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2021/06/21

■5056:意識は自分のプロデューサー

節子

湯島のメダカも自宅のメダカも、最近はみんな元気です。私の生命力とつながっているとは言いませんが、どこかにつながりがあるような気もします。
生命は実に不思議な存在です。決して個体としての身体に閉じこもっているわけではないようです。

昨日のサロンは、トランスヒューマニズム。今回は「意識」がテーマでした。
その前の日の万葉集サロンでも「意識」がテーマになりましたが、これまた不思議なのですが、意図したわけではないのに、サロンの話題がつながることがあるのです。

むかし、湯島で何回か「心とは何か」という集まりをやったことがあります。
もう節子はいなくなった後だったような気もしますが、闘病中だったかもしれません。
その頃の記憶はどうも時間の流れに沿っていなくて、前後関係が全くないのです。
私はそこで、心のマルチネットワーク的な話をしていた記憶があります。
主催は三浦吾五郎さんで、私が「心」のセッションを担当したのです。
ユングの集団無意識や、それこそ昨日も話題になったアカシックレコードや虚空蔵をベースに、その時々の状況の中で人は違った自分として現れるというような話です。
それをプロデュースするのが「意識」。つまり私のプロデューサーが意識というような話でした。
では意識とは自分なのか。昨日もそれは「自我」かという質問がありましたが、自我と意識とは全く別のものでしょう。

こういうことは、節子との別れを経験してから実際に体感したことを踏まえて最近では仮説というよりももっと身近な現実になってきました。
しかしなかなか言葉にできない。

一度、湯島で「意識と自分」というテーマでサロンをやろうかと思います。
しかし「知識の多い人」が多いので、話し合いは難しいかもしれません。
知識は視野を広げてもくれますが、多くの場合、世界を狭める効果のほうが大きいことをこの頃痛感します。

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