■節子への挽歌5058:再会の先延ばし?
節子
こんなメールが届きました。
身勝手ながら私達の為にも意気軒昂で長生きしていただき、奥様には申し訳ありませんが、ちょっと再会を待っていただければと考えております。
節子がなくなって数年後に、たぶん認知症予防ゲームの普及活動に関連して、知り合った方からのメールです。
彼女の伴侶は滋賀県に単身赴任されていて、彼女も時々滋賀に出かけているそうです。
湯島では、「茶色の朝サロン」というのをやっていますが、そのサロンを初めたきっかけは彼女が「茶色の朝」の本を私に読むようにと薦めてくれたからです。
彼女は新型コロナの関係もあって、この1年ほど湯島には来ていませんが、そのためあることができないままになっていることを気にしているのですが、私が「まあ私ももうしばらく現世滞在の予定ですので急ぐことはない」と返信したことへの返信が上記のメールです。
彼女はこの挽歌を読んだことがあるようです。
おそらくもう読んでいないと思いますが(何しろ挽歌の内容が私の日記のような退屈なものになってしまったので、読者は急減しています)、こういってもらえるのはうれしいことです。
しかし最近私の気分はちょっと変わってきています。
それはどうも彼岸と此岸はつながっていて、いまもなお私は節子と一緒にいるのではないかという気配を感ずるようになってきているのです。
確かに私には節子は見えない。しかし節子は私を見ているのではないか。そんな気がしてきています。
同時に、彼岸に行ったからといって、会えるわけでもないだろうという思いも出てきています。いいかえれば、会うとか会わないとかは、彼岸ではあまり意味がないことのような気がします。
たまたま現世では、別々の個体として存在しただけで、本来は一つだったのかもしれません。
そう考えていて、節子に会ったころ書いたショートショートの「とばっちり」を思い出しました。
そこに、今朝感じたことをすでに書いていたような気がするのです。
どこかにあるはずです。
今度探し出して読み直してみようと思います。
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