■湯島サロン「国家をどう捉えるか」報告
5月の「主権国家における憲法」サロンにつづいて、「生活の視点から国家とは何か」を話し合うサロンを開催しました。こういうテーマはあまり集まらないだろうと思っていましたが、猛暑のなか、10人を超える参加者がありました。
「国家論」を語るのではなく、生活から「国家」というものを改めて考え直し、自分にとって国家とはなにかを話し合ってみようというのが今回の趣旨です。その根底には、この400年ほど続いてきた「近代国家」という制度から自由になって、新しい「国家概念」に向けて自らの生き方を見直していきたいという私の思いがあります。
国家論に関しては、プラトンの「国家論」は今でもよく読まれていますし、ジャン・ボダンの「国家」やホッブズの「リヴァイアサン」など、書籍はたくさんあります。日本でも様々な分野の人が「国家」を語っています。アメリカネイティブのイロコイ連邦のような口承史や文化人類学者の報告も、近代国家とは異なる「国家思想」を考える豊かな視点を教えてくれます。
しかし、どうも私たちは、いわゆる「国民国家」という近代の国家概念に呪縛されてしまい、国家を所与のものとして絶対視しがちです。そして国家は人が生み出した「制度」であることを忘れてしまい、国家をどう運営するかという、統治論や政策論に陥ってしまう。そうした状況から抜け出し、そろそろ国家の捉え方を根本から見直す時期ではないか。そんな気がしてなりません。
ですから、今回は、自分がもっと暮らしやすいように、「国家がないと何が困るのか」「国家があると何が困るのか」、あるいは「国家に対して個人として何ができるのか」、そもそも「国家とは何なのか」というような、自分を主語とした具体的な話し合いかできればと思ったのです。
人がつくった制度であれば、国家は組み替えられるはずですから。ましてや今の日本では、国民が主権者とされているのですから。
最初に15分ほど、添付のメモに沿って、話し合うための視点をいくつか紹介させてもらいました。そこから自由に、自分にとっての勝手な国家像を話し合いたかったのです。
しかし冒頭から、「国家をどう定義するか」とか「近代国家を対象にするのか」という問いかけを受けて、知識の呪縛から解放されて自分主語で生きた議論をすることの難しさを思い知らされました。また、国家と政府は違うという議論も出ましたが、議論はどうしてもそういう国家を運営する統治論に行きやすい。
今回はむしろそういう「常識」を超えて、個々それぞれが安心して暮らせるための仕組みとしての国家そのものを話し合いたかったのです。
ある人からも発言がありましたが、新型コロナ騒ぎは、これまであまり意識していなかった国家が、自らの生活につながっていることを可視化させてくれました。国家は私たちの生活をいろいろと制約してくる一方で、私たちの生活のよりどころであることも気づかせてくれたように思います。
どんなに政府を批判している人も、いわゆるアナキストでさえも、実際に国家という秩序体系がなかったら、安心して生きてはいけないでしょう。批判や非難は、それに依存していればこそ生じてくるものです。批判や非難に留まっていては、ビジョンは生まれないし、行動は起こらない。
最近は、国家の運営を委託された政府がいつの間にか国家を私物化し、国家を政府の道具にしてしまうような本末転倒が起こっている気がします。それは人(政府)のせいではなく、国家のありように起因しているのではないか。国家のありようが統治者(政府)を育てていくのであれば、政府を批判するのではなく国家のありようを変えなければいけない。政府や人を批判しても事態は変わらない。
参加者の一人がこんな話をしました。
最近、「核兵器廃絶」への取り組みが日本の憲法に則った行動であり日本国家の使命でもあると考えるようになった。しかし現実の日本の政府はそれに背を向けている。であれば、そうした政府の姿勢を正す責任が自分にはある。
とても共感できる意見ですが、でもその根底にあるのは、国家と自分を対立/対峙する関係に置いている考え方です。その点に、私は目を向けたいのです。国家とわれわれは、そういう関係から抜け出せないのか。共同幻想とも言える国家は、所詮は主体性などない「仕組み」でしかないのだから、「対峙」などできるはずはないのではないか。
みんなが暮らしやすくなるために作り上げた仕組みとしての国家であれば、「対峙」関係ではなく、私が望むことを実現するうえで役立つ仕組みではなければならない。いま頻発している政府と国民多数の意見との乖離は、「政府の問題」なのか「国家の問題」なのか。問題の立て方を間違えると、事態は何も変わらないのではないか。
国家という制度を活用して暮らしやすい社会を作り出すために信託した政府が、いまや国家という仕組みを自ら(政府関係者)のために逆用して、国民を管理し操作するような存在になってしまった。国民国家の国民は主体ではなく今や道具的存在になっている。
そうしたことは、立法、行政、司法のみならず、文化、スポーツ、教育などあらゆる領域で起こっている。
そしてそうしたことの不満は、目先の政府非難や政策批判に貶められてしまい、国家はますます国民(生活)を道具化してきている。最近、監視資本主義や道具主義という言葉が広がりだしていますが。人間は主役から国家の部品になってしまってきています。
そういう状況から抜け出すために、国家における秩序を考えるベクトルを反転させて、新しい国家を議論することが必要なのではないか。私たちは、自分の暮らしを支えてくれる国家のあり方について、考えだす時期に来ている。せめてそういう発想を持ちたいと改めて感ずるサロンでした。
長くてややこしい報告になってしまってすいません。
お時間があれば、添付した当日のメモを読んでもらえるとうれしいです。
ダウンロード - e7949fe6b4bbe381aee8a696e782b9e3818be38289e59bbde5aeb6e38292e88083e38188e3828b.pdf
これに関して議論したい方がいたらご連絡ください。
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