失礼だったかもしれませんが、そういうことさえ、最近は気づかなくなってしまった。このスタイルはもう直りそうもありません。

テレビで時々見るカンファレンス風景に、昔はこういうはれやかな場にも出ていたなあと思うことがあります。自らが主役になって登壇する場もありましたが、いまはもう全く縁がありません。たまにはああいう場もいいかもしれないとしばらく前までは思っていましたが、最近はそういう思いもなくなりました。
にもかかわらずネクタイはまだ2~3本残していますし、スーツまでも2~3着残っています。もう着る機会はないでしょうが、なんとなくまだ愛着はあるのです。

服装は生き方も変えていくのかもしれません。
いや、生き方が服装を変えるのかもしれません。
いずれにしろ服装は生き方につながっている。

ユカは、もう少しいい物を着たらと言いますが、そういうことは私には全く無縁です。
いい服を着ていいものを食べる。そういうことの意味が私には理解できないのです。
着るものはできるだけ少なく、食べる物もできるだけ少なく、というのが私の好きな生き方です。

昨日、少し食べすぎたのを後悔しています。

 

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■湯島サロン「楕円的生き方 花田清輝『楕円幻想』から考える」報

友末さんの「楕円的生き方」のサロンは、合気道の話から始まりました。
それも実際に参加者の一人と身体を使って、少し形を見せてくれました。
そして、合気道は「添いつつ逸らす」かたちで相手とコミュニケーションすると話してくれました。「コミュニケーション」という言葉は使わなかったかもしれませんが、私にはそう受け取れました。むしろ、「自他不二」というイメージさえ感じ、自己(他者)否定の武芸かもしれないという勝手な解釈さえ持ちました。最近、万葉集サロンや益田サロンで、自他の問題を話しているせいかもしれません。

Tomosue202106133

合気道にはさまざまな流れがあるので、これは35年やってきている「私の」合気道の話だと友末さんは付け加えました。これもとても示唆に富むお話で、友末さんの生き方を象徴しているように思いました。ちなみに私の受け止め方は、合気道をまったく知らない者の勝手な解釈ですので、読み違いだらけかもしれません。

参加者は、花田清輝の名前を知っていても花田さんの楕円幻想を読んだ人はほとんどいませんでした。そこで友末さんは、「楕円幻想」の一節を参加者に配布し、あえて詳しい説明はせずに、ご自身のこれまでの話や今取り組んでいる活動を話しながら、楕円的生き方を伝えてくれました。おそらくそのほうが、楕円的生き方を考える示唆に富んでいるからです。思想や言葉は、その人の生き方にこそ現れます。
人によって受け止め方も違うでしょうが、私はいろんな気づきをもらえました。

合気道には勝ち負けはないと言われます。「勝ち負け」という概念は多様ですが、勝ち負けがないということ自体が勝ち負けを意識しているとも言えます。正確には「争わない」(自他不二ならそもそも争いというものは生まれようもありません)というべきかもしれませんが、勝ち負けの話は何回か出ました。勝ち負けの世界からはなかなか自由になれないようです。

そこからコミュニケーションとか人間関係の話にも広がりました。要は、人との接し方の問題。とすれば、合気道は子育てや教育の話につながっていくでしょう。単に武芸や護身術の話ではありません。そのことに改めて気づかされました。私は合気道のような武芸がどうも好きになれなかったのですが、ほとんど合気道を理解していなかったことに気づかされました。

なぜ友末さんが合気道を始めたのかという問いに、友末さんは「不安」と「美しさ」が合気道を始めた動機だというような話をされました。とても納得できましたが、不安と美しさは、ある意味で私には「勝ち負け」につながっていると思います。それを超えた世界が友末さんの動機だったのだと勝手に解釈しました。

友末さんは農福連携にも関心があり、実際にいまその活動にも取り組まれています。
農福連携はまさに楕円的な活動だと言います。
つまり農業の視点と福祉の視点と2つの視点で活動に取り組まないといけない。実際には2つどころではなく、たくさんの視点を尊重しながら無数の楕円を描いているのかもしれません。

日本の福祉活動の多く、とりわけ「官による福祉行政」は、視点が一つで、それも上から目線の措置型からいまだに抜け切れていないような気がしています。最近は福祉の世界にも「包括」という概念が入ってきていますが、実際にはまだまだ私たちは「弱者を救う」という発想から抜け出せない。しかしそれでは本当の解決にはならないかもしれません。弱者や強者、救済や支援という発想にもまた「勝ち負け」が感じられます。
楕円的な生き方をしている友末さんの福祉観はいろいろなことを気づかせてくれます。

合気道は大正時代末期に会津で始まったそうですが、その根底にはもっと長い日本人の文化があると言えるかもしれません。たまたま会津出身の茶道をやっている方が参加されていて、茶道や日本の伝統文化の話も出ました。柔道との違いの話も出ました。話は縄文文化にまで行きましたが、逆に現代の外交問題も話題になりました。
楕円的な発想は、さまざまな問題の見方を変えてくれるのかもしれません。

友末さんは、合気道は相手と踊りをするようなもので、自分も踊りが大好きだと言いました(私はサロンではメモを取らないで聴いているので、不正確かもしれません)。この言葉からもいろいろな話題が出ました。私は最近みんな一人で踊ることが多くなったのではないかと日頃感じていてそこに大きな懸念を持っていましたが、そこから抜け出すヒントをもらった気がします。

とても示唆に富むサロンだったと思いますが、もう少し話し合いたい気分が残りました。できればまた「楕円論議」をするサロンをやってみたいと思います。
メビウスの帯も面白い図形ですが、楕円も実に面白い。
2つの中心を近づければ真円に近づき、円周(範囲)を小さくすれば直線に近づく。
むかしメビウス遊びが流行りましたが、楕円遊びも面白いです。
これもサロンをやりたくなりました。
どなたかやってくれませんか。

Tomosue202106132

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2021/06/14

■節子への挽歌5048:楕円的な生き方

節子

昨日は友末さんの「楕円的な生き方」をテーマにしたサロンでした。
いろんな示唆をいただきました。

そこでふと考えたのですが、私もある意味では節子核と私核の楕円生活を送っているのかもしれません。
結婚した当時は、節子の核はあまり存在感がなく、私に引きずられがちでしたが、ある時に核が育ち、楕円になったようなきがします。
そこからたぶん私の生き方も変わりだした。
会社を辞めてからの話のような気がします。

それまでは家庭と会社の楕円生活だったのかもしれません。
それはある意味ではゆがんだ楕円でした。
そんな気がします。

楕円は面白い図形です。
2つの核の距離を近づければ真円に近づきますし、円周を短くすれば直線に近づきます。
また核の大きさを変えれば、さまざまな楕円ができるでしょう。
実に面白い。
メビウスの輪よりも面白いかもしれません。

もっとも昨日はそこまで話が進みませんでした。
サロンが終わった後、山田さんが花田清輝の文章の表題は「楕円幻想」だがその「幻想」にどう意味を託したのかという話をしてくれました。
また宿題をもらってしまった。
この山田さんの生き方にも改めて興味を持ちました。
サロンを頼みたくなりました。

生き方は実に様々ですが、時々こうして誠実に生きている人に出会うとなぜかほっとします。

 

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2021/06/13

■6月オープンサロンのご案内

6月のオープンサロンは平日の24日(木曜日)開催です。

気が向いたらどうぞ。
今回もオープンカフェスタイルです。
開場は1時50分、それ以後の出入りは自由です。

〇日時:2021年6月24日(木曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

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■節子への挽歌5047:寝る時間を遅らせたのに目覚めはやはり早い

節子

いつも早く寝すぎるので、夜目が覚めるのではないかとユカから言われました。
それで昨日は久しぶりに10時過ぎまで起きていました。
と言ってもやることもないので、テレビを見ていただけですが。
テレビは毎週見ている「ポワロ」です。

以前も一度、ずっと見ていましたが、私好みではありませんね。
アガサ・クリスティ原作だと言うだけで、なぜか見てしまうのです。
シャーロック・ホームズもそうでした。

学生時代はミステリーとSFをよく読みました。
雑誌も「エラリー・クイーン・マガジン」と「SFマガジン」を購読していました。
テレビドラマの「ポワロ」は登場人物が多くて、見分けにくく、正直、あまりついていけないのですが、登場人物が脇役が主人公のポワロを除いてみんな好きなのです。
それに当時の社会の様子に触れると、何かほっとします。
最近の社会とは全く違いますし、人も変わってしまった気がします。

もう一つ、なんとなく見ているのが、以前時々書いたことがある「イタリアの小さな村」です。
これは毎回録画までして残していますが、最近はあまり見なくなっています。
ポワロにしてもイタリアの小さな村にしても、見てしまうのは、そこに何かほっとするものがあるからです。
今の日本の社会が失ってしまったものがある。
筋書きは全く退屈なのですが、ついつい見てしまうのはそのためです。

ところで、そうまでして10時半まで起きていましたが、やはり朝早く目が覚めてしまいました。
要はやはり夜が嫌いなのです。
今日はちょっと寝不足です。
3つの集まりがあるのですが、大丈夫でしょうか。

手賀沼の対岸のお寺の鐘の音が聞こえてきました。
午前、6時。
今日もいい天気になりそうです。
畑に行こうかとも思いましたが、やめて自宅で半分寝ながらボーっとしていました。
今頃になって睡魔が襲ってきました。

困ったものです。

 

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2021/06/12

■節子への挽歌5046:グラジオラス救出

節子

午後、予定が変わって少し時間ができたので畑に行きました。
草刈りの続きです。
最近はなぜかはかどります。
刈り取られる野草や笹が協力的なような気がします。

まあそれはともかく、今日は道沿いの花壇部分に取り組みました。
芝桜は無残にもほとんど消えていて、松葉ボタンもわずかしか痕跡が見当たりません。
花らしきものはほとんどなくなっているのです。
まあしかし野草を刈り取ればまた芽が出てくるでしょう。
いろんな花の種子が残っているはずですから。

しかしともかく一度すべてを刈り取ることにしました。
どんどん調子が上がっていったのですが、はっと気づいたら、なんとグラジオラスに出会いました。
野草に埋もれていましたが、周りの野草を刈り取ったら20センチくらいのびていました。危うく他の野草と一緒に刈り取るところでした。
しかし、さすがに野草に囲まれて弱弱しそうです。
周りの野草を除去して、エールを送りました。

このグラジオラスは確か節子の頃からのものです。
節子がいなくなってから再開した時に、2本だけ残っていたのです。
しかもそのうちの1本はうっかり一度球根を記ってしまい、毎年注意しながら復活させていたのですが、その1本は見つかりません。
残った1本は大事にしないといけません。

節子が残したバラやアジサイは元気です。
野草に覆われてもその2本は毎年花を咲かせています。
時々、ユカが花を切って節子に供えています。

今日は前後の予定が変わった関係で、2時過ぎの一番暑い時に畑に行っていました。
ですからとてもいい汗をかいたのです。
予定では4時から30分だったのですが、なんと2時半から4時。
やはり暑い時の労働は気持ちがいいです。

帰宅したらにこがホットケーキを持ってきてくれました。
一緒に行こうと誘いましたが、かゆくなるからいやだと断られました。
ちなみに私はもう慣れてきて、あまりかゆくはならなくなりました。

 

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2021/06/11

■湯島サロン「私が考える理想国家」のご案内

久しぶりにリンカーンクラブの武田文彦さんのサロンを開催します。

今回は、湯島のサロンで5月から取りあげている「憲法と国家」につなげて、長年、このテーマに取り組んでいる武田さんの「思い入れの深い」持論を思い切り話してもらい、それをもとに、思い切り話し合う闘論型のサロンにしたいと思います。
武田さんがいま構想している「リンカーンクラブによる「第三革命」活動の呼びかけもあるかもしれません。

武田さんの理想国家論では、次のような具体的なことが語られるようです。
国家としての自立性を確保するために大切な課題は何か。そしてそれをどう実現していけばいいか。
また、国家として大切なことは、国民の「不安」を高めることではなく、無くしていくことではないかと武田さんは考えているようで、「抗不安国家」にしていくための具体的な提案もあるかもしれません。

武田さんの構想ですから、いささか過激で、拒否感が出てしまう言葉が使われることもありますが(たとえば「核武装是認論」)、単に言葉だけで判断せずに、そこにいたる論理や意味を、しっかりと受け止めていきたいと思います。

この1年ほど、武田さんのサロン(リンカーンクラブサロン)は開催していませんが、この間、武田さんは論考を進め、実際に活動へと向かう意欲を高めています。
どんな提案が出てくるのか、私にもわかりませんが、久しぶりの武田節を楽しみたいと思います。

いずれにしろ、遠慮せずに激論が行きかう論争なサロンになるかもしれませんが、自衛のための武装などは不要ですので、気楽な服装でご参加ください。
ワクチン接種も進んでいるようなので、新型コロナもあまり気にせずにどうぞご参加ください。

〇日時:2021年6月26日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「私が考える理想国家」
〇話題提起者:武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■節子への挽歌5045:心身の劣化の速度は速いです

節子

今日もいい天気です。
早く目が覚めたので、2年ぶりに歩いてみようかと思ったのですが、まあ倒れると悪いのでやめました。
ややタイミングを失しました。
それに運動不足が続いています。
実はせっかく習慣化していたテレビ体操も軽いぎっくり腰の時にやめてしまいました。

今朝久しぶりにやったのですが、驚くほど、身体が固くなっている。
身体の劣化は急速に進むようです。
いや精神だけではなさそうです。
朝食時に最近よくユカから、最近、お父さんは話すのが下手になった。何を言っているのかわからない。昔はきちんとわかるように話してくれたのに、とよく言われます。
それに話すのが長くなった、とも。
確かに自分でも自覚できます。
これも老化のせいでしょうか。

それにしても身体の硬さは注意しないといけません。
昨日も畑で刈り取った草を自宅に運ぼうとしたら、それに気づいた青木さんがまたやってきて、ここに置いておいたら今度の収集日に出しておいてやると言ってくれました。
それに加えて、こんなに重いのを家まで運んでいたら倒れるよ、との一言。
まあ体力づくりになるからといったものの、頼むことにしました。
しかし、青木さんはどうして突然出てきたのか。
まあみんな暇なのでしょうか。

そういえば、武田さんが電話で、佐藤さんや俺は別だけど、私の友人たちは本当に時間を持て余しているよと言っていました。
時間を持て余すと心身の劣化が加速されるでしょうが、持て余さなくても劣化の速度は速い。
困ったものです。

明日からまたテレビ体操復活です。
1
日、2回やろうかとさえ思います。

 

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■井田さんの茶の湯サロン「おいしいお菓子とお抹茶一服、召し上がれ」のご案内

湯島サロンに時々参加されている井田さんの茶会を湯島で開催することになりました。
初めての試みなので、今回は私から呼びかけさせてもらいます。
カジュアルなお茶会になると思いますので、気楽にご参加いただければと思います。
私も参加させてもらう予定です。

〇日時:2021年7月3日(土曜日)午後2時~4時
〇会場:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇亭主:井田里美さん(暮らしの中で和を楽しむ会・柏葉会主催)
〇定員:8人(定員制なので必ず事前に申し込みください)
〇会費:1000円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

どんな茶会になるのか楽しみですが、井田さんからの案内をお読みください。

〈井田さんからのメッセージ〉

十数年間、駒場東大近くの駒場公園和館、旧前田邸のお茶室で月に1、2度、釜をかけて「お抹茶一服飲みにいらしてください。季節の美味しいお菓子を準備してお待ちしております」と茶の湯サロンを続けておりましたが、今はコロナ禍でままなりません。古民家「旧 小坂邸での五節供と紅葉の季節の茶会」も同様です。
お茶会体験という場を使いながら、地域で回を重ねながら、この会に思わぬ効用があることをいくつも発見しました。

参加者の方からは、年代、性別、国籍を問わず、「知らない人同士が、なぜか打ち解けておしゃべりができた」とか、「心安らぐ、穏やかな時間を過ごせた」とか、「帰り道がいつもと同じ道なのに違って見えた」・・・とか、様々な感想をいただきました。

茶の湯の歴史を辿ってみて気付いたことは、例えば「何故、動乱、天災、飢饉、疫病、など世の中が不安な時に、茶の湯が消えなかったのか、もっと言えば、茶人という人たちがそんな時代に多く輩出されているのは何故か」「何故、応仁の乱という壊滅的時代の後に茶の湯が起こったのか」「何故、戦国の世に生きた武将たちが、茶の湯をモノしたのか」「江戸に花ひらいた文化の時代に茶の湯も盛んだった訳」「何故、明治以降も、政財界の多くの著名人が茶の湯を好んだのか」・・・・、社会が、革新的変貌を遂げた時、茶の湯をモノした人たちが・・・・何を感じ、どう行動したのか。

自然や環境について、永続的、循環的生き方にとは、物事に囚われず心を解き放つ生き方とは、・・・日本人は西洋がそのことに気付くずっと以前から、そのことを体験的に日常生活の中で誰もが実行してきたのだと思います。茶の湯はそんな日本の素晴らしいところを、遺憾なく発揮する方法を思い出させてくれるツールではないかと感じています。そんな日本の知恵を未来に託すために、是非、茶の湯を体感していただきたいと思います。

そこで、湯島のサロンの場をお借りして、どなたでも、一期一会、一座建立のひと時を、ご一緒させていただければと思います。一服のお茶から、様々に思いを飛ばしてください。

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2021/06/10

■節子への挽歌5044:今日は畑で汗をかきました

節子

今日も我孫子は真夏のように暑い日でした。
午後が在宅だったので、久しぶりに畑に行きました。
少しずつですが、野草を刈り取っているのです。

今日は、いつの間にか大きく育った木を切ることにしました。
久しぶりにのこぎりを使って切り倒しました。

そこから今度は入り口のささやぶを刈って道をつくることにしました。
作業に夢中になって時間のたつのを忘れてしまっていました。

突然、ユカがやってきました。
電話をしても出ないのでと心配したというのです。
そしてどうしてこんな暑い時に草刈りなどするのかとまた注意されました。
節子も同じような質問をよくしたものです。
でも私は、暑い時にこそ汗をかくのが楽しいのです。
でもまあ、ユカが来ないでこのまま続けていたら、またおかしくなっていたかもしれません。
自然との交流はそれほど楽しいものなのです。
今日はバッタの子どもたちにもだいぶ会いました。 

それにしてもささやぶの刈り取りは大変です。
電動草刈り機も使ったことがありますが、やはりそれは私の主義には合いません。
野草もがんばっているのですから、私も電気の力など利用するのはフェアではありません。そう思って、せっかく買ったのに1~2回使って廃棄してしまったのです。
やはり自分の力だけで自然と対峙した後の汗と疲れは、とても気持ちがいいです。
明日もまた行こうかという気になります。

今年の夏は、いい夏になりそうです。
夏はやはり暑くなければいけません。
冷房なしで過ごしたいですが、昨年のリフォームで2階の「リビングにも冷房が入ってしまったので、ちょっと心配です。

 

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2021/06/09

■節子への挽歌5043:先送り人生と「お迎えを待っている」感覚

節子

私自身の時間はゆっくりと進むようになったので、世間的な時間とのずれが大きくなってきました。
節子がいた頃の1日を、2~3日かけて過ごしているような気がします。
それでも何とか不都合が生じないのは、もしかしたら新型コロナのおかげで、世間的な時間の速度もゆっくりしてきたのかもしれません。
しかし時計の時間は相変わらずですので、実際にはいろいろな問題も起こるわけです。
誰かが時計の時間の進みを遅らせてくれればいいのですが。

畑もベランダ菜園も、その後、一向に進展がありません。
困ったものですが、まあ本人、つまり私がその気にならないのだから仕方ありません。
節子がいたら、督促されるかもしれませんが、いまは誰も督促してきませんし。
そんなわけで、相変わらず「先送り人生」がつづいています。
どこかで「破綻」が来るのかもしれません。

そういえば、先日、湯河原の電気料金を払っていなかったようで(振込していた銀行の残高がなくなったようです)、半年分の支払い請求書が届きました。
支払おうと電力会社に電話したら、もう契約が打ち切られていることがわかりました。
半年放置していたためでしょうか。
慌てて半年分を支払いましたが、こんなことなら早く契約を打ち切っておけばよかったと思います。
さすがにコロナの関係で、湯河原にはもうずっと行っていないのです。
どんな状況にあっているでしょうか。

不動産は、いまや負動産になったと言われていますが、まさにその通りです。
でも売却も面倒ですし、先送りのままになっています。
困ったものですが。

いくら先送りしていても、死だけはできればあまり先送りしたくありません。
「お迎えを待っている」という、昔のお年寄りたちの思いが最近少しわかるような気がしてきました。

 

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■第8回益田サロン「メビウスの帯を使って生物と環境の関係を考える」報告

細菌学者の益田昭吾さんの第8回サロンは、まずは参加者各自がメビウスの帯をつくる「手作業」から始まりました。
メビウスの帯は、帯状の長方形を180°ひねって貼り合わせたもので、裏と表が平面的につながっているのが特徴の一つです。

益田さんは、まず2つのメビウスの帯を参加者につくらせ、一つは真ん中から、もう一つは真ん中ではなく端っこから切り出して、切り口にぶつかるまで切るように指示しました。さらにもう一つ、180度ではなく360度、つまりふたひねりさせた輪も作らせ、それは真ん中から切るようにいいました。

その結果から何を感ずるか。
それから「生物と環境」「自己と非自己」を考えるヒントが得られるのではないかというわけです。

実際にやってみるとわかりますが、いろんなことに気づかされます。
メビウスの帯を真ん中から切っても切り離されることはありません。しかし、端っこから切り出していくと、不思議なことに2つの輪がつながってできてきます。そしてその一つがまたメビウスの帯になっているのです。
私は、2つの輪のつながりに興味を持ちましたが、益田さんは、そこで何かが消えているのではないかと問いかけます。前者で言えばメビウスの帯が消えた、後者でいえば、新しい帯が生まれた(言い換えれば2つの輪の境界が消えた)ということになります。

益田さんはこれまでのサロンで、生物と環境を同心円でよく説明していましたが、それにつなげれば、地と図の境界がなくなり、それぞれが支え合って不二の関係になるとも言えるのではないかと言うわけです。しかもその同心円は無限につづいていく。
そういう動きは、「ひねり」を入れ、さらに「ハサミ」という介入によって始まる。
そこからは人によってさまざまなことが気づかされるでしょう。
生物と環境との関係や、つながりということの意味、あるいは地と図の意味。
益田さんは、「○○は××のようなもの」というアプローチで人は理解の世界を広げていくと言います。この場合の〇〇や××が何なのかも人によって異なっているでしょう。

とまあ、こう書いてしまうと退屈なのですが、サロンではなかなか議論はかみ合わず、まるで禅問答のようなやり取りもありました。そのため、参加者からは、次元が違う話のやり取りなので意味がないのではないかという指摘もあったほどです。
しかし、まさに次元を超えた議論は、メビウスの帯のような位相幾何学の世界を象徴していて、それ自体も興味あるものでした。言葉の応酬もありましたが、手で語り合った人もいたかもしれません。益田さんから言われたのではない帯づくり作業をしていた人もいます。
参加者の一人からは、いつも頭で考えているが、手を使うのもいいものだという感想がありました。

私自身はいささか消化不良ではありましたが、メビウスの帯の面白さを改めて体感しました。生物と環境の関係も、自分なりにかなり理解が深まった気がします。
予告にあった「夢想と現実」の話題が出なかったのが少し残念ですが、益田さんがそこにどういう思いを乗せていたかも少しわかるような気がしました。

それに何よりも大きな成果は、話し合わないサロンもあっていいのだという気づきです。
益田さんから大きな宿題をもらったような気もしますが。

Masuda8

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■湯島サロン「今、女性の労働はどうなっているか」報告

「新自由主義と男女平等」をテーマにした福田さんのサロンの1回目は、法制度の動きや統計データを使いながら、最近の雇用労働市場の状況を、女性労働の視点から概観してくれました。これを踏まえて、2回目は現場から実態を見ていく予定ですが、まずは全体の動向を事実に即して確認していく必要があるというのが福田さんの考えです。

そのために、福田さんは、「女性の労働」の実態につながる法制度の動向や労働力や賃金に関する統計をいろいろと調べてきてくれました。

福田さんが最初に示したデータは、男女賃金格差があまり改善されていない現状と非正規雇用者の急速な増加傾向でした。女性の非正規雇用者の年間収入は100万円未満が44%という数字も示してくれました。女性の雇用環境は相変わらずひどい状況と言ってもいいでしょう。
しかし問題は女性だけではありません。女性の労働状況は男性の労働状況にも大きな影響を与えています。男性もまた非正規雇用が増え、給与水準も低下しています。

こういう事態に向かう起点は、1985年の労働者派遣法の改正にあるのではないかと福田さんは言います。それによって、それまで厳格に管理されていた派遣労働が一挙に広がったのです。

そして、その同じ時期に、「男女雇用機会均等法」が成立したことと、それはつながっているのではないかと福田さんは問いかけました。その点にこそ、本質的な問題が潜んでいるのかもしれません。

私も、男女共同参画、さらには女性活躍社会というスローガンこそが、いまの悲惨な労働状況を生み出したのではないかとずっと思っています。女性たちは、言葉に騙されてしまっているのではないか、と。

それはともかく、福田さんは、続いて、パート雇用の始まりから労働者派遣の歴史を紹介してくれました。そして、そもそも「人材派遣」という言葉がおかしいと指摘してくれました。日本が派遣解禁の根拠としたILOの条項でも、派遣に該当する語は“temporary staff”つまり一時的な臨時スタッフという意味で、「派遣」という意味はありません。

そういえば、「非正規社員」「正規社員」という言葉も私には極めて違和感があります。
まずは言葉の吟味が必要かもしれません。

私は、経済成長を背景にした「女性の社会進出」の時期に会社生活を送っていましたので、福田さんの話はとても共感できました。同時に、世代の違いによって、同じ言葉も違う意味をもっていることにも気づかせてもらいました。

福田さんの問いかけからさまざまな話し合いがはじまりましたが、考えさせられることがたくさんありました。

話を聞いていて、問題は「男女平等」ではなくて、仕事(労働)の報酬が仕事によってではなく、人によって決められるという仕組みにあるのではないかと思いました。いわゆる「属人給」ではなく「職務給」に発想を変えればいいだけの話なのではないのか。それを男女問題にしている限り自体は変わらない。問題を男女の問題に矮小化せずに、働き方や仕事と報酬の関係に向けていくことが必要な気がします。

もっとも「職務給」というとらえ方には別の問題もあります。
そこで思い出したのが、最近話題のデヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ」です。グレーバーは、その本の中で、「仕事の有用さと経済的報酬は反比例する」「誰の役にも立たず無駄な仕事ほど高給」というようなことを書いています。たしかに最近話題になっているエッセンシャルワーク(介護職や清掃員)の報酬は高くはありません。
それにくらべ、雇用労働の多くは「ブルシット・ジョブ」、クソどうでもいい仕事だというのです。

私自身もずっとそう思っていて、それが嫌で会社を辞めたのですが、最近は、正規社員は組織に隷属することで高給を得る人、非正規社員は自由だが経済的な報酬には恵まれない人と捉え、どちらを選ぶかは個人の自由と思っていましたが、どうも最近はそう割り切ってはいられないほど生活の実態は切羽詰まっているようです。
サロンでもそういう話をしようと思ったら、暗黙のプレッシャーで封じ込められてしまいました。

グレーバーは同書の中で、「ケアリング労働者の反乱」に言及しています。エッセンシャルワーカーたちがブルシット・ジョブであふれている世界に行動を起こしただけでも世界は変わるでしょう。

ちなみに、福田さんはサロンには女性の参加が多いだろうと思っていたようですが、実際には女性は2人だけでした。コロナ禍のためかもしれませんが、こういうところにも問題があるのかもしれません。

次回はまだ決まっていませんが、今回の状況を踏まえて一歩進んだ議論になると思います。ぜひ女性のみなさんの参加も期待しています。

Fukuda1

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2021/06/08

■スポーツ選手はお金まみれのスポーツから抜け出したとは思わないものでしょうか

私は昨今のオリンピックには元々何の意味も感じていないので、特段に関心はないのですが、オリンピックを材料にした国会議論やテレビ報道を見ていると、さすがに嫌気を感じます。

もっと重要な問題があるでしょう。

菅首相が、日本は主権国家ではないというような発言をしているのには驚きましたが、菅さんは実に素直なのでしょう。しかし、憲法も読んだことがないのでしょうか。

 こういう状況になっても、まだオリンピックが「ハレの舞台」と思っている人が多いのにも驚いていますが、そろそろ誠実なスポーツ選手たちが、オリンピックなどから自由になって、「みんなのオリンピック」を始めてほしいものです。
お金まみれのスポーツから抜け出したとは思わないものでしょうか。

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2021/06/07

■節子への挽歌5042:茨城タンメン

節子

ジュン夫婦も一緒に、みんなで茨城タンメンを食べに行きました。
先日、将門プロジェクトで知り合った人から「茨城タンメン」がおいしいと聞かされていて、一度、行ってみたいと思っていたのですが、たまたま今日は、みんな自宅にいて庭仕事などしていたので、誘ったのです。
孫のにこは、卵アレルギーがあるので中華麺は食べられないので、にこが幼稚園に行っている時でないとだめなのです。
みんなで中華麺を食べに行くのは久しぶりです。

ちなみに私は、素朴な中華そばと野菜たっぷりのタンメンが好きなのです。
でもなかなか私好みの中華そばやタンメンには巡り合えません。
今回も期待していきましたが、残念ながら私の好みではありませんでした。

ちなみに茨城タンメンは牛久に本店があるチェーン店でした。
不思議なことに大きな唐揚もメニューにありました。
私はあまり食べられませんが、一応、唐揚も餃子もチャーハンも頼んでみました。
4人もいれば誰かが食べるでしょうから。
私もみんなすこしずつ食べてみましたが、塩味がききすぎていて、私好みではないのです。

こうやってみんなで食事をする機会が最近は減っています。
節子がいれば違うのでしょうが、私は外食はあまり好きではないのです。
というよりも、わざわざ何かを食べに行くという嗜好がないというべきでしょうか。
食事への関心が低いのかもしれません。

そのくせ、おいしさはそれなりにわかるのです。
と言っても世間的な評価能力はありません。
自分がおいしいと思うものだけがわかるのです。
残念ながら、おいしいと思うことはめったにありません。

しかし、幸いなことに、おいしくないものもよほどでない限り、おいしく食べられるのです。
つまりまずくはない。
言い換えれば、何を食べてもそう変わらないということです。

素朴な中華そばとおいしいタンメンを見つけたいです。
もう長いこと、出会ったことがありません。

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■湯島サロン「司法と行政は誰の味方か」のご案内

新型コロナ騒ぎのなかで、私たちの関心も目先の「いまここにある危機」にくぎ付けされがちで、社会の実相がなかなか見えなくなってきていますが、そうしたなかで、多くの人が気づかないうちにさまざまな「おかしなこと」が行われているような不安があります。

湯島のサロンでは、4月からそうした「おかしな現実」を改めて取り上げていますが、その3回目は、「ビルオーナー倒産で残されたテナントの命運」をかけて、いま裁判を争っている事例を、当事者である釈源光さんから紹介していただき、「司法と行政は誰の味方か」を問題提起していただきます。

源光さんは、ご自身の体験から、「平等原理や基本的人権を蔑ろにし、金儲け優先で社会の弱い立場にある人々を救済しない傾向が近年高まりつつ」ことに大きな危惧を持っています。なぜこういう状況になったのか。その背景には何があるのか。そしてどうしたらそういう流れを変えていけるのか。

源光さんたちがいま取り組んでいる裁判は、おそらく商業ビル史上初であろう、テナントによるビルの《自主管理》という試みを目指すものであり、単におかしいことを摘発するだけでなく、新しい社会の提案も含んでいますが、そうした源光さんたちの「新しいビジョン」についても話し合えればと思います。
当日は、当商店会副会長の西田聖志郎さん(俳優・映画プロデューサー)も参加していただく予定です。

ちょっと特殊個別的な問題のように思う方もいるかもしれませんが、誰にとっても無関係ではない問題がそこに含まれています。「いまここにある危機」も大事ですが、「その先にある危機」についても、私たちはもっと意識と関心を高めたいと思います。
みなさんのご参加をお待ちします。

〇日時:2021年6月27日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「司法と行政は誰の味方か」
〇問題提起者:釈源光さん(真宗大谷派瑞興寺僧侶/中野・坊主バー店主)
                    西田聖志郎さん(俳優・映画プロデューサー)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

《源光さんたちが直面している問題の概要》
*釈源光さんは、真宗大谷派瑞興寺僧侶/中野・坊主バー店主のほか、中商連ワールド会館商店会長や都社交飲食業生活衛生同業組合中野支部長などもされています。

  目下、私たちが想定外のコロナ禍に見舞われたことで、特に2000年代から顕著になり始めたこの国の周回遅れの新自由主義の流れは、スローダウンを余儀なくされたようにも見受けられます。
 とりわけ、‘70年大阪万博以降の高度成長下における都市部の再開発ブームやビル建築ラッシュのドサクサの半世紀のなれの果てでなお機能する老朽化した商業ビルでは、何が負の遺産として残り、その間に入居したテナントに一体何が起こるのか、勿論関係当事者以外は知るよしもありません。
 私たちは、東京中野区の繁華街にある「ワールド会館」という、築52年にもなる名物ビルで、飲食店等を営んでいたテナント商店会の生き残りメンバーですが、現在、原告のビルオーナーとの間で民事係争約5年近くに至り、当該裁判は既に二審段階に突入しています。
 さて、争点は、7年前までいた以前の同ビルオーナーの会社が倒産し、ある日を境に管理を放棄して逃亡したことにより、当時17軒あった商業テナントの利用する《ビル一括契約》が解除され、水道・電気の供給が全面停止される通知が来た結果、賃借人たる当該17軒が、生き残りをかけてビル設備の《自主管理》をせざるを得なくなったことの可否が、まさに問われているのです。

 ちなみに、ある意味この「オーナー不在下でテナントが《自主管理》」という前代未聞にして不条理極まりない悪夢は、今後の日本の行く末すらを俄かに暗示していなくはないでしょうか?
 というのは、21世紀以降にも各地再開発で推進された巨大ビルや超高層ビル群が、やがて資産価値なき老朽化に至り、日本経済が地盤沈下した暁にも、オーナー倒産という事態が、必ずしも起こらないとは限らないからです。

 一般に、老朽化した倒産ビルは、殆どの場合、差押不良資産として債権回収機構等に叩き売られた後、悪質な海外系不動産会社などの地上げ対象や再開発の対象になり易いのですが、賃貸借契約を交わした当時のビルオーナーが消えた後に、置いて行かれたビルの各テナントの権利関係は、この国では果たしてどこまで守られるのでしょうか?
 私たちの場合には、一審判決では主張は一切認められず、全面的に敗北してしまいました。
 やはりこれは、司法のネオリベ化や行政の優位性などがつとに指摘される昨今の風潮を受けて、平等原理や基本的人権を蔑ろにしたり、金儲け優先で社会の弱い立場にある人々を救済しない傾向が近年高まりつつある中での憂慮すべき問題なのでしょうか? その可否と背景に横たわるものを皆さんと共に考えていきます。

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2021/06/06

■節子への挽歌5041:メビウスの輪

節子

今日は益田昭吾さんのサロンで、最初にメビウスの輪をかみでつくって、それをいろいろな形で切って、その変化を体験することをみんなでやりました。
サロンの報告は時評編でするとして、挽歌ではメビウスの輪について書こうと思います。

私がメビウスの輪を知ったのは大学生の頃で、トポロジーを題材にしたSFからです。
当然ながら一時期はそこにはまったこともあり、できれば「メビウスの男」「クラインの女」などという題の小説を書きたいと思ったこともあります。
たしか「メビウスの男」はノートを上下2段に分けて、書き出したのを覚えています。
上段と下段が同じ時間の動きを解釈を変えて書いていくという実験的なものでしたが、力不足と根気のなさで途中で挫折しました。

私はそうやって、結局は何もきちんと終わらせることなく中途半端な人生を送ってきたのですが、おかげで世界が何となく見えてきたような気がしています。

メビウスの輪についてまた思い出したのは数年前です。
それは挽歌を書いているときに、ふと、節子の今いる世界と私の今いる世界がつながっていること、もしかしたら隣り合わせていることに気づいた時です。
もっといえば、此岸と彼岸はメビウスの輪なのではないかと感じたいのです。
そこからおかしな話ですが、なんとなく死が身近に感じられるようになったような気がします。

ですからメビウスの輪にはとても親近感があるのです。
ですからサロンでいろいろと切った結果を見ても、なにも驚かなかったのですが、それが逆に話題提供者の益田さんからはなぜ驚かないのかと言われてしまいました。
60年前に体験したことを思い出して、驚くというよりも懐かしんでいたのですが、どうもそれが別の印象を与えてしまったようです。

それでも一つだけ新たに気付いたことがあります。
それはメビウスの輪は一つではないということです。
あまりに当然のことなのですが、宇宙は一つだという思いに呪縛されている自分に気づいたのです。
というか、そこからいろんなことがまた混乱してきてしまった。

思考とは寄せては返す波のようです。
最近少し疲れているのかもしれません。

 

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2021/06/05

■節子への挽歌5039:コムスビ

節子

湯島に行く時には昼食を抜くようにしてきたのですが、最近、ユカがつくってくれるオムスビならぬコムスビがちょっと気にITっています。
コムスビというのは、小さなおにぎりのことです。

ユカのおにぎりは昔はとても大きかったので私には食べきれなかったのですが、最近、とても小さなオムスビをつくってもらうようにしました。
ユカがある時に食べていたのを見て、私用にもつくってもらったら、それがとてもおいしかったのです。
おにぎりにはいろんな具材を混ぜて握ってもらい、それに海苔でたっぷりとつつんでもらうのです。
まあそれだけのことですが、いまはとても気に入っています。
湯島に行く時にはお昼を抜こうと思い出していたのですが、これならまあいいでしょう。

私は、食事はお味噌汁とお漬物があれば、それで満足なのですが、最近はおいしいお漬物には出合えませんし、お味噌汁はユカが嫌いなのでいつも私用だけに作ってくれるので気が引けます。
お米のご飯は好きなのですが、最近は食べる量をできるだけ減らしています
朝はパン、夕食と昼食のいずれかは麺類か主食無しが、最近の私の食事ですが、だいぶ慣れてきました。
私はむかしから間食が多いのですが、これもだいぶ我慢できるようになりました。
それでも体重はなかなか減りません。
もう少し減らしたいのですが。

話がずれてしまいましたが、今日もユカがつくったコムスビのランチでした。

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■節子への挽歌5040:湯島のテーブルの上の水槽メダカが復活しました

節子

湯島に家で生まれた子メダカを連れて行きました。
小さな水槽に入れました。
注意しないと見えてこないほどの小さなメダカも含めて3匹です。

節子がいた頃は、この小さな水槽にいつも2~3匹のメダカがいました。
エビがいたこともあれば、何かよくわからない生き物がいたこともある。
まあ当時はほとんど毎日来ていましたから、声もかけたし水も入れ替えていました。

しかし、ある時からメダカが育たなくなった。
最初にメダカが死んだのは、水槽から跳ねて飛び出してしまっていたからですが、以来、生き物は育たなくなった。
芝エビもみんな死んでしまった。

しばらく諦めていましたが、なぜか今年に入ってメダカを飼いたくなったのです。
というのも湯島だけではなく、わが家のメダカや金魚なども一時絶滅してしまったのです。

その後、金魚屋さんなどから買ったメダカは結局は住みついてくれなかったのですが、友人からメダカをもらったり、街なかのお店でメダカをもらったりして、いまは10匹以上のメダカが元気で水槽で育っています。
そこから何匹かを湯島に連れて行っているわけです。

庭の池は2つあったのですが、一つは埋められてしまいました。
ですから今は庭には魚はいないのですが、2階のリビングにの水槽で飼っています。
毎日見ているせいか、元気です。
魚も植物も、毎日声をかけないと駄目なようです。

湯島のメダカはまだいささかの不安定さがあります。
何しろ最近は土日しか行かないことが多いのです。

友人が水槽に入れる電動ポンプをもってきてくれてセットしてくれましたが、不在の時もずっと電気を入れて動かしておくことには何か違和感があって、最近は不在時には電源を切っています。
しかし不在時ではなく、入る時もやはり電気で動かすのにはどうも違和感があります。

電気無しで、うまく住み続けてくれるかどうか。
もう一度、それに取り組んでみようと思っています。

 

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■第14回万葉集サロン「贈答・問答歌が拓く〈意識〉- 男と女の〈わ〉と〈な〉の共生と分有」のご案内

第15回の万葉集サロンは、男女の贈答・問答歌の応酬を読んでいきます。
テーマは「男と女の〈わ〉と〈な〉の共生と分有」。

升田さんからのメッセージです。

 「歌垣」に源流が求められている万葉の問答歌は、歌垣の場(神の場)における男女の「掛け合い」、「歌闘い」の領域を超えている。同語反覆による応酬の繰り返しは対話性を生み、「意識」として吐露される。本来呪詞であった序詞や枕詞 ー「た」の大いなる言語の仕組みを持つ歌は、それを助けた。
 互の「歌」「言」に追随しながらも反駁し、しかも対立ではなく「分有」するところに、相互の意識が顕在化してくる。男と女の自己意識は言語上の「好き」か「嫌いか」ではなく、「歌」「言」を等価に分有することによって負けを知らない生き生きとした活気に溢れている。
 今回は、このような視点から「久米禅師と石川郎女」「湯原王と娘子」「佐伯宿禰赤麿と娘子」などの歌を読んでみたい。

今回はテーマも明確なので、わかりやすいと思いますが、これまで参加されていない方は、「〈わ〉と〈な〉」って何だろうと思われるかもしれません。
これに関しては、これまでの簡単なまとめがありますので、添付をご覧ください。

ダウンロード - e4b887e89189e99b86e382b5e383ade383b3e4b8ade99693e381bee381a8e3828120201212.pdf

「万葉集」を読んだこともない方も歓迎です。
升田さんの万葉集の世界に触れる感じで、気楽にご参加いただければうれしいです。

〇日時:2021年6月19日(土曜日)午後2時~4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇テーマ:「贈答・問答歌が拓く〈意識〉ー男と女の〈わ〉と〈な〉の共生と分有」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■節子への挽歌5038:自然と付き合うのも大変です

節子

身体がかゆくて4時半に目が覚めました。
そのまま起きてしまいました。なにしろかゆい。

先日、畑作業をしてからどうも身体じゅうがかゆいのです。
長袖のシャツを着ていったのですが、いつものように適当に着ていたので、もしかしたらそこから何かが入ってきたのかもしれません。最初は手足や首筋だけでしたが、だんだん身体全体に広がってきました。意識すると我慢できなくなります。

これも自然との交流のひとつで、以前にも経験しています。
笹などのさまざまな野草と触れ合うので、露出されている肌がまずかゆくなります。
時に小さな水ぶくれのようなものができることもありますが、虫に刺されたような状況もできますので、目には見えない生命が移ってきているのかもしれません。アリにかまれたこともあります。

しかし、畑に行くとかゆみが消えるのも不思議です。
土や野草たちが私と交流したがっているのかもしれません。
あるいは防衛のために私に警告しているのかもしれません。
残念ながら久しぶりの畑作業なので、読み解けてはいません。

畑作業というよりも開墾作業なので、私は土にひざまずいたり座ったりして作業しています。ズボンは泥だらけになりますし、長くつの中にも土が入ってきます。
野草は50センチ以上伸びていますので、その中に頭から入っている感じで、帽子が嫌いなので、頭も顔も野草と触れ合います。
手袋は繊維の軍手なので、いかようにも微生物は入ってこられます。
節子がいたら、もっとちゃんと防備してから行くようにというでしょうが、自然に対して「完全防備」などできるわけがありません。
それに、微生物にとっても、私自身がかっこうの遊び場になるのかもしれませんが、それを無礙の拒否するのは私の趣味ではありません。

時々、蝶々や昆虫の幼虫や毛虫にも出会います。まだ野草がたっぷりあるところに移してやりますが、彼らが何かをプレゼントしてくれているのかもしれません。
ありがたくないプレゼントですが、プレゼントはもともとそういうものです。

まあそんなわけで、畑作業は自然との交流なのです。
身体がかゆくなるのは結構つらいのですが、まあそのうち、おさまるでしょう。

人と付き合いのもわずらわしいですが、自然と付き合うのもけっこうわずらわしいのです。
昨日の大雨で、今日は畑には行けないので、かゆみは今日はおさまらないでしょう。
我慢の一日です。

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2021/06/04

■節子への挽歌5037:相変わらず血圧は高いようです

節子

最近きちんと高血圧対策で降圧剤を飲んでいます。
今朝、その薬がなくなったのに気づきました。
それでいつもの遠藤さんのところに薬をもらいに行きました。
今年2回目でしょうか。
いつも薬だけユカにもらってきてもらうのです。

血圧を測ったら170/80
私には正常値と思える数値ですが、薬を飲んでいるにこれは高すぎるのだそうです。
今日は患者が私だけだったせいか、10回近く測り直しましたが、なかなか下がりません。
それで私がきちんと薬を飲んでいないのではないかと疑われ、ちゃんと飲んでいるのかと何回も質問されました。
節子と違って、私は遠藤さんには信用がないのです。
まあ薬をもらっても飲んだり飲まなかったりいかにもいい加減でしたから仕方がないでしょう。

運動をやると血圧は下がると聞いたので薬よりも運動でカバーすることで折り合いがつきました。
もちろん薬はきちんと飲むようにと念を押されましたが。

遠藤さんとの付き合いは長くなりました。

歯医者さんでも脳神経外科の病院でも、血圧はいつも測りますが、どこで測っても高いのです。
みんなきちんと毎日測るようにといわれるのですが、実は自宅で測ったことはないのです。
よほどおかしい時だけはさすがに測りますが、まあ年に数回です。
ちなみに遠藤さんに行く前にいしど歯科に行ったのですが、そこでの測定結果は200/100でした。石戸さんは私の高血圧にはもう諦めているようです。

遠藤さんからは130を目指すようにと言われました。
ちょっと目指してみようかなと思います。
畑仕事で。

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■湯島サロン「主権国家における憲法とは何か」報告

今年は憲法サロンを2回やることになりました。前回の憲法サロンで「憲法」の捉え方がみんなバラバラなことに気づき、それを整理するために、「主権国家における憲法とは何か」について、私の考えを15分ほど話させてもらうことにしたのです。

「憲法」はドイツ語のVerfassungや英語のconstitutionの訳語です。日本語では「法」という語がついているので、法律と同じものと捉えられがちですが、本来は「国の構造に関わる基本的な原理原則」「国家のあり方の基本設計図」を指し、いわゆる法律とは次元が違うものと言ってもいいでしょう。国家をどう統治するかというよりも、どういう国家を目指すのかにつながっているように思います。
したがって、国家のあり方によって、憲法の意味もまた変わってくるはずです。

今回は、国家を「私物国家」「宗教国家」「国民国家」「国民主権国家」の4つに分けて、それぞれにおける私の憲法の捉え方を紹介し、国民主権国家における憲法は、私たち主権者の生活に深くつながっていることを話させてもらいました。
詳しくは当日配布したレジメを添付します。関心のある方はご覧ください。

ダウンロード - e59bbde6b091e4b8bbe6a8a9e59bbde5aeb6e381abe3818ae38191e3828be686b2e6b395.docx

そこから参加者各人の「憲法観」を話してもらうはずだったのですが、私の憲法観に関して疑問や批判が続出し、なかなか先に進めませんでした。案内文で、アメリカとヨーロッパでの憲法思想の異同について書きましたが、それへの疑問も出されました。
私のレジメはいかにも粗雑なのでさまざま突っ込まれて、結局、私の生活信条や価値観が無様にも引き出され、そこからまた「鬼滅の刃」の話に行き、若い世代からのメッセージをどう受け止めるかという話にまで発展しました。

しかし、憲法を語ることは国家の形を考えることであり、「いわゆる政治」とは違うという考えは少しシェアできたような気も(少し)します。
アメリカは「合衆国」なのか「合州国」という話も出ましたし、果たして実質的に国民主権国家などあるのか、そもそも国民主権が実質的に可能な人口規模はどのくらいなのか、という話もでました。国民主権であれば、国家の作り方が変わり、国家という概念が全く違ったものになるのではないか。その国家の基本設計図が憲法であれば、憲法はまさに私たち一人ひとりの生き方に深くつながっています。憲法がもし私たち一人ひとりの生活に無縁のような存在であれば、それは「国家のかたち」の問題なのです。

私は、日本はまだ「国民国家」段階で、「国民主権国家」ではないと思っていますが、こうした独善的な言葉遣いがよくないのでしょう。みんなから「叩かれても」仕方ありません。しかし、言葉に呪縛されずに、自由に発想したいという思いから、あえて今回は皆さんの発言を否定ばかりしていたので、疲れてしまい、報告を書けるほどの記憶が残っていないのです。困ったものです。
だれか代わりに報告してくれるとうれしいのですが。

「憲法」と自分の生活とは距離がありすぎるという発言もあり、まだまだ「憲法」は身近にはならないようです。それでも、国家をテーマに話し合うことも意味があるということから、国家を考えるサロンの提案をしましたが、話題提供者になると手をあげる人がいなかったため、また私がやることになりました。生活につながるような国家をテーマにしたサロンを改めて開催させてもらおうと思いますが、どなたか代わりにやってもいいという人がいたら、ぜひお願いしたいです。

誰も手をあげる人がいなかったら、7月にもう一度、懲りずにサロンをさせてもらいます。
レジメへの批判や疑問はどうぞ気楽にお寄せください。

Kenpou20212

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2021/06/03

■節子への挽歌5036:旧知の人から褒められました

節子

山形市の知人から電話がありました。
もう10年以上、会っていないのですが、気がつかなかったのですが、2回も電話があったのでちょっと気になって折り返しました。

山形市にはもう20年ほど前ですが、毎月数回通っていました。
最初は市役所の仕事でしたが、そこで知り合った市民と一緒に、ちょっと大きな全国版のイベントを2つほど取り組みました。電話があったのは、そのイベントの一つを一緒にやった人からです。
一緒に仕事をした市役所の職員の人たちのほとんどはもう引退していますが、当時若かった人の一人は今副市長で頑張っていますし、さらに若かった一人も今回のコロナ対策に取り組んでいるそうです。

今日の電話は、そうした私と一緒に仕事をした若い職員が、いまがんばっているという報告でした。
どうして報告してきたのかわかりませんが、電話では私と接点を持ったことの意味が分かってきたというような話でした。
いささか褒められすぎて気が引けましたが、いろんな意味で私の考えが少しは役に立っているようでうれしいことです。

もっとも私の場合、褒められても、だからどうなのと思ってしまうのです。
褒めてくれるのなら、実際の行動で現実を変えてほしいほうがうれしいのです。
もちろん今回電話をくれた人は実践もしていますし、市役所で仕事をしている人も行動で応えてくれているのでしょうが、しかし時代状況が20年もすれば大きく変わってしまっています。
ですから彼らがやっていることは、20年前の私にはとてもうれしいことですが、いまとなってはたぶん私には満足できないでしょう。

今日の電話も1時間近い長電話になったのですが、話を具体的に聞いていると、やはりちょっと違和感のある話が出てきて、もうそういう時代は終わったのだけれどなあと思ってしまうことが少なくありませんでした。
そのためだんだんうれしくなくなってきてしまい、やはり理解されていないなという気がしてきました。あげくの果てに、その人をもしかしたら傷つけるような発言までしてしまったかもしれません。困ったものです。
電話が終わった後は、うれしいというよりも何となく自己嫌悪感に陥りました。。
なんと狭量なことか。

それでもいろんなところに、私のことを少し覚えていてくれる人がいることには感謝しなければいけません。

長電話が終わった後、彼は何で電話してきたのかなあとユカに言ったら、話したかったのでしょ、と言われました。
たしかにそうです。ただ私と話したかったのでしょう。
褒められなければもう少し素直に話せたのに、褒められるとどうもうまく話せない。
困ったものです。

誰か山形に呼んでくれるといいのですが、
最近は遠距離交通費すら工面できなくなってしまいました。
困ったものです。

 

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2021/06/02

■湯島サロン「聖母神社と天上聖母」報告

本間さんの「聖母信仰」サロンの第2回目は、日本における3つの聖母信仰の話でした。

前回に続いての神功皇后の「聖母(しょうも)信仰」、中国の福建省から起こった「媽祖(まそ)」伝説からの「天上聖母」信仰、そしてキリスト教の「サンタ・マリア」の聖母信仰。
ていねいなレジメまで作ってくれたので、日本の「聖母信仰」の全貌がわかったような気がします。しかも、それぞれを祀っている日本の「聖母神社」3種類すべての所在地図まで作ってきてくれて、その一つひとつを説明してくれました。

神功皇后を祀る聖母神社は九州に多いというのはわかりますが、媽祖信仰の聖母神社は九州のほか、東日本にも多いのは意外でした。そこから何が見えてくるのか、楽しみです。

ちなみに3つの聖母に共通するのが、「海(水)」とのつながりです。
キリスト教の聖母マリアも海につながるのかと不思議に思ったのですが、コロンブスの大西洋横断航海のときの帆船が「サンタ・マリア号」だと本間さんは思い出させてくれました。
「媽祖」の「媽」には「母」の意味もあるそうですが、「牝馬」の意味もある。なぜ海や水の神なのに「馬」なのか。参加していた升田さんによれば、「馬と天と龍」はつながるのだそうです。『易経』によれば、馬は陽の気の盛んな動物であり、馬の陽気が窮極にいたると龍になるのだそうです。龍は究極の水の神。馬もこうして水(海)に通じます。そういえば、ギリシア神話には天馬(ペガサス)が登場します。

「海」は「産み」に通ずるという話もありましたが、私自身は、どうして「海」と聖母がつながるのか、あるいはなぜ日本では3つの聖母信仰が神社で祀られているのかが、まだ理解できていません。これから追々わかってくるのでしょう。
いやそれよりも、海に囲まれた海洋国家なのだからもっと「聖母信仰」は広がり神社も多くていいのではないかと思いましたが、聖母神社はともかく、海神や水神を別の象徴で祀っている神社は多いと教えてもらいました。
そういえば私も水俣に行ったときにお詣りさせてもらった、山の水俣の山頂の神社の御祭神が「サンゴ」だったのを思い出しました。

私はこれまで、神道というと何となく山をイメージしていて、海のイメージで神道を考えたことがありませんでした。そういえば、海に浮かぶ鳥居は少なくありません。
神道に関する本は少しは読んでいたつもりでしたが、全く何もわかっていないようです。
これからの本間サロンの展開が楽しみです。

マリア観音は、以前は隠れキリシタンが仏教信徒に見せかけるための苦肉の策として観音像にしたと言われていましたが、むしろ「聖母マリア」が観音信仰につながっていたという見方になってきているという話もありました。
キリスト教は布教の過程で、その地の人々の信仰に合わせていくのだそうですが、日本列島では聖母マリアの親和性が強かったようです。
これも面白い話です。なぜサムライ日本で聖母がキリスト教の布教の鍵になったのか。

沖縄の文化に通じている平井さんは、3つの聖母信仰の話を聞いて、なにかひらめいたようですが、私は今回はともかく3つの聖母信仰の話を消化するので精一杯でした。
ただ、神功皇后はあまり好きではなかったのですが、ちょっとイメージが変わりました。
それと、信仰と宗教はやはり違うのだなと改めて実感しました。
これから本間さんの神道サロンがどう展開していくのか、とても楽しみです。

今回は八幡信仰の話はあまり出ませんでしたが、住吉や宗像の話は少し出ました。
前回、本間さんが予告したとおり、どうも話は壮大になっていくようです。
次回がまた楽しみになってきました。

Honma2

 

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■節子への挽歌5034:ムクドリがにぎやかです

節子

敦賀の節子の姉から野菜が届きました。
もうお米作りはやめたそうですが、野菜をつくっているそうです。
節子が言っていた「野菜の定期便」が今も続いています。
最近は、私よりもユカがきちんと対応してくれています。

私は親せきづきあいも苦手ですし、電話も苦手です。
私の兄からの電話も最近はユカ任せです。

セールス関係が多いので、わが家の電話は留守電にセットしています。
自治会の会長になってから、電話が増えたのでしばらくは留守電ワオ辞めていましたが、そろそろもう自治会関係の電話も少なくなったのと私の携帯電話もお知らせしたので、また留守電に戻しました。
でも、電話があるのに電話に出ないようにするというのも、実におかしな話です。
おかしな時代になってしまった。

今日は気持ちのいい日なので、霊場歩きにぴったりでしたが、その気になりませんでした。できればベランダ農園に取り組もうと思いますが、一人だとどうもやる気が出ない。困ったものです。
とりあえずメダカの水槽の掃除をするところまではやったのですが、それだけでもう疲れてしまった。困ったものです。

昨日から家のまわりがムクドリでにぎやかです。
もしかしたらどこかから追われてしまったのかもしれません。
ともかく朝からうるさいほどです。

そういえば、節子は「鳥になってちょいちょい戻ってくる」といっていたので、節子もいるのかもしれません。
ベランダにも、鳥の水飲み場をつくってもいいかもしれません。
でもその前にまず、ベランダ農園作りです。

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2021/06/01

■節子への挽歌5033:ワクチンでみんなの意識が変わりだしそうです

節子

畑はなかなか定着しません。
ベランダ農園もまったくの手付かずです。
どうもまだ気力が戻ってこないのは、なぜなのか。

もしかしたら最近、いろんなものを整理廃棄しているせいかもしれません。
なにかを廃棄すると何か自分のこれまでの生きてきた時間さえもが捨てられるような気がするのです。
断捨離をしている人の気持ちがよくわからない。
まあもう少し時間をかけて整理していかなければいけないので、当分こういう状況からは抜けられないでしょう。

小学校時代の友人たちから、やっとワクチンを受けられるので、また会おうというメールが来ました。
ワクチン接種がすんだのでサロンをやってもいいという連絡もありました。
みんな、新型コロナに翻弄されているようです。

しかし私には、そういう「いまここにある危機」よりも、「その先にある見えない危機」のほうが心配です。
どうして80歳に近づいてまで、死を恐れるのか。
死を恐れる人生は、そもそもその時点で死んだも同然とさえ思う私には理解できません。

それにしても意外なほどみんなワクチンに依存している。
これでは新型コロナ騒ぎはまだ当分終わりそうもない気がしてなりません。
自分で感染を防止しようとか発症を防ごうという意志がなければ、病気からは解放されない。
私はそう思っていますので、ワクチンがコロナ騒ぎを鎮めるとはなかなか思えません。

まあこれで私が発症して重症化したら、笑い話にもなりませんが、そうならないようにさらに意識を引き締めなければいけません。
会いたくもなく、また会う必要もない人と会うのはいささか憂鬱ではあります。
でもまあそれが人生ですから、仕方ありません。

6月になったら、また相馬霊場歩きをしようかと思っていますが、最近の体力の衰えを考えるとちょっと難しいかもしれません。
でもある日、起きたら急に歩きたくなったら、出かけるかもしれません。

節子、なかなか再会できませんが、まあそう遠い先ではないような気が、最近、時にすることがあります。
節子にはもしかしたらわかっているのかもしれませんね。
彼岸を体験するのは、やはり楽しみです。

 

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■湯島サロン「楕円的生き方 花田清輝『楕円幻想』から考える」のご案内

学生の頃から、ずっと気になりながら忘れていた人がいます。
文芸評論家の花田清輝です。もうすっかり忘れていたのですが、先日、サロンに参加した人が口にした「楕円的な生き方」という言葉で、その名前を思い出しました。

帰宅して、消化できないどころか完読もできなかった花田清輝の「復興期の精神」を探しましたが、残念ながら自宅には残っていませんでした。
内容はもうほとんど記憶にもないのですが、「2つの点の間で、私は立往生している」という花田清輝の言葉(間違っているかもしれません)を思い出しました。

前置きが長くなってしまいましたが、私に、その言葉を思い出させてくれたのは、最近、時々サロンに参加してくれる友末さんです。ちなみに、友末さんは、私に「鬼滅の刃」を読む気にさせた方です。
友末さんは、「楕円的な生き方」に心がけ、実践しているように思います。
そこで友末さんの生き方や活動について無性に知りたくなりました。
そこで今回は、ご多用のなか、ご無理を言って、サロンを開いてもらうことにしました。

私の生半可な理解では、自らのアイデンティティや信念をもって真円を描こうとするのは、二者択一を迫る抗議的な生き方ですが、自らに素直になると、人はみな「もう一人の自分」や「もう一つの信念」も持っている矛盾を抱える楕円的な存在であることに気づくのではないかと思っています。
そうしたなかで、2つの中心をどうきれいな楕円に描いていくか。
真円よりも、楕円こそが美しいのではないか。

今回は、最初に「楕円的生き方」について、花田清輝に言及しながら友末さん流に紹介していただき、つづいて、友末さんご自身の生き方を語ってもらいます。
友末さんは、ご自身が主宰するソーシャルラボを拠点に様々な形で社会とかかわっていますので具体的なお話がいろいろと聞けると思います。また、それを支える合気道の重心仮説にも言及してくれるでしょう。

友末さんは、さまざまな意味で転形期といえる今は、「完全な楕円を描く絶好の機会」ではないかと考えているようです。「完全」が嫌いな私には違和感がありますが、友末さんの考える「完全さ」もきっと示唆に富む話につながるでしょう。

参加者のみなさんと話し合うことを友末さんは楽しみにしていますので。ぜひそれぞれの生き方をぶつけ合うようなサロンになればうれしいです。
もちろん静かに他者の生き方を聴きながら、沈思黙考する参加者がいても大歓迎です。

新型コロナには十分ご注意の上、ご参加ください。

〇日時:2021年6月13日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ   
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「楕円的生き方 花田清輝『楕円幻想』から考える」
〇話題提供者:友末幸太郎さん(友末ソーシャルラボ代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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