■節子への挽歌5036:旧知の人から褒められました
節子
山形市の知人から電話がありました。
もう10年以上、会っていないのですが、気がつかなかったのですが、2回も電話があったのでちょっと気になって折り返しました。
山形市にはもう20年ほど前ですが、毎月数回通っていました。
最初は市役所の仕事でしたが、そこで知り合った市民と一緒に、ちょっと大きな全国版のイベントを2つほど取り組みました。電話があったのは、そのイベントの一つを一緒にやった人からです。
一緒に仕事をした市役所の職員の人たちのほとんどはもう引退していますが、当時若かった人の一人は今副市長で頑張っていますし、さらに若かった一人も今回のコロナ対策に取り組んでいるそうです。
今日の電話は、そうした私と一緒に仕事をした若い職員が、いまがんばっているという報告でした。
どうして報告してきたのかわかりませんが、電話では私と接点を持ったことの意味が分かってきたというような話でした。
いささか褒められすぎて気が引けましたが、いろんな意味で私の考えが少しは役に立っているようでうれしいことです。
もっとも私の場合、褒められても、だからどうなのと思ってしまうのです。
褒めてくれるのなら、実際の行動で現実を変えてほしいほうがうれしいのです。
もちろん今回電話をくれた人は実践もしていますし、市役所で仕事をしている人も行動で応えてくれているのでしょうが、しかし時代状況が20年もすれば大きく変わってしまっています。
ですから彼らがやっていることは、20年前の私にはとてもうれしいことですが、いまとなってはたぶん私には満足できないでしょう。
今日の電話も1時間近い長電話になったのですが、話を具体的に聞いていると、やはりちょっと違和感のある話が出てきて、もうそういう時代は終わったのだけれどなあと思ってしまうことが少なくありませんでした。
そのためだんだんうれしくなくなってきてしまい、やはり理解されていないなという気がしてきました。あげくの果てに、その人をもしかしたら傷つけるような発言までしてしまったかもしれません。困ったものです。
電話が終わった後は、うれしいというよりも何となく自己嫌悪感に陥りました。。
なんと狭量なことか。
それでもいろんなところに、私のことを少し覚えていてくれる人がいることには感謝しなければいけません。
長電話が終わった後、彼は何で電話してきたのかなあとユカに言ったら、話したかったのでしょ、と言われました。
たしかにそうです。ただ私と話したかったのでしょう。
褒められなければもう少し素直に話せたのに、褒められるとどうもうまく話せない。
困ったものです。
誰か山形に呼んでくれるといいのですが、
最近は遠距離交通費すら工面できなくなってしまいました。
困ったものです。
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