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2021/06/04

■湯島サロン「主権国家における憲法とは何か」報告

今年は憲法サロンを2回やることになりました。前回の憲法サロンで「憲法」の捉え方がみんなバラバラなことに気づき、それを整理するために、「主権国家における憲法とは何か」について、私の考えを15分ほど話させてもらうことにしたのです。

「憲法」はドイツ語のVerfassungや英語のconstitutionの訳語です。日本語では「法」という語がついているので、法律と同じものと捉えられがちですが、本来は「国の構造に関わる基本的な原理原則」「国家のあり方の基本設計図」を指し、いわゆる法律とは次元が違うものと言ってもいいでしょう。国家をどう統治するかというよりも、どういう国家を目指すのかにつながっているように思います。
したがって、国家のあり方によって、憲法の意味もまた変わってくるはずです。

今回は、国家を「私物国家」「宗教国家」「国民国家」「国民主権国家」の4つに分けて、それぞれにおける私の憲法の捉え方を紹介し、国民主権国家における憲法は、私たち主権者の生活に深くつながっていることを話させてもらいました。
詳しくは当日配布したレジメを添付します。関心のある方はご覧ください。

ダウンロード - e59bbde6b091e4b8bbe6a8a9e59bbde5aeb6e381abe3818ae38191e3828be686b2e6b395.docx

そこから参加者各人の「憲法観」を話してもらうはずだったのですが、私の憲法観に関して疑問や批判が続出し、なかなか先に進めませんでした。案内文で、アメリカとヨーロッパでの憲法思想の異同について書きましたが、それへの疑問も出されました。
私のレジメはいかにも粗雑なのでさまざま突っ込まれて、結局、私の生活信条や価値観が無様にも引き出され、そこからまた「鬼滅の刃」の話に行き、若い世代からのメッセージをどう受け止めるかという話にまで発展しました。

しかし、憲法を語ることは国家の形を考えることであり、「いわゆる政治」とは違うという考えは少しシェアできたような気も(少し)します。
アメリカは「合衆国」なのか「合州国」という話も出ましたし、果たして実質的に国民主権国家などあるのか、そもそも国民主権が実質的に可能な人口規模はどのくらいなのか、という話もでました。国民主権であれば、国家の作り方が変わり、国家という概念が全く違ったものになるのではないか。その国家の基本設計図が憲法であれば、憲法はまさに私たち一人ひとりの生き方に深くつながっています。憲法がもし私たち一人ひとりの生活に無縁のような存在であれば、それは「国家のかたち」の問題なのです。

私は、日本はまだ「国民国家」段階で、「国民主権国家」ではないと思っていますが、こうした独善的な言葉遣いがよくないのでしょう。みんなから「叩かれても」仕方ありません。しかし、言葉に呪縛されずに、自由に発想したいという思いから、あえて今回は皆さんの発言を否定ばかりしていたので、疲れてしまい、報告を書けるほどの記憶が残っていないのです。困ったものです。
だれか代わりに報告してくれるとうれしいのですが。

「憲法」と自分の生活とは距離がありすぎるという発言もあり、まだまだ「憲法」は身近にはならないようです。それでも、国家をテーマに話し合うことも意味があるということから、国家を考えるサロンの提案をしましたが、話題提供者になると手をあげる人がいなかったため、また私がやることになりました。生活につながるような国家をテーマにしたサロンを改めて開催させてもらおうと思いますが、どなたか代わりにやってもいいという人がいたら、ぜひお願いしたいです。

誰も手をあげる人がいなかったら、7月にもう一度、懲りずにサロンをさせてもらいます。
レジメへの批判や疑問はどうぞ気楽にお寄せください。

Kenpou20212

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