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2021年7月

2021/07/31

■節子への挽歌5099:極度の厭世観

節子

新型コロナ感染病の陽性者の発表数字が急増していています。
今日は4000人を超えています。
この数字は私にはまやかしにしか感じられないのですが、世間はこの数字で一喜一憂です。

オリンピック騒ぎとコロナ騒ぎで、もう社会は乱れに乱れている。
私には、いまはまさに「ソドムとゴモラ」の時代で、人類、とりわけ日本人は葬り去られるべき時期に来ているようにさえ思います。
日本人であることさえ、最近は忌まわしく思えてしまうほどです。
一時期、話題になった「陰謀論」をだんだん信じたくもなってきます。

ワクチンに救いを求める風潮は、私にはとてもみじめにさえ感じます。
そしてオリンピック。
いまの社会に批判的な人さえもが、オリンピックでの日本選手の活躍に拍手を送るのを見ていると、がっかりします。
政権批判や新自由守護経済批判をしていても、結局はみんなそこに寄生しているみじめな存在のような気がしてくるのです。

私自身は、今回のオリンピックで、ますますスポーツ選手が嫌いになりました。
古代ローマ人の剣闘士でももっと「誇り」があっただろうにと思います。
スポーツをやったら金持ちになれるなどと公然と言い放つメダリストが出てきたのにはさすがに驚きましたが。
まあ私とは全く別の世界の人たちの騒ぎには惑わされないようにしたいものです。
もちろん新型コロナやワクチン騒ぎにもです。

私には実にさびしい時代になってきました。
湯島のサロンは一体何のためにやってきたのか、虚しさがあります。

地元の活動もいろいろとあります。
みんなとの波長もずれてきているようです。
一見うまくいっているようですが、裏切られることが多く、もう付き合いたくない気分が高まっています。
大人げないとは思いつつも、ひとつのプロジェクトは降りることにしました。

節子がいた頃に思い描いていたように、人生の第4期は、やはり現世を去って隠居すべきでした。節子がいなくなったために、それに踏み切れなかった自分の弱さがうらめしい。
そんな気が最近しています。

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2021/07/30

■節子への挽歌5098:「なんでもプレゼント券」が使われました

節子

孫のにこが突然やってきて、昨年のくりマスにプレゼントした「なんでもプレゼント券」を使ってほしいものがあるというのです。
なにやら難しい名前なので、最初は理解できませんでしたが、どうもキャラクター人形に関連した道具セットのようです。
私は、にこには「お姫様グッズ」は買わないといっていましたが、うっかり「なんでもプレゼント券」にはその条件を付けるのを忘れていたのです。仕方なく買うことにしましたが、孫の説明に従ってネット検索してみました。
苦労を重ねてようやく見つけました。
おもちゃ屋さんでも売っているようなので、それでもよかったのですが、今日は出かける予定がなかったので、ネットで買ってしまいました。
私の不注意で、私の方針(お姫様グッズは買わない)は崩れてしまいました。

ところがそのあと、孫は娘たちと出かけて、その帰りにおもちゃ屋に寄ったのです。
そこに、孫が欲しかったおもちゃがあったというのです。
しかもいろいろとあって、孫が言うには、バッグはなくてもいいセットなのだが、バッグも入ったのを買ったのか、と娘から問われました。
またこんなに高いものを買ってやったのかともいわれました。
母親の了解を得たものとばかり思っていたのですが、どうも孫の一存だったようです。
娘からはネットをキャンセルして、これを買ったらとも言われましたが、キャンセルによって発生する無駄なコストは避けたいので、まあそのままにしました。
最近は、昔と違って、おもちゃ一つ買うのも大変です。

ところで、孫が、この「なんでもプレゼント券」はいつでも使えるのかと訊くのです。
一回きりだと答えましたが、これもきちんと書いておかなかった。
何とか交渉して、取り戻しました。

今回も孫からいろいろと教えてもらいました。

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■コロナ感染社会に生きる私のルール

新型コロナの陽性者がまた急増していると発表されています。
この数字ほど、まやかしの数字はないと思っていますので、私には全く意味のない数字なのですが、そうはいっても世間はこの数字で動いています。
それに、新型コロナ感染症を発症しないように注意しなければいけないという認識は、私はしっかりと持っています。私から見れば、むしろ周りの人があまりそれを考えずに、ただマスクをしているだけだったのが心配でした。いまはワクチンに対するあまりの期待の大きさに不安を持っています。もっと自分で考えてほしい気がします。

湯島でサロンを続けている私に対する批判もありますので、私のルールを書くことにしました。
まず県を超えての移動に関しては、私は「生活圏」を超えての移動はしないと読み替えています。ですから遠隔地への旅行はしません。たとえ県内でも房総半島には出かけません。しかし、私にとっての湯島は県外ですが生活圏内なので、移動制約の対象にはしていません。
行政区単位で生きるような生き方は私にはできません。

湯島のサロンは、私にとっては「不特定多数の集まり」ではないので、安心しています。
時々、新しい参加者がありますので、リスクはないとは言えませんが、全く知らない人がサロンに来るのは、年に1~2人です。ちょっと緊張しますが、そのくらいのリスクは生きている以上避けがたいリスクだと考えています。ちなみに、友人の友人は私は友人です。

湯島では基本的に会食はしません。
時に友人がお弁当を持ってきてくれることがありますが、それは毎日の食事の延長ととらえています。全く知らない人が、ウイルス入りのお弁当を持ってきてくださるほど、私の交友範囲も活動範囲も広くありません。
サロンで駄菓子を出しているのが気になり、一度止めたのですが、参加者には必要なようで、私の意図とは無関係に、参加者がセットしてしまうので、それに抗うのはやめました。私も時々食べてしまいますし。
珈琲やお茶も各人用の容器入り珈琲にしようと思ったこともありますが、プラスチックゴミ問題のほうが大切だと判断し一度であきらめました。

湯島のサロンは、私にとっては「日常生活」なので、注意しながらつづけているというわけです。スタイルも今やもう変えられなくなっている。
いずれにしろ、湯島のサロンでは、私は参加者を信ずることにしました。
そのため(信頼し合うコミュニティ育て)にこそ、長年サロンをやってきたのですから。
入室後、手洗いやうがいをする人は必ずしも多くないのですが、それもあまり気にしないことにしました。最近は注意もしなくなりました。もちろん消毒液や手洗い剤は用意しています。

換気には留意していますが、私は基本的にサロンではマスクをしていません。
幸い私は高齢のために他者への感染力は弱いようですので、万一発症しても、静かに自宅待機で対応し、最悪の場合は消滅しようと思っています。それもまた自然でいい。

ちなみに、サロンには行きますが、不特定多数が交流する場には、原則、行かないようにしています。いま行われている東京国立博物館での法隆寺展も行きたいのですが、いまは自重しています。予約を取るのも面倒ということも理由の一つですが。
お酒の伴う会食は原則、やめています。この1年半で4~5回ほどお断りできませんでしたが、それなりの理由があり、リスクとのバランスでお受けしました。実際にはいずれも断ってもよかったことが会食後にわかりましたが、まあ人は間違いを犯すものです。

まあそんなわけで、かなり注意しながら、湯島のサロンを続けているのです。
飲食店の規制が問題になっていますが、私はそれぞれが「十分に注意して対応する」という文化をもっと大切にしたいと思っています。
そういう気風がどんどん失われきている昨今の風潮にこそ、不安を感じます。

明日も明後日も湯島でサロンです。
よかったら遊びに来てください。
リスクを背負い、それなりの緊張感をもって。
それがなければ、この現状は超えられないような気がします。

 

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■第10回益田サロン「遺伝子は〈夢〉を見るか」のご案内

「〈夢想と現実〉から生物と環境を考える」をテーマにした前回の益田さんのサロンは、話し合いが絡みあいすぎて、報告にも書きましたが、議論が十分に展開できなかったきらいがあります。
そこで、益田さんにお願いして、もう一度、〈夢想と現実〉から「生物と環境」「自己と非自己」を考えてみることにさせてもらいました。
しかし前回の続きにしてしまうと、またつまずきかねないので、思い切って切り口を飛ばしてみました。それで、あえて、タイトルを「遺伝子は〈夢〉を見るか」にさせてもらいました。このタイトルには、「アンドロイド(AI)は〈夢〉を見るか」という問いも含意させています。

前回のサロンの後、益田さんの頭に思いついたことがあるそうです。
「変異は遺伝子が抱いた夢あるいは夢想、実現するかしないかは環境の反応による」という命題です。
そこで、その話を最初に解説してもらい、そこから改めて、生物と環境の関係を考えていき、できれば「意識と夢」「意識と環境」についても話を広げられればと思います。

前回、私がいささか挑発に乗せられて(?)話し過ぎたために、十分発言できなかった参加者もいたと思いますので、今回は私は思い切り自重しますので、話しやすいサロンになると思います。
もちろん、前回参加していない人も気楽に話し合いに参加できるように、前回の議論にはできるだけ制約されずに、〈夢想と現実〉の切り口から、自由に話を展開させたいと思いますので、前回の話し合いなど気にせずに、話し合っていただければうれしいです。
きっとまた新しい気づきが得られると思います。

まだ暑さが残っていると思いますが、よろしくお願いいたします。

〇日時:2021年8月29日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「遺伝子は〈夢〉を見るか」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2021/07/29

■節子への挽歌5097:リュウゼツラン(竜舌蘭)の花

節子

我孫子では、いま、リュウゼツラン(竜舌蘭)の花が話題になっています。
リュウゼツランは5060年に一度花をつけ、花が咲き終わると枯れてしまうので有名です。昔から時々、話題になってきていますが、我孫子駅の近くの道沿いにあるリュウゼツランが先月末に花を咲かせ始め、話題になっているのです。

リュウゼツランが咲いているのはわが家から近いところですが、普段は通る地域ではありませんので、私は見たことはありませんでした。
でもまあ、せっかくなので、にこにも見せておこうかと思い、娘も誘って見に行きました。
数名の人が写真を撮っていました。予想以上に背が高いのには驚きました。
ところが、にこが言うには、この道はいつも幼稚園に行く時のバスで通っているというのです。つまりにこはすでに見ていたのです。ただあまり興味を感じなかっただけなのです。拍子抜けしてしまいました。

にこは、その後、ジュンと一緒に手賀沼公園に蝉の羽化を見に行きました。
たくさんのセミの幼虫が土から出てきて、木に登ろうとしていたそうです。
帰宅後、その様子を演じてくれました。
触ってはいけないので、見ているだけですが、蝉の羽化は私も最近見ていないので、そちらに付き合えばよかったです。

自然は実に美しい。
人間も、もう少し自然に学びたいものです。

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■第16回万葉集サロンのご案内

16回の万葉集サロンは、予定通り、8月の第3土曜日(万葉集サロンは原則として偶数月の第3土曜日)の21日に開催します。

テーマはいま升田さんが熟考中ですが、前回取り上げた大伴田主と石川郞女の歌から始まり、その2人のやりとりから、「意識」の先にあるものを探っていきたいということを考えているようです。
石川郞女は、私にとっては高市黒人と同じくらい不思議な存在なのですが、どんな話になっていくのか、興味があります。

また詳しい内容が決まったら、ご案内しますが、参加される方は日程をご予定いただければと思います。
「万葉集」を読んだこともない方も歓迎です。

〇日時:2021年8月21日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇テーマ:「大伴田主と石川郞女の歌から「意識」の先にあるものを探る」(仮)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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■節子への挽歌5096:暑さのせいでいささか疲れています

節子

また生活のリズムが少し崩れています。
最近は予見的な用事はほとんどなく、自由に使える時間でほぼ埋まっているのですが、それが逆に生活のリズムができない理由かもしれんせん。

生活リズムが崩れていると「やらなければいけないこと」までルーズになってくる。
この1か月、実会の活動をほとんどしていないのですが、会長としてやるべきことを忘れているのではないかと心配です。
そればかりではなく、生活面でもやるべきことがかなり抜けているはずです。
困ったものです。

昨日は地元で取り組んでいる将門プロジェクトのあるイベントの実行委員会がありました。
私はコアメンバーではないのですが、事の成り行き上、なんとなく関わっているのですが、いささか口を出しすぎて、我ながら嫌な気分になっています。
最近は湯島のサロンもあまり気が進まない。
やればやるで面白いのですが、なんでサロンなどやっているのだろうという考えが時々ふっと浮かんできます。
面白いこともありますが、煩わしいこともある。

「反脆弱性」という上下2巻の本を読みました。
もうだいぶ前に出た本ですが、ある本に引用されていた文章から興味をもって、図書館から借りてきて読んだのです。
著者はレバノン生まれのナシーム・ニコラス・タレブ。

以前、彼の「ブラック・スワン」という本を読んだことがありますが、どうも私とは論理思考が全く違うようで、なんとなく面白いのですが、書いてあることがさっぱり理解できないのです。ロゴスとして理解できないという意味です。
それでこの人の本は敬遠していたのです、「反脆弱性」は、やはりうまく理解できないもののお、とても共感できました。
私の生き方や考え方と同じだと思ったところがとても多いのです。
にもかかわらず、何が書いているかよくわからない。
そもそも「反脆弱性」そのものもきちんと理解できないのです。
読み終えたもののどうもすっきりしない。

これは著者と思考回路が違うせいか、私の脳が壊れだしているのか、どちらかでしょうが、もし後者だとしたら由々しき問題です。
でもまあ今でもきちんと読める本もありますから、前者だと思いたい。
もしそうなら、この歳になってはじめて、「ロゴス」では通じ合えないのに共感できる人が存在することが実感できたとも言えます。

しかし、タレブの人物評価は実に厳しい。
相手がノーベル賞受賞者でも、全く容赦ない。
こういう姿勢をやはり私も持ち続けたいものです。
最近ちょっと日和ってきている自分を戒めなければいけません。

夕方になって、今日は少し涼しくなりました。
明日からまた気分を変えて、キチンと生活しようと思います。
この数日、あまりにだらしなく怠惰に陥っていました。

 

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2021/07/28

■第9回益田サロン「〈夢想と現実〉から生物と環境を考える」報告

益田サロンに底流している大きなテーマは、「生物と環境の関係から自分を考える」ということです。「自分とは何か」「環境とは何か」をどう捉えるかで、自らの生き方も、世界の見え方も変わってくるでしょう。当然ながら「他者との付き合い方」も「自然との付き合い方」も変わってくる。新型コロナウイルスとの付き合い方も変わってくるかもしれません。

今回のテーマは「夢想と現実」。益田さんが言うには、「環境あっての生物」であるように、「現実あっての夢想」であり、夢想は現実によって実在のものになる。「夢想」というのは「夢」と同じものなのか。今回のサロンは、この点で少しつまずいてしまった気がします。
益田さんは、「夢と夢想はむしろ同じものと考えた方が良い。睡眠時に見る夢は現実からの反応が少ないが覚醒時の夢想は直ちに現実からの反応を受けるという点に違いがあるだけではないか」と言いますが、そこが私にはうまく理解できなかったために、いささか議論が錯綜してしまいました。

私は、「意識が生み出す夢想」と「意識から解放されて展開する夢(睡眠中の夢)」とは全く異質なものと捉えてしまったのです。そして、「睡眠中の夢の中での自分はだれなのか」という「自分と意識」にこだわってしまいました。
そのため、益田さんの問いかけにうまく応えられずに、議論もいささか絡まってしまったことに、この報告を書く段階になって気づきました。
参加者のみなさんと益田さんにお詫びいたします。

益田さんにその旨伝えると、それでは次のサロンで続きをやってみてもよいのではないかと言われました。たしかに、新しい視点がいくつか得られたような気がします。ここが予定調和的ではないサロンの面白さかもしれません。

しかし、今回のサロンの報告は、どうもうまく書けません。
そこで、横道にそれたかもしれない当日の話し合いのなかから、印象に残ったことを3つほど書いて報告に替えさせてもらおうと思います。

まず一つは「生物と環境の境界」の問題、特に環境の重層的な広がり構造。
どこまでを「環境」として捉えるかで、世界観は変わってきます。昨今の「環境問題」はそのことを教えてくれています。自分にとっての「直接的な環境」の外部にある環境も含めて考えないと自分と環境との関係を維持できない。
また、自分が知っていると思っている世界(環境)は意外と狭いのではないか、ということと同時に、「自分」もまた意識しているよりも広くて深いのではないか、ということにも気づかせてもらえました。これも「環境」の捉え方につながっていくはずです。

「夢想や夢が時空間という現実の制約から解放されているかどうか」も興味あるテーマでした。
益田さんは、現実からの反応によって夢(夢想)は影響されると捉えますが、夢(夢想)によって現実が変わることもあるのではないか。そしてそれは、言葉と実体の関係、さらには自分(我)と「意識」との関係にもつながっていく。
益田さんは、今回も「我を忘れる/我に返る」という話をしました。ここでの「我」は「現実」と言い換えても成り立ちそうです。我を忘れて夢を見ても、現実の働きで「我に返って」夢を現実につなげていくということかもしれません。
しかし、話を聞いていて、「我を抑える」ということもあることに気づきました。そこでは、2つの「我」がいる。「抑える我」と「抑えられる我」です。
ここで「意識と自分」という問題がでてくる。意識が自分なのか、無意識まで含めて自分なのか。さらに言えば、無意識は「環境」なのか。

我などいなくても(意識などなくても)できることがある。
私たちは、自分が思っている以上にたくさんのことを知っている。
ある社会では虹の色は3色と表現されていますが、その社会では実際には無限な色が認識されているとも言われますし、古代ギリシアの「イリアス」には「青」という言葉は出てこないが、彼らは現実には青を認識していたとも言われています。
こうした直接的な言葉ではっきりと表現することはできないが、実際にはわかっていることはたくさんあります。

言葉から自由になれば、もしかしたら「自分」の可能性はもっと広がるかもしれない。いや、いいかえれば現実から自由になれば、私たちはもっと羽ばたけるかもしれない。
サロンでは、江戸時代に空を飛ぼうとした浮田幸吉の話が出ましたが、「鳥は知識がなくても空を飛べるが、人間は知識によって空を飛ぶ」という話を思い出しました。
その話を、私は「知識は世界を見えるようにしてくれるが、逆に世界を見えなくもしてしまう」という話だと受け止めています。益田さんの言う、「言葉と実体」を考える一つの視点かもしれません。
現実から自由になれば、もしかしたら「自分」の可能性はもっと広がるかもしれない。

第3は、夢は変異に置き換えられないかという益田さんの問いかけ。
これは十分に消化できていませんが、すべてのものは変化し続けていて、その一部が「夢想」から「変異」として生き残っていくとしたら、生物と環境のダイナミクスを考えるヒントになるかもしれません。
しかし、科学技術は、前提となる仮説を固定して世界を構築するために、生きている現実を捉えられず、「夢想」の生じる隙は少ない。
ここから文系と理系の違いの話になりましたが、理系を自称する益田さんと文系と名指される私(私にはその自覚はありません)との捉え方は全く反対なことに気づきました。
「仮説」の上で「安定」して生きていくか、現実の中で「不安」にさらされながら生きていくか。この問題は、実に興味深いです。

長くなってしまいましたが、まだまだ書き足らない。
益田さんの提案を受けて、この続きをできるだけ早くまたサロンしたいと思っています。
生物と環境、自己と非自己、夢想と現実。
そこから何を読み取るか、

サロンに参加された方、もし全く違った視点でもいいのですが、フォローしていただけるとうれしいです。
今回はこれが私にとっての精一杯の報告ですので。

Masuda9

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2021/07/27

■節子への挽歌5095:新型コロナ狂騒曲はまだ続いています

節子

新潟の金田さんから、今年も黒崎の枝豆が届きました。
枝豆も例年より収穫が早いようです。
一時期は金田さんもかなり疲れていたようですが、今日はお元気でした。
ただコロナで新潟から出られないのでおかしくなりそうだといっていました。
そういう人は少なくないでしょう。

オリンピックもあって人では増えています。
東京都の陽性者も今日は200人を大きく超えました。
この調子だと指数関数的に上昇する可能性もありますが、こういう数字はかなり人為的ですから、事実とは乖離しているでしょう。
しかし心理的な影響は大きいでしょう。

ワクチン接種はいま少し停滞しているようですが、それでも接種を受けた年齢層の陽性者は激減しています。
しかし問題は、ワクチン接種を受けたからもうマスクもしないでいいだろうと勘違いしている人がいることです。
ワクチン接種した人こそ、しばらくはマスクをしっかりし、外出を控えるべきでしょう。
ワクチンを接種するということは、軽度な感染ということでしょうから。

そうでなくとも、ワクチン接種が終わったからと旅行する人もいる。
気を許してしまうわけです。
これがどういうことを引き起こすかはいささかの不安はあります。

しかし私自身はそもそも新型コロナ感染症を特別なものと思っていませんし、運が悪ければそれで死ぬこともあると思っていますが、その確率はインフルエンザや交通事故とそう違わないと思っています。
ですから陽性者が増えることには何の不安もありませんが、問題は他の病気に対する医療体制が手薄になっていきかねないことです。
それこそが問題なはずです。
問題の立て方がどうも違っている。

コロナ騒ぎのために、おかしな最期を迎えることだけは避けたいものです。
会うべき人に会っておかねばいけません。
そんな気がますますしてきています。

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2021/07/26

■『虚構の「核のごみ」最終処分』

湯島サロンの仲間の本間照光さんが、週刊エコノミスト Onlineで今日から『虚構の「核のごみ」最終処分』と題した連載を始めました。
今日から4回連載で、第1回目は『名ばかりの「対話の場」 合意“無視”で最終処分場が決まる「原発の穴」』。

この連載は、公開されていますので、どなたでも自由に閲覧できます。
https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210726/se1/00m/020/005000d

本間さんからぜひ多くのみなさんに読んでいただきたいということで、ご案内させてもらいます。
感想などあれば、本間さんにメールしていただけるとうれしいです。
私にいただいたら、私から本間さんにお届けします。

今日は広島の「黒い雨裁判」の上告が断念されましたが、原爆や原発に関しては、まだまだ不条理なことがいろいろと続いています。
ぜひ私も関心を持ち続けていきたいと思っています。

 

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■黒い雨はどこまで降ったか

昨日、署名のご案内をした「黒い雨訴訟」に関して、長年、この問題に取り組んでいる気象専門家の増田善信さんのお話を分かりやすくまとめた動画がユーチューブで公開されています。
この制作にも取り組んでいる権上さんがこう書いてきてくれました。

直爆被害者に比べ、降った範囲の広い黑い雨被害者は、被爆者のマイノリティーと呼ばれるほど、差別を受けてきています。圧倒的に数が多いためです。
そして、76年たった現在、生存者は減っていますが、福島事故への影響を忖度し国はいまだ認めたくない思いです。この判決が、初めて内部被ばくを認めたものだからです。

過去は常に現在と未来につながっている。
改めてそう思いました。

この数本の動画は、増田さんの講演を聴いた数人の仲間が自分たちで制作したようです。
動画の説明に、そのチームメンバーが出てきますが、しばらく会っていない友人が2人、名を連ねていました。かつてやっていた科学技術倫理関係のNPOのメンバーです。そのNPOは所期の目的を達成して解散したのですが、おふたりはこういう形で実践活動を続けていたのです。

ちなみに、昨年くらいから、厚生労働省の姿勢も変化してきていて、裁判とは別に厚労省の黑い雨雨域検討会というものがつくられ、増田さんご自身も参加されているそうです。
益田さんはまもなく97歳。
お時間が許すときにぜひご覧ください。
一度、湯島のサロンでも取り上げられればと思います。

日本語地球被曝 黒い雨はどこまで降ったか
https://www.youtube.com/watch?v=PG9QOZPSIk4

本編 〇黒い雨はどこまで降ったか~気象専門家増田善信の約束
https://www.youtube.com/watch?v=FLVW5Lv1q8s

いずれも映画版もできています。




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■湯島サロン「世界に広がる〝陰謀論”から見えてくること」のご案内

半年ぶりの「陰謀論」サロンです。
最近は「陰謀論」があまりに広がった上に、本当の「陰謀」までもが露呈されだしてきてしまったために、話がますますややこしくなってきました。

一般的には、「陰謀論」は「陰謀」を隠すための「陰謀」であり、同時に「陰謀」に気づかせるための「陰謀」と捉えられますが、いまでは「陰謀」そのものが話題になりがちですし、「陰謀論」そのものが現実を構成し始めているようにも思います。
なかには「トンデモ陰謀論」もありますが、一方では私たちにはなかなか気づかない「AIが引き起こす“ブラックスワン”」のように、人間の手を離れた「陰謀」も真面目に議論されだしてもいます。

「陰謀論」を頭から拒否するのではなく、そこに含意されたさまざまなメッセージの絡み合いを読み解きながら、世界を捉える「仮説」を構築することで、世界が見えやすくなるかもしれません。

そこで今回も、陰謀論に対して微妙に違った考えを持ちながらも、継続的に情報収集と分析評価している中嶋さんと北川さんに、最近、それぞれが関心をもって調べてきたこと、気づいてきたことなどを話してもらい、私たちの世界を少し広げてもらおうと思います。

話題は、たとえば、「アメリカ大統領不正選挙後?」「コロナは、人工的に作られた?」「仕掛けられたパンデミック?」「DSによる人口削減としてのコロナとワクチン?」「ワクチンパスポートは監視社会の入り口?」「そもそも日本史全体が陰謀?」など、さまざまな切り口になると思いますが、それを「信じる信じない」ではなく、そこから何が見えるか、私たちは何に気をつけなければならないか、を話し合えればと思います。

おふたりによれば、すでに状況は新しいステージへと変わろうとしてきているようです。
どう変わろうとしているのか、そして私たちの生活にはどういう影響があるのか、さらには私たちとしてできることは何のか。
そんなことをみんなで話し合えたらと思っています。

陰謀論には拒否感があるという方も歓迎ですし、興味本位での参加も歓迎です。
暑気を吹き飛ばすほどに、話も壮大に広げながら、「いまここにある危機」に気づくよいな、そんなサロンになればと思っています。

〇日時:2021年8月22日(日曜日)午後2時~4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「世界に広がる〝陰謀論”から見えてくること」
〇話題提供者:中嶋一統さん+北川泰三さん
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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2021/07/25

■節子への挽歌5094:不快な気分に陥っています

節子

昨日のサロンはいささか疲れました。
話していて気付いたのですが、やはり私の呼びかけは相変わらず伝わっていないどころか、それを真反対に受け取っている人も多いようです。

さらに疲れたのは、多くの人は近代の狭い世界に呪縛されているということです。
科学技術が作り上げた世界観の中で、従順に思考するようになっていて、それへの疑問さえ受け付けようとしません。
何のための「知識」か。
いささかつかれました。

疲れたのはそれだけではありません。
最近、ネットを通じての不快なメッセージがまた増えています。
しかもフェイス部句のようなオープンな場でさえ、しつこく「詰問」してくる知人がいます。
取ってつけたような「絵文字」も嫌いですが、しつこい「詰問」もいやなものです。
そういう人に限って、自らの考えは一言も書きません。
話したいなら湯島に来てほしいとメールしましたが、相変わらず続いています。

今週読んだ「監視資本主義」に書かれていたことを、身をもって体験しているような気がします。
何回も書いていますが、もう私の周りからの「人」はだんだんいなくなってきているのかもしれません。
まともな人たちは「巣ごもり」し始めているのかもしれません。
そろそろサロンも見直した方がいいようです。
経済的にも限界ですし。

もっともうれしいこともないわけではありません。
昨日のサロンに、思いもかけない人がやってきました。
数年ぶりでしょう。
いつもサロンの報告を読んでいるそうです。
いまは農業にも取り組んでいるそうです。
こういう若者(もう若者とは言えませんが)が独りでもいる以上は、そう簡単にサロンはやめられない気がします。

実に悩ましい。
暑い夏です。

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■一昨日の益田サロンの報告がなかなか書けません

一昨日のサロンで、遺伝子の変異が話題になりました。

そこから遺伝子は4つの塩基で構成されているという話になり、それは「実体」なのか「仮説」なのかで議論になってしまいました。もっとも「仮説」と言ったのは私だけだったのですが。
議論の勢いから、私は4つではなく352かもしれないと口走ってしまいました。
そうしたら中学生でも4つだと知っているという反論を受けました。
たしかにそうでしょう。

この議論を聞いていた参加者は、私の「頑固さ」にあきれたようで、もう少し柔軟になれば議論はもっと先に進んだのにと注意されました。
私は全く反対に思っていたのですが。

遺伝子の構造が解明されたために、世界は大きく広がりました。
しかし、それによって世界が狭められたとも言えるかもしれません。
このサロン(益田さんのサロン)は、私には毎回とても面白いのですが、その面白さや内容を言葉で伝えることが難しい。今回は特に難しいと思っていました。

今日、明け方に目が覚めた時に、その伝え方がわかったような気がして、5時前に起きて、報告を書き出したのですが、そのとたんに「閃ていたこと」がなんだか退屈に思えてきてしまいました。たぶん私の「知識」が邪魔しているのでしょう。
鳥は知識がなくても空を飛べるが、人間は知識によって空を飛ぶ。
これも一昨日のサロンで話題になったことです。
知識は世界を見えるようにしてくれますが、逆に世界を見えなくもしてしまう。
報告はまた書けそうもなくなってしまいました。

早く起きたのにやることがなくなってしまいました。
蝉の声がうるさいほどです。
散歩に行こうかと思いましが、あまり朝早い散歩はリスクもあるので、まあボーっと過ごすことにしました。

また寝てしまうかもしれません。
平和な朝です。

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2021/07/24

■節子への挽歌5093:15年ぶりの早朝の手賀沼公園

節子

5時に起きて、手賀沼公園に行ってきました。
目的は手賀沼のエビを捕まえるためです。
昨日、にこから借りていた網を持って出かけました。

まだ暑くもなく、とてもさわやかでした。
手賀沼に着いた途端に思い出したのが、節子と毎朝通っていたころのことです。
闘病中の節子の運動のために、毎朝2人で手賀沼公園に通い、そこからしばらく湖畔を見ていたのです。
あの頃の自分を思い出すと、いったい何をしていたのだろうかと後悔ばかりです。
治るという確信を持ちすぎていたために、大事な残された時間をきちんと使わなかった気がするのです。

あの頃の様子と手賀沼湖畔はほとんど変わっていません。
変わったのは節子がいないことだけ。
節子がいなくなってから、一時期、手賀沼公園には行けなくなりました。
いまはもう行けるのですが、早朝の手賀沼は久しぶりです。
一挙にいろいろなことがあふれ出てきました。

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2021/07/23

■節子への挽歌5092:オリンピックがはじまりましたが

節子

今朝も早朝に水をもって畑に行き、スイカの苗に水をやってきました。
元気ですが、発育は遅いです。
いつもより早かったせいか、走ったり散歩したりしている人に出合いましたが、なんとなく挨拶がしにくい雰囲気があります。
私はマスクもしていませんでしたし。

しかし7時近くになったら湿度が高まり汗が出てきました。
何しろ朝食を食べる部屋は東側に窓があり、そこからもろに陽光が入ってくるのです。
私はカーテンは嫌いなので、仕方ありません。
朝からエアコンもいれたくないので、いまはまだエアコンなしの蒸し風呂状態です。

まあ、この部屋から抜け出したらいいだけの話ですが、最近、この場所がとても居心地がよくて、ほぼ在宅時間のすべてをここで過ごしています。
困ったものですが。
暑い時こそ、身体を動かさないといけないとはわかっているのですが。

オリンピックがはじまりました。
テレビもオリンピック関連ばかりなので観る番組もありません。
今日も早寝することにします。

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2021/07/22

■節子への挽歌5091:思い出のあるメロンとただのメロン

節子

節子の生家から恒例の高月メロンが届きました。
節子がいなくなってからは、次第に行く機会もなくなってきて、この数年、滋賀の高月には行っていません。
最近は、この高月メロンが節子の生家との数少ないつながりになってしまいました。
ユカがお礼の電話をしてくれましたが、生かも今は節子の義妹が一人住まいです。
あんな大きな家にひとりではさびしいことでしょう。

お盆に向けて、そろそろ精霊棚をこしらえないといけないのですが、場所が狭くなったので、どうしようか悩んでいます。
13回忌を契機に、お盆や命日の供花は辞退させてもらいました。
それはいいのですが、いまは花さえも置く場所がなくなってしまい、供花も位牌から離れたところです。
私自身もそこに納まるのでしょうから、何とか考えなければいけません。
まだ精霊棚ができていないので、メロンは仏壇の前においておきましょう。

高月メロンには、節子もいろいろな思い出があるはずです。
いまは単なる商品ですが、最初に送られてきたのは、節子の母の実家が初めて手掛けたメロンでした。
それが高商品化され、高月名産になりました。
最初に手掛けた節子の叔父さんは、私たちの結婚に最初反対していました。

いろんな思い出がある。
でも私もいなくなったら、その思い出も消えてしまうでしょう。

思い出のあるメロンとただのメロンでは、おそらく味も違うでしょう。
今年はまだ、思い出のあるメロンを味わうことができそうです。
娘たちには関係がないでしょうが。
孫のにこは、メロンがあまり好きではありませんし。

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■オリンピックの本性が露呈されてきています

オリンピック開会式前日になってまた開会式ショーディレクターが解任になりました。
こんどはユダヤ人大量惨殺ごっこが問題になっています。
オリンピック開会直前になって、こう関係者の辞任・解任がつづくのか。
私の娘は、なぜもっときちんと事前調査をして、「そういう人」を避けられなかったのかなと言います。

しかしそうでしょうか。
私の考えは全く逆です。
つまり、「そういう人たち」が東京オリンピックに寄り集まっているということです。
彼らは「東京オリンピック村」にふさわしい人たちなのです。
そう考えれば、いろんなことが理解できます。

しかも私には、辞任・解任された人たちは「小者」にしか思えません。
そんな些末な話に惑わされないようにしたいです。

余計なことを言えば、最近の日本の笑い芸人の本性に私は生理的な違和感があります。
人気が出てくると態度を替えますが、本性は変わりません。
もちろんなかには、きちんとした笑い芸人もいますが、私には不快な芸や芸のない芸があまりに多いような気がします。そういう人ほど、人気があるのも不思議ですが.

また言わずもがなのことを言ってしまいました。
困ったものです。

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■節子への挽歌5090:30分のにこタイム

節子

昨日から孫のにこは夏休みです。
それで一緒に食事に行くことにしたのですが、孫が選んだのはなんと回転ずしです。
回転寿司では、流れて来たすし皿をとってみんなに配布するのがにこの役目です。
それが楽しいのかもしれません。なぜか今回はデザートは食べませんでした。

お寿司を食べた後、近くの金魚屋さんに行って、エビのエサを買いました。
先日、近くの手賀沼ににこと一緒にエビを捕まえに行ったのですが、逃がさないで自宅に連れ帰ったので、以来、にこは怒っているのです。
そこで連れ帰ったエビを大事にしている証に餌を買いに行ったのです。

帰宅して少し経ったら、にこが「氷いちご」が食べたいとやってきました。
回転すし屋でデザートを7食べなかったからでしょう。
それで奥にしまってあった昔のかき氷機を引っ張り出して、作ってやりました。
いちごシロップは持参でしたが、ジュンから言われているのか、コップに半分くらいしか食べないというのです。
にこは食には極めてストイックなのです。

その後、2人で遊びました。
にこの好きな間違い探しに付き合わされた後、水槽のメダカとエビについての話し合いになりました。
私が手賀沼よりきれいな水槽で餌もやっているのでエビは喜んでいるといったら、おさむさんはエビと話せるのかと質問されました。
それで私は歳をとるとエビとも話せるようになるのだと答えたのですが、どうも信じられない様子でした。

そこで今度は私から、手賀沼のエビは捕まえてはいけないのに、なぜお寿司のエビは食べていいのかと質問しました。
お寿司屋さんのエビは生きていないから食べていいようです。
あまり余計な話をすると娘たちからまた怒られるので、そのあたりで話をやめましたが、いろいろと話したおかげで、手賀沼からエビを連れて帰ったことは許されました。
また今度手賀沼にエビを捕まえに行こうという誘いは拒否されましたが。

30分ほどのにこタイムでした。

今日はにこはプールにいったり、いろいろと忙しいそうです。
今日も暑い1日になりそうです。

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■シャスナ・ズボフの「監視資本主義」

また刺激的な本を読みました。
シャスナ・ズボフの「監視資本主義」です。

昨年から話題になっていましたが、ようやく翻訳が出版されました。
私は原則としてどんな本も一気に読むようにしていますが、本書はあまりに厚いので5日もかかってしまいましたが、退屈はしませんでした。

本の内容はある程度知っていましたが、改めて読んでみて、自分の甘さを思い知らされました。
そのメッセージを一言で言えば、私たちは産業システムの原材料になってしまいつつあるという話です。ズボフの次の言葉がそれを象徴しています。
「私たちがグーグルを検索していると思っていたら、実はグーグルの方が私たちを検索していたのです」。

私がずっと危惧していたことが、これほどまでに現実化してしまっているのかというのが、改めてこの大部な本を読んでの感想です。
しかも私自身もそれに加担しているような生き方をしている。
「監視資本主義」というよりも、「操作資本主義」と言った方がいいでしょう。

8月7日に湯島で、嶋内さんと鈴木さんに「新型コロナ騒ぎから見えてきたこと」をテーマにサロンをやってもらいます。
2人が行き着いた先にあったひとつは「スマートシティ構想」ですが、これも監視資本主義の行き着く先の一つだとズボフは書いています。私たちを取り巻く「資本主義」は、すでにもう大きく変質しています。
にもかかわらず、相変わらずの言葉だけの資本主義批判をしている人が多すぎる。

産業の原材料になってしまう前に、自らの生き方を変えるためにも、ぜひ多くの人に本書を読んでほしいと思います。
あまりに厚くて読むのはそう簡単ではありませんが、内容はとてもわかりやすいので、時間さえあれば読めますので。
オリンピックを見るよりは、いい夏を過ごせると思います。

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2021/07/21

■節子への挽歌5089:朝の幸せ

このごろ、朝起きて、なぜか「不思議な懐かしさ」を感ずることがあります。
さわやかな風のそよぎ、競い合う蝉の声、対岸のお寺の鐘の音、頼りない空の青さ…。
節子がいた頃の朝の感覚が、ちょっと戻ってきたような気がすることも、時にあります。
長いこと忘れていた感覚です。

節子がいなくなって今日で(たぶん)5090日です。
ようやく平常が戻ってくるのでしょうか。
そんなことを思わせる朝でした。

今日も暑くなりそうです。
孫のにこは、今日から夏休み。
コロナ騒ぎがなければ、夏休みの旅行なども考えるのでしょうが、娘たちは考えていないようです。子育て中のわが家の場合は、よく家族旅行に行きました。節子も私も自然が好きでしたから。
私が旅行をしなくなってから5090日。
もちろんどこにも行かなくなっているわけではありませんが、気分的に旅行を満喫できなくなってからというのが正しいでしょうか。

家の窓から小高い林が見えます。
わずかとはいえ、手賀沼の湖面も見えます。
残念ながら湖畔道路を走る自動車の音が朝からうるさいのですが、視覚的には静かな朝の風景です。
風も実に爽やかで、幸せなのではないかと錯覚してしまいそうです。
幸せのはずはない。
しかし、このしばらくの朝の幸せ気分に浸るのもわるくはありません。

畑に水をやりに行こうと思いましたが、それはやめて、少しこの幸せ気分を素直に味わおうと思います。
昨夜は、久しぶりに節子もよく知っている滋賀の山本さんが会いに来てくれましたし。
滋賀の仲間たちはどうしているでしょうか。
最近は滋賀にもいかないので、会う機会がありません。
人は会える時に会っておくのがいいようです。

思い切って一度、滋賀に行くのも悪くない。
幸せな気分になると、人は過去を思い出すのかもしれません。
いや過去が幸せをもたらしてくれるのかもしれません。

しかし、過去を思い出すと涙も出そうになる。
幸せに浸るのは難しい。

外が動き出しました。
暑さもやってきた。
私もコーヒーを淹れて朝食です。
そろそろ家族も起きてくるでしょうから。

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2021/07/20

■湯島サロン「77革命に向けてのリンカーンクラブ起爆計画」のご案内

6月にリンカーンクラブ代表の武田さんから、武田さんが目指す理想国家のイメージが語られました。問題は、それをどう実現していくかです。
ちなみに武田さんが考えている「77革命」は、選挙を通じての平和な革命です。

前回もその考え方は少し紹介されましたが、今回はもう少し具体的に話をしてもらおうと思います。どうやってリンカーンクラブ活動を広げていくかという「起爆計画」と「継続資金確保計画」です。

そこで武田さんが考えているのが、最初にリスクをとって活動に参加した人がしっかりと報われる仕組みです。ちょっと聞くといささか「胡散臭い」のではないかと思うようなアイデアです。お金が絡んでくるのです。
でもまあビットコインなど、仮想通貨がNHKでも話題になる時代です。お金と言ってもいろいろあります。

簡単に言うと、最初に動き出す人には成功した暁に1億円が配分される。もちろんその配分金をどう活用するかは本人次第です。
武田さんの構想では、リンカーンクラブの会員になると総て億万長者になれるのだそうです。実に胡散臭い。
しかし今の時代、政府がやることも結構胡散臭い時代ですから、武田さんの構想を聞いてみるのもいいでしょう。以前も、選挙で投票したら1万円支給するという武田案に対して、強烈な反対者がいましたが、きちんと説明を聴いたら全員納得して賛成派に回ったこともあります。
ともかく一度しっかりと武田さんの話に耳を傾ける価値はあるでしょう。
それにもしかしたら億万長者になって、社会をよくする方向でお金を使える立場になるかもしれませんし。

まあこういう書き方をすると、ますますふざけた話に聞こえるかもしれませんが、歴史を変えた大きな事件のなかには、こういう「バカげたと思われる話」から始まったものも少なくありません。
武田さんは、長年この構想をあたためてきていますが、今回はそれを一挙、公開です。
異論反対ももちろん歓迎です。

矮小化してしまったオリンピックがいま終焉に向かっていますが、これは壮大な歴史の始まりのサロンになるかもしれません。
それもあって、ぜひ、オリンピック開催中にこのサロンをやりたくなりました。
ぜひ武田さんの痛快な構想と長年の熟考の成果を聞きに来てください。

いまの政治状況を変えていきたいと思っている方の参加をお待ちします。
リンカーンクラブについて全く知らない方も大歓迎です。
暑さを吹っ飛ばすような「熱い議論」を期待しています。

〇日時:2021年7月31日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「77革命に向けてのリンカーンクラブ起爆計画」
〇話題提起者:武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■湯島サロン「国家をどう捉えるか」報告

5月の「主権国家における憲法」サロンにつづいて、「生活の視点から国家とは何か」を話し合うサロンを開催しました。こういうテーマはあまり集まらないだろうと思っていましたが、猛暑のなか、10人を超える参加者がありました。

Kokka

「国家論」を語るのではなく、生活から「国家」というものを改めて考え直し、自分にとって国家とはなにかを話し合ってみようというのが今回の趣旨です。その根底には、この400年ほど続いてきた「近代国家」という制度から自由になって、新しい「国家概念」に向けて自らの生き方を見直していきたいという私の思いがあります。

国家論に関しては、プラトンの「国家論」は今でもよく読まれていますし、ジャン・ボダンの「国家」やホッブズの「リヴァイアサン」など、書籍はたくさんあります。日本でも様々な分野の人が「国家」を語っています。アメリカネイティブのイロコイ連邦のような口承史や文化人類学者の報告も、近代国家とは異なる「国家思想」を考える豊かな視点を教えてくれます。

しかし、どうも私たちは、いわゆる「国民国家」という近代の国家概念に呪縛されてしまい、国家を所与のものとして絶対視しがちです。そして国家は人が生み出した「制度」であることを忘れてしまい、国家をどう運営するかという、統治論や政策論に陥ってしまう。そうした状況から抜け出し、そろそろ国家の捉え方を根本から見直す時期ではないか。そんな気がしてなりません。

ですから、今回は、自分がもっと暮らしやすいように、「国家がないと何が困るのか」「国家があると何が困るのか」、あるいは「国家に対して個人として何ができるのか」、そもそも「国家とは何なのか」というような、自分を主語とした具体的な話し合いかできればと思ったのです。
人がつくった制度であれば、国家は組み替えられるはずですから。ましてや今の日本では、国民が主権者とされているのですから。

最初に15分ほど、添付のメモに沿って、話し合うための視点をいくつか紹介させてもらいました。そこから自由に、自分にとっての勝手な国家像を話し合いたかったのです。

しかし冒頭から、「国家をどう定義するか」とか「近代国家を対象にするのか」という問いかけを受けて、知識の呪縛から解放されて自分主語で生きた議論をすることの難しさを思い知らされました。また、国家と政府は違うという議論も出ましたが、議論はどうしてもそういう国家を運営する統治論に行きやすい。
今回はむしろそういう「常識」を超えて、個々それぞれが安心して暮らせるための仕組みとしての国家そのものを話し合いたかったのです。

ある人からも発言がありましたが、新型コロナ騒ぎは、これまであまり意識していなかった国家が、自らの生活につながっていることを可視化させてくれました。国家は私たちの生活をいろいろと制約してくる一方で、私たちの生活のよりどころであることも気づかせてくれたように思います。
どんなに政府を批判している人も、いわゆるアナキストでさえも、実際に国家という秩序体系がなかったら、安心して生きてはいけないでしょう。批判や非難は、それに依存していればこそ生じてくるものです。批判や非難に留まっていては、ビジョンは生まれないし、行動は起こらない。

最近は、国家の運営を委託された政府がいつの間にか国家を私物化し、国家を政府の道具にしてしまうような本末転倒が起こっている気がします。それは人(政府)のせいではなく、国家のありように起因しているのではないか。国家のありようが統治者(政府)を育てていくのであれば、政府を批判するのではなく国家のありようを変えなければいけない。政府や人を批判しても事態は変わらない。

参加者の一人がこんな話をしました。
最近、「核兵器廃絶」への取り組みが日本の憲法に則った行動であり日本国家の使命でもあると考えるようになった。しかし現実の日本の政府はそれに背を向けている。であれば、そうした政府の姿勢を正す責任が自分にはある。
とても共感できる意見ですが、でもその根底にあるのは、国家と自分を対立/対峙する関係に置いている考え方です。その点に、私は目を向けたいのです。国家とわれわれは、そういう関係から抜け出せないのか。共同幻想とも言える国家は、所詮は主体性などない「仕組み」でしかないのだから、「対峙」などできるはずはないのではないか。

みんなが暮らしやすくなるために作り上げた仕組みとしての国家であれば、「対峙」関係ではなく、私が望むことを実現するうえで役立つ仕組みではなければならない。いま頻発している政府と国民多数の意見との乖離は、「政府の問題」なのか「国家の問題」なのか。問題の立て方を間違えると、事態は何も変わらないのではないか。

国家という制度を活用して暮らしやすい社会を作り出すために信託した政府が、いまや国家という仕組みを自ら(政府関係者)のために逆用して、国民を管理し操作するような存在になってしまった。国民国家の国民は主体ではなく今や道具的存在になっている。
そうしたことは、立法、行政、司法のみならず、文化、スポーツ、教育などあらゆる領域で起こっている。

そしてそうしたことの不満は、目先の政府非難や政策批判に貶められてしまい、国家はますます国民(生活)を道具化してきている。最近、監視資本主義や道具主義という言葉が広がりだしていますが。人間は主役から国家の部品になってしまってきています。

そういう状況から抜け出すために、国家における秩序を考えるベクトルを反転させて、新しい国家を議論することが必要なのではないか。私たちは、自分の暮らしを支えてくれる国家のあり方について、考えだす時期に来ている。せめてそういう発想を持ちたいと改めて感ずるサロンでした。

長くてややこしい報告になってしまってすいません。
お時間があれば、添付した当日のメモを読んでもらえるとうれしいです。

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これに関して議論したい方がいたらご連絡ください。

 

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■節子への挽歌5088:猛暑が続きそうです

節子

今日も朝から暑さ(28度)と湿気(73%)が襲ってきます。
最近また朝のテレビ体操をやっているのですが、10分の軽い体操をやるだけで汗が出てきます。
昨日はがんばって出かけましたが、今日は畑に水をやりに行くのもさぼってしまいました。まだ7時になっていないのですが、太陽ももうかなり高くなっていて、部屋の中に陽が差し込んできます。
朝、何かをやるのであれば、6時までです。

昨日、あまりの暑さにエアコンをいれてしまいました。一度いれてしまうとそれに慣れてしまい今日もいれてしまいそうで。
しかし、暑い中にも窓を開けておくと時々さわやかな風が入ってくる。その気持ちよさは何とも言えない。私はそれが好きで、エアコンが嫌いなのです。

エアコンで涼しい状況になれてしまうと、部屋から出た時の暑さには不快に感じます。
しかし暑さの中にいて、時にそうしたわずかな涼風に幸せを感じます。暑ければ暑いほど、わずかな涼しさに癒される。
不幸と幸福は、コインの表裏です。
私は、できれば「不快」よりも「幸せ」を感じやすくなるような世界で行きたいと思っていますが、エアコンのような誘惑は私にさえもとりついてくる。

いま読んでいる「監視資本主義」によれば、私たちは今や、自分さえもが操作されている。「監視」ではなく「操作」されているのです。
快不快も、幸せや不幸も、みんな外部から与えられるようになってしまった。
それにどう抗い、自分をしっかりと生きるにはどうしたらいいか。
そういうことを考えるためにも、エアコンに依存せずに、暑さに立ち向かいたい気もしますが、この暑さだと今日もエアコンの誘惑に負けそうです。

しかし、暑さの効用を考えると、いろんなことに気づきます。
エアコンを入れてしまう1日になるか、暑さの中でわずかな幸せを楽しむ1日になるか、まだ決めかねています。
それほど暇になってしまったとも言えますが。
でもやらなければいけないことはそれなりにたくさんあるのです。
ただやる気が出てこないだけです。
それは必ずしも暑さだけのためではありません。

人の行動は、自分であっても、なかなかわからない。
困ったものです。

 

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2021/07/19

■湯島サロン「農福連携とソーシャルキャピタル」報告

「農福連携」と「ソーシャルキャピタル」という、これからの社会を考える上での2つの重要な「思想」をテーマにした川辺さんのサロンは、とても議論しきれないほどのたくさんの示唆を与えてくれたサロンになりました。
久しぶりに、泊まり込みの合宿議論をしたくなったほどでしたが、いざ報告を書こうと思ったら、これが実に難しい。難航しました。

「農福連携」は、これまで別々に取り組まれてきた「農業」と「福祉」をつなげるところに新しい価値を創発させていこうという、近代西欧の還元主義的な発想を超える試みであり、また、「ソーシャルキャピタル」は軽量可能な物質的次元を超えて「人と人との信頼」を基軸に社会を捉えていこうという試みです。
いずれも袋小路に陥りつつある時代の流れを大きくブレイクスルーする発想です。
しかし実際にそこから新しい道を導き出すのは難しく、私自身はいまの農福連携やソーシャルキャピタルへの試みにはいささか失望しているのが正直なところでした。
しかし、今回、川辺さんの話を聞いて、少しまた意識が変わりました。

川辺さんは、最近まとめた農福連携マッチン実践のための参考書「ノウフク・マッチング・ハンドブック」を材料に、具体的な事例を紹介しながら、理念や理論を話してくれましたので、農福連携の実践が私の予想以上に広がっていることと同時に、先進的な事例の状況も知りました。私は自分で直接に現地を見ないとなかなか実感できないのですが、川辺さんはしっかりと現地調査をしているので、疑い深い私にもとてもわかりやすく、川辺さんたちが目指す「農福連携」が目指す社会のイメージとそこに向かう取り組み方も伝わってきました。

川辺さんは最初に「農福連携」を「障害者等が農業分野での活躍を実現しながら、地域全体で豊かな社会を実現しようとする取り組み」と説明し、そこから話を始めました。現実からのスタートです。当然ながら、視点や考え方は農業と福祉では違います。私も以前、実際に農福連携研究会をやっていて強く感じたことです。その違いは、そう簡単に折り合いをつけられないことも友人の実践を見ていて感じていました。それをつなげる第3の理念が必要なのです。

川辺さんはつづいて、農福連携を成功させる3つのポイントして、「相互の理解」「ネットワークとコミュニケーション」「社会的理念」を話してくれました。以前、宮田さんがやってくれたサロンで話されたことがとてもわかりやすく整理されていました。
非常に現実的なところからスタートし、目指すのは「社会的理念」、言い換えればソーシャルキャピタルの蓄積という大きなビジョンが根底にあります。ちなみに川辺さんは、今回は言及されませんでしたが、ソーシャルキャピタルに関する論考もいくつか書いています。

今回川辺さんが話してくれた内容は、川辺さんが主宰する農都共生総合研究所が3月にまとめた「ノウフク・マッチング・ハンドブック」に詳しく報告されていますが、同報告書は下記サイトで公開されていますので、関心のある方は是非お読みください。
20近い実践例がわかりやすく紹介されていて、それを読むだけで「農業の持つ力」や「福祉の本質」、そして「なぜソーシャルキャピタルなのか」を実感できると思います。
noufuku_matching_handbook-4.pdf (maff.go.jp)

話し合いは横道にそれながらも、さまざまな議論が飛び交いました。
書きだすときりがないので、私が強く思い、川辺さんにお願いしたことだけを書かせてもらいます。

農福連携によって改めて農業とは何か福祉とは何かが問い直され、そこから社会を再構築していくヒントが得られるとしたら、農福連携とは入り口であって、その先に何を生み出すかが大切ではないか。そろそろそこに視点を置いて農福連携の視野を、たとえば「教育」や「経済」にまで広げていくことが考えられるべきではないか。
つまり「連携」に留まるのではなく、そろそろ「農福共創」へと進むべきでないかということです。
川辺さんたちはそれをたぶん「ソーシャルキャピタル」や「地域共生社会」という言葉で表現しているのだろうと思いますが、そこから思考のベクトルを逆転させるということです。

そして、これは川辺さんにお願いしたことですが、調査分析しているたくさんの事例を単に事例紹介ではなく、そこに共通する普遍性を抽出し、そこから「新しい経済」「新しい社会」のパラダイムモデルを構築してほしいということです。
そこから「成長」に関しても新しいモデルが見えてくるのではないか。SDGsも話題になりましたが、せっかくのSDGsもそこに含まれる「成長(D)」発想がこれまでと同じ内容であれば、弥縫策になったり逆に環境収奪の具にされかねない。

川辺さんの話の中に「農業の工業化」という言葉が出てきたことに関して、むしろ「工業の農業化」こそが必要ではないかという話もさせてもらいました。
これは私が会社時代から実践してきた考えですが、こうした発想の逆転こそが「農福連携」に込められた大きな意味ではないかと私は思っています。

何やら川辺さんのサロンに便乗して勝手な私見を書いてしまいましたが、こうしたことを改めて考えさせてもらえた、私には実に刺激的なサロンでした。

川辺さんと一緒に、主に福祉の視点から同報告書をまとめた友末さんも参加してくださいました。この報告書は単に農業や福祉の報告書ではありません。ぜひ多くの人に読んでほしいと思っています。
いつかこの報告書をじっくり読んだ人を対象に、またサロンをやってみたいです。

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■節子への挽歌5087:久しぶりの早朝の畑

節子

挽歌を書いた後で、急に畑に行こうと思い立ちました。
今日もあつくなりそうなので、日中の畑作業は限りなく危険ですので。

主な目的はスイカの苗の水やりです。
スイカはいささか頼りないですが、いまのところみんな健在でした。
ちなみにベランダにも3本。残っていますが、それに比べると元気さは大違いです。
やはり毎日声をかけているのと放っておいたのとは育ち具合が明らかに違います。

水やりの後、永作さんからミョウガはこれからでも収穫できるよと言われたので、少し整備することにしました。何しろ笹薮に覆われてしまい見えないほどです。
笹だけではありません、いろんな木まで育っています。
なぜ人間は、そうした自然の命に歯向かうように差異を育てようと思ったのでしょうか。
採集生活から栽培生活への変化は「進化」と捉えられていますが、果たしてそうなのか。
いつもそこに疑問を感じます。
がんばってミョウガ畑を回復しました。
残念ながらまだ収穫には至りませんが。

ミョウガの奥のアーティチョークもすこしみえるようになりました。
これも笹などのに覆われて枯れそうな状況です。
しかし今日はそこまで手入れする元気は出ませんでした。

帰宅して部屋の温度を見ると温度はもう29度近い。
シャワーを浴びても汗が止まりません。
ユカがクーラーをかけろとまた言うでしょう。
しかし、この暑さを楽しむ文化は大切にしたいです。

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■節子への挽歌5086:心身の衰えを感ずる1日

節子

昨日はサロンの前に一件の相談を受けました。
関係者は2人なのですが、そのお2人に意見の食い違いがあることがますますわかってきたのと、湯島のサロンでつながった人たちも巻き込んでの活動になっているようです。
私が直接かかわらなくてもいいのであれば、別に相談に乗る必要もないでしょう。
それで距離を置くことにしました。
いろいろと聞いているうちに、私自身の関心も冷めてきました。

湯島のサロンでつながった人たちが、私の知らないところでつながって活動に取り組むことはいいことです。
素直に喜べることも多いのですが、なかにはおかしいと感ずることもあります。
以前はそのおかげで私自身が問題の収拾に巻き込まれてこともありますが、そのたびに不快な思いをしたり経済的な損失を受けたり、あまりいいことはありません。

それにそういう人こそ、問題が終わると湯島からの距離を取り出します。
そういう体験はあまりしたくはありません。
あまりのめりこむのは避けたほうが、この歳になるといいようです。

しかしこういうことになるのはたぶん私のパワーが低下しているからです。
あるいは、昔から何人かの友人に言われたように、あまりにお人よしに見えるからかもしれません。
決して単なるお人よしではないつもりではあるのですが。

昨日はもう一つ、サロンもやりました。
相変わらず、書籍にあるような知識を話す人が少なくありませんが、少しずつ自分の素朴な言葉で話す人も増えてきた。
でもどうしても「悪貨は良貨を駆逐する」ごとく、人は言葉に騙される。
なかなかうまくはいきません。
どっとまた疲れてしまった。

帰路、湯島の駅でいろいろと考えながら椅子に座ってスマホをしていたら、なんと目の前に来た電車を乗り過ごしてしまった。
生まれて初めての経験です。
スマホに夢中になっていたからか、歳のために注意力が低下したためか、わかりませんが、こんなことは初めてなので、後者かなと思わざるを得ない。

今日は「心身の衰えを感ずる1日」でした。
帰宅したら疲れがどっと出てしまい、ますます心身の衰えを実感せざるを得なかった。

節子
そろそろかもしれません。

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2021/07/18

■節子への挽歌5085:みんなでお墓の掃除に行きました

節子

また朝早く目が覚めてしまいました。
起きてからもう1時間ちかくたちます。

今日もいい天気になりそうです。
相変わらずムクドリがにぎやかですが、鳩の声も聞こえます。
鳩の声はどうも好きになれません。
あの頃を思い出させられるからです。
今朝はまだ蝉は静かです。

昨日は夕方、みんなでお墓参りに行きました。
夏はいけばなはすぐ枯れるので、造花にしていますが、その造花をにこが選んでくれたので、それをみんな供えに行ったのです。本堂にもお参りしてきました。
この時期はお墓も野草が増えだしますが、昨日はにこも一緒になって草取りをしました。

昨日も暑かったのですが、娘が買い物に行っている間、エアコンのない2階に遊びに来ていました。
2階にもエアコンはつけたのですが、私があまり好きではいあので、まだ今年は一度もいれたことがないのです。
昨日は一時、30度を超えていましたが、幸いに風も入るし、何とかしのげていたのです。

娘が小さいころ、夏休みになるとわが家は家族で山に行くのと私以外の3人は節子の生家の滋賀に行くのが恒例でした。
しかし孫はそうした「いなか」がありません。
コロナ騒ぎもあって旅行もなかなかしにくい。
ちょっと不憫な気はしますが、これはわが家に限った話ではなく、多くの家庭が「帰省する実家」がなくなっているのかもしれません。
夏になると日本国中で人々の移動が起こった社会はもうなくなってきているのかもしれません。
おそらくそれが社会を変化させていくでしょう。
家族の変化にもつながるかもしれません。

時代はどんどん変わっていく。
娘家族の様子を見ていて、そんなことをよく思います。
節子がいたらどうなっていたでしょうか。
少しは変わっていたかもしれません。
しかし、節子にはできても私にはできないことは多い。
家族文化の継承の主役はやはり母親だなと思う毎日です。

今日も湯島です。
相談とサロンの1日です。
先日の農福連携のサロンの報告がまだ書けずにいますが。

手賀沼の対岸のお寺の鐘の音が聞こえてきました。

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2021/07/17

■節子への挽歌5084:2階に暮らしだしてから自然との距離ができた気がします

節子

梅雨が明けて今日も真夏日になりそうです。
昨日、手賀沼からとってきたエビはメダカと一晩過ごしましたが、いまのとこロまだ大丈夫そうです。
うまく共棲してくれるといいのですが。

最近またムクドリがにぎやかです。
先日は八坂神社の交差点の電線に鈴なりになったムクドリを見ました。
わが家のまわりでも朝はムクドリの鳴き声がにぎやかです。

今年は蝉はあまり泣きません。
セミの鳴き声を聞いたのも例年より遅く、10日ほど前だったような気がしますが、今朝もあまり鳴き声は聞きません。
生活の中心が2階になったので、庭にやってくるアゲハチョウなどは見なくなりましたが、畑に行ってもあまり蝶はみない。
生物界もいろいろと変化があるのでしょう。

昨日は病院の前の道路にカブトムシを見つけましたが、自動車に惹かれないように草木の多いところまで連れて行って逃がしてきました。
以前なら自宅に連れてきて虫かごに入れるか庭に話したのですが、孫のにこは基本的に自然に返すので、最近は私もにこに学んであまり無闇に連れ帰ることはしなくなりました。

そういえば、庭の池も埋められてしまいました。
庭の池は私の還暦祝いに家族で作ってくれたのですが、家族はなぜかみんな池が好きではなかったのです。
自然を周辺に再現したいという私の考えと娘たちの自然の再現よりも自然そのものをという考えが孫には継承されたようです。
それはそれでいいことです。

確かに自然の再現はかなり努力が必要です。
私の場合は、その努力があまりに不足しているので、希望だけで実行が伴わない。
節子がいた頃は、その実行部分を少し分担してくれていましたが、それがなくなると再現した自然は荒れ果てて、自然などと言えないものになりかねません。

先日植えた畑のスイカがどうなっているか気になります。
しかしこう暑いと畑に言って倒れかねない。
1階に住んでいるときには、とても気楽に畑にも行けましたが、2階に住むとなぜかあまり行く気にはなれない。
これも不思議な話なのですが、自然と切り離されてしまう気がしてなりません。

 

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2021/07/16

■節子への挽歌5083:手賀沼でのエビとり

節子
にこに手賀沼のエビ取りに連れて行ってもらいました。

先日にこはエビを捕まえてきて見せてくれました。
家で飼いたいのでが、譲ってほしいといいましたが、譲ってくれません。
かわいそうなので1日だけおいて、また手賀沼に逃がしに行くのだそうです。
にこは昆虫を捕まえても翌日には逃がしてやるのです。
それで今回は取れる場所に連れて行ってもらい、私が捕まえることになったわけです。

網でとるといくらでも捕まえられます。
にこも捕まえましたが、一緒に行ったユカも捕まえていました。

ところでアメンボがたくさん泳いでいるのを見つけました。
久しぶりだったので、私はそのアメンボをつかめようとしました。
それが孫に機嫌を損ないました。
アメンボを捕まえるのはかわいそうではないかというのです。

その上、エビもやはり連れていくのはかわいそうだと言い出しました。
結局、一番小さなエビを4匹だけ連れ帰ることで納得してもらいました。
家用に2匹、湯島用に2匹です。

とりあえず家の水槽に2匹、放しました。
明日の朝が心配です。

公園に行く途中、孫と20メートルほどの競走をしました。
またもや敗北。
5歳の孫に本気でやっても勝てなくなってしまった。
その上、久しぶりに全力で走ったら、後で疲れがどっと出てきました。

アメンボで孫から嫌われ、競走で孫に負けてしまい、散々でした。
その上、脳神経外科の定期検査で、今日は医師からまた水分補給をさぼっているでしょうと叱られました。検査結果はあんまりよくなかったようです。

今日の暑さは尋常ではなく、汗が止まらないほどでした。

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■節子への挽歌5082:見回り対象になった自覚のなさの反省

節子

一昨日、チャイムが鳴ったので出ていったら、マスクをしない高齢者が立っていました。
もしかしたら道に迷ったのかなと一瞬思いました。
前にも道に迷った認知症の高齢者が家に入ってきたことがありますから。
何でしょうかと尋ねると、「民生委員ですが」というのです。
それで納得し、社会福祉協議会の関係で自治会会長に相談に来たのかなと思いました。
前の会長の時も、民生委員が挨拶に来たからです。

しかし、そうではなく、私が訪問対象の高齢者だったのです。
たしかに身分証明書らしいカードを胸にぶら下げていました。
突然に「健康上何か問題はないですか」と訊かれました。
全くありませんというと、次はお一人住まいですか、と訊く。
ちょっとまた不信感を持ちました。

あまりの目線の高さ。
自治会をやっていると、この種の男性高齢者は少なくないのです。
娘家族たちと一緒ですよ、というとそれはよかったといいます。
家族構成を話し出すと、さえぎられて、お一人でなければいいのですと言われました。
一体何をしに来たのでしょうか。

その人が帰った後、そうか私も見回り対象の高齢者なのだとやっと気づきました。
しかし、これまで何の連絡もなく、突然、見ず知らずの人がマスクもしないで、やってきて「一人住まいか」とか聞かれたら独居高齢者は不安に思うでしょう。
我孫子の社会福祉協議会はいささか問題があるような気がしました。

節子も民生委員をやっていましたが、その頃はかなりしっかりした研修があったような気がします。
まさかこんな対応はしていなかっただろうなとちょっと不安に思いました。

それはともかく、私も見回り対象になった。
いやもうだいぶ前からなっているはずですが、その自覚が全くない。
それに気づきました。
少しそういう自覚を持たねばいけません。
こんど民生委員がやってきたら、元気だなどと言わずに、何とかやっていますと答えるようにしようと思います。

 

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2021/07/15

■湯島でも「はじまり場サロン」を始めます

最近各地で「語り場」や「コミュニティカフェ」が広がっていますが、私も地元の我孫子でそういう「語り合う場」づくりにささやかに取り組んできました。
そういう活動の一環として、今回、我孫子で「はじまり場サロン」を開いてみました。
ただ話し合うのではなく、地元でこんなことをやりたいという夢や思いを出し合って、実現に動き出そうというのが狙いです。
口に出すことで、夢は実現に向かいだすものですから。

コロナ騒ぎもあって、実際の集まりはどうなのかと思いましたが、まずは10人定員で呼びかけてみたところ、すぐに定員になってしまいました。話し合いも予想以上にいろんな話が出て、実際にプロジェクトも立ち上がりそうです。
やはりみんな「やりたい夢」を持っているのです。

もしかしたらそれは「地元での活動」だけではないかもしれません。
湯島のサロンでも、時々、こんなことをやりたいという話も出ますが、地域を超えた活動でもいろんな夢や思いを持っている人がいるはずです。
そこで湯島でも「はじまり場」サロンをやってみようと思いつきました。

そんなわけで、湯島はじまり場サロンをやることにしました。
こんなこと始めたいとか、こんなことをしたいのだけれど一人ではどうやっていいかわからないとか、こんな活動をしているのだけれど仲間が集まらないとか、気楽に自分の夢や思いを語り合うサロンです。
まだ具体的には説明できないがこんな夢をもっているというのでもいいです。
小さなものでも大きなものでもいずれも歓迎。ただし自分も汗をかこうというのが条件です。単なるアイデア出しは今回のサロンでは対象にしません。
また、それなりの「社会性」を持っているものが望ましいです。私欲を果たすためだけや反社会的と思われるような夢は遠慮してもらえるとうれしいです。

さて、人が集まるでしょうか。
いささかの不安はありますが、ともかくやってみないとわかりません。
湯島サロンの常連でもまだ参加したことのない人でも、自分を主語に夢を語りたい人であれば、誰でも大歓迎です。知識は不要です。

もし参加して夢を語りたいという方がいたら私宛(qzy00757@nifty.com)にご連絡ください。そういう人が今月中に3人以上集まらなかったら、このサロンは中止しようと思っていますので。
開催するかどうかの決定は今月中に決定してご連絡します。
何かそこから新しいプロジェクトが生まれることを期待しています。
面白そうならば私も参加したいですし。

〇日時:2021年8月8日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇内容:「こんな活動に取り組みたい」を参加者が話し合う
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■節子への挽歌5081:「脳を活性化する3カク」

節子

昨日、畑で汗をかいてきましたが、それを知った節子も知っているライターの鈴木さんが、最近インタビューした脳科学者から聞いた「脳を活性化する3カク」というのを教えてくれました。
「汗をかく(身体を使う)」「字を書く(手を使う)」「恥をかく(とにかくやってみる)」の3カクだそうです。
私の場合、この3つは結構やっているなと思ったのですが、よく考えてみるとそうでもありません。いやあまりやっていないというべきかもしれません。

「字を書く(手を使う)」は毎日のようにパソコンで文章を書いていますが、これは果たして「字を書く」といえるかどうか。
それなりに手は使っていますが、実際に文字を書くのとは大違いですし、最近はあまり文字を直接書く機会は減りました。
難しい漢字が書けなくなっているほどです。

「恥をかく(とにかくやってみる)」。これも最初は自信がありましたが、よく考えてみると、最近の生活範囲はかなり狭いので、あんまり恥をかいていません。付き合いの多い人たちはもう私はすべて見透かされていて、これ以上恥をかきようもない。
とにかくやってみようという精神は今もなお強いですが、体力の制約もあって、以前のような行動力はかなりなくなっています。

そして、「汗をかく(身体を使う)」。
昨日の1時間の畑仕事で、滝のように汗をかくくらいですから、普段はあまり汗をかいていないということです。

ということで、最近、いささか脳の調子が悪いのは、3カク不足かもしれません。
少し生活を変えていこうと思います。
幸いに梅雨もあけそうなので、畑にもよく行くようにし、せめてもう少し汗をかく生活にしようと思います。

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2021/07/14

■節子への挽歌5080:久しぶりにいい汗をかきました

節子

梅雨になってから畑には行けなかったのですが、今日の午後、久しぶりに畑に行きました。
1週間もいかないとまた野草に覆われ土は全く見えなくなっています。
やはり何かを植えないと畑に行く習慣ができないなと思い、小さな畑をつくることにしました。

つくったのは1㎡畑。
そこに、先日食べたスイカのタネをプランターに蒔いていたのが芽を出してきたので、それを6本植えました。
いまからではスイカは大きくはならないのですが、もしかしたら大きくなるかもしれません。そういう成功の確率の少ないことほど好きなのです。
なんだかすぐ枯れそうな雰囲気ですが、この中からどれかが育ってくれるといいのですが。
それにしても1週間行かなかっただけで野草の伸びはすごいです。

Img_20210714_163405

今日は暑くて、1時間草刈りをしただけですが、終わったら滝のような汗でした。
もう少し涼しくなってから行けばよかった気もしますが、暑い時の草刈は実に気持ちがいい。
それに久しぶりに倒れそうなほどの労働だったので、ちょっと元気が戻ってきた気がします。

今日の午前中は、我孫子のまちづくり編集会議の事務局ミーティングでした。
天王台のコメダ珈琲で4人のコアメンバーが集まりましたが、まちづくり編集会議の趣旨がなかなか伝わりません。
同じような話を何回したことでしょうか。
いささか気が重くなっていたのですが、いい汗をかいたら気分がすっきりしました。
やはり「汗を流すこと」は人生において大事です。

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2021/07/13

■アメリカのホームラン・ダービーで敗退した大谷さんの笑顔

アメリカのホームラン・ダービーの実況を見てしまいました。
トーナメントの1回戦は、大谷選手とソト選手。

接戦のあげく、大谷選手は敗退しました。
しかし終わった後のインタビューで大谷さんは「楽しかった」ととてもいい笑顔で応えていました。
実況を見ているかぎり、大谷さんは心底楽しんでいたようです。

負けた後も、大谷さんの行動はとても楽しそうでした。
こういう風景を私はオリンピックでは見たことがありません。
この雰囲気はまさに私がイメージするスポーツです。

日本のスポーツ選手はどうしてみんなあんなに暗いのか、いつも気になっていますが、大谷さんの明るさは大きな救いです。
元気が出ます。

 

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■節子への挽歌5079:また夢で虚しくなりました

節子

また夢で目が覚めました。
とても未練がましい夢です。

長年、企業の経営幹部の研修プログラムのアドバイザーをやっていました。
単なる研修ではなく、当初は「経営のこころと道」を回復するという目的でつくられたプログラムです。
その基本設計にも少し関わったこともあって、20年以上、つづけていました。
しかし次第に単なる経営技術研修になってきたので、辞退させてもらいました。
もちろんそうならないように働きかけはかなりしましたが、結局、だめでした。

昨夜はそこでまだアドバイザーをやっている自分の夢でした。
とはいえ、大きな方針はもう変わってしまっていて、私はその流れに抗して、参加者一人ひとりに、経営のパラダイム転換の必要性を説いていました。
目覚めた時の記憶では2人の幹部候補生がちょっと私の意見に関心をもって、後日。私を訪ねてくる約束をしてくれました。

夢ではなく、実際も、私のアドバイスはなかなか通じませんでした。
なかには今も湯島のサロンに来てくれるほどの人もいますが、当時は私のアドバイスを「ノイズ」と言って反発した人もいます。
「ノイズ」というのは、私がよく使った言葉です。

いま企業経営に大切なのは、主流の経営学知識ではなく、ノイズに耳を傾けることだといっていたのですが、受け入れてくれた人もいますが、当時の経営主流に煎る人には通じなかったのかもしれません。
なにしろそのプログラムは、経営トップの登竜門的な位置づけを得ていたから、ノイズはノイズでしかなかったのかもしれません。

いまにして思えば、当時のノイズをきちんと聞いてくれていたら、そして私の経営観を受け容れてくれていたら、いまのような状況にも困ることはなかったと思っています。
しかし、残念ながら、いまなおドラッカー経営が流行っています。
そんな無念さが夢になって表れたのでしょう。

これからの経営に何が大切かを盛んに説いている自分が夢の中にいました。
目覚めた時は、何か懐かしさと夢の中では2人の若者への期待からちょっと元気だったのですが、この挽歌を書くうちに、むしろ虚しさが覆ってきました。
あの頃、共感してくれた何人かの経営幹部生はどうしているでしょうか。
どうしてこんな企業にしてしまったのでしょうか。
たしかに社長になって活躍した人も多いのですが、最近は連絡もあまりありません。
ちょっと寂しさが襲ってきました。
経済の流れに何の影響も与えられなかった。

今日も曇りの空模様。
なかなか畑に行く機会が得られません。

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2021/07/12

■7月オープンカフェサロン報告

7月のオープンサロンは、珈琲豆の焙煎から始めてコーヒーを私が淹れるという試みでした。本来は高熱でないといけないのでガスコンロが必要なのですが、重いので湯島にある電熱ヒーターで焙煎することにしました。

参加者も少ないだろうと思っていたのですが、なんと10人を超す人が来てしまいました。しかも久しぶりの人や初参加の人も。
人数が少ないなら焙煎も大丈夫だと思っていましたが、これだけ多いと大変そうです。
しかし、暑い日だったおかげで、最初に熱いコーヒーを飲む人はと訊ねたら4人しか手が上がりませんでした。

それでまずは4人分の豆を焙煎して、コーヒーを淹れました。
豆は有機のグアテマラです。おいしいはずです。
ところが飲んだ4人は誰一人「おいしい」と言いません。
確かに炒り方によって味が全く違います。
やはり熱の温度が不足していたのと、少し炒り方が弱かった。
しかも豆の挽き方も粗すぎた。

2回目は代わりにやってもいいという段田さんにお願いしました。
段田さんは時間をかけて炒ってくれましたが、時間をかけた割には炒り具合はやはり浅く、今度はていねいに挽いたのですが、やはり誰も「おいしい」と言いませんでした。
というわけで、焙煎からのおいしいコーヒーカフェの試みは完全に失敗しました。
いつかまた再挑戦します。

ところで話し合いはいろいろと広がりました。
何しろ異色な論客が集まったからです。
私の関心事は、緊急事態宣言とオリンピック開催がどうしても私の中では整合しないので、私はどうしたらいいのでしょうかということでしたが、話はもっと深い問題、たとえば「生きる意味」まで進みました。

ある人がいまは断崖絶壁の崖っぷちにいる、という話をしました。
それに反論して、一時の異常さを乗り越えれば元に戻るという人もいました。
しかし、今回の参加者には「崖っぷちの危機」論者が多かったような気がします。

私の関心は、いつも「自分はどう動いたらいいか」なので、どうしたらいいのかと問いかけましたが、私にとって参考になる答えは出なかったような気がします。
そこで、崖っぷちから飛び降りる絶好のチャンスではないかと問いかけましたが、これは不評で、みんなからそんなことをしたら死んでしまう、少なくとも大怪我をすると反論されました。

でもそうでしょうか、どんなに高い崖であろうと飛び降りて必ず死ぬとは限らない。
私にはそう思えるのですが、しかし、どんなにひどい現実でも、そこから抜け出すのはみんな不安なのでしょう。そして、状況を変えられないのであれば、見ないようにするという生き方に逃げているような気がしてなりません。
珈琲がおいしく淹れられなかった負い目があるので、そこまで強くは主張できませんでしたが。

今回は新たに参加してくださった方もいるので改めてみなさんの自己紹介をしてもらいました。自己紹介してもらうといつも新しい気づきがあります。
人はどんどん変化している。そんなことにも気づかされます。
いろんな示唆に富む話が交わされていましたが、私は珈琲の挫折で気が萎えていてあまり記憶を呼び戻せません。
ともかく焙煎に失敗したサロンだったことだけは間違いありません。

珈琲にこだわるサロンを今度は別のかたちでもう一度企画するつもりです。
たぶん今回以上においしくないコーヒーになりそうですが。
そこから「おいしい」とは何かの議論になれば面白い。
そういえば、今回もうなぎの話も出ました。

ところで、サロンの終盤にすごい雨が降ってきました。
その雨の後、東京には大きな虹が出たそうです。
私も帰宅した直後に自宅近くの手賀沼の上に大きな虹がかかりました。
その虹を見ながら、自然は大きな災害ももたらすが、大きな癒しも与えてくれると思いました。自然はともかく包容力が大きい。

崖っぷちから飛び降りても、自然がやさしく包んでくれるでしょう。
そんな気がしてきました。

もしかしたら、いまは崖っぷちから飛び降りて生き方を変える絶好のチャンス、社会を変えていく絶好のチャンスかもしれません。
崖っぷちから飛び降りる勇気を持ちたい。
そんな気にさせてくれた虹でした。
いや、そんなことを考えさせてくれるサロンでした。

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■節子への挽歌5078:大きな虹(2021年7月12日)

節子

昨日は東京も一時でしたが、強い雨風でした。
サロンの時だったのですが、サロンが終わってもこの雨風の中では帰れないというほどでした。幸いにそれほど長くはつづきませんでしたが。

帰宅した時は我孫子も雨が上がったころでした。
少し休んでいたら、ユカが虹が出ていると教えてくれました。
1階のにこからも、大きな声で「おさむさん、大きな虹が出ているよ」と声がかかりました。最近、にこは虹がブームで、にこの描く絵はみんな虹色です。
窓の外を見るとうすい虹でしたが、手賀沼の上に大きく半円を描く虹が出ていました。
写真も撮りましたが、あまりうまく写りませんでした。

自然は災害も起こしますが、癒しも与えてくれる。
そういう自然の力に比べれば、人間の科学技術など些末なことしかできていないことがよくわかります。
にもかかわらず、どうして私たちは科学技術に信頼を置いてしまったのか。
最近、そんなことにようやく気付きだせるようになりました。

昨日のサロンで、ある人がいまは断崖絶壁の崖っぷちにいる、という話をしました。
それに反論した人もいますが、多くの参加者は崖っぷちの危機からどう抜け出せばいいかと思っているようでした。
私は、崖っぷちから飛び降りる絶好のチャンスではないかと発言したら、みんなからそんなことをしたら死んでしまう、少なくとも大怪我をすると反論されました。
そうでしょうか、どんなに高い崖であろうと飛び降りて必ず死ぬとは限らない。
私にはそう思えるのですが、しかし、どんなにひどい現実でも、そこから抜け出すのはみんな不安なのでしょう。

しかし手賀沼の上にかかった虹を見ていると、自然は飛び降りてもやさしく包んでくれるような気がしてきました。

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■関係者だけのイベントとそれを喜ぶ人たち

オリンピックの聖火リレーイベントが、関係者だけで行われている報道を見るにつけ、いったい何のためのイベントなのかと不思議に思います。
オリンピックそのものも関係者のためのオリンピックになっているのでしょう。
どうもわけのわからない時代になってしまったものです。

しかもそういうイベントにまだ大喜びする「関係者ではない人」も多い。
テレビでこれほど聖火リレーイベントが報道されるのも気持ちが悪い。
最近、私はかなり「偏屈」になってきているようですが、聖火イベントに登場してはしゃいでいる人を見ると蹴とばしたくなります。
タレントにしろアスリートにしろ、いや一般の人であれ、同情よりも軽蔑したくなります。障碍者も例外ではありません。障碍者を応援する気持ちも最近は萎えてしまいそうです。

こういう人たちが社会を壊していくように思います。
私には到底許せない人たちです。
かなり「偏屈老人」になってしまったものです。
コロナの恩恵も受けずに、長生きしすぎたようです。

それにしてもどうしてみんな権力者や富裕者に迎合するのでしょうか。
自分ができないことを彼らにやってもらって満足するのでしょうか。
テレビで高価な料理を食べ歩く芸能人たちの番組が増えています。
視聴率が高いので増えているのでしょう。
しかし時々見てしまうそういう番組の料理は、私の食生活とは全く異次元です。
時には私の1か月の食費を1回の食事で消化してしまうほどです。

高級料理を出しているお店も私には違和感があります。
せっかく食の技があるのなら、もっとやることがあるだろう。
皇帝の雇われ調理人のような「高級シェフ」には、私は敬意を払う気など毛頭ありません。
この世の中には、今日の食事さえ満足にできない人もいることを知らないのかと思いたくなる。
偏屈ではなく「ひがみ」も入っているのかもしれません。困ったものです。

一方でお金を湯水のごとく使う人がいれば、一方にはまともな活動もできないほどお金に困っている人もいる。
経済とは、あるいは政治とは、そういう状況を生み出すためのものなのか、あるいはそういう状況をなくしていくためのものなのか。

オリンピック騒動で、少しはそういうことを考える人が増えることを祈っています。
政治も経済も、この数十年で全く変質してしまったとしか思えません。

まるで古代アテネのようなひどい社会になってしまいました。
まあそれを理想としてきたのだから、仕方がありませんが。

 

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2021/07/11

■第1回「はじまり場サロン」報告

まちづくり編集会議〔我孫子・柏〕の活動の一つとして、ご案内していた我孫子での第1回はじまり場サロンを開催しました。
参加者は会場の関係で申し込み先着10人とさせてもらいました。

最初に集まりの趣旨を簡単に話させてもらい、続いて参加者みなさんから簡単な自己紹介と「やりたいこと」を簡単に話してもらいました。
予想以上にいろいろな話が出てきました。
なかにはお一人で2つの提案をした人もいます。
また自分はこんなことができるのでまちづくり分野でそのノウハウを活かしたいという人もいました。

「自転車を活かしたまちづくり」「手賀沼かるたづくり」「昭和に流行った「歌声喫茶」のような場所をつくりたい」「QRコードの市内展開」「ちょっと気になることを話し合う場づくり」など、いろいろな話が出ました。
提案者の了解をまだ得ていないので、詳しい内容は省略しますが、実際にはもう少し具体的な話し合いがありました。
すでに動き出している「将門講演会」や「フリーマガジン」も話題になりました。

新たに参加してくださった方もみんな「まちづくり編集会議」に入ってくださいました。
こうして少しずつ人の輪が広がると「夢を実現する可能性」も高まるでしょう。

今回出された皆さんの夢は、いずれもプロジェクト立ち上げに向けて動き出しそうです。
1回目からこんなに動き出すとは思っていなかったのですが、それぞれもう少し構想を整理して、次回のまちづくり編集会議主催の発表会で提案してもらえそうです。

来月の「はじまり場サロン」は815日午前1012時に開催予定です。
場所は今回と同じく、あびこ市民活動ステーション(けやきプラザ10階)の大会議室。
また10人が限度ですので、参加ご希望の方はお早めにお申し込みください。

今回提案のあったものも、その後の進捗状況の報告があるかもしれません。
新たに参加された方が、新しい夢を語ってくれるかもしれません。
「やりたいこと」がある方もない方も歓迎です。
ない方は、やりたいことが見つかるかもしれません。

「はじまり場」は面白いので、今度は地域に限定しない「はじまり場サロン」を湯島で開催しようと思います。

 

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■湯島サロン「茶会で考えたこと」のご案内

井田さんに湯島で「茶の湯サロン」を開催してもらいました。
そこでいろんなことに気づかせてもらいました。
報告にも少し書き、メーリングリストでのやりとりにも書いたのですが、「集まり」や「話し合う」ということに関しても、改めていくつかの示唆をもらいました。
そこで、場を替えて、「茶会」で思ったことを話題にする話し合いがしたくなりました。

井田さんのサロンに参加したかどうかは関係なく、どなたでも歓迎のサロンですが、今回はお抹茶は点てません。

サロンでは、私から10分ほど、井田さんの茶会でちょっと気になったことや思い至ったことを話させてもらい、後はみんなで自由に話し合えればと思います。
もちろん「茶会」そのものをテーマにしようということではありません。茶会で感じたことや思い至ったことから、たとえば、「人が集まる意味」「話し合うことと語り合うこと」「言葉を介さないコミュニケーション」「サービスとホスピタリティ」…。要するに「サロン」とは何だろうかを少し考え直してみるのが、目的です。

ついでに、人との接し方についても、少し話を広げられればと思います。
リモート付き合いが広がりそうな時代ですが、そういう流れへのささやかな異議申し立ての思いも少し込めて。

〇日時:2021年8月1日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「茶会で考えたこと」
〇話題提供者:佐藤修
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■節子への挽歌5077:独りよがりへの怒りと反省

節子

今日も早起きです。
昨夜は雷雨でしたが、今日はいい天気の朝です。
相変わらず温度も湿度も高いですが。

今朝はほどほどの気分で目を覚ましましたが、パソコンをひらいて届いているメールに目を通したら、「怒りの朝」になってしまいました。
「怒り」というのは大げさではありますが。

気になるメールが3つありました。
ひとつはまあ「仕方ないか」という程度のものでしたが、2つはあまりに独りよがりのメールで軽い怒りを感じました。
ちなみに2つとも私を非難しているわけではなく、むしろ私に好意的に書いているメールなのですが、怒りの理由はあまりに私の思っていることとは真反対のことを私が望んでいるように書いていることです。

この種の思い込みは少なくありません。
私の発想が世間の常識からかなり逸脱しているからかもしれませんが、人の考えをわかったように言ってほしくないのです。
しかも、私のためにを思ってかどうか、独りよがりの提案をしてくる。
私がそんなことを喜ぶはずはないことを知らないのでしょうか。
他者のことですから具体的には書けませんが、やはりまあったくわかってもらえていないなとがっかりしました。
それがちょっと「怒り」につながってしまったわけです。

しかし考えてみれば、私自身、こういう言動をして否かと気づかされました。
よかれと思って何かをして、娘からは叱られたことは少なくありません。
娘にしているということは他者にもしているのでしょう。
節子にもしていたかもしれない。
「怒り」が「反省」に変わりました。

まだ私には「他者のためにやっている」という意識から脱却できないのかもしれません。
そんな恩着せがましいことならやらないほうがいいということは頭ではわかっている。
ただそこに困っている人がいたら、できることがあれば身心が動く。
そういう生き方に従って、まあ節子が残してくれた預金はなくなり、対価を得る仕事もしなくなっていますが、時々、どうして彼(彼女)のためにこんなことまでしているのだろうと思うことがある。

そうした未熟さに、時々自己嫌悪に陥ります。
今日もそうでした。

最近ちょっとイライラしていて、時に余計な発言をしてしまう。
一昨日も電話で一言、嫌みr敷物を言ってしまい、電話を終えた後、いやな気分になりました。
だから電話は嫌いなのです。

空の雲が多くなり、明け方の空の勢いは陰ってきました。
私の心境をまさに映している。
「怒り」に元気づけられて元気な日になるかと思いましたが、「反省」のおかげで、ちょっと内省的になれるかもしれません。

今日は我孫子と湯島で2つのサロンがあります。
自分をできるだけ抑えないといけませんが、まあ無理でしょう。
いい1日になればいいのですが。

 

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2021/07/10

■節子への挽歌5076:30度超えの湿度100%

節子

雨の朝だったのが急に晴れてきて、温度も急増。室内でも30度を超えてしまいました。
しかも異常なほどの湿度の高さです。
にこは午前中から庭にビニールのプールをつくってご機嫌ですが、大人たちは異常な暑さに動く元気もありません。
久しぶりに晴れ間なので畑に行こうと思いましたが、あまりの暑さに夕方になってからにしようと、それまではだらっと過ごしていました。

5時を過ぎ、風も少し涼しさを感ずるようになったので、そろそろ畑に行こうかと思った矢先に電話がありました。
小宮山さんからでした。
先日、NHKテレビの「あさいち」で小宮山さんが取り組んでいる箸学会のことが取り上げられたのですが、その反響がいろいろとあったようです。
私も見ましたが、小宮山さんの「箸の持ち方」の説明はとてもよかったのと手長箸が車いすの人に便利なことを横瀬さんが説明していたのがとてもよかったのです。
私もそのことは伝えていましたが、今日は改めて「箸の持ち方」をわかりやすく書いたパンフレットを作っていたようです。
そんな話がいろいろとあって、いつものようにまた長電話になってしまいました。

それで畑に行くチャンスを失してしまいました。
まあ正直、今日はあまり行きたくなかったのです。
それで私の方で長電話にしてしまったのかもしれません。

畑に行かない代わりにベランダ菜園の整理を少し、ほんの少しだけしました。
種をまいたのにどうも野草ばかり元気で肝心の野菜は育たない。
困ったものです。

先日、スイカを食べた後、種をまいておいたスイカが元気に育っているのが唯一のベランダ菜園の野菜です。
もう一度きちんと種をまかないといけません。

ちなみに電話の後スマホをみたら、マナーモードになっていて、電話が2本も入っていましたが、全く気付きませんでした。
小宮山さんの電話は音ではなく画面が光ったので運よく気づいたのですが。
どうもスマホ電話は苦手です。

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■節子への挽歌5075:夢見の悪い朝

節子

梅雨の朝です。
夢ばかり見て何回も目が覚めました。
水分をとるようにと脳神経外科の先生からいつも言われているので、ともかくできるだけ水分をとるようにしているのですが、そのせいで夜、トイレに起きる回数が増えています。水のせいというよりも歳のせいかもしれませんが、多い時は昨夜のように4回も起きてしまう。
闘病中の節子を思い出します。
それもあって、またいろいろと思いが広がり、目が覚めてしまう。

しかし、いつも不思議な夢ばかり見ます。
筋書きは起きるとすぐ忘れるのですが、夢の中で会うのは、最近は知らない人ばかりです。
どうして知らない人が夢の中で、私に親しく話しかけてくるのか不思議です。
そもそもそのモデルは実在の人なのでしょうか。

そういうことを考えだしていくと、映画「マトリックス」のように、私もまた脳に与えられた電気信号の世界に生きているのかと思ってしまいます。
電気信号の世界であれば、レムの「ソラリス」のように、節子の復活もあるでしょうが、最近の夢には節子はあまり出てきません。

しかし夢で会う見ず知らずの人たちはなぜか魅力的です。
議論を吹っかけてくる人もいれば、困っている私に救いの手を差し伸べてくる人もいる。
具体的な内容は起きてしまうと思い出せなくなるのですが、みんななぜか好意的です。
人は誰もが本来、善良で好意的なのでしょう。
夢の世界からはそう思わざるを得ない。

しかしその一方で、夢の中で私はとても困った状況や難題に直面することが多い。
その原因は大体において自分にある。
たとえば飛行機や宇宙船に乗り遅れる夢をよく見るのですが、その原因は私の着替えに時間がかかることです。
シャツを脱げない、ずぼんがなかなかはけない、着る服が見つからない、などといったつまらない理由でいつも時間ギリギリに飛行場に到着する。
支離滅裂な話ですが、そういう夢をよく見ます。
結局いつも乗れるようなのですが(空港の窓口に着いたところで目が覚めることが多い)、どうしてこんな夢を見るのかよくわからない。
人生において、実際に飛行機に乗り遅れたのは一度しかないのですが。

しかし、起きる直前に観た夢は、その日の気分に大きな影響を与えます。
今日は極めて気分がよくない。
不安な1日のはじまりです。
困ったものです。

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2021/07/09

■節子への挽歌5074:娘たちと昼食

節子

久しぶりに娘2人と3人で買い物に行きました。
と言っても私は同行しただけです。
しかも私は買い物もなく、娘たちの買い物時はベンチで一休み。

買い物が終わった後、3人で食事をしました。
節子がいるころは4人でよく食事に行きました。
しかし最近はめずらしい。

いまは同居とはいえ、1階と2階に住み分けています。
顔を合わさずに終わる日もあります。
ただ同じ家ですから、声や気配は感じます。
忍者はっとり君のように、孫が廊下をちょこちょこ走っているのも聞こえます。
時々は孫の大きな泣き声が聞こえることもあります。
しかし、そういうときにも無闇に声をかけるのはやめています。
できるだけ干渉し合わないのがお互いの合意です。

時々、孫の訪問があります。
孫は卵アレルギーで小さな時に大変な経験をしたために、親子とも食べ物には慎重です。そのため孫は、母親の了解なしには決してお菓子なども食べません。母親がいないときに私があげても食べないのです。

子育てはいろいろと大変なようで娘はかなり疲れています。
子育てがそんなに多変なものだとは私は思ってもいませんでした。
節子は子育てに関して、そんな話をしたことは一度もなかったからです。
子育てに限りませんが、節子は愚痴や弱音を言ったことのない人でした。
気づかなかった私が鈍かっただけですが。

同居した私の両親に関しても、愚痴は言ったことがありません。
いろいろとあったはずですが、何も言わなかった。
極度に我慢していたわけではありません。
姑と節子が対立しそうなときは、無条件で私は節子の味方になりました。
それが少しは役だったのかもしれません。

両親と同居していたころ、私たちは娘たちとの4人単位で動くことが多かったです。
もちろん両親と6人で旅行に出かけたこともありますし、外食したこともある。
しかし基本は4人家族単位でした。

両親の死後、そういうことを少し後悔したことがありましたが、最近自分が両親の立場に立つようになって、あれはあれでよかったという気がしてきました。
だから今は同居した次女家族とは、あまり干渉し合わずに、彼らの3人単位の生活を尊重しているのです。

それでも時々、ちょっと寂しくなることはあります。
いくつになっても娘はやはり親には特別の存在です。
それで今日は3人で昼食を一緒にしたわけです。
しかしやはり昔とは何かが変わっている気がします。
もっともここに節子がいると雰囲気は全く違うでしょう。

母親と父親は、やはり違う気がします。
3人で食事をしていると、逆に節子の不在を思い知らされるような気がします。
節子が元気だったころ、もっと4人でいろいろと楽しめばよかったと思います。

お昼にしては珍しくちょっと食べすぎてしまいました。

 

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2021/07/08

■自由にものが言える幸せ

さすがにこういう状況ではテレビでもオリンピック中止の話が出るかと思っていましたが、全く出てきません、
緊急事態宣言とオリンピック開催とは矛盾すると怒りをあらわにする人は数名いましたが、誰もオリンピック中止は明言しない。
やはりみんなオリンピック賛成なのですね。

いくら批判しても、怒りをあらわにしても、すべてポーズだけなのかと思います。
そもそも無観客かどうかなどという話は些末な問題でしょう。
無観客かどうかを議論するということは開催に賛成だということでしかありません。

問題は開催するかどうかです。
こういう「問題の立て方」は最近の常道です。
問題の立て方の段階で、すでに議論は終わっている。

ともかくいまのテレビ界はオリンピック賛成者たちで覆い尽されている。
こういう状況を作り上げてきたのは、まさにテレビだろうと思います。
ある雑誌が「コロナ五輪強行! 翼賛メディアの大罪」を特集していますが、違和感なく読めました。

菅さんだけが悪いのではなく、こういうテレビコメンテーターが一番責任は重いと思います。
せっかくテレビで発言できるのであれば、素直に自分の意見を明言したらいいのにと思いますが、「そこまでは言えない」と言い訳しているのが醜いです。

自由にものが言える幸せを感じます。

 

 

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■湯島サロン「国家をどう捉えるか」のご案内

5月に「主権国家における憲法」をテーマにしたサロンを開催しました。
そこで、憲法を語ることは「国家のかたち」を考えることではないかという話をさせていただき、改めて、生活の視点から国家を考えるサロンの開催をお約束しました。

生活.国家、憲法は、深くつながっているはずだというのが私の認識です。
にもかかわらず、どうもその3つはつながっていない。
その3つを軸に政治は行われるべきではないかと思いますが、いまの日本はむしろその3つを切り離しているのが政治のような気もします。
湯島のサロンでは「民主主義」もよく語られますので、「民主主義(デモクラティズム)」と「民主政治(デモクラシー)」との関係も整理したいと思います。

いささか抽象的な話し合いになるかと思いますが、できるだけ参加者個人の視点で話し合いたいと思います。たとえば「国家がなくなったらあなたの生活にどんな支障が起きますか」というような問いかけから始めてもいいでしょう。

前回の「主権国家における憲法」サロンと同じように、最初に15分ほどで私が考える国家の形や意味を話させてもらい、後はみんなでの話し合いです。私の話は、前回の憲法サロンと同じく、話し合いのための材料程度のものです。
「国家」と言ってもたぶん人によってイメージも捉え方も大きく違うように思います。
いろんな意見を出し合うことで、私たちと国家との関係をいろいろと考えられればと思っています。

国家のことなど考えたこともないという人の参加をお待ちしています。
気楽にご参加ください。

〇日時:2021年7月18日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「国家をどう捉えるか」
〇話題提供者:佐藤修(湯島サロン事務局)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■節子への挽歌5073:中国ドラマ「三国志」

節子

この3か月ほど中国のテレビドラマ「三国志」を観ていました。
「三国志」と言っても、正確なタイトルは「三国志の秘密」というもので、漢王朝側から魏の曹操との確執を軸に描いた作品です。
史実では、漢の最後の皇帝献帝が早々に帝位を譲ったとなっていますが、実はその献帝には双子の兄弟がいて、献帝が病死した後入れ替わり、魏に帝位を譲ったという話です。

三国志に出てくる代表的な人物がたくさん登場しますが、その描き方も新鮮です。
とりわけ司馬懿が準主役の形で活躍します。
登場人物はそれぞれに魅力的ですが、私は曹操や曹丕にも惹かれました。
ちなみに三国志演義などと違い、劉備や孫権は登場しません。

最後は献帝に入れ替わった双子の弟が帝位を退位し、史実では曹操に毒殺されたと言われている皇后も実は生きていて、2人が結ばれるのですが、そのお膳立てをしたのが司馬懿というのです。いうまでもなく司馬懿は三国時代を終わらせた統一王朝晋の始祖です。

後半はラブロマンス物語になってしまっていますが、ほぼすべてのカップルが不幸になるのに、主人公の2人だけが幸せになるというのもいかにもという感じですが、そういう結果になったのは主人公の皇帝が根っからの平和主義者で強い信念の持ち主だったからという設定です。
主人公は物語の主役としての魅力はあまりないのですが、理想の象徴のように描かれています。
民の平和を願うものは自らも平和になれる。

このドラマのために、並行して横山光輝のコミック「三国志」30巻も読みましたし、三国志の解説書や当時の中国の歴史の一般書も読みました。そのおかげで時代背景や登場人物の位置づけもわかり、破天荒な物語の展開にもついていけました。

その「三国志」も終わってしまったので、ちょっと残念です。
一時期、韓国の時代物ドラマにはまっていたことがありますが、節子がいた頃はこういうドラマはまず観なかった。
節子がいなくなってから私の見るドラマも少し変わってきたかもしれません。
もしかしたら、節子がそうさせているのかもしれません。
そんな気がしながら、いつも「三国志」を観ていました。

そのドラマも終わり、ちょっと残念です。

 

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■緊急事態宣言下でのオリンピック強行という不思議な政府

緊急事態宣言下でのオリンピック強行という不思議な政府には驚きます。
非統治者の私としてはどちらを優先すべきか。
残念ですが、オリンピック中止に関しては私には成す術はなく、昨日書いたような「たった一人のオリンピックボイコット運動」しかできません。
せめて一部のスポーツ選手がボイコットしてくれることを期待していますが、その気配はありません。
となるとできるのは緊急事態宣言無視です。国が守ってくれないのであれば、まさに「自助」しかありません。これは菅さんの方針には合うでしょうし。
こういう人は少なくないでしょう。

政府批判はあまりしたくはないのですが、あまりに醜い。
私欲のための政府に完全に成り下がっているように思えてなりません。
なぜ知性ある政治家が行動を起こさないのでしょうか。

それに、緊急事態宣言下の日本にまともなスポーツ選手はやってくるのでしょうか。
そもそも冷静に考えれば、まともな競技などできるはずもありません。
そこで優勝して何の意味があるのか、と私は思います。
でもまあビジネスとしては成り立つのでしょう。
知性あるスポーツ選手もいるかなと思っていましたが、どうも期待外れです。

オリンピックは無視していたのですが、あまりのおかしさに怒りがこみあげてきてしまいました。
まだまだ人間ができていません。困ったものです。

 

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2021/07/07

■節子への挽歌5072:水分をたっぷりとっています

節子

最近、お米を少し制限しています。
朝はいままで通りパン食。
昼と夜はどちらかがお米のご飯で、どちらかは麵かパスタ。時には豆腐かトウモロコシが主食になることもあります。

しかし問題は間食です。
これをやめた方がいいのではないかと思いますが、在宅時間が長いとこれがなかなかやめられない。これをやめる方法はいまのところ見つかりません。
困ったものです。

水分をよくとるようにと医師から言われているので、これも心掛けています。
しかし最近どうもコーヒーの飲みすぎの感じです。
毎朝、3~4杯の珈琲を飲み、在宅だと午後にまた2~3杯。
そのせいか最近さすがにコーヒーではなく午後は紅茶にしようという気がしてきました。
番茶の時もありますが、できるだけたくさん飲むようにしています。

それに加えて水もできるように飲むように心がけています。
まず朝一番にコップ1杯の水を一気飲み。
もっともただの水はどうも苦手なので、ジュースを少し入れて、さらにリンゴ酢も加えての水です。

パスタにはスープ、ごはんには味噌汁も必須です。
ユカが作ってくれないときには、インスタントスープですが、水分は欠かせない。
まあこれだけ飲んでいるとおなかもぽちゃぽちゃで、トイレにもよく行きます。
夜中には2~3回も起きます。
就寝前の珈琲は、最近は控えているのですが。

以前に比べて水分は倍くらいとるようになったでしょうか。
節子は水分がなかなか取れなかった。
水が飲めなかった節子のことを時々思い出すと辛くなります。

今日は七夕。
あいにくの曇天で星は見えません。
節子がいなくなってからは、七夕の短冊を書くこともなくなりました。

 

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■オリンピックボイコットをつづけます

私はオリンピック日本招致の時から、とても残念に思っていました。
21世紀に入ってからのオリンピックのビジネスイベント化には違和感がありましたし、いまは日本がオリンピックをやる時期ではないだろうとも思っていましたから。
招致が決まった時の会場で大騒ぎしている人たちの様子には吐き気がしました。
いまでも頭から離れません。
それを見て一緒に喜んでいる人たちにも違和感を持ちました。

招致後の動きを見ていると、すさまじい経済活動化に唖然としていました。
招致当初の方針であれば、反対ではありますが、まあ何とか我慢できました。
しかし、その後のすさまじい私欲のぶつかり合いの場の状況を見ていると、我慢できなくなりそうなので、無視することにしました。一人での「オリンピックボイコット」運動です。
オリンピック協賛マークを見るたびに不快になりますが、オリンピック協賛企業の商品はできるだけ購入しません。私の払う対価の一部がオリンピックに回ると思うからです。ただJRなどの交通機関や宅急便などは利用しないわけにはいかないので、不快ながら利用しています。

オリンピック関係の報道記事は基本的には見ないようにしています。
スポーツ関係もこれまで以上に関心は少なくなりました。
スポーツがビジネスになってしまい、スポーツ選手が商売の道具になっていく様子が私にはとても見てはいられないからです。
どうしてスポーツ選手たちがオリンピックのこうした動きに、異議申し立てをしなかったのか、私には理解できません。
決してスポーツ選手を非難しているわけではないのですが、私とは全く別の世界を目指している人たちなんだなと思うばかりです。
最近のスポーツはもはや私の考えるスポーツではありません。

今年初めにはオリンピックは中止になると思い、少し心穏やかになりましたが、今やもう完全に開催されるような状況です。
最近心穏やかでないのは、そのせいです。ますます社会は劣化するでしょう。
ソドムとゴモラのように、天の裁きがあるような気がしてなりません。
もう始まっているのかもしれませんが。

もっとも私のまわりにはオリンピックを楽しみにしている人もいます。始まったらもっと増えるかもしれません。
ですから私はますます多くの友だちを失うでしょう。

ちなみに私がオリンピック開催に反対なのは新型コロナ感染症のせいではありません。
日本政府の判断基準の優先順位を気づかせてくれた新型コロナ感染症には、むしろ好意をもっています。
テレビの報道番組の本性も暴いてくれましたし。

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2021/07/06

■節子への挽歌5071:自分が一番見えにくい

節子

今日も雨です。
雨だと元気が出ない。

その上、今朝は長いメールがパソコンに入っていました。
読んでもあまり意味がわからない。
先日サロンに参加した人からの、愚痴なのか非難なのか、よくわからないメールです。
返信に困りましたが、理解可能なところには答え、できれば個人あてに送るのではなく、公開のメーリングリストに投稿してほしいと返信しました。
2年に一度くらい参加する人ですが、サロンの時もかなり話していました。

サロンをやっていると、いろんな人の性格がわかってきます。
いつも傍聴していた「接待役」の節子は、だから私と違って、人の本性を感じていたことでしょう。
節子から私も少しは聞いていますが、人の本性は横から見ないと見えないこともある。
表立っては素晴らしいことを言っていても、本音は違っているような場合、それがふと出てしまうことがある。
私にも体験がありますが、人は本性を隠せない。しかしそれに気づくことは難しい。
もちろん自らも含めてです。

いや、もしかしたら、自らの本性が一番気づきにくいのかもしれません。
節子のおかげで、私はそれにかなり気づけた気がします。
自分が一番わからない存在なのかもしれません。
それを気づかせてくれる存在が伴侶かもしれません。

改めてそんなことも考えましたが、朝一番に観るメールがそういうものだと気分が萎えてしまいます。
もっとも元気が出るメールも2つ入っていました。

それにしてもメールごときで、気分が萎えたり、元気が出たりすると言うのは、やはりどこかおかしい。
そんなノイズに揺さぶられないようになりたいものです。

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2021/07/05

■節子への挽歌5070:テレビをずっと観ていました

節子

今日はテレビ三昧でした。
基本は熱海で発生した土石流と議会銀選挙の報道を見続けていたのですが、その合間に映画を2本も観てしまいました。

ひとつは「メッセージ」。宇宙人とのコンタクトを描いた映画です。
たまたま友人からその映画に言及したメールが届いたのですが、わが家にそのDVDがあったので、観てしまったのです。
筋書きはいかにも荒っぽいのですが、時間の流れが錯綜している映画で、そこがとても興味深かったです。
物語は300年後に地球人類のおかげで危機から救われるある星の住民が、地球人がその前に滅びることを知って、人類を助けに来ると言う話です。
その宇宙人はたぶん時間を超越しているのです。
彼らが地球人類を救う手立ては、ゼロサム社会で殺し合っている人類を、ノンゼロサム社会へと転換させることです。
まあ荒っぽく言えばそんな筋書きなのですが、過去と未来が錯綜していて、いささかややこしいのです。過去と未来と現在が一方向的に並んでいるわけではなく、絡み合ってもいる。だから、その世界では死んだ人も生きている
なかなかついてはいけませんが、感覚的にはわかるような気がします。

もうひとつは「バルジ・ソルジャーズ」。初めて見る映画ですが、最近の戦争映画はむなしく悲しいものが多い。見ていると元気が損なわれます。筋書きらしい筋書きもないので、面白くもないのですが、ついつい見続けてしまう。あげくの果てのその続編まで見かけてしまいました。

そういう複雑な映画を2本半も、ニュースの合間に倍速送りで観たので、今日はそれ以外のことは何もしなかった気がします。
いずれの映画もぶちぎれの早送りのため、あんまり理解できていませんが、感覚的にはいずれもしっかりと身心に入りました。
しかし、目がつかれてしまった。

熱海の土石流はいろいろと考えさせられましたので、時評編に少し書きました。
都議会議員選挙はもう退屈な結果になってしまいました。
にもかかわらず気になっていろいろとみてしまったのですが。

 

 

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■熱海土石流前後の写真には驚きました

熱海で起こった土石流は衝撃的な事件でしたが、崩落前と後の写真を見て、さらに衝撃を受けました。
私が受けた衝撃は、文明のもろさです。
これほどきれいに跡形もなく文明は消去される。
人類が誇りにしている科学技術の限界を改めて見せつけられた感じです。
飛躍があると思いますが、コロナもワクチンはもっと大きな危険の始まりに過ぎないのではないか。そう思いました。

こんな事件を前にして不謹慎なのですが、もしかしたら人類の歴史以前に別の歴史があったかもしれないという思いも強くしました。
以前から各地で「オーパーツ」(場違いな工芸品)が話題になっていますが、そうしたものの信憑性が高まった気がしますし、プレートテクトニクス仮説によって影が薄くなった失われた大陸仮説も見直したくなりました。

逆に言えば、人類もまた跡形もなく消えることもあり得ると言うことです。
消えるときは意外後早く消えることでしょう。

ますます短絡的な発想ですが、AIの暴走も自然の定めなのかとさえ思えるようになりました。AIが人類を滅ぼすと思っていましたが、AIも含めて自然が人類を正してくれると思い出しました。
非難されそうな意見ですが。

伊豆山には以前何回か行ったことがあります。
いつも宿泊していたところも急傾斜のところでした。
私は傾斜地が好きなので、わが家も傾斜地にあります。
しかもすぐ隣地は、がけ崩れ危険地域になっています。

さらにわが家は手賀沼から北に向かう「風の道」になっているようで、風の日は怖いほどです。
そんなわけで、自然をいつも強く感じています。
ですから私は自然にはできるだけ抗わないようにしています。

それにしても今回の事件から改めて気づかされたことはたくさんあります。
生活を支えてもらっている地域の自然にもっと敬意を払わないといけませんね。
梅雨があけたらまた畑づくりをして少しは自然にお礼をしようと思います。

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■節子への挽歌5069:早目のうなぎ

節子

昨日は久しぶりにジュン家族も一緒にみんなでウナギを食べに行くことにしていました。
ちょっと離れたところにある人気のお店ですが、予約はできないのです。
そこで11時半ごろに着くように出かけました。
ところが、なんともうお店の前にはたくさん人が並んでいて、お店の人に確認したら、もううなぎは売れ切れで、テイクアウト分もないというのです。
天気も悪いし、土用の丑の日にはまだ間があるし、と気を許したのが失敗でした。

仕方なく別のお店に行こうと思いましたが、「今日はうなぎだ」と決めていた孫のにこはうなぎじゃないとだめだと機嫌が悪くなりました。
こどもは一度決めたらどうもそれにこだわるようで、別にうなぎが食べたいわけではないような気もします。
以前はどうしてもおうどんが食べたいと言って、みんな仕方なくうどんに従ったこともあります。

そんなわけで別のうなぎ屋さんに行くことにしました。
ところがそこも満席。
3のお店でようやく入れました。

そのお店は節子がいた頃はおいしくてわが家はそこに決めていたのですが、代が代わってからは味が一変してしまい、節子がいなくなってからは足が遠のいてしまいました。
やはり味は戻っていませんでした。
にこは予定通りうなぎが食べられて機嫌も直りましたが。

それにしても食事の時もマスクをしているのは奇妙な感じです。
私はマスクはしていませんでしたが、娘たちはマスクをしていないとお店に迷惑だと言うのです。そういわれるとしないわけにはいきませんが、やはりはずさせてもらいました。なんだか奇妙な雰囲気です。
家族での会食もなかなかしにくくなってきました。

夏に控えてうなぎを食べましたが、残念ながら元気は出てきません。

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2021/07/04

■湯島サロン「新型コロナ騒ぎから見えてきたこと」のご案内

6月のオープンサロンで、「新型コロナ騒ぎのおかげで見えてきたこと」が話題になりました。見えてきたことは、人によって違うかもしれませんが、その違いを話し合うことで、さらに新しい何かが見えてくるかもしれません。それに、湯島のサロンでは、自分を主語にして語ることを大事にしていますが、このテーマだと、参加者それぞれが、「自分」を主語にして話せます。

しかし、ただ「単に見えてきたこと」だけでは抽象的な話し合いに終わりかねません。
そこでまず1回目として、新型コロナ騒ぎをきっかけに、ちょっと気になることを調べだしたら、とても大きな問題に行き着いてしまった人に話題提供してもらうことにしました。

体験話をしてくださるのは、政治や経済に疎いと自称する、ごく普通の市民の嶋内ユキさんと清水まりえさんです。2人がそれぞれ別ルートで行き着いた先は、政府の「スマートシティ構想」や「ムーンショット計画」。その関係で、湯島で開催していた「トランスヒューマニズム」をテーマにしたサロンにも参加してくださいました。

「ムーンショット計画」と言っても、聞いたこともない人も少なくないでしょう。しかし、これは私たちの生活に大きな影響を与えていきそうです。
こう書くと、なにやらSF映画のような展開を想像させてしまうかもしれませんが、私が関心を持ったのは、「おかしい」と思ったことを調べだした嶋内さんの行動力です。
湯島でよく話題になる「茶色の朝」が社会を埋め尽くさないようにするには、「おかしい」と思ったことをそのままにしておかない「行動」です。

せっかくなので、嶋内さんが行き着いた「ムーンショット計画」も少し話題にしたいと思います。これは山森さんにお願いしていつかまたきちんと取り上げたいと思いますが、今回はとりあえずその計画のイメージを理解して、それをどう受け止めるかを気楽に話し合う程度にとどめたいと思います。

今回のサロンの主軸は、あくまでも「おかしいと思ったことを放置しておいていいのか」という、私たちの生き方です。同時に、いまの新型コロナ騒ぎにどう対応していけばいいのかもちょっと話題にできればと思います。

最近の社会の状況におかしさを感じている人たちのご参加をお待ちしています。
もちろん、感じていない人も歓迎ですが。

〇日時:2021年8月7日(土曜日)午後2時~4時

〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「新型コロナ騒ぎから見えてきたこと」
〇話題提起者:嶋内ユキさんと清水まりえさん(日本の将来が気になっている市民)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■井田さんの茶の湯サロン「おいしいお菓子とお抹茶一服、召し上がれ」報告

湯島サロンに参加されている井田さん主催のお茶会が湯島で開催されました。
定員10人で、私も参加させてもらいました。
ちなみに私は、この種の催しは極めて苦手なのです。
ですから報告役としては全く不向きですが、案内をした者としての責任上、いつものように極めて主観的な報告です。

亭主役の井田里美さんは、茶の湯のすばらしさを多くの人に体験してほしいと、長年にわたりさまざまな場所での茶会に取り組んでいます。
今回は大雨の中を、大きな荷物を抱えて湯島に来てくれました。

参加者は、茶道にも通じた方もいましたが、私のように全く無知な者までさまざまです。
井田さんのお茶会は、参加してくれた人がいい時間を過ごし、心和すらかに帰路につけることを目指しています。今回も、「おいしいお菓子とお抹茶一服、召し上がれ」というのが井田さんの呼びかけです。ですから私のような者でも、気楽に参加できたのです。

一人ひとりに、井田さんはお茶を点ててくれながら、お茶の歴史や意味などに関して、参加者の問いかけにも応じながら話してくれました。
私のような、分をわきまえない無作法で無粋な問いかけもしっかりと受け止めてくれましたし、参加者の発言も遮ることなく、いつもの湯島サロンのように、いやそれ以上に、気楽に心を通わせ合う場になったと思います。

今回は静かにお茶をいただくだけにしようと思っていましたが、いつものようにまた余計な発言をしてしまいましたので、ゆったりとした茶会を予想していた人には迷惑だったかもしれません。すみません。

井田さんは、茶の湯の中に日本古来の文化の精髄が込められているとお考えです。
たしかに茶道は、日本に伝来したさまざまな宗教や思想の集大成だと言われていますし、茶室はそうしたさまざまな思想の総合芸術だと言う人もいます。
その知恵が、閉塞状況に陥っている今の状況を開いてくれると井田さんは確信しています。しかし、残念ながら今の時代、気楽にお茶を飲む場はどんどん少なくなってきています。最近広がりだしているコミュニティサロンや語り場も、ペットボトルばやりです。

少し話題にもなりましたが、茶会は「お茶を点てる」と「お茶をいただく」の2つの大きな要素があると思います。ペットボトルのお茶を飲むだけの語り場と参加者一人ひとりに向けてお茶を点てる語り場とは、何かが違うはずです。
そうした「茶会に働く力の構造」こそが、茶会という場の効用かもしれません。
これは考えると面白いテーマですが、茶会の話題としてはふさわしくはないでしょう。
いつかサロンで話したいテーマです。

茶道に全く無知な私がこれ以上書くと、ますますおかしなことになりそうなので、報告はこのくらいでやめますが、参加者はみんな「おいしいお菓子とお抹茶一服」をいただき、幸せな時間を過ごせたと思います。
また希望者があれば、やってもいいと井田さんは言ってくださっていますので、また井田茶会があるかもしれません。

ところで、後でちょっと気になったのですが、亭主役の井田さんは確か、お菓子もお茶もいただいていなかった気がします。
これってとても興味深いことです。後で気づきましたが。
また余計なことを書いてしまいました。困ったものです。

井田さん
ありがとうございました。

Ida202107

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■節子への挽歌5068:様々な人生もみんな私につながっている

しばらく連絡がなかった新潟の友人からメールが来ました。
ゴルフとサウナ三昧の毎日だそうですが、その奥意を思うとちょっと涙が出そうな気もします。人は言葉の奥に様々な思いを秘めますから。
時には、本人も気づかないままに。

この人は、この挽歌も時々読んでくれているので、書くべきではなかったことに今気づきました。ここでストップ。

昨日は、いま離婚調停している知人と会いました。
世間の風潮とは違い、定年退職後、男性から離婚を言い出されたそうです。
と言っても、同じような知人も他にもいます。
しかしなぜ高齢になって離婚などできるのでしょうか。どうせならもっと若い時にすればよかったのと、そういう話を聞くといつも思います。
それに離婚に通じている夫婦生活がなぜ続けられていたのかも不思議です。
「結婚」や「夫婦」に関する捉え方が私とは全く違うのでしょう。
だからとやかく言うべき話でもないでしょう。
でもなぜかそういう話を聞くと哀しくなります。

昨日はもう一人、長年引きこもっていた若者にも会いました。
彼は今もう社会に出てきていて、生後とも今月から始めました。表情を見て安堵しました。一時ちょっと心配したのですが。

みんな様々な人生を送っている。
それぞれの生き方が、最近いずれもが他人事ではなく時間できるようになってきました。
人はみんなつながっている。
それをこの頃、体感としても実感できるようになってきました。
40年かかりました。

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2021/07/03

■節子への挽歌5067:夏至も過ぎて、夜が長くなっていくようになりました

節子

夜中に強い雨音で目が覚めました。
今年は空梅雨なのかと思っていましたが、昨日はかなりの雨で各地で雨の被害も出していました。
久しぶりに聞く強い雨音です。
それでそのまま目が覚めてしまいました。
午前3時ころです。

節子がいなくなってから、夜が苦手になってしまいました。
熟睡できなくなったばかりか、夜中に目が覚めると眠れなくなる。
それがとても苦痛な時期もありました。

最近は、目は覚めるもののまた眠れるようになっていますが、夜はどうも嫌いです。
何とも言えない「不安」が襲ってくることもある。
昼間は何でもないことを思い出して、いやな気分になることもある。
夜と昼とは、心は全く違った動きをする。

節子がいなくなってから、なぜか夜の暗闇の暗さが弱まった気がします。
暗くても何となく見えるのです。
そんな気もしています。夜の闇に親しみを感じることもありました。
でも最近は、どうも夜が苦手です。
早く日があけるのを待つことが少なくない。

節子がいなくなってから習慣が変わったことの一つが、寝室のドアを開け放しにして眠るようになったことです。
昨年のリフォームで寝る位置が変わってからは、ベッドに寝ていても廊下が何となく見えるようになりました。
昨夜は3時ころ目が覚めて、寝るでもなく起きるでもなく、いろいろと考え事をしていました。

3時40分頃ですが、廊下を誰かが通ったような気がしました。
音はなく、しかし何となく白っぽいものが動くのが目に入った。
娘がトレイに起きたのかと思ったのですが、その後、音が全くせずに、白い影も出てきませんでした。
久しぶりに亡霊にあったのでしょうか。

その後、いつの間にかまた寝てしまいました。
こんどは、とても嫌な夢で目が覚めてしまった。
友人に裏切られたようで、何かとても起こっている自分の記憶が残っていました。
雨音はもうなくなっていました。

久しぶりに、大きな不安に包まれた夜でした。
夜は本当に嫌いです。
不安に襲われた夜は、いつも節子が受け止めてくれていたのですが。

夏至も過ぎて、夜が長くなっていくようになりました。
私には苦手の季節がはじまりました。

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2021/07/02

■「ちょっと気になることを話し合う場サロン」も大切かもしれません

我孫子市の市議会を傍聴しつづけている友人がいます。
議会を傍聴するだけではありません。
そこで何かおかしいと気づいたことに出合うと、自分でしっかりと調べるのです。
普通の市民が、そうやって調べることは簡単なことではありません。
時間もかかれば費用もかかります。いやな思いをすることもあるでしょう。

しかもしっかりと調べたことを踏まえて、関係者に対する働きかけもするのです。
彼のおかげで改善されたことも少なくありません。
その人の存在は、もちろん市議会議員や市役所職員も知っていますが、だからといって、私欲のために何かをすることは全くありません。
その人の行動は見事というしかありません。

私がその人に会ったのはもう20年ほど前です。
時々、その人からお話を聞いて、驚かされることも少なくありませんでした。
いろんなことを学ばせてもらったこともあります。
今年になってからも、その人が調べたある問題の資料がどっさりと届き、お話も聞かせてもらいました。

1か月ほど前にお会いした時に、あることを調べているとお聞きしていました。
その人から連絡があって、今日、お会いしました。
またいろいろな問題にぶつかってしまったようです。

以前、湯島でサロンをやってくれた損保犯罪対策委員会代表の濱中さんが、公表されている資料をきちんと分析するだけで、驚くべき不都合な事実が見えてくる、と話していたのを思い出しました。私たちは、たくさんの「不都合な真実」を見過ごすことにあまりに慣れきってしまっているようです。

今回、その人がぶつかった問題は、私にはかなり大切な問題だと思われました。
放置するわけにはいかないでしょう。
行動を起こす前に、客観的な評価を確認したいと言うので私に話してくださったのです。
いささか複雑な問題なので、自分一人で考えているとわからなくなる。
人は話しながら考えるものです。
2時間、じっくりと話を聞いたので、少しはお役に立てたかもしれません。

「ちょっと気になったこと」を調べていくと、時に問題にぶつかります。
その時に、気楽に話を聞いてもらって話し合える場があるといいかもしれません。
彼のように一人で頑張れる人は多くはありませんから。

こんど我孫子で、「はじまり場サロン」を開催しますが、もう一つ、「ちょっと気になることを話し合う場サロン」も大切かもしれません。
「茶色の朝サロン」の地域版です。

しかしこう次々とサロンを増やしていくと遠からず破綻するでしょう。
困ったものです。

 

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■節子への挽歌5066:挽歌書きをルーティンに戻そうと思います

節子

今日も雨です。
朝の読書はやめて、挽歌を書くことから1日を始めるように生活を変えようと思います。
まあそれがなかなかできなくなっているのですが。

それでも私の朝一番初めの仕事は、節子の位牌に向かって挨拶をし、お線香をあげることです。これはどんな時でも欠かさないできちんと行っています。
まあ般若心経は最近、最後の真言部分だけになることが多いですが。

節子を見送った直後は、パソコンの前に座ると自然に節子に話しかけるように挽歌が書けました。
しかし最近は、さて今日は何を書こうかと考えないと書き出せなくなりました。
それに以前は、節子のことを中心に書いていましたが、最近は私自身のことが中心になっています。
挽歌というよりも私の日記のような気がします。

でもまあ、節子に話しかけながら、節子のことを思い出しているので、私には挽歌と言えるのです。
まあ誰にも言えない愚痴を書いてしまうこともありますが、書くとなぜかすっきりする。
節子と話せない代わりに、こうして書いていると言っていいでしょう。

それにしてもこうしたことがいつまで続くのでしょうか。
この挽歌も、プロバイダー都合である時にすべてが消去されるかもしれません。
挽歌に込めた思いも、瞬時に消えてしまう。
それもまたいいことかもしれません。

覚えている人がいる限り、その人は生きている、と言われますが、まあこの挽歌を書いている限り節子は生きている。
その思いが、私に挽歌を書き続けさせてくれているのかもしれません。

今日はちょっと雨風で荒れる1日になりそうです。
午前中、人に会う予定なのですが、この天気だとちょっと憂鬱です。

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2021/07/01

■まちづくりの基本はまず生活地域からだと思います

今年、私は自治会の会長役を引き受けさせてもらいました。

私たちの自治会は200世帯弱なのですが、16の組に分かれていて、順番に担当組のだれかが会長役を引き受けることになっているのです。
私たちの組は13世帯なのですが、私が最年長なので、前回も今回も会長をさせてもらっています。
ほかの役員もいろいろとありますが、それも会長役の組で引き受けますが、みんなとても協力的なので、手を挙げた人がそれぞれの役割を担ってくれていて、メーリングリストで連絡しながら、みんなで役割を果たしています。

私の役割の一つは、何か問題提起されれば、その解決にちょっとだけ手を貸すだけです。
基本はそれぞれの関係者が自らで解決するようにしたいと思っていますので、できるだけ何もしないのが理想です。

しかし一つだけ私が始めたことがあります。
毎月、自治会活動の報告を書いて全戸に回覧することです。
長々と書いては読んでもらえないので、毎月、A4版1枚に5項目以内でまとめるようにしています。
また、単なる報告ではなく、できるだけ呼び掛けるように心がけています。

たとえば今回は、地区社協は住民の寄付とボランティア活動で成り立っていることを紹介し、活動にボランティア参加する人の呼びかけをしました。意外とみんな、地区社協の活動は知らないのです。

あるいは、近くの交番の担当のおまわりさんの名前を紹介し、何かあれば相談に行くといいと書きました。もちろんそのおまわりさんにはもしだれかが言ったらよろしくとお願いしています。一度、おまわりさんを囲む会もやってもいいかなと思っています。何しろ最近は高齢者狙いの電話詐欺も多いようですし。

そんな形で、自分たちのまちは自分たちでできるだけよくしていこうと呼びかけているのです。
今日は6月の報告を書いて、いま回覧に回しました。

 

 

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■節子への挽歌5065:「ヨーロッパ思想史」を通読しました(2021年7月1日)

節子

この3日間、久しぶりに読書にはまっていました。
「ヨーロッパ思想史」という本です。
古代ギリシアのタレスから始まって、現代までの通史で、高校の教科書のような本なのですが、なんだか久しぶりに勉強するような気がして、かなり時間をかけて読みました。

特に私にはほとんど知識のないキリスト教の思想史が新鮮でした。
改めて宗教の存在の大きさを感じました。

この歳になって、こんな教科書のような本を読んでどういう意味があるのかという気もしないでもないのですが、知らないことを知ることは楽しいことです。
それに意外と気づいていなかったことにはっとさせられることもあり、雑然と頭の中にある知識が何となくつながっていくのは楽しいのです。

本を読むのは朝が向いています。
朝起きてすぐに読みだす。
そのために挽歌がまたあまり書けませんでした。
ようやく再開した時評編もこの数日またサボってしまいました。

以前と違い、何かができれば何かができない。
やはりこれも歳のせいかもしれません。
何をやっても以前ほどてきぱきとはこなせなくなってしまっています。

歳を感ずるのはもうひとつ、映画を見ていても、理解力が低下していることです。
特にテンポの速い最近の映画にはなかなかついていけないのです。
たとえば、最近、ユカから教えてもらって「テネット」という映画をテレビで観ました。
時間の逆行を引き起こす機械を操作して、第三次世界大戦を回避する映画です。
全くついていけない。

この監督の作品の「インセプション」という夢のまた夢ののさらにその奥の夢の話くらいまでは何とかついていけたのですが、今回の「テネット」はもうまるでついていけませんでした。
もう2~3回観ればある程度理解できるかもしれませんが、論理矛盾も見つかることでしょう。
そうした矛盾も消化する力も衰えています。

話がずれてしまいましたが、「ヨーロッパ思想史」はなんだか勉強した気分で、読み終えた時の気分はちょっと若返った気がしました。
たまにはこういう本もいいものです。

 

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■第9回益田サロン「〈夢想と現実〉から生物と環境を考える」のご案内

益田昭吾さんのサロンは、前回は「メビウスの帯」遊びから、生物と環境について話し合いましたが、今回は「夢想と現実」を切り口に、生物と環境の問題をさらに掘り下げていくことになりました。

益田さんが言うには、夢想は現実によって実在のものになる。生物も環境によって現実の生物になる。さらに言葉(名称)も対応する実体によって現実のものになる。実体があってこその名称だとしても,名称のほうが先なのかもしれない。

またちょっと消化するのが難しそうですが、気楽に話し合いながら、益田さんと一緒に、いつもとは違った視点で、「生物と環境」、さらには「自分とは何か」を考える時間にできればと思います。

益田さんの話は、時に禅問答のようなところもありますが、そこからいろんな気づきを引き出せる魅力があります。
自分とは何かに悩んでいる人は、ぜひ気楽に参加してください。
その気になれば、きっとヒントが見つかるはずです。

〇日時:2021年7月24日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「〈夢想と現実〉から生物と環境を考える」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■湯島サロン「農福連携とソーシャルキャピタル」のご案内

湯島のサロンの理念の一つは「ソーシャルキャピタル」を育てていくことです。
昨年、久しぶりに「ソーシャルキャピタル」をテーマにしたサロンを予定していましたが、コロナ騒ぎで延期になったままになってしまっていました。

ソーシャルキャピタルとは「人と人との信頼し合うつながり」のことです。
「キャピタル」とあるので、金銭絡みのことを想像する方がいるかもしれませんが、社会にとって大切なのは「金銭資本」ではなく、「人の信頼関係」だという考えです。
言い換えれば、お金よりも人の支え合いが社会を豊かにするという発想です。
私が長年取り組んできた活動の基本に置いていたのが、この発想です。

福祉の分野でも次第にこの考えは広がっていますが、これまで農福連携とソーシャルキャピタルをつなげて考えたことがありませんでした。
今回、農福連携のテーマで川辺さんにサロンをお願いしたのですが、川辺さんから提案があったタイトルが「農福連携とソーシャルキャピタル」。農業とソーシャルキャピタルは確かに深くつながっています。どんな話になるか、とても楽しみです。
私たちの生き方にもきっとたくさんの示唆がもらえるサロンになるでしょう。

平日の開催ですが、ぜひ多くのみなさんの参加をお待ちしています。

〇日時:2021年7月15日(木曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「農福連携とソーシャルキャピタル」
〇話題提供者:川辺亮さん(農都共生総合研究所)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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