■節子への挽歌5109:人も世界も誰でもが創り出せるのかもしれません
節子
「ロビンソン・クルーソー」や「ガリヴァー旅行記」は、最初は、ロビンソン・クルーソーやガリヴァーの自叙伝として受け取られていたそうです。
著者のスイフトやデフォーの名前は本にも書かれていなかった。
大澤真幸さんの「主体の誕生」の本で、それを知りました。
人を産み出せるのは女性だけだという、映画「ターミネーター」のサラ・コナーの言葉にとても共感していたのですが、どうも人は誰でもが生み出せるようです。
そいえば、最近、見直した「ブレードランナー」でも、アンドロイドが懐胎した奇跡の話がモチーフになっています。
生み出せるのは人だけではありません。
世界もまた生み出せる。物語は世界であり、人はみんな「自分の世界」を物語として創りあげ、そこに生きている。
最近私が感ずる苛立ちは、そのせいかもしれません。
話していて、まったくと言っていいほど、私の考えが相手に伝わらないのは、世界があまりに違うからでしょう。知識レベルでの話はシェアできても、生き方につながるような話はシェアできないのかもしれません。
節子と世界をシェアできていたのはなぜでしょうか。
あれも、節子と一緒に創りあげた幻想だったのでしょうか。
そうかもしれません。
いやそもそも、節子などという人はいたのでしょうか。
考えていくとそこまで言ってします。
これも「ブレードランナー」の話ですが、亡くなったはずの妻が目の前に現れる。
しかし、瞳の色が違っていたために、別人だと気づいてしまう。
私ならどうでしょうか。気づかずに、いや気づいたとしても、抱いてしまうかもしれません。
これも映画ですが、「ソラリス」でも同じような場面もある。
死別した妻と全く同じ人が現れる。
その時彼もまた、妻と別の存在だと受け止めて排除するのですが、その場面を何回見ても私ならどうするかと考えてしまっていました。
人は自分で構築した世界の中で生きている。
他者とかかわることがなぜこうも煩わしいのか、これがその理由かもしれません。
でも、切っても切っても、一度できた関わりはそう簡単には切れません。
切った(切られた)はずの人から、またメールが来ました。
「去る者は追わず、来る者は拒まず」が私の生き方ので、煩わしさにちょっとげんなりしながら、関わりを再開しました。
またイライラが高じなければいいのですが。
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