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2021/06/22

■意思を表明することの勇気

サッカー・ワールドカップ予選の日本戦で、ミャンマー代表のピエ・リヤン・アウン選手が3本の指を揚げた行為に感心しましたが、その後の経緯を知るにつれて、それがどれほどの勇気ある行為だったのかがわかり、感心は感謝の念に変わりました。
「感謝」というのもおかしな話ですが、不思議に感謝の念が強まってきたのです。
こういう勇気ある行為を行う人のおかげで、私のような軟弱な人間も何とか自由を享受できているのです。

以前、湯島のサロンでミャンマーや香港の話が出た時に、日本の現在はそことどう違うのだろうかと問いかけたことがあります。
議論は深まりませんでしたが、日本の方がよりよい社会だと思っている人がほとんどのようでした。
しかしそうでしょうか。
私には、状況はそう違わないようにも思います。
でも日本では実際の運動は起こっていません。

報道の仕方一つで、事実の見え方は真反対にさえなります。
いまや世界中の動きが見えるようになったと思いがちですが、どのメディアを通して世界を見るかで、世界は違って見えてくる。
さらに他国の事件の情報が多くなるにつれて、「灯台下暗し」的に日本の事件は見えにくくなってしまってきている。そんな気がしてなりません。

私は、マスコミ報道は参考にはしますが、それがすべてだとは思わないようにしています。報道情報を前提にしてしまうと事実が見えなくなるばかりではなく、考えることさえも忘れてしまい、それを事実と考えてしまいがちです。
最近のワクチン議論を見ているとまさにそれを感じます。
ワクチン待望論者もワクチン拒否論者も、みんなある情報をベースに、それを補強するための情報ばかり集めて、もう自分では考えなくなってしまっている。一部の情報に依存しすぎるためにほかの情報が見えなくなってしまっている。これでは何のための情報かわからない。
理解を深めるのではなく、対立を深めるための情報になってしまいかねない。
さびしい話です。

マスコミ報道や専門家の意見は、あくまでも判断材料の一つです。判断を他者に丸投げする生き方は楽ですが、そういう生き方からは他者を非難する発言は出てきますが、自らの人生を賭した行動は出てこない。

この数日のオリンピック関連の政府の動きを見れば、香港やミャンマーの人たちだったらどうするでしょうか。
そう考えると、香港やミャンマーが日本より本当にひどい状況なのか、私にはよくわからなくなります。
少なくともいまの日本人よりも国民たちは賢明で知的だとは思いますが。

 

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