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2021/07/28

■第9回益田サロン「〈夢想と現実〉から生物と環境を考える」報告

益田サロンに底流している大きなテーマは、「生物と環境の関係から自分を考える」ということです。「自分とは何か」「環境とは何か」をどう捉えるかで、自らの生き方も、世界の見え方も変わってくるでしょう。当然ながら「他者との付き合い方」も「自然との付き合い方」も変わってくる。新型コロナウイルスとの付き合い方も変わってくるかもしれません。

今回のテーマは「夢想と現実」。益田さんが言うには、「環境あっての生物」であるように、「現実あっての夢想」であり、夢想は現実によって実在のものになる。「夢想」というのは「夢」と同じものなのか。今回のサロンは、この点で少しつまずいてしまった気がします。
益田さんは、「夢と夢想はむしろ同じものと考えた方が良い。睡眠時に見る夢は現実からの反応が少ないが覚醒時の夢想は直ちに現実からの反応を受けるという点に違いがあるだけではないか」と言いますが、そこが私にはうまく理解できなかったために、いささか議論が錯綜してしまいました。

私は、「意識が生み出す夢想」と「意識から解放されて展開する夢(睡眠中の夢)」とは全く異質なものと捉えてしまったのです。そして、「睡眠中の夢の中での自分はだれなのか」という「自分と意識」にこだわってしまいました。
そのため、益田さんの問いかけにうまく応えられずに、議論もいささか絡まってしまったことに、この報告を書く段階になって気づきました。
参加者のみなさんと益田さんにお詫びいたします。

益田さんにその旨伝えると、それでは次のサロンで続きをやってみてもよいのではないかと言われました。たしかに、新しい視点がいくつか得られたような気がします。ここが予定調和的ではないサロンの面白さかもしれません。

しかし、今回のサロンの報告は、どうもうまく書けません。
そこで、横道にそれたかもしれない当日の話し合いのなかから、印象に残ったことを3つほど書いて報告に替えさせてもらおうと思います。

まず一つは「生物と環境の境界」の問題、特に環境の重層的な広がり構造。
どこまでを「環境」として捉えるかで、世界観は変わってきます。昨今の「環境問題」はそのことを教えてくれています。自分にとっての「直接的な環境」の外部にある環境も含めて考えないと自分と環境との関係を維持できない。
また、自分が知っていると思っている世界(環境)は意外と狭いのではないか、ということと同時に、「自分」もまた意識しているよりも広くて深いのではないか、ということにも気づかせてもらえました。これも「環境」の捉え方につながっていくはずです。

「夢想や夢が時空間という現実の制約から解放されているかどうか」も興味あるテーマでした。
益田さんは、現実からの反応によって夢(夢想)は影響されると捉えますが、夢(夢想)によって現実が変わることもあるのではないか。そしてそれは、言葉と実体の関係、さらには自分(我)と「意識」との関係にもつながっていく。
益田さんは、今回も「我を忘れる/我に返る」という話をしました。ここでの「我」は「現実」と言い換えても成り立ちそうです。我を忘れて夢を見ても、現実の働きで「我に返って」夢を現実につなげていくということかもしれません。
しかし、話を聞いていて、「我を抑える」ということもあることに気づきました。そこでは、2つの「我」がいる。「抑える我」と「抑えられる我」です。
ここで「意識と自分」という問題がでてくる。意識が自分なのか、無意識まで含めて自分なのか。さらに言えば、無意識は「環境」なのか。

我などいなくても(意識などなくても)できることがある。
私たちは、自分が思っている以上にたくさんのことを知っている。
ある社会では虹の色は3色と表現されていますが、その社会では実際には無限な色が認識されているとも言われますし、古代ギリシアの「イリアス」には「青」という言葉は出てこないが、彼らは現実には青を認識していたとも言われています。
こうした直接的な言葉ではっきりと表現することはできないが、実際にはわかっていることはたくさんあります。

言葉から自由になれば、もしかしたら「自分」の可能性はもっと広がるかもしれない。いや、いいかえれば現実から自由になれば、私たちはもっと羽ばたけるかもしれない。
サロンでは、江戸時代に空を飛ぼうとした浮田幸吉の話が出ましたが、「鳥は知識がなくても空を飛べるが、人間は知識によって空を飛ぶ」という話を思い出しました。
その話を、私は「知識は世界を見えるようにしてくれるが、逆に世界を見えなくもしてしまう」という話だと受け止めています。益田さんの言う、「言葉と実体」を考える一つの視点かもしれません。
現実から自由になれば、もしかしたら「自分」の可能性はもっと広がるかもしれない。

第3は、夢は変異に置き換えられないかという益田さんの問いかけ。
これは十分に消化できていませんが、すべてのものは変化し続けていて、その一部が「夢想」から「変異」として生き残っていくとしたら、生物と環境のダイナミクスを考えるヒントになるかもしれません。
しかし、科学技術は、前提となる仮説を固定して世界を構築するために、生きている現実を捉えられず、「夢想」の生じる隙は少ない。
ここから文系と理系の違いの話になりましたが、理系を自称する益田さんと文系と名指される私(私にはその自覚はありません)との捉え方は全く反対なことに気づきました。
「仮説」の上で「安定」して生きていくか、現実の中で「不安」にさらされながら生きていくか。この問題は、実に興味深いです。

長くなってしまいましたが、まだまだ書き足らない。
益田さんの提案を受けて、この続きをできるだけ早くまたサロンしたいと思っています。
生物と環境、自己と非自己、夢想と現実。
そこから何を読み取るか、

サロンに参加された方、もし全く違った視点でもいいのですが、フォローしていただけるとうれしいです。
今回はこれが私にとっての精一杯の報告ですので。

Masuda9

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