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2021年9月

2021/09/30

■節子への挽歌5158:畑はやめることにしました

節子

久しぶりに畑に行ったら、もうまた「原野戻り」をしていました。
なにしろこの1か月ほど、ご無沙汰してしまったのですから、仕方ありません。

節子ががんばって「開拓」したところも、やはり継承はできないまま、放棄することになりそうです。
もう返却しようと思います。
経済的負担もちょっと限界に来ましたので。
いささか感慨深いものがありますが、節子も許してくれるでしょう。

節子が始めたことが、こうして次々と消えていきます。
しかし、畑に関しては、よくまあここまで続けてきたものです。
まあ節子は褒めてくれるでしょう。
節子がいなくなってからは、収穫はほぼゼロでしたが。

そういえば、家の片づけも少しずつですが、進んでいます。
節子の手紙やスケッチ、あるいは油絵なども、なかなか手が付けられません。
まあ結局はみんな捨てられることになるでしょうが、そう簡単ではないのです。

一番の難問は節子に日記です。
私は節子と結婚した時に、すべての日記を廃棄しました。
過去をすべて捨てようと思ったからですが、節子はそれまでの日記を持ってきました。
何となく捨てられなかったのです。
だから今も残っていますが、これをどうするか。

読むのはいまでも結構つらい。
むすめたちはたぶん読まないでしょう。
そういうものが、まだたくさんある。

前途多難です。
それでも畑はやめることにしました。
ちょっと重荷から解放されます。

 

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■令和版所得倍増計画への希望

岸田さんをまずは信じようと書きましたが、岸田さんの政策に賛成しているわけではありません。
たとえば、令和版所得倍増といわれる内容ですが、岸田さんの話からは相変わらず国民の多くは企業から給与をもらっているという前提を感じます。
だから企業を介して、給与を増やそうとしているわけです。

しかし、私のまわりには企業の給与で所得を得ている人ばかりではありません。そして今困っているのは、むしろそういう人たちです
しかもいわゆる非正規雇用のかたちで、企業従業員の給与とはかなり違う所得形態もあるような気がします。
池田内閣時代とは経済の構造や働く構造が大きく変わっているのです。
にもかかわらず旧態依然の仕組みを基本に考えていますから、むしろ令和版所得倍増政策が格差を拡大することも否定できません。

成長あっての分配、という発想も、同じように私には旧態依然のように思えます。
そもそもいくら成長しても、成長の仕組みが格差の拡大を前提にしていては、その成果を再配分するのは言い訳的な罪滅ぼしでしかありません。
経済の構造を変えなければいけませんし、逆に経済の構造を変えれば、今でも十分格差は是正でき、所得倍増(とまではいかないにしてもかなりの所得格差是正による所得向上)は実現できるでしょう。

これはほんの一例です。
しかし岸田さんは、格差を是正し、みんなの所得をあげたいと言っている。
だとしたら野党も批判ばかりせずに、どうしたらそれが実現できるかの提案をしっかりとすべきです。
声を聴くと言っている岸田さんは、その声を聴いてくれるでしょう。

まずは岸田さんの理念を信じたい。
そう思います。

 

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■岸田さんをまずは信じたいです

どうも私のまわりでは、自民党総裁に岸田さんが選ばれたことの評判はよくありません。
私は、ホッとしていますが、多くの人は河野さんに期待していたようです。

たしかに安倍政権での岸田さんの言動から、岸田さんにはあまり期待できない人もいるかもしれません。安保法制の議論の時の様子を私もしっかりと見ていますので、岸田さんには失望していました。

しかし、いま日本の政治に必要なのは、誠実さではないかと思っています。
そういう意味では、河野さんには誠実さは感じません。
脱原発発言にも全く信頼はできません。河野さんは、首相になった途端に、原発支援に変わりかねない。自らのワクチン行政への言及には、驚きました。小泉進次郎さんと同じく、決めつける人なので、世界はたぶんあまり見えていない。

私は、政治を任せる人には、誠実さと謙虚さを一番期待します。
それさえあれば、政策はみんなで議論していけばいい。
そのために国会と官僚制度があるのですから。
私にとって河野さんは論外の候補者でした。

ところで岸田さんです。
総裁になった途端に、もう否定的なことを言う人が多い。
「野党」も、顔を変えても自民党は変わらないと言い続けています。
言い換えれば、「野党」もまた、自らを変えようとしていない。
私には阿部さんや菅さんと枝野さんは同じように見えてしまいます。自分の狭い世界で生きている。それでは開かれた政治はできない。

しかし、国民側にも気になることが多い。
米国の神学者ラインホールド・ニーバーの有名な祈りの言葉があります。

-神よ
   変えることのできるものについ
   それを変えるだけの勇気を与えたまえ
    変えることのできないものについては
    それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ
    そして
    変えることのできるものと
    変えることのできないものとを
    見分ける知恵を与えたまえ

主旨はちょっと違いますが、私は決まったことからまずは考えたいといつも思っています。
日本の首相が岸田さんになるのであれば、まずは岸田さんに期待したい。
岸田さんのいいところを信じたい。
たとえば、岸田さんが、国民の声を「聴く」といっているのであれば、それを信じたい。
昨日の夕方の最初の記者会見の記者の姿勢には違和感がありました。

実はいま、地元でもある問題が起きていて、私は反対なのか賛成なのか、ある人に問われました。私は反対でも賛成でもなく、みんなにとっ
「いい結果」を目指したいだけです。少なくとも「反対」だけからでは何も始まらないと答えました。

批判するのはいい。
しかし相手の良さを見つけることも、大切なのではないかと思います。
岸田さんの良さを見つけて、それを応援していきたい。
その上で、批判すべきは批判し、必要があれば反対活動にも取り組みたい。
念のために言えば、仮に河野さんが総裁に選ばれても、私はそうしたと思います。

いずれにしろ日本の政治を方向づけているのは、私たち一人ひとりの行動なのですから。
ますは、信ずるところから始めたい。
信じない人から信じられるはずはありませんか。

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2021/09/29

■節子への挽歌5157:日本の総理大臣が代わりました

節子

自民党総裁選挙が終わりました。
めずらしく私の当初の予想通り、岸田さんが総裁に選ばれました。
節子だったら、おそらく野田さんがいいと思ったでしょうが。
高市さんや河野さんは、明らかに節子好みではないでしょう。

そう思いながら、2時間近い、総裁選の様子をテレビで観ていました。
まあ茶番といえば、茶番ですが、何しろこれがこれからの日本の行方を決めていきますから、無関心ではいられません。
岸田さんには流れを変えるだけの力は感じられませんが、もしかしたら首相になることで変わるかもしれません。
いや、そうなってほしいものです。

節子がいなくなってから、政治に関して話し合う機会が少なくなりました。
節子がいたら、どう話すでしょうか。
そんなことを思いながら、テレビを見ています。

日本の政治が変わっていくといいのですが、どうも今生では体験できそうもないなと思います。

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■節子への挽歌5156:老いた桜の木

節子

節子も知っている近くの道でがんばっている桜の老木が、いよいよ倒壊の危険性が高くなってきたので、伐採することになりそうです。
その話は、7月に市役所の道路課の人がやってきて、お話を聞いたのですが、近隣住民への説明会をお願いすることにしていました。
多くの住民に長年愛でされた桜ですので、思いの深い人もいるでしょうから。

コロナ騒ぎで集まりはできなかったのですが、そろそろ集められるようになったので市役所の道路課と相談しようと思いだしていた矢先に、道路課の人がやってきて、10月中旬に伐採したいと言ってきたのです。
そこから少しあわただしくなりました。

自治会役員のみなさんに相談して、緊急説明会をやろうと準備しだしたのですが、冷静に考えたら、まずは自治会の人たちに知らせることが先決だと思い、急きょ、回覧文書をつくり、各組長に配布しました。
そうしたら早速に長いメールが届きました。
どうも私は伐採反対と受け止めたようで、その人も反対派でした。
桜を残したいけれど、やはり近隣住宅の家の安全が第一なので、私は樹木医の意見に従いたいという主旨の返信をしましたが、これがまたもめなければいいのですが。

とかく住民の意見をまとめるのは難しいのです。
しかしそもそも市街地に大きな木があることに問題がります。

やはり駅に行く途中の道沿いに背の高いヒマラヤ杉があります。
倒壊したら大変ですが、伐採も大変です。
巨木はやはり市街地にはなじまないのですが、倒木しても家には被害の中人たちは、残したがる。
住民運動の難しさの本質がそこにあるような気がします。

今日は、さらにまた全く別件の住民活動に関して、長電話がありました。
こちらは自治会とは無関係の、市民活動の関係ですが、これもまたややこしい。

さらに今また、市役所の道路課の、桜関係とは別の担当者が、道路工事のお知らせを持ってきて、住民各位に配布してほしいというのです。
昨日届けてくれたら一緒に届けられたのに、横の連絡をしてほしいものです。

住民との付き合いも疲れますが、市役所職員との付き合いも疲れる。
午後から、さらに何かなければいいのですが。
もうやってられないなという感じになりそうです。

まあそれはともかく、長年見慣れていた桜の木が切られるのは残念です。
花かご会に取り組んでいた節子ならどうしたでしょうか。
昨夜届いた長いメールの人に同調するかもしれません。

私にはとてもその元気はありませんが。

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■節子への挽歌5155:使われることのなかったトレッキングシューズ

節子
昨日書いた「使われることのなかったトレッキングシューズ」のことを書いておこうと思います。

節子の胃がん手術の後、2年ほど、転移もなく、体力も戻ってきた時期があります。
節子は貪欲に、友人たちに会いだし、旅行にも行きだしました。
私もほとんど付き合うようにしました。
対価をもらう仕事はすべて一斉にやめ、なかなか断り切れないボランティア活動も減らしていきました。

あまり遠出はできませんでしたが、バス旅行にはよく行きました。
申込はすべて節子。
山が多かったような気がします。

どんどん元気になってきて、山をあることも増えてきました。
それで、これからはバス旅行ではなく、山歩きをしようということになり、2人でトレッキングシューズを買いに行きました。
それで購入したのが、この靴でした。
それぞれの好みで買ったのでお揃いではありませんが、店員のアドバイスを聞きながら、履きやすいものを選びました。

Img_20210927_161724
ところが、その少し後にがんの再発が確認されたのです。
そうして、山歩きは、実現することはなかったのです。
節子がいなくなってから、2つの靴は捨てられることなく、そのまま奥にしまわれたまま、忘れられてしまったのです。

このトレッキングシューズこそ使われることはありませんでしたが、節子も私も山歩きが好きでした。
登山ではありませんが、単なる山歩きですが。
ただ子供が小さかったころは、4人でよく登山もしました。

一つだけ記憶に残っているのは、茨城県の加波山登山です。
4人で早朝に出かけるはずだったのです、前夜、私たちは夫婦げんかをしてしまい、私は行かないと言ってしまったのです。
ところが、早朝、節子は娘たちを連れて3人で出かけてしまったのです。
追いかければよかったのですが、その頃はまだ私も意地っ張りだったので、追いかけはしませんでした。
加波山は、手前にある筑波さんよりは厳しい山だと聞いていますが、3人は無事、登って買ってきました。しかも下山したところで農家の人にお土産までもらって。
これは私には忘れられない失策の一つです。

まあそればかりではなく、山登り・山歩きに関してはたくさんの思い出もあるはずですが、私はほとんど覚えていないのです。
ともかく私は記憶力が悪いのです。
海外旅行でさえもあまり覚えていない。
それに対して節子は、記憶力がよく、旅行先でのことをよく覚えていました。
メモもよくしていました。今も節子の残したものを整理していると、旅行先で書いたメモがたくさん出てきます。

節子が使わずに残したトレッキングシューズ。
さてさてどうしようか迷っています。
それを見ていると、勝った時の様子がはっきりと思いだされます。
記憶力が悪い私も、そういうちょっとしたワンシーンは、時々、鮮明に映像だけが思い出されるのです。

そのお店には、あれから一度も言ったことがありません。近くにっても入店する勇気さえありません。

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2021/09/28

■節子への挽歌5154:また下駄箱から落ちてしまいました

節子

昨日、玄関の備え付けの下駄箱から落ちてしまいました。
高さは1メートルもないのですが、落ち方が悪かったので胸を打ってしまいました。
なぜそんなところに登ったかといえば、捨てたと思っていたトレッキングシューズが、背の高い下駄箱の上に残っていたのに気づいたのです。
今度、筑波山に登るのですが、その時に使えるかもしれません。
それでそれを取るために、隣の背の低い方の下駄箱の上に乗ったのですが、そこから遠くの靴の箱を獲ろうとしてバランスを崩したのです。
困ったものです。

幸いにたぶん骨は折っていないでしょう。以前、階段から落ちた時ほどではありませんでしたので。しかし、夜になってから痛み出して、慌てて湿布を張りました。

おかげで、登山時の転落事故のための予行演習ができました。
痛みの体験も、です。
ユカもジュンも居合わせていたので、厳しく叱られました。
困ったものです。

ちなみに、トレッキングシューズは、私のと節子の2足でした。
結局、履くこともなく終わった靴です。
それを思うと、また辛くなります。

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■節子への挽歌5153:またメダカの異変

節子

わが家の水槽のメダカが、なぜかあまり泳がなくなりました。
水草が多すぎるのかと思い、減らしたのですが、元気がありません。
しかも岩陰に潜むようになってしまいました。
酸素不足かなと思い、ポンプで酸素を送りましたが、状況は改善せずに、2匹が死んでしまいました。
理由は判らないのですが、この間、変わったことといえば、見栄えが良くなるという砂利を下に敷いたことです。
これが原因でしょうか。
もしそうなら余計なことをしてしまいました。

残るは2匹だけ。
春に生まれた子メダカはすべて湯島に移したので、家にはいないのです。
このままだとまた絶滅しかねません。

最近、どうも冬を越せないのです。
もっともまだ冬にはなっておらず、季節的にはいいはずなのですが。

幸いに湯島のメダカは元気です。
だいぶ大きくなってきていますが、冬を越せるかどうかは心配です。

最近どうも「生き物」に元気をやる元気がなくなってきたのかもしれません。

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■湯島サロン「お金のない社会って想像できますか」報告

「お金のない社会って想像できますか」サロンは9人の集まりになりました。
立場や関心もさまざまな人の集まりなので、話題は多岐にわたりました。

実際に、現在の貨幣とは考え方の違う「自由通貨」に取り組んでいる人もいました。
お金に呪縛されない、新しい経済に実践的に取り組もうとしている20代の若者もいました。
お金よりも信頼や支え合いを大事にしているアーミッシュ・コミュニティに関心のある人もいました。
わらしべ長者の資料を持ってきてくれた人もいました。
岩井克人さんの貨幣論や共同幻想論に詳しい人もいました。
細胞で成り立っている人間を社会としたら、そこで「貨幣」的な役割を果たしているのは何だろうと考えている人もいました。
ITに詳しく、仮想通貨に関しても意見をお持ちの人もいました。
3Dプリンターなどを操作して、限界費用ゼロ社会を実現し、市場資本主義から協働型コモンズへと経済のあり方を変えようという動きもありますが、3Dプリンターを活用してすでにそうした世界に触れているだろう人もいました。
あんまりお金に関心がなくて、お金から自立した生活を長年送っている人もいました。
私も以前、コモンズ通貨という各自が勝手に発行する通貨の(つまりお金から自由な)コミュニティに挑戦したことがあります。

とまあ、これほど多様な人が集まれば、議論はまとまらないのは当然です。
多様な視点からの話し合いが展開しましたが、あまりに論点が移るので、大事な議論が掘り下げられないという意見も何回か出されましたが、それも虚しく、議論は広がる一方でした。なにしろサロンですので。

世界には、お金のない社会をイメージし、提唱している人は何人か言います。
たとえば、もう故人ですが、未来学者のジャック・フレスコさんは、お金は究極の腐敗原因であるとして、お金のない世界の青写真を描いていました。それは簡単に言えば、
地球上の資源を全人類の共有財産と定めた「資源ベース経済」です。
また、一時日本でも話題になった、ポール・メイソンの「ネオ・キャピタリズム」は、製品製造コストがゼロで所有権が弱いという性質を持つ情報基盤の経済を提唱しています。そこにベーシックインカムを持ち込めば、お金に呪縛されずにみんな生きられるでしょう。
日本でも、コモンズの経済学が提唱されています。

また、実際にお金から自由になるコミュニティを目指す動きはこれまでもありました。
日本でもいまもありますが、たとえば今回話題になったアメリカの「アーミッシュ・コミュニティ」もその一つです。お金がないわけではありませんが、基本は人と人との信頼関係と支え合いを基本にコミュニティが成り立っています。そんな話題も少し出ました。

ベーシック・インカムも地域通貨も話題になりました。
恩送りと恩返しの話も出ました。
ともかく話題は途切れることなく、予定より1時間も伸びて、話し合いは広がりました。
考えは多様でしたが、みんな「お金に制約されて生きる社会」ではなく、「お金を活かした自由な社会」を望んでいるという点では一緒のような気がしました。

お金が万能の社会になってきている一方で、そうしたお金に縛られない生き方を、目指す人も増えてきています
そうした時代の岐路の中で、お金との付き合い方を考えてみる時期かもしれません。
それは一人でもできますので。

Nomoney20210926

 

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2021/09/27

■自民党総裁選に感ずること

自民党総裁の選挙日が2日後になりました。

関心のない方も多いでしょうし、誰がなっても政治は変わらないと思っている人も少なくないようです。たしかに、誰が総裁になっても、あまりかわらないかもしれませんが、総裁選のおかげで、わかったことも少なくありません。
4人の候補者の話とテレビがどういう形で報道するかに興味があったので、テレビはできるだけ見るようにしていました。
私は、いずれにしろ岸田さんになると思っていますが、4人の発言やテレビの報道姿勢を見ていて、日本の政治に対する考えは変わりました。

まず、これからの政治は女性に任せるのがいいと思うようになりました。
これまでの政治は、古代アテネからずっと「男性による政治」という歴史が続いてきていますが、そろそろ「女性による政治」へとうつる時期かもしれないと思ったのです。
これは4人の公開討論会を何回か見ての感想です。
というのは、政治思想とは関係なく、女性たちの話しぶりがとてもいいのです
私には全く受け容れられなかった高市さんさえも、その話しぶりに好感が持て、出てきたらチャンネルを変えることもなくなりました。

「男性による政治」から「女性による政治」への転換は、政治の意味合いを一変させるでしょう。「言葉の政治」から「生活の政治」へと変わるような気がします。
それは私には肯定できる変化です。

しかし、政治家の評価が政策(思想)から話し方や表情や誰と付き合っているかなど(つまり生活レベルの外観)というところに重点が移り、まさにタレントの人気投票と同じようになりつつある気もします。今日のテレビでは候補4人が、どんなタレントと付き合っているかまで紹介していました。そこには、タレント同士の「助け合い」マーケティングのようなものを感じます。言い換えれば、政治家もまたタレントになっていくような気がします。
日本の政治はいまや完全にメディアに乗っ取られた感じです。

逆に言えば、実際の政策を動かす政治は舞台の裏に隠れていくのでしょう。
そうであれば、この4人の誰でも総裁になれるでしょう。
DS(ディープステート)構造は日本でも進化しているような気がします。
これは私にはとても肯定できる変化ではありません。

それでも、その後の総選挙の投票率が高まればいいなあという気もしないでもありませんが、そんな形で投票率が高まったとして、果たして意味があるのかという疑問も出てきました。
私の政治観が時代に合わなくなってきているのでしょう。

歳をとると世間から離れて隠棲するのがいいという意味が、少しわかるような気がしてきました。

 

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■自民党総裁選に感ずること

自民党総裁の選挙日が2日後になりました。

関心のない方も多いでしょうし、誰がなっても政治は変わらないと思っている人も少なくないようです。たしかに、誰が総裁になっても、あまりかわらないかもしれませんが、総裁選のおかげで、わかったことも少なくありません。
4人の候補者の話は、テレビだけですが、できるだけ見るようにしていました。
私は、いずれにしろ岸田さんになると思っていますが、4人の発言を視聴していて、イメージが変わったこともあります。

これからの政治は女性に任せるのがいいと、まず思うようになりました。
政治思想とは関係なく、女性たちの話しぶりがとてもいいのに驚きました。
高市さんの政治思想とは真反対ですが、その話しぶりには好感が持てました。
野田さんの姿勢は、私が考える政治家のイメージにぴったりでした。
念のために言えば、おふたりとも、私はこれまで主体性のない操り人形だと思っていましたから、女性などという認識は持っていませんでした。
また2人の応援団としてテレビにも出てくる女性政治家は、相変わらずだと思いましたが。

河野さんの人気が高い理由は、何回、彼の話を聞いてもわかりません。
小泉純一郎さんの時もそうでしたが、いわゆるポピュリストというのはこんな人のことなのかと思いますが、なぜ人気があるのか理解できない。
何か私に大きな勘違いがあるのかもしれません。

岸田さんは、最初のスピーチには共感しましたが、だんだんスピーチに勢いや信が感じられなくなってきました。またまた「言葉」だけのスピーチになってきてしまった。自民党改革という言葉も虚しく感じるようになりました。
でもまあ、今の自民党の人たちは、岸田さんを選ぶのでしょう。
小石河連合などという、バカげた騒ぎが盛り上がらなかったのは、私にはせめての救いです。

野党」勢は相変わらず、自民党政権寄生主義から抜け出していない気がします。
いまになってもまだ自民党政権を批判してばかりですので、埒があかない。
そんな気がします。
これに関しては、元大阪市長の橋本さんのコメントに共感します。

誰が自民党総裁になっても、政権は代わるだろうと期待していましたが、どうもまた夢に終わりそうです。
しかし、4候補者や政治ジャーナリストの話を聞いていて、私自身の政治感覚もかなり現実とずれてきていることに気づかされます。
特に戸惑うのは、私とは真反対の政治思想を持っているだろう人の意見に、なぜか共感することが多いのです。そんなはずではなかったはずなのに。

政治は、「政治」を捨てたところから始まるのかもしれません。
改めて「政治」とは何かを考えてみたくなりました。
そういう意味で、私には今回の自民党総裁選騒ぎは、気づかされることの多いものでした。
結果も見えてきたので、もう関心はほとんど消えてしまいましたが。

 

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2021/09/26

■節子への挽歌5152:80歳だから話さない

節子

ユカから聞いた話です。
今日はユカの誕生日で、ジュンとにこと3人で回転寿司に行ったそうです。
私は湯島に行く日だったので、参加はしませんでしたが、ユカに、にこにどうしておさむさんと話をしないのか訊いておいてほしいと頼んでいたのです。

一時期、話さなかった理由は心当たりがあります。
私がきちんと「にこ」という名前を呼ばずに、「ちびたん」とか「にこベー」とか呼んでいたからです。それが嫌だったそうです。

その後、私も反省して、名前で呼ぶようになったのですが、なぜかまた時々、話さなくなる。
まったく話さないわけではなく、昨日のように2人で出かけた時などは、自転車をこぎながらでもひっきりなしに話しては来るのです。
しかし、帰宅するとまたなかなか話さなくなる。
昔はよく「タッチ」もしていましたが、今は返してこない。

そこで、ユカに頼んで、訊いてもらったわけです。
私が直接質問しても答えがないからです。

その答えはなんと、「80歳だから話さない」ということだったそうです。
そういえば、以前、一度、私のことを「死んだおさむさん」といったことがあります。
もしかしたら、にこには私が半分彼岸に行っていることが見えているのかもしれません。

子どもは、56歳の頃まで、誕生前のことや前世のことを記憶していると言われます。
私もとき度、にこに、生まれる前のこと思い出した?」と質問していますが、「思い出さない」といつも応えられます。でももしかしたら、思い出しているのかもしれません。

そうした私には見えない世界が、時々、見えてきて、話さなくなるのかもしれないというのが私の考えなのですが、残念ながら確かめようがない。
でも、「80歳だから話さない」とはどういうことか、改めてにこに訊いてみようと思います。
どういう答えが返ってくるでしょうか。

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■10月オープンサロンのご案内

10月のオープンサロンは次の2回開催します。
テーマはなく、話したい人は話す、聞きたい人は聞く、そんな気楽なサロンです。
気が向いたらどうぞ。
開場は1時50分、それ以後の出入りは自由です。

〇日時:2021年10月11日(月曜日)午後2時~4時
           2021年10月30日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ   
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

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■アーミッシュ

湯島のサロンによく参加する友人から、NHKラジオ宗教の時間の「アーミッシュ その暮らしと信仰」を聴いたが、サロンでよく話題になる「政治?国?に縛られない社会」のひとつの実践例だと思うとメールしてきました。
いまもまだネットで配信しているので、放送を聴けるのでと教えてくれました。
併せて、他の方にも紹介していただけたら嬉しいと書かれていました。

 「アーミッシュ」は、名前はご存じの方も多いと思いますが、愛と信頼に基づくコミュニティを大事に守って、アメリカで生活している人たちです。
時代に抗っての生き方ですが、20年ごとに仲間は倍増し、このままいくとアメリカの人口の半分がアーミッシュになるのではないかというジョークさえあるようです。

このラジオ番組を私も先ほど聴きましたが、30分でとてもわかりやすく、アーミッシュの友人も多い堤純子さんが紹介してくれています。
私たちの生き方に関しても、大きな示唆がたくさんあるように思います。
1017日の午前9時までだと次のサイトからネットで聴けますので、もしお時間があれば、ぜひお聞きください。
https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=0424_01_3721797

話し手の堤さんはアーミッシュ関連の本も何冊か出されていますが、今年もまた「アーミッシュの老いと終焉」という本を出版しています。これもとても読みやすく、またこれまでの本の集大成のような内容ですので、お勧めです。

ちなみに今日は、湯島で「お金のない社会を想像できますか」というテーマでサロンをします。アーミッシュの放送を紹介してくれた人も参加しますので、アーミッシュも話題になるかもしれません。
お時間があれば、ご参加ください。

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2021/09/25

■節子への挽歌5151:孫との冒険

節子

午後、部屋にいると孫のにこがやってきて、おさむさん、自転車で本屋さんに行こうと言ってきました。
娘に頼んで、自動車で本屋さんに連れて行ってもらおうと思って、誘ったのですが、なんと自転車で行きたいというのです。
にこと2人で、自転車で出かけたことはありません。
本屋さんは、わが家から自転車で10分ほどですが、隧道があったり、大通りを横切ったり、とまあそれなりに難所もあるのです。
幸いに娘から許可が出ました。

2人で自転車で行くのも、私が独りで買い物をするのも、初めてのことです。
出かけるときに、にこは母親に、もしおさむさんが倒れたらおさむさんのスマホでママに電話するというのです。私が大丈夫だよというと、だっておさむさんはもう80歳だから、というのです。
おやおや。

初めての、にことの大冒険を記念してに、にこの写真を撮って、スタート。
にこは、ヘルメットをかぶり、マスクをもって、私の先を行くことになりました。
無事、お店に着いたのですが、几帳面な子なので、お店に近づいて人が多くなったらマスクを取り出して、装着。

お店の近くに私の兄夫婦が住んでいるので、そこに寄ってみようかと提案したのですが、即却下されました。理由は、だっておさむさんは出かけるときにそう言わなかったでしょうというのです。私と違って、生真面目すぎる。困ったものです。
しかし、にこに理があるので、兄宅訪問はあきらめました。

書店での本選びは難航しました。
というのも、にこのお目当ての本はなかったようなのです。
そこから新たに選び出したのですが、これが時間がかかるのです。
私がいいなと思うのとにこが選ぶのはかなり違います。
結局、にこが2冊の本を選びました。

本屋さんの前に駄菓子屋さんがりますので、お菓子を買おうかといったら、出る前の予定にはなかったにもかかわらず、一つだけ買うと言い出しました。
彼女もお小遣いを持ってきているのだそうです。
63円の飴を選んだのですが、1本だけではなく数本買おうと思ったら、1本だけだと、これは妥協なしでした。

お店を出たところで、幼稚園の友だちを見付けて、挨拶をしに行っていました。
私もにこについていきましたが、子供たちは友だちは遠くd\でも素早く見つけるものです。これはこれまでも何回か経験しています。

帰路、駐輪場から少し離れたところに来たら、急に止まったのでなんだと思ったら、マスクをはずしました。私もそれに従って、マスクを外しました。
帰りはだいぶ慣れたので、ちょっと回り道をしました。
そして無事帰宅、孫との初冒険はこうして成功しました。

それにしても、どうしてにこは私を誘いに来たのでしょうか。
もしかしたら、先日の敬老の日に持ってくるはずのプレゼントを持ってこれなかった埋め合わせかもしれません。
どうして自転車で行くことにしたのかとにこに訊いたら、だっておさむさんもにこも自動車は運転できないから、と答えました。
確かにこれも理に合っている。
にこは私と違って、合理的で几帳面です。

にこと付き合うのは大変そうです。
私がいい加減な対応をすると、しばらく口をきかなくなることもあるのです。
困ったものです。

 

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■節子への挽歌5150:傘寿

節子

昨日、久しぶりに渕野さんが湯島に来ました。
肺がん手術後、がんは克服しましたが、やはり体力はかなり低下し、湯島の急な階段を上るのも大変で、最近はあまり来られなくなりました。
それでも昨日のように、突然ひょこっと現れます。

彼は節子のお見舞いにもご夫妻で何回か来てくれています。
会社時代の友人ですが、私がやりたかったプロジェクトに巻き込んだので人生を変えてしまったかもしれません。
私にとっても、そのプロジェクトは人生を変える結果になったのですが。

彼は私に、傘寿ですね、もう会えなくなると悪いので顔を見に来ました、といいました。
それに今度山に登るそうだし、とも付け加えました。
確かにそういわれても仕方がない歳になりました。
しかし、傘寿などといわれても、当の本人である私はピンとこないのですが。

昨日、帰宅したら、小畑さんから手紙が届いていました。
これまた私が筑波山に登るなどと言い出したので心配して、ご自分が昔、登山であやうく事故にあいそうになった顛末の記録を書いたものを送ってきてくれたのです。
どうも私は、みんなから頼りなくてあやうい存在のように思われているようです。
困ったものです。

それにしても傘寿。

まさかこの歳まで生きるとは驚きですが、しかし、死ぬことを考えたこともありませんので、もしかしたら死ぬ準備ができていなために生きながらえているのかもしれません。
もしそうなら本当に困ったものです。
いつ死んでも大丈夫のように、少しは死を意識した生き方に替えなければ、米寿までまた生き続けてしまうかもしれません。
私よりも若い人との別れがなければ、まあそれはそれでいいのですが、いささか気が重いです。

一人での長生きは、あまりいいことはありません。

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■オープンカフェサロン報告

9月2回目のオープンサロンもにぎやかでした。

最近、オープンサロンによく来る人から、テーマサロンはどうも敷居が高い気がすると発言がありました。決してそんなことはないと私は思っているのですが、どうもそういう印象も強いようです。私が書く報告が誤解を与えている一因のようです。
しかしいずれにしろ、湯島のサロンは敷居などのない開かれた場なので、テーマなどあまり気にせずに、気楽にご参加いただければ嬉しいです。

今回は久しぶりに参加してくださった方も少なくありません。
コロナ騒ぎも少しずつ落ち着いてきたので久しぶりに来たという人もいました。
リモートの集まりからそろそろまたリアルな集まりへと戻りつつあるようですので、湯島のサロンも、そろそろ頻度を下げてもいいかもしれません。
あるいはサロンのスタイルも変えてもいいかなと思いだしています。

それはともかく、今回のオープンサロンも実ににぎやかでした。
いろんな話題が出ましたが、あまりにもたくさんお話があったので紹介しきれませんが、印象的だったのは、コロナ騒ぎでいろんな変化が起きていることでした。
私自身は、社会のあり方や自らの生き方を改めて問い直すいい機会だと思っています。

コロナ騒ぎで仕事環境が大きく変わってしまったというフリーランスの方の話から、タテ関係組織とヨコ関係組織の話が出たり、「生産性」論議や事業(プロジェクト)起こしのスタイルの話も出ました。
お金とボランティアの話も出ましたし、いじめ、というか、みんなで寄ってたかって標的を決めて非難する風潮も話題になりました。
コロナだけではなく、ネット社会によって若者たちの世界が大きく変わろうとしている話も印象的でした。スマホのラインでつながっている安心感の話は、考えさせられました。私にとっては、人のつながりといえば、フェイストゥーフェイスか精神的なつながりなのですが、いまの若い世代にはスマホで実際にずっとオンにしているようなつながりもあるようです。

まあいろんな話が行きかっていましたが、それがオープンサロンの面白さです。
今回も予定の時間を1時間もオーバーしてしまいました。

コロナがおさまった後、どうなっていくのだろうかというのが、大きなテーマのひとつでしたが、コロナ騒ぎで公衆衛生への関心が高まったので、日本人の平均寿命は延びるだろうと久しぶりに参加された方が話されたのが印象的でした。
そうなるといいのですが。

ちなみに今回に限らず、サロンの報告は実際の話し合いのほんの一部だけです。
テーマサロンもそうですが、実際の話し合いは、もっと雑然として、気楽です。
決して敷居はありませんので、気楽にご参加ください。

Opensalon20210924

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2021/09/24

■茶色の朝の社会の到来にぞっとしています

昨日、テレビで、九州の臼杵市の市議会の話題が取り上げられていました。
問題になっているのは若林議員です。
若林さんは、8月、市内の中学校の周辺などでマスクを着けずにワクチンについてのチラシを配ったとして議会から厳重注意を受けたそうです。
議会ではマスクを正しく着用することを申しあわせているそうですが、若林さんは21日の委員会にマスクから鼻を出した状態で出席。委員長が適切なマスクの着用を何度も促したが、若林議員が従わなかったため発言が許可されなかった、と言います。
若林さんは法的な根拠もなくマスクの着用を強制するのは問題であり、そのことを理由に議員活動を制限することなどには納得がいかないとテレビでも話していました。

まあそれだけのことなら、私はよくある事件として見過ごすのですが、その後の報道にぞっとしました。
その件に対して、市民の反応を聞いているのですが、登場した全員が全員、若林さんを非難しているのです。
まさに世論は報道が作り出している。
いまやもう日本は、「茶色の朝」の社会になってしまったのか、とぞっとしたわけです。

日本からは人間がどんどんいなくなっているというのが私の最近の感覚なのですが、報道機関にはもう人間はいないのでしょうか。そうは思いたくないのですが、このニュースの報道姿勢には唖然としました。
そもそも国民に義務を課すということが、こんなに安直に語られていいのか。
コロナは、日本人の本性を暴き出してくれたような気もします。

ちなみに私は、若林さんの主張に共感しているわけではありません。
鼻だしマスクをするくらいならマスクをするなと思いますし、チラシを配るよりも行動しろといいたいですが、彼を非難する人だけを集めて報道する報道機関に恐れを感ずるのです。
そういう報道に怒りを感じない視聴者にもですが。

ワクチン報道も、少し冷静に考えればおかしなことばかりです。
なにやらわけのわからない言葉も、コロナ以上に異常増殖している気がしますが、人間がマスクに滅ぼされる未来を想像するといささか憂鬱になります。
そろそろまた「茶色の朝」サロンを開きたくなりました。

ちなみに、私はマスクそのものを否定しているわけではありません。いつも私の記事はきちんと読んでもらえずに(あるいは私の表現力不足で)ピント外れのコメントが多いので、念のため。

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2021/09/23

■節子への挽歌5149:お彼岸の墓参り

節子

お彼岸です。
みんなでお墓参りに行きました。

お墓はわが家から自動車で30分くらいのところなのです。
節子を見送った時には、毎週、お花をもっていこうと思っていましたが、次第に頻度は減ってきてしまい、最近、月命日にも行かなくなり、年に数回になってしまいました。
人間はいかにも怠惰です。
私だけかもしれませんが。

お彼岸なので、お墓はにぎわっていました。
今年はコロナの関係で、お施餓鬼の集まりも基本的に参列は中止になり、新しい塔婆はお寺の方で入れ替えてくださっていました。

昨日、半田さんとの話でもちょっと話題になりましたが、葬式仏教と批判する人がいますが、葬式仏教の何が悪いのかと私は思います。
死者との付き合いを大事にするという意味では、葬儀はとても大切なのだろうと思いますが、今回のコロナで状況は急速に変わってしまい、葬儀の簡素化が進んでいるようです。ますます死者は遠い存在になりそうです。

にこには、一応、お彼岸の意味も話しましたが、伝わっている確信は持てません。
お墓ももうじき、なくなっていくのでしょうか。

そう思うとなんだか無性にさびしいです。

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■講演会「『ファースト・侍!平将門さま』のご案内

10月9日(土曜日)の午後、我孫子の湖北地区の公民館(コホミンホール)で、“The First Samurai  Taira Masakado”の著書、カール・フライデーさんをお招きして、講演会「『ファースト・侍!平将門さま』を開催します。
市民のチカラまつり 2021のイベントの一環ですが、主催は我孫子カルチャー&トーク・将門プロジェクト共同企画の実行委員会(委員長:芦崎さん)です。

案内チラシを添付します。
フライデーさんは日本語も堪能なので、講演も日本語で行います。

会場となるコホミンホールは、平将門の居館が我孫子にあったと提唱している我孫子の戸田さんによれば、まさにその将門居館のすぐ近くになり、将門神社や将門ゆかりの観音寺がいまもあります。お時間があれば、講演会の前後にちょっと回ってみるのもいいでしょう。将門プロジェクトではそのウォーキングツアーもいつか企画したいと思っています。

講演会では、参加した人たちとフライデーさんとの話し合いも予定しています。
また将門にちなんで、湖北の和菓子屋「福一」さんが創作した「将門餅」を希望者には用意してもらえる予定です。
多くのみなさんのご参加をお待ちしています。
参加予約は要りません。資料代500(将門餅1個付)希望者のみ。

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2021/09/22

■節子への挽歌5148:半田研究室

節子

久しぶりにお茶の水女子大学の半田研究室を訪れました。
今年度で定年だそうです。
半田さんとは彼が大学院生の頃からの付き合いですが、半田さんのおかげで、いろいろな体験をさせてもらいました。私よりも若いですが、教えられることが多々ありました。
価値観はちょっと違うところがあり、まだ合意できずに決着のつかないテーマがいくつかありますが、まあそれは現世では解決しないでしょう。

今日は久しぶりに研究室を尋ねました。
相変わらずの普段着とサンダルでしたが、守衛さんは無事通過、しかし学内の警戒のすごさに驚きました。10メートル間隔で立っている警備の人になんだか注目されているようなので、マスクを外しましたが、逆効果だったかもしれません。怪しまれるよりも問いかけるほうがいいと思い、何かあったのですかと尋ねてから気づいたのですが、今日はいつもと違い、平日だったのです。それで合点しました。高校までは通常の通学日なのです。

半田さんとは久しぶりなので、いろいろと話しましたが、雑談の中に、自由意思はあるのか、命を絶つ権利はあるのか、宗教をどう捉えるか、記憶とは何か、など、いろいろな論点が飛び交いました。久しぶりに、日常用語で深遠な会話ができました。
不思議なことに今回は、そう意見の違いはありませんでした。半田さんが手加減してくれたのかもしれませんが。

大きな研究室で、周辺では10台以上のパソコンが動いていました。なんでこんなにたくさんあるのかと訊いたら、みんなそれぞれ仕事をしているのだそうです。たしかに画面を開くと何やら動いていました。どうも半田さんの助手はAIのようです。

半田さんが来年から何を始めるか楽しみです。
彼のことですから、また何か面白いことを始めるでしょう。

半田さんは、節子もよく知っていて、入院中にわざわざお見舞いに来てくれました。節子は寝ていたので、会えないままでしたが、枕元に花束があったのでわかったのです。半田さんは、そういう人ですが、いまも変わっていません。

彼の講義に出た若者の何人かは、人生を変えたかもしれません。
そんな半田さんが大学を去るのはとても残念です。

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■節子への挽歌5147:14年前の約束

節子

昨日、手紙をくださったSさんのメールでお礼の返信を差し上げました。
早速にまた、それへの返信がありました。

私は節子さんとのお約束が果たせず心残りの思いがずっ~と有ります。
せめて何時の日にか節子さんの菩提に手を合わさせて頂けたらと願っております

思ってもいなかった内容です。
節子が逝ってしまってから、もう14年以上が過ぎているのですが、いまなお、こういうことを思っていてくださる方がいる。
「約束」の内容は知る由もありませんが、私の場合、こんなに「ずっ~と」心に残してくれるような友人はいるでしょうか。
まあいないでしょう。
節子は、実に幸せな人だなあと思います。

私も少し生き方を見直さなければいけません。

 

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■野菜不足の朝食が続いています

今日は、どうでもいい話です(まあ、いつもそうですが)。

私の朝食はトースト中心です、
トーストはサンジェルマンが好きですが、経済的な理由でサンジェルマンは娘が買ってきてくれた時だけで、普段はフジパン本仕込みです。
それにマーガリンとビアソーセージ、それにたっぷりのサニーレタスが基本です。
マグカップにたっぷりの珈琲は時々お替りしますので、かなり飲みます。
それに青汁豆乳バナナジュースと黒酢ドリンク、そしてメカブです。
水分が多いのは、脳神経外科の医師から言われているからです。
果物も欠かせません。だから果物の多い秋は私にはいい季節です。

ただ最近、少し内容が変わってきています。
秋なのに、果物が少ないのです。秋だからいろいろとあるだろうと娘に言いますが、例年よりも高いそうで、何か少ない気がします。

しかし問題は、サニーレタスです。
この1週間、食べられずにいます。
理由は高いからです。いつもの3倍もするので、私自身も我慢しているのです。
娘がサニーレタスの苗を買ってきて植えてくれましたが、食べられるようになるのは時間がかかります。
当分、サニーレタスなしの朝食が続きそうです。

私は月に数回、娘と一緒にスーパーに行きますので、物価に関してはそれなりに感じていますが、最近の野菜や果物の値上がりはかなりです。
しかしその一方で、工業製品的な食品はあまり価格が変わっていません。
そればかりではありません。お惣菜やお弁当類の価格もむしろ安くなっているような気がします。
こうした価格の跛行現象に、経済の先行きが少し見えるような気がしますが、それ以上に、価格は消費者の好みが決めているのだなと痛感します。

それともう一つ、不思議に思うのは、同じ工業生産的食品の価格が、お店によって大きく違うことです。すぐ近くのお店で、同じ商品が倍近い価格で売られていても、価格は収斂しないのです。いや、同じお店でさえ、同じ商品が時に5割安くらいで売られることがあるのです。

そういうことが面白く、私は月に数回、娘に頼んで、いろんなお店に連れて行ってもらいます。そこからいろんな社会の実相や経済の仕組みが見えてくる気がします。
統計でみる経済が、いかに現実と乖離しているかは、毎週、スーパーの店頭に行くだけでかなりわかります。
真実は現場にある、というのが私の生活信条の一つですが、ますますそう確信してきています。

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2021/09/21

■節子への挽歌5146:ススキと中秋の名月

節子

夕方、にこがススキと彼岸花を持ってきて、仏壇に供えてくれました。
彼岸花は庭で咲いている者、ススキは夕方買い物に行ったお店でもらってきたのだそうです。

にこは、2階に来ると必ず仏壇にお線香をあげます。
ろうそくの火からお線香に火を移すのが気に入っているようです。
そして手を合わせて、その後、時々、仏壇にいたずらしますが、まあそれもいいでしょう。

今日は中秋の名月ですが、久しぶりに満月に重なったようです。
あいにく天気があまりよくないのですが、朧な満月が窓の外に見えます。
ユカが動画で撮影しドビュッシーの「月の光」を埋め込んでくれたので、フェイスブックにアップしたら好評でした。
窓から見る月の下に、教会の塔がライトアップされてとてもいい感じです。

中秋の名月には、庭で月を愛でながら団子を食べてこともありましたが、節子がいなくなってからは、そういう機会は減りました。時々、ユカが企画してくれますが、どうも私も気が乗らなくなっています。

月にはなぜか死者を感じます。

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■節子への挽歌5145:思ってもいなかった人からの手紙

節子

思ってもいなかった人から手紙が届きました。我孫子での市民活動が広がりだした頃に大活躍したSさんです。
私もお世話になりましたが、節子もたぶんSさんのお世話になったはずです。
できるだけ抑え目にしたはずの節子の葬儀にも、Sさんは来てくれたのを覚えています。
Sさんはその後、家業を引き継ぐために市民活動から少し離れていましたが、最近、その家業から解放されたそうで、またきっと市民活動に戻ってくるでしょう。

そのSさんからの手紙です。
こう書かれていました。

先日、身辺整理をしていましたら、節子さんに頂いたハガキを見付け、懐かしくペンを取りました。
駅前の花壇に癒されて「花かご会」に感謝しております。

我孫子駅前の花壇整備の活動に節子は思いを込めていました。
最後まで気にしていたことの一つですが、よい仲間に恵まれ、活動はいまも続いています。

死者は、生者の中でいつまでも生きている、とよく言われます。
こういう手紙をもらうと、改めてそのことが実感できます。
最近、彼女にはお会いできていませんが、またきっとお会いできるでしょう。

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■節子への挽歌5144:近隣の人たちとのミーティング

節子

昨日は自治会の役員会でした。
年度の半分が過ぎたにもかかわらず、コロナでなかなか集まりができないので、とりあえず役員だけで集まってみたのです。
今年度は、私が所属している組で会長役を引き受け、他の役員も全員が私たちの組のメンバーです。
近くに住んでいるとはいえ、こうやって実際に集まることはありません。
たまにはいいものです。

私たちの組は13世帯です。
節子がいなくなってから転入してきた家族は2つです。
それ以外はみんなほぼ同時にここに転居してきたので、信頼感家H合強いように思います。
みんなとてもいい人です。

節子は、この組から最初に逝った人です。
葬儀にはみんな来てくれました。
葬儀の後も、供花に来てくださった方もいます。
転居後、数年後に節子はがん宣告を受け、あまり自治会活動はできなかったのですが、もし元気だったら、私とは比べ物にならないくらい、いろいろとやったことでしょう。
それができなかったのが、残念です。
まあその分も含めて、頑張らなければいけません。

私が、いまのように、誰とも親しくなれるようになったのは、節子のせいかもしれません。
誰彼となく、話しかけ、その人のために何かできることはないかと考える。
結局、何もできないのですが、それでも気になって、時に嫌われ、時に喜ばれる。
節子と長年、暮らしを共にしたおかげかもしれません。

それにして、近隣のみなさんにとても恵まれる地域に転居してきたのに、
節子は早々と逝ってしまった。
人生は実に皮肉なものです。

節子が元気だったら、今頃、どうなっていたでしょうか。
私の生き方も大きく変わっていたような気がします。

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■政治サロン「民主と共和と立憲」のご案内

今春、2回にわたり、政治関係のサロンを開催しました。
「主権国家における憲法」「国家をどう捉えるか」というテーマでしたが、政治を考える私たちの視野を広げ関心を高めるために、これに続いて、継続的に政治関係のサロンを開催することにしました。

その第1回目(3回目)は、政党の名前によく使われる3つの統治概念を考えてみたいと思います。
とりあえず、今回、話し合いの切り口にするのは、「民主と共和と立憲」です。
その3つを通して、「統治のあり方」を考えたいと思います。
できれば、日本における「統治国家論」も話題にしたいと思います。

立憲民主党という名前が決まった時に、私は立憲共和党にしてほしかったとブログに書いたのですが、「立憲」と「民主」は必ずしも理念的に一致しないのです。
簡単に言えば、思考の時間軸が違う。思考の主語が違うとも言われます。
党名にはその組織の理念が象徴されています。
一方、共和党という政党ができていますが、なかなか世間には見えてきません。私見では、共和の理念を活かしていないからではないかと思います。

そこで、その3つの考え方を最初に私から、これまでの2回のように10分ほどで話させてもらい、その後、みんなで自由に話し合って、政治のあり方を考えていければと思っています。

こう書くと何やら難しそうに感ずるかもしれませんが、大きな政治の変わり目にある今だからこそ、政治のあり方をみんなで考えていくことが大切ではないかと思います。
しかし、難しい議論は避けたいと思います。
話し合いが中心で、勉強会ではありませんので、予備知識など全く不要です。
政治に関するリテラシーを高めていくことができればと思っています。

政治サロンは、隔月くらいで続けていく予定ですので、話し合いたいテーマがあれば、ご連絡ください。
話し合いながら学び合っていきたいと思いますので、毎回、問題提起は10分前後にしていきたいと思います。

〇日時:2021年10月17日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「民主と共和と立憲―統治のあり方を考える」
〇会費:500円
〇参加申込先(佐藤):qzy00757@nifty.com

 

 

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2021/09/20

■節子への挽歌5143:「老人の日、おめでとう」

節子

今日は敬老の日だそうです。
節子も知っているように、私はそういう祝日とかいわゆる記念日にはほとんど関心がありません。
ただ自然と歴史の中で意味をもっているお彼岸とかお盆とか節句などには意味を感じますが、敬老の人か父の日などというのは、どちらかと言えば否定的です。

時々、食事がちょっと豪華だったりしているので、理由をユカに訊くと、今日は〇〇の日でしょうなどと言われるのです。
でもそれが何だという気がしてしまうのです。

ユカから、数日前に20日にどこかに食事に行こうと言われたのですが、どうして?と訊いたら敬老の日なのだそうです。
なんで敬老の日に食事に行ったりプレゼントをもらわなければいけないのか、理解ができない。

そもそも「敬老」とは私を老人として社会から切り離すことではないかなどと思ったりしますが、それはまああまりに考えが歪んでいるでしょう。
もちろん私は「老人」ですが、だからと言って生き方を変えるつもりはないのです。
まあそれでまわりは迷惑しているかもしれませんが、まあ歳とともに、意識はともかく実際には生き方は間違いなく老人化していることでしょう。

老人を敬う日というのは、しかし私にはピンときません。
それは「老人を敬うこと」を例外的行為とすることに通ずるからです。
まあこういう言い方をするので、娘たちからはひんしゅくをかうのですが、記念日とはそういうもののような気がするのです。

孫たちがケーキを持ってきてくれて、みんなで一緒に食べましたが、にこが「老人の日、おめでとう」といったのにはいささか苦笑いでした。
でもまあ、「敬老の日、おめでとう」と言わなかったのは救いです。
ユカは、「いつもありがとう」というのがいいと言いましたが、にこにとっては、そういう感じもないでしょう。
にこはケーキよりも公園に遊びに行きたくて、気もそぞろでした。
そのため、私への絵のプレゼントはどうも完成していなかったようで、今日はもらえませんでした。

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■湯島サロン「ムーンショット計画をどう受け止めるか」報告

台風が近づいていたので、心配していたのですが、10人を超す参加者がありました。

湯島では、「ムーンショット計画」は最近、よく話題に出ますが、ご存じない方も多いでしょう。簡単に言えば、「日本発の破壊的イノベーションの創出を目指し、従来技術の延長にない、より大胆な発想に基づく挑戦的な研究開発(ムーンショット)」を推進する計画で、その実現に向けて、ムーンショット型研究開発制度がかなりの予算も投入されて進められているのです。問題は、その目標にあります。
詳しく知りたい方は、内閣府のホームページの次のサイトをご覧ください。
https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/gaiyo.pdf?fbclid=IwAR14B5BT0-qi1PbfsHv3bVfwa4NmSzCItartu4LSkyoNcxPgn2cHrSZ-ujM

山森さんは、この計画が目指す7つの目標の中から、2つの目標を選んで、その目標に向かっていまどんな研究が行われ、何が目指されているかを具体的に説明してくれました。

山森さんが選んだのは次の2つです。
目標1:2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現
目標3:2050年までに、AIとロボットの共進化により、自ら学習・行動し人と共生するロボットを実現
この2つの目標を、どう受け止めるかが、今回のサロンの中心テーマでした。

山森さんは、ムーンショット計画の実験だとも言われている、昨年成立した通称「スーパーシティ法」にも言及しました。スーパーシティとは「生活全般をスマート化した都市」のことで、自動運転や完全キャッシュレス決済、ドローン配送、遠隔教育や遠隔医療などが完全配備された未来都市の実現を目指しています。この分野は、私たちの生活とのつながりも見えていますし、かなり現実に近い話です。しかし、AIやロボットとのつながりも、すでにいろんなところで現実化しています。

こうしたことは一見、私たちを幸せにするようにも思います。
しかし、山森さんは、「違和感や不気味さを感ずる」というのです。
こうした構想はどこから見るかで、評価は全く変わるでしょう。

たとえば、目標1に関して、山森さんは、「我々の脳が制限なしにグローバルに繋がりデータを交換できる社会」は監視社会や個人情報の侵害につながっていくのではないか、と言います。さらに、「人間をサイボーグ化することが国により正式に進められて行くことに対する恐怖感」もあるというのです。

たしかに、人間が「身体、脳、空間、時間の制約から解放された」ら、果たして人間と言えるのかどうか。私も、大きな違和感と不安を持ちます。
もちろん福祉や医療の現場にいる人にとっては、こうした動きがもたらす効用は大きいでしょう。でもそうした技術がどういう目的でどう使われるかは、しっかりとみんなで監視していくことが必要だと山森さんは言います。

山森さんは、ただ違和感や不安を述べただけではありません。
生命倫理という視点から、哲学や精神医学など、さまざまな分野からの材料も提供してくれました。生命倫理に関心の深い、山森さんの思いが伝わってきました。

山森さんのお話はとてもここでは紹介しきれないので、詳しく知りたい方は、山森さんのレジメをお届けしますので、私宛ご連絡ください。

最近、自らをサイボーグ化したピーター・S・モーガンの話もありました。モーガンは2017年にALS(筋萎縮性側索硬化症)の診断を受け、余命2年宣告を受けたのを契機に、自らをサイボーグ化した人です。それによって、いまなおサイバネティック・アバターとして活動し、著書まで発表しています。それはまさに、AIを活用した生き方と言えるでしょう。サイボーグ化したモーガンが実際に書いた自伝「ネオ・ヒューマン」を私も読みましたが、AIと人間の共生を考えていく上で、何が課題なのかを考えさせられる本です。
もし共生が実現するとなると、AIと人間のそれぞれに、独自の強みがなければいけません。
モーガンは、この著書で、それが何かを明確に示唆しています。
こういう問題は、「人間とは何か」「生きるとは何か」につながっていきますが、今回はそこまでの議論にはいきませんでした。

ムーンショット計画に関しては、評価は人によって違うでしょう。
しかし、こうした動きが進められていることに関して、私たちはしっかりと関心を持っていくことが大切ではないかと思います。
科学技術が悪いわけではないとしても、使いようによって、人間に害を与えることもある。科学技術の目先の効用だけではなく、それがもたらす影響(未来の子どもたちへの影響も含めて)もしっかりと考えていかなければならないでしょう。
参加者による活発な議論を紹介できないのが残念です。

余計なことですが、私としては、改めて、人間の時代はもう終わったのかなという思いを強くさせられました。まあ、間もなく人生を終える年齢に来ているからかもしれませんが。
でも多くの人が、こうした方向での科学技術が進められていることを知るようになれば、逆に人間が主役であり続ける方向に向かって、科学技術が活かされていくようになるかもしれません。もしそうなれば、私ももうしばらく生きながらえてもいいかなとも思います。

大きな岐路に、私たちは立っている。
それが今回のサロンの私の感想です。

Yamamori6

 

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2021/09/19

■節子への挽歌5142:2種類の物議

節子
台風一過の、秋晴れのいい天気です。

筑波山登山宣言は相変わらず物議をかもしていますが、物議をかもしているのはそれだけではありません。
10月に予定している地元でのあるイベントに関して、それを言い出した人との間でちょっとややこしいことになっています。
その人は、私を評価してくださっていて、そのイベントに関しても、私にアドバイスを求めてきたのです。
それで一緒に実行委員会を立ち上げ、まあ実現に向かっての目途もできてきたのですが、その人がチームワークではなく、個人プレーで動くのです。それがあまりにひどいので、私のやり方とずれがあるので、私は降りることにしたのです。というよりも、表面には出ずに支援に徹しようと決めたのです。
彼女にもそう言って、彼女と距離を置くようにしたのですが、その後も連絡が続き、ともかく電話したいというので、一昨日の午後なら電話に出ると返信、ずっと待っていましたが、かかってきません。
どうなっているのかと思っていたら、夕方、今日は電話できなかったので、というので明日のこの時間だったら電話に出られるのでと伝えました。

ところが昨日もまた、その時間になっても電話が来ない。
またかと思っていたら、指定したぎりぎりの時間になって電話が来ました。
しかも10分だけと言っていたのに一向に終わらない。
私が真意を理解していないというのです。
相変わらずコミュニケーションが成り立たない。
そのうちにサロンの関係者がやってきましたが、電話を切ろうとしても切れない。
そんなわけで、みんながいる目で20分近く電話で彼女と言い合いましたが、一方的に話すだけ。これ以上話すとさらに関係は悪化しますよと言って、何とか終わりにしました。

ちなみに彼女は悪意はないのですが、コミュニケーションが苦手なので、誰とも齟齬をきたしてしまう。
私がメールを送ってもきちんと読まずにいつもピント外れの返事が来る。
あの人とはコミュニケーションできないという人が多いのですが、私hそれでもいつも「言葉」ではなく「思い」を聴きとるようにしていますが、それでも今回は堪えきれなくなったのです。
でも彼女は悪意がないので、自分に関しても反省はない。
注意してもいつも「糠に釘」です。

ところが今朝もまたメールで同じような繰り返し。
いささかまた疲れました。
こういうことが重なると、やはりもう世間と縁を切って、一人でひっそり生きるのもいいなと思います。
でもその一方で、筑波登山物議のような、どこかあったかい物議に出合うと、人とのつながりの世界の喜びを感じます。

人と付き合うのは疲れますが、疲れがほどける時もある。
しかし人生には不可欠な要素かもしれません。

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2021/09/18

■節子への挽歌5141:人間の時代の終焉

節子

昨日は台風接近の中、湯島でサロンでした。
テーマは、ムーンショット計画。
内閣府のホームページでも紹介されていますが、人間をサイボーグ化していこうという計画です。しかも生活環境もそれに合わせて変えていくというスマートシティ構想とセットになっています。
考えようによっては、人間排除計画にも見えます。
しかしそうした動きを知っている人はほとんどいません。
こうやって私たちはどんどん誘導された路線を歩き続けているわけです。

この構想を見たとき、ここまで露わに書くことに驚きを感じました。
それで今回や山森さんに紹介をお願いするサロンをしていただいたのですが、改めてお話をお聞きしていると、もう私たち人間の役割は終わったのだなと痛感します。
しかもそれは大きな流れに従っているような気がしてきました。

35年前までは、私も人間中心主義的な世界にいました。
たしかのマン-マシン-システムのあり方には関心を持ち、脱成長主義になってはいましたが、科学技術への信仰の呪縛からは抜け出さずにいました。
しかし、最近、まわりから「人間らしさ」がどんどん消えていくのを実感する中で、考えもかなり変わってきました。

前にも書きましたが、「人間らしさ」を大事にしようと思うようになりました。
そうしたら生きやすくなると同時に、生きにくくなりました。

最近の湯島のサロンの基本テーマは「人間」です。
正面からそれをテーマにしたことはないのですが、私の思いはそこにあるので、どうしてもサロンの企画や運営は双方向づけられてしまうのです。

これは考えれば考えるほど、わからなくなる。
今日のサロンも実に面白かったのですが、疲れました。

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2021/09/17

■節子への挽歌5140:早速ウォーキングを始めました

節子

今日は脳神経外科の定期健診でした。
特に改善されていないようですが、悪化もしていないようです。
まあこういう状況とうまく付き合っていくということのようです。

今回は診察待ち時間は退屈しませんでした。
10月に筑波山に登山するとフェイスブックで宣言したら、どっといろんな人からコメントがあったので、その返事をしていました。
そういえば、昨日の45歳定年制への意見にもたくさんの書き込みがありました。
時間があったので、それらすべてに返信しました。

筑波山にサンダルで登山するのは無謀だとの指摘が多かったので、準備運動をすることにしました。
それで病院からの帰路は歩いてけることにしました。
幸いに、病院から自宅までは、いわゆる「ハケの道」でつながっています。
子の神様の下の旧村上邸から歩きだしました。

途中、2~3か所の水場もあり、歩いてもそれなりに楽しい道です。
まえにこの「ハケの道」の景観整備活動があり、私も参加しましたが、結局、私は抜けてしまいました。というか、やはり行政主導のまちづくりには違和感があったからです。
いまもその延長で、市民景観会議があって、私もそのメンバーに残っていますが、ほとんど参加したことがありません。
でもこの道は、道沿いのみんながその気になったら、面白い道になるでしょう。

家まで約20分でした。
思ったよりも疲れずに楽しく歩けました。
目標ができたからかもしれません。

確かに最近、目標を失っている。
それで何もかもやる気がなくなってきているのかもしれません。
筑波山登山は10月などと言わずに早くいくのがいいかもしれません。

幸いに吉本さんと菅野さんが、同行してくれるそうです。
介護要員として。

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■節子への挽歌5139:筑波山に登ることにしました

節子
筑波山に登ることにしました。

友人に、最近少しストレスがたまっていると話したら、長い距離を歩くか低山に(300メーター前後)に登るのはどうかと言われました。
それで筑波山に登ることにしました。
歩いて登るのは、40年ぶりくらいかもしれません。

ユカは無理だからやめろと言います。第一、靴もないではないか、と。
サンダルがある、と言ったら、それこそだめだと言われました。
確かに先日、2足の革靴を除いて、靴はすべて捨ててしまいました。
それに歩いていないではないかとも言われました。
そういえば、最近は駅まで歩くのもやっとで、車で送ってもらっているのです。
一昨年、思いつきで歩いた相馬霊場巡り以来、長距離を歩いたことはありません。

しかし決めたことはやらなければいけません。
10月に筑波山に登ることにしました。
友人も一緒に登ってくれるそうですので、倒れても大丈夫でしょう。
サンダルが理想ですが、それはもう少し考えるとして、まずは少し身体を動かすことから始めようと思います。
今朝からしばらくさぼっていたテレビ体操を再開しました。

節子と一緒に山歩きしようとわざわざトレッキングシューズをお揃いで買ったのに、結局、一度も使えませんでした。
節子の靴は、まだ捨てられずに残っています。

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2021/09/16

■45歳定年制に賛成

サントリーホールディングスの新浪社長が、「45歳定年制」の導入を提言して大きな波紋を呼んでいます。
大方の意見は、否定的で、そこに経営者の人件費削減の意図を感じているようです。
たしかにそういう意図はあるかもしれませんが、私はこの提案に賛成します。

私は47歳で会社を辞めました。
そこで得たものは、自分の人生を自主的に生きるということです。
会社時代もかなり自由に振る舞ってきたつもりですが、辞めてみて、やはり多くの呪縛の中にいたことを痛感しました。
会社や上司や同僚を口実に、自分を納得させていたことにも気づきました。

もう一つはいかに無駄が多かったかを知らされたことです。
交際費で充当されていた食事は、個人になってからはほとんど味わうことはありません。
無駄だったのはお金だけではありません。時間もかなり無駄遣いしていた気がします。
いろんなパーティにも参加させてもらいましたが、いま考えるとまさにバブルな感じでした。

会社を辞めて、私の生き方は変わりました。
さまざまな意味で「節約」し、無駄を晴らし、納得できないことには加わらないようにしました。
経済面では収支は激減しましたが、物を大事にする生き方は取り戻せました。
高価な食事とは無縁になりましたが、おいしいと思うものは前よりも増えました。

なによりも、自分の思うように生きることで、精神的ストレスはなくなりました。
時々、お金が無くなってその工面に苦労したり、時にはおいしいウナギを食べたいなと思うことはありますが、それもまた生きていることの実感を与えてくれます。
何かが欠けていることは、幸せの条件かもしれません。

長々と余計なことを書いてしまいましたが、私が45歳定年制に賛成なのは、組織に人生を任せて従僕のような存在になってしまうことを前提にしない社会がはじまるからです。

労働には、雇用労働と協同労働があります。
誰かに雇われて働くのと自らが主役になって働くのの違いです。
45歳までは雇用労働として組織で働き、遅くも45歳になったら自立して働く社会。
前者は「お金のための労働」という意味合いがあるとしても、後者は「自分の人生のための労働」という大きな違いが出てくるように思うのです。
そうした「働き方改革」につながる展望を感じるので、45歳定年制に賛成なのです。

そろそろ私たちは、法人中心社会から卒業して、生身の人間の社会に、歴史を一歩、進める時期ではないかと思っています。
言い方を換えれば、近代的進歩の流れを反転させて、のどかな人間の時代に戻ろうという話です。
会社は人間にとっては手段であって、仕えるべき主人ではありません。
舌足らずなので、異論反論をたくさん受けそうですが。

サロンをやってみてもいいかもしれませんが、組織人はあまりサロンに来ないので、話し合いが難しいかもしれません。

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■節子への挽歌5138:死者には時間がない

昨日の話につながる話を思い出しました。
10年程前に伴侶を見送った若松英輔さんが最近出版された岩波新書の「死者と霊性」で書いていたことです。

私の妻はもうなくなって10年になるわけですが、10年前の声がいまやっとわかるということは、もちろんある。それもありますが、いまここで、ありありと死者のコトバを経験するという地平もあると思います。

よくわかります。
死者は、時間を超えている。
死者には時間がないと言ってもいいかもしれません。
そういってしまうと、若松さんの意図とはかなり違ってしまうような気もしますが。

彼岸には時間がない、と私は思っています。
というか、すべての時間が折り重なっている、言い換えれば直線的に一方向に進んでいるわけではない、と思っています。
「今」も「ここ」もなく、「いつも」「どこも」しかない。

私たちは、現世では直線を一方向にしか進めない。
過去には戻れない。
時間が進むのではなく、私が進むことで、時間が生まれてくる。
不思議なのは、人によって動く速度が違うのに、なぜか同じ時間軸を共有できることです。
したがって彼岸に行った途端に、人は歳をとらなくなる。

私の中では、いまも節子は62歳。
そして今も、私と一緒に生きている。
そういう感じが、最近、かなり実感できるようになってきました。

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2021/09/15

■5137:記憶は過去のものではない

生物学者の福岡伸一さんは、合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ「効果」であると言っています。
生命が「効果」。
以前はあまりピンとこなかったのですが、最近はとても共感できています。

私たちの身体は分子的な実体としては、どんどん入れ替わっていると言われています。
私の身体を構成する「物質」は2~3年の内にすべて入れ替わるわけです。

とすれば、私の記憶もまたどんどん入れ替わっているのでしょうか。
福岡さんは、もし記憶が分子によって保持されるとすれば、分子が分解された時点で情報は失われる、と言います。とするならば、私の記憶は細胞の、つまり私の身体の外側にあるわけです。
記憶もまた、刻々と変化してもおかしくないわけです。

福岡さんは、「生命は行く川のごとく流れの中」にあり、いわば身体はその流れの淀みのようなものとも言っています。
大きな自然の中での、一つの「現れ」でしかない私の「記憶」はもっと危うい存在です。
DVDに記録されているようなものではなく、思い出すたびに、少しずつ違っているかもしれません。
事実、そういう経験はよくします。

この挽歌のはじめのころに書いた「節子像」と、いまもっている私の「節子像」もまたかなり違っているでしょう。
私のなかでは、節子もまた生きていて、どんどん「成長」しているわけです。

こう考えると、過去とは決して過ぎ去った固定的なものではない。
過去こそまさに現在であり、現在の私が作り出していると言ってもいいでしょう。

この頃、特に記憶の危うさを感ずることが多くなってきました。
過去と現在と未来が、私の中では一体化しつつあるのかもしれません。

秋晴れになりました。
でもどうも気分が晴れてこない。
困ったものです。

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■節子への挽歌5136:相変わらず夢をよく見ます

節子

この頃、よく夢を見ます。
いろいろな人が登場します。
まるで人生を振り返えさせられているような気もします。
微妙に記憶とは違いますが、なぜか記憶よりも私の心情に沿うような内容の夢が多いのですが、にもかかわらずけ㏍は私の思いを裏切るような内容です。
でもみんなから私がとても愛されている感じもします。
それにうまく応えられずに、悔いを残すところで目が覚める。

人は、死の直前に、頭の中を走馬灯のように人生が駆け巡ると言いますが、こうした夢を毎日見るのは、そろそろ私の人生も終焉に近づいているのでしょうか。
そうであればうれしいのですが、しかしそうであれば、こんなに怠惰な毎日を過ごしているわけにはいきません。
何しろまだやっておかねばいけないことが山のようにある。
今死んでしまったら、迷惑をかける人があまりに多い。
生き方をどうも間違っているような気が、最近しています。

人はある年齢になったら、社会との付き合いや他者との付き合いを整理し、自らの世界に閉じこもるのがいいかもしれません。
迷惑をかけるのなら、生きているうちにかけた方がいい。
そんな気がします。

それにしても今思うと、私の人生はあまりに身勝手だったような気がします。
しばらく前までは「後悔」という思いは、私には無縁な気がしていましたが、最近は後悔というか反省することが多いのです。
いまごろになって気づくとは、情けない話ですが、夢を見る度に、何か後悔や反省を迫られているような気がしてなりません。
私のどこかに、罪の意識があるのかもしれません。

毎朝、元気が出ないのはそのためかもしれません。

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2021/09/14

■節子への挽歌5135:にことうまくコミュニケーションできません

節子

数日前の話です。
その日は昼間いろいろとあって疲れ切っていたため、8時半にベッドに入り本を読んでいました。
1年間のリフォーム工事以来、まだ片づけが終わっておらず、私の寝室は相変わらず倉庫のような状況です。
本を読んでいたら、突然、入口の方から声が聞こえました。
見ると、薄暗い中に、なんとにこが立っているのです。
一瞬、夢かと思いました。

私の寝室はいつも廊下に向けてのドアが開いています。
節子がいなくなってから、寝室の扉を開けて寝る習慣ができたのです。
ですから玄関から私の寝室までは何の障害もなくつながっているのです。
ベッドで読書をするときには、枕元のスタンドを使い、部屋の照明は消していますから、部屋全体は薄暗いのです。
その薄暗い中に孫が立っている。
驚きましたが、現実でした。

孫は、明日、「鬼滅の刃」の放映があるよと教えに来てくれたのです。
まさか私がもう寝ているとは思ってもいなかったのでしょう。
しかし、なんでまたそんなことを教えに来てくれたのか。
以前、友人から借りた「鬼滅の刃」のコミックを私が呼んでいたのを見ていたのでしょう。それにしてもまた、夜に急に教えに来るとは。子どもの行動は理解しがたい。

まあそれだけの話です。
翌朝、どうして教えに来てくれたのか尋ねました。
だっておさむさんは「鬼滅の刃」が好きだから、というのが回答でした。
別に好きなわけではないのですが、友人からコミック前回を借りていたのが印象に残っていたのでしょうか。

まあそれはともかく、最近、にことの関係は微妙です。
時に話しかけても無視されます。
そのくせ、先日は私一人だけの時にやってきて、隣で塗り絵をしていました。
話しかけても軽くあしらわれてしまっていましたが。

 

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■節子への挽歌5134:疲れが抜けない

節子

気がついたらまた挽歌が書けていません。
どうも習慣化しない。
困ったものです。

ちょっと滅入ることがあると挽歌を書く気になれなくなる。
ということは、最近、滅入ることが少なくないのです。
いずれも「人間関係」です。

昨日もある人からメールが来ました。
「融和な佐藤さんが、なぜ〇〇さんには厳しいのでしょうか」というような内容です。
ある会での私の発言がそういう違和感を与えてしまったのでしょう。
反省しなければいけません。

その直前に、その〇〇さんからまたわけのわからないメールが来ました。
それでついついまた厳しい内容の返信をしてしまった。
もう少し前に、前述のメールが届いていたら、そうストレートには返信しなかったのですが、最近はどうもこらえ性がなくなってしまいました。
それにしても、滅入ることが多くなりました。

ユカは、歳ととともに偏狭になっていると言いますが、そうかもしれません。
困ったものです。
それに加えて、夏の疲れが出て来ているのではないかとユカは言います。
季節の変わり目で、温暖の差が激しい。

気をつけなければいけません。

 

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■湯島サロン「オメラスとヘイルシャム(「幸せ」を考える)」のご案内

今回は私が7年前に書いた小文を材料にしたサロンを企画させてもらいました。
小文というのは、2014年に数回にわたって私がブログに書いた小文です。
タイトルは「オメラスとヘイルシャムの話」。
いずれも小説に出てくる場所です。オメラスは『オメラスから歩み去る人々』、ヘイルシャムは『私を離さないで』に出てきます。

なんでいまさらこんな話を材料にしたサロンをやる気になったかと言えば、最近、またこのふたつの話を思い出すことが多くなったからです。

オメラスとヘイルシャムが一体何を指すかは、いささか長いですが、添付の小文を読んでください。
ダウンロード - e382aae383a1e383a9e382b9e381a8e38398e382a4e383abe382b7e383a3e383a0e381aee8a9b1.doc
同じものは下記にもあります。
http://cws.c.ooco.jp/heilsham.htm
それを読んで、もし何か話し合いたくなったら、サロンにお越しください。

テーマは、人によって変わるかもしれません。
最近、湯島のサロンで話題になっている「トランスヒューマニズム」にもつながっていますし、捉えようによっては「国家論」にもつながります。自分の生き方にもつながる話し合いもできますし、幸せを語ることもできます。
私としては、「他者を犠牲にした幸せか他者のための幸せか」に、とても関心があります。私も、幸せを目指していますので。

なんだか重い気分のサロンになりそうな気もしますが、楽しくないサロンもたまにはいいかもしれません。自らをさらけ出すことになるかもしれません。
小論を読まないと、どんな内容のサロンなのかわからないという不親切な案内で、すいません。

参加者がいるかなあといささか不安に思いながらのご案内です。

〇日時:2021年10月2日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:オメラスとヘイルシャム(「幸せ」を考える)
 *参加する場合は必ず添付の小論をお読みください。
〇会費:500円

 

〇申込先:佐藤修  qzy00757@nifty.com

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2021/09/13

■人間らしく生きることの大切さ

最近の湯島サロンの大きなテーマのひとつが「人間とは何か」です。
それで、関連した著作を何冊か読んでいるのですが、今日は戸谷洋志さんの「ハンス・ヨナス 未来への責任」を読みました。
表紙にはタイトルと並んで、「やがて来たる子どもたちのための倫理学」と書かれています。

ハンス・ヨナスは、「未来倫理学」の問題にいち早く取り組んだユダヤ人哲学者です。この本は、戸谷さんの博士論文をもとにした本ですが、基本的にリライトしたようで、とても読みやすい本です。

本書の「はじめに」は次の文章から始まります。

私たちは、まだ生まれていない未来の世代を脅かす力をもっている。

私たちの生き方が、未来の生きる人たちに大きな影響を与えるというわけです。
私も、この頃、そのことを強く意識できるようになってきました。

ヨナスの「未来倫理学」のポイントは次の原則に要約されます。

あなたの行為の影響が、地上における本当に人間らしい生き方の永続と両立するように、行為せよ。

人間らしく生きる。
これは私の生活信条に一致します。

今度の日曜日918日、湯島では「ムーンショット計画」をテーマにしたサロンがあります。ムーンショット計画とは、いま日本政府が進めている未来計画です。基本にはトランス・ヒューマニズムの思想があります。
気が向いたらどうぞ。

人間らしさとはいったい何なのか。
サロンでは直接話題にはならないと思いますが、じっくりと考えたいテーマです。

 

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■湯島サロン「最近の政治の動きを考える」報告

政局が騒がしい時のサロンでしたが、9人が集まりました。
男性7人、女性2人です。若い世代の参加がなかったのが残念です。
もっと残念だったのは、明るい話がほとんど出なかったことです。

案内に、「政権を非難するだけの話し合いにはしたくありませんので、よろしくお願いします」と書いておいたことを、参加者のお一人が最初に注意喚起してくれました。
おかげで、非難サロンや愚痴サロンにはならなかったと思いますが、そのために話し合いが抑制されてしまったのかもしれません。前向きに話そうとしてもそれが難しい。

参加者それぞれの、個人的な過去の体験談も出ました。
ミャンマーやアフガンなど、海外で頑張っている人たちの話も出ました。
その一方で、どうも最近の日本の政治については、語りようがないし、この状況を変えていく方策もない、といった感じでしょうか。
未来への希望を感じられないので、ささやかな現状の安定にしがみつく「ゆでガエル」状態のまま、状況はどんどん悪化していくのではないかという意見も出ました。

と言っても、まったく前向きの意見がなかったわけではありません。
小選挙区制度にもかかわらず、二大政党体制ができていないという、制度と実態のずれを質すべきだ、政治家の世襲制を見直すべきだ、政治の透明性をもっと高めるべきだ、報道のあり方を見直すべきだ、官僚と政治家の役割分担を見直したらどうか、などなど、この状況を変えていく糸口はいろいろ出てきたように思います。

現在の政局に関しては、少しだけ議論になりましたが、誰が自民党総裁になるかは、あまり関心は高くなかったような気がします。しかし、総裁選がテレビで話題になることによって、自民党支持は増えるでしょうから、総選挙への影響は大きい。
せっかく、政権の実態が見えつつあるのに、また「お祭り騒ぎ」で肝心の問題が見えなくなってしまう。そういう危惧をお持ちの方もいました。

いまの日本に野党はあるのか、という議論もありましたが、自公民に代わるべき存在がなければ政権交代もイメージできない。そうであれば、政権交代は起こりようもない。
でも考えようによっては、現在の政治構造が一変するということはあるかもしれません。〇〇党から××党への政権交代とは違う、政権交代が起こるかもしれない。

2時間の予定を大幅に超えてのサロンでしたが、何か希望が見えてきたという感じはしませんでした。
政治を語ることが夢を語ることにつながっていた時代をちょっとだけ経験した私にとっては、今は「政治を語ること」がとても難しい。
改めてそう思わされたサロンでした。

Seikyokusalon

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2021/09/12

■オープンカフェサロンのご案内

9月はすでに1回オープンサロンを開催しましたが、もう一度、開催します。

テーマなしの、出入り自由のサロンです。
参加申し込みは不要ですので、気が向いたらお越しください。
どなたでも歓迎です。

もちろん私の知らない人も。

〇日時:2021年9月24日(金曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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2021/09/11

■「ネオ・ヒューマン」

今朝から読みだした「ネオ・ヒューマン」を読み終えました。

「ネオ・ヒューマン」というタイトルに惹かれて、読んだのですが、内容は全く違い、 ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断された著者(ピーター・スコット・モーガン)が、自らを実験台にサイボーグとして生きることを決意し、実行した記録でした。
「ネオ・ヒューマン」についての解説などは全くありませんが(原題もHuman Cyborgとはありますが、Neo Humanの文字はありません)、生々しい実話のおかげで、Neo Humanという概念への理解は深まります。

著者は、重要な宇宙の法則は次の3つしかない、と言い切ります。
 1.科学こそ、魔法への唯一の道である。
 2.人類が偉大なのは、ルールをぶっ壊す存在だから。
   3.愛は - 最終的に - すべてに勝つ。

「ルールを壊してこそ人間」であり、すべては「愛」から始まるというのも、本書の重要なメッセージです。この点には完全に共感します。
ネオ・ヒューマンについて考える視野を広げてもらった気がします。

本書の最後は、21年先にAIとのコラボレーションによって高解像度のアバターとして活動するサイボーグとして生きてきた著者の死が語られています。
死こそが、人間の証というわけですが、ただそう言い切っているわけではなく、いささか含みを残しているような気がします。ここも共感します。

これは実話であり、おそらく映画化されるでしょう。
18日に湯島でムーンショット計画のサロンがありますが、現実はここまで来ています。
AIとどう向き合うか。死をどう位置づけるか。
とても1回のサロンでは終わらないテーマですが、「生きるとは何か」「人間とは何か」を秋からの湯島の基本テーマにしようと思っています。

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■9月オープンカフェサロン報告

思い立っての平日のオープンサロンでしたが、10人近い人が参加してくれました。
しかも三々五々の参加で、オープンサロンにふさわしいスタイルになりました。
テーマなしの平日のサロンも、もっとやった方がいいかもしれません。

今回、話題になったのは先日の「はじまり場サロン」でちょっと提案してくれた竹形さんが、その後の展開も含めて、ていねいに話をしてくださった「住んでいる街で楽しく暮らす」プロジェクトの紹介でした。

地域通貨(竹形さんのプロジェクトでは「自由通貨」と呼んでいます)や地域情報SNS、さらには地域フリーランス共同体構想などの話をしてくれました。
そこから参加者の関心にまかせて、オープンサロンらしい展開になりました。参加者の一人から「現在の福祉は一体だれのためのものなのか」という厳しい指摘もありましたし、NPOとか一般社団とかいろんな組織制度が何であるのか、そもそも「法人」って何だというような議論もありました。
オープンサロンでは、そうしたさまざまな視点や課題が出てくるのが面白い。
そこからテーマサロンの芽が生まれるのですが。

オープンサロンの頻度を増やそうと思います。
気楽にご参加ください。
話し役でも聞き役でもいずれでも歓迎です。

Opensalon202109

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2021/09/10

■節子への挽歌5133:サロンをまた企画しだします

節子

季節が秋に変わりました。
明け方の空を見ていると、それがよくわかります。

昨日は湯島でオープンサロンでした。
予想に反してたくさんの人が来てくれました。
しかし、どうしてみんな来てくれるのか、やはり私には謎です。

テーマを設定したサロンだと、やはり敷居の高さを感ずる人がいるようです。
引きこもり体験者が2人、来てくれました。
そういう人には、テーマのない、ゆるいサロンがいいのでしょう。

今回は、自分の住んでいる地域をよくしたいと活動している人が、その話をしてくれました。体験に基づく話はやはり面白い。
知識のひけらかしとは全く違います。
今回はオープンサロンとはいえ、その話が中心になりました。
そういえば、これが湯島のサロンの面白さだったなと改めて思いました。

しばらくこういうスタイルのサロンを中心にしようと思います。
ゆるやかなテーマは決めますが、みんなが自由に話し合うサロンです。
早速に、そんなサロンを企画し、案内を出しました。

秋に向けて、サロンをまたいろいろとやっていこうという気になりだしました。。

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■湯島サロン「お金のない社会って想像できますか」のご案内

湯島のサロンでは、最近はみんなお金に支配されているのではないかというような話がよく出ます。
現在のようなお金万能な社会においては、お金によって私たちは「自由」を得られますが、同時に、そのお金に隷従させられている面も否定できません。
「穀潰し」などという言葉があるように、お金を稼ぐことが「社会人」の条件のような「常識」もあります。

お金は不思議なものです。
何の実用価値もない1万円札が、どうして価値あるものと交換できるのか。

「お金」(通貨)とは何かに関しては、さまざまな人が取り組んできています。
お金こそ支配のツールだという人もいれば、お金は人と人をつなぐツールだという人もいます。お金で幸せになった人もいますし、お金で不幸になった人もいる。

最近、湯島のサロンで時々また「地域通貨」が話題になっています。
地域通貨は、いわゆる法定通貨と違い、コミュニティベースの「あたたかなお金」と言われます。
そこで、通貨を話題にしたサロンも開催したいと思いますが、その前に、一度、「お金のない社会」を考えてみるサロンを開いてみることにしました。

お金のない社会など想像できないかもしれませんが、私が子供の頃でさえ、お金がなくてもなんとか生きていけたような気がします。
お金がないと、いったいどういう不都合が起こるのか。
その不都合は、お金なしで解決することはできないのか。
そんなことを気楽に話し合ってみたいと思います。

どんな話し合いになるか全くわからないのですが。

〇日時:2021年9月26日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:お金のない社会って想像できますか
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修 qzy00757@nifty.com

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■お金をコモンズにすれば、経済のあり方は一変する

はじめてpay payを使いました。
と言っても、受動的に、ですが。

FBで紹介した小冊子「私の戦時体験」を送ってほしいという友人に郵送しました。
その友人から、郵送料をpay payで送ってみたいと連絡がありました。
彼女も初めてのようです。

私もずっと前にpay payに登録していたのですが、まったく使うこともなく放置していましたので、そんなことができるとは思ってもいませんでした。
手数料なしで、お金のやりとりができるのであれば便利です。
最近の銀行の振込手数料は高いですから。
彼女から送ったと連絡がありましたので、pay pay画面を見ると、「受け取る」というところがあり、それを押すと、すぐ入金されました。
それでお金の授受が終了。実に簡単です。

こういう仕組みが広がっていくと、お金はいらなくなっていくような気がします。
私は現金をほとんど持たずに生活しています。
そもそも「金銭消費」はほとんどしない生き方をしていますし、もし必要な場合も、カードでほぼ事足りるからです。
そうしているとお金を持っていることさえ忘れます。
時々、銀行残高が足りなくなって、請求がきたり、不都合が起こったりすることがありますが、まあ年に数回です。

今はまだそういう場合、私自身が何とか工面して銀行に入金しなければいけませんが、そのうち、誰かが入金してくれるようになるでしょう(例えばベーシックインカム)。
そうなれば、お金などに惑わされることなく、思う存分、仕事ができるようになる。
仕事(働く)と稼ぐことを混同するようなこともなくなるでしょう。
仕事がないなどというバカげた考えも抱かなくなるでしょう。

 私の関心事は「コモンズの回復(共創)」ですが、お金をコモンズ(みんなのもの)にできれば、経済のあり方は一変します。
昨日のサロンでは地域通貨が話題になりましたが、お金のない社会をみんなで話し合ってみるのも面白いかもしれません。

 

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2021/09/09

■節子への挽歌5132:聖林寺の十一面観音

節子

昨日、東博で開催されている聖林寺の十一面観音像展にいってきました。
最近は、コロナのために事前予約制になっていますが、少数に限って当日券があると聞いていたので、予約せずに行きましたが、大丈夫でした。
考えてみれば、昨年の2月に東博の特別展に行こうと思っていた、まさにその日から、コロナのために東博は突然休館になってしまい、その後、再開された後も事前予約制になってしまったのです。
ですから1年半ぶりの東博です。

聖林寺の十一面観音は、気になりながらまだ一度もお会いしたことのない観音です。
写真では何回も見ていますが、天平仏の安心感のある観音像です。

今回は、その観音像が、三輪山と大神神社特有の三ツ鳥居の写真を背景にして、展示されていました。しかし残念ながら、観音はガラスケースに閉じこめられていました。
夜、誰もいなくなった後、たぶんこの観音は横になりたいのに、ガラス箱に閉じこめられて、つらいだろうなと同情しました。
そうやって生気を失った観音は他にもいます。
渡岸寺の十一面観音もそうです。
会いに行くたびにやつれていくがよくわかる。

観音像は、しかしすばらしいものでした。
十一面のうち、3つの顔を欠損していました。
背後の憤怒相はありませんでしたが、それもあって全体にとてもあったかな感じがありました。
でも寂しそうでした。
観音の前で、しばらく呼びかけてみましたが、手ごたえがありませんでした。
仕方なく鑑賞してきました。

展示場では360度の角度から像が見られますので、それはいいのですが、仏像を横から見るのは好きではありません。
正面や背後からは美しいのですが、私としては横からの観音は大体においてお腹が出ていて好きになれません。
聖林寺の11面観音も例外ではありませんでした。

今回は十一面観音の脇侍だったとされる地蔵菩薩と不動明王もいました。
ただし不動明王は傷みすぎていて補修予定だそうで、写真だけでしたが実物大の写真でした。何回も見比べましたが、どう考えても不釣合いです。
月光菩薩と日光菩薩もいましたが、政策時期が違うばかりでなく、表情が全く違っていました。聖林寺の十一面観音は孤独な仏のようです。

節子にも会わせたかったです。

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■節子への挽歌5131:会社時代の先輩からのメール

節子

思ってもいなかった人からメールが届いていました。
会社時代の先輩です。
数年前に、フェイスブックを始めたのでと友だちリクエストがありました。

その先輩は、会社時代最後の仕事でいろいろとお世話になりました。
会社を辞めてからはほとんど付き合いはなくなっていました。
書き出すと会社時代の思い出がどっと出てくるのですが、彼は社外にも顔がとても広い方です。関心領域も私の比ではなく、文化や芸術、スポーツなどにも幅広い友人がいる方です。

その人は私のフェイスブックを見ているようです。
まずはそれに関して、息の長い活動と評価してくれました。
そして、最近、フェイスブックで紹介した「次世代に伝えたい戦時体験談」の小冊子が読みたいと言ってきたのです。
この人もまた、好奇心は衰えていないばかりか行動につなげて生きている人だとうれしく思いました。
好奇心は行動につながらなければ意味はありません。

考えてみると、私は会社時代も先輩に恵まれました。
なぜかみんなが応援してくれたのです。
それは不思議なほどでした。

私が、会社時代に大きな仕事ができたのは、そのおかげです。
もっともその仕事は、次の社長によって否定されてしまったのですが、それでも私を応援してくれた人もいました。
退社するときも最後まで引き留めてくれた人もいますが、結局、私は自分のわがままを貫かせてもらいました。
あの頃は、私もまだ、生きていたなと、つくづく思います。
しかし残念ながら、あまりに視野が狭かった。
自分の世界にはまり込んでしまいすぎたのです。
いまから思えば、いろいろなチャンスを無駄にしていた。
もっとも、そのおかげで今の豊かな暮らしができているのですが。

でも会社時代の友人に会うと、当時のことを思い出すようになってきてしまいました。
これはまさに生きていない証拠かもしれません。
困ったものです

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2021/09/08

■「〈世界史〉の哲学」を読んで世界観が変わりました。

1か月ほど前に、図書館で大澤真幸さんの「〈世界史〉の哲学 近代篇1」を見つけました。600頁もある本なので迷ったのですが、大澤真幸さんの本はこの23年読んでいなかったので借りてきました。
あまりの厚さに躊躇しましたが、読みだしたとたんに魅了されました。
これまでの読んだ本とは全く違う、謎解き的な本でした。

3日もかかりましたが、何とか読み終えました。
調べてみたら、これはシリーズで、すでに7冊が出版されているのです。
そこで次には「近代篇2」を借りてきて読みだしました。
大きなテーマは「近代西洋とは何か」。

これもあまりに面白かったので、全冊読むことにしました。
シリーズの最初は「古代篇」ですが、そこでは歴史の始まりにあった2つの刑死の話から始まります。キリストとソクラテスです。
ますます面白い。これまでのいろんな知識が覆された感じです。
続いて中世篇、近世篇。さらに東洋篇とイスラーム篇と結局、7冊すべてを今朝読み終えました。ていねいにノートまで取りながら。

これまでの常識はかなり覆されました。
イスラムの捉え方も変わりましたし、キリスト教への違和感もだいぶ消えました。
長年迷っていた法人への評価も定まりました。法人制度は実はアンドロイドにつながっていたのです(これは私の勝手な意見ですが)。
家族観も揺らぎました。イスラムの奴隷軍人制度には感動しました。
ともかく、いろいろと考えたくなることが出てきました。

本を読むと、知らないことや知りたいことが増えますが、それが多ければ多いほど、私にはその本が面白いと感じます。
さらには本を読んで考えさせられることが多ければ多いほど、面白い。
本に書かれていることは、そのきっかけになるだけです。
本を読んだ後に、どれだけ自分の世界を広げられるかが、読書の醍醐味です。

今日は、その余波で、映画「エクソダス」を見直しました。
前回観たのと違う感じがしました。

7冊もあって読むのは大変ですが、内容はともかく面白いのと、大澤さんの本にしては読みやすい。大澤さんが楽しみながら書いているのも伝わってきます。
もしお時間を持て余している人や、世界の構造を知りたいという方がいたら、お勧めします。人によっては、そこから映画や小説や絵画へとつながるかもしれません。

 

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■節子への挽歌5130:この1か月、大澤真幸さんの本にはまっていました

節子

この1か月近く、大澤真幸さんの本を読んでいました。
そのおかげでいろんな意味で私の世界観が少し変わった気がします。
1か月近くもはまっていた本というのは、「〈世界史〉の哲学」シリーズの7冊です。
各巻300700頁の本なのと、図書館から借りての読破だったので、1か月もかかってしまったのです。

テーマは近代西洋とは何かというような話なのですが、書き出しが2つの刑死からだったのに思わず引き込まれてしまったのです。
2つの刑死とはキリストとソクラテスです。
久しぶりに世界観を変えさせられてしまったような気がします。

大澤真幸さんとは一度だけご一緒したことがあります。
半田さんが企画した連続特別講義の、たしか2回目のゲストでした。
当時はまだ新進気鋭の学者という感じでしたが、お話はとても重い鹵獲、以来、彼の著作は何冊か読ませてもらい、気になる人の一人になりました。
一般的な書籍はかなり読んでいますが、今回の「〈世界史〉の哲学」シリーズを読んで、改めて大澤さんの魅力に引き込まれてしまいました。

最近の私の読書力はかなり低下しています。
それ以前に、視力が悪くなり、読みづらいのです。
そのためかなりの苦戦でしたが、7冊とも、ノートを取りながらかなりていねいに読みました。
こんなにはまったことは久しぶりです。
しかし、そのおかげで知らなかったこともたくさん学ぶことができましたし、これまでの断片的な知識がいろいろとつながり、世界観が少しだけ豊かになった気がします。

世界はだいぶ良く見えてきた。
しかし世界が見えてくると、その世界から分かれることになる。
それがちょっと残念な気がします。

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2021/09/07

■節子への挽歌5129:近くの防犯カメラの点検に立ち会いました

節子

近くの防犯カメラの点検をしてもらいました。
これは自治会会長の役割の一つです。
5月に野田電器に依頼していたのですが、なかなかやってもらえず、やっと今日、やってもらえました。
野田電器と言えば、思いだすのは節子ですが、節子がお世話になったのは先代です。

それはともかく、会長として一応、立ち合いました。

4月に開催した自治会の役員会では、防犯カメラの増設の提案がありましたが、コロナの関係もあって役員会も開けずに、先送りしていますが、防犯カメラを増やしたい人もいればむしろないほうがいいという人もいます。費用もそれなりにかかりますので、話し合いを始めたらかなりもめるでしょう。
しかし、自治会視点でも防犯カメラが欲しいという意見が出ること自体、とても残念です。コミュニティが育っていないような気がするからです。

我孫子での新型コロナ感染者は相変わらず多く、もうしばらくは集会は無理でしょう。
にこの通っている幼稚園の先生もウイルス陽性者が出たそうです。
コロナ感染症もじわじわと身近に迫ってきています。

そんなわけで、自治会会長としての活動もやるにやれない中途半端な状態になっています。

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2021/09/06

■節子への挽歌5128:落ち着かない1日

節子

もう2日前になりますが、兄から電話がありました。
かなり慌てている様子です。
病院からだそうで、先ほど、義姉が意識を失い倒れたのだそうです。
救急車を呼んで病院に着いたそうです。
慌てていたので、自宅のガスをつけたままかもしれないというのです。
急いでユカに確認に行ってもらいました。

私はちょうどその時、自治会関係でバタバタしていたこともあるのですが、自動車が運転できないので、こういう時にはユカにすべて任せなければいけません。
その後、義姉は検査が終わり、原因もわかりましたので、帰宅できることになりました。
大ごとにならずにホッとしました。

しかし、こういうことは決して他人事ではありません。
いつ私も同じような状況になるかもしれません。

この日はなぜか孫のにこがずっと2階に来ていました。
その上、友人からの長電話。
それもあってなにやらバタバタしっぱなしでした。

まあこういうこともあるでしょう。
でもちょっと精神的に疲れました、
それでまた生活リズムを壊してしまいました。
というわけでまた挽歌がたまってしまいました。

困ったものです。

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■第1回リンカーンクラブ研究会報告

リンカーンクラブ代表の武田文彦さんからの呼びかけの第1回リンカーンクラブ研究会は9人の参加者があり、予定時間を大幅に超える熱い思いがぶつかり合う会になりました。
ちょっとみんな熱くなりすぎて、危うく壊れそうになるほどでしたが、かなりみんな真意も吐き出したので、何とかおさまり、逆にこれからの展開も見えてきました。

ご案内の通り、参加申し込みいただいた方にはあらかじめ膨大な原稿が送られてきました。それに一応目を通したうえで、皆さん参加されましたが、最初に武田さんからは、こう問いかけられました。

考えていただきたいことがあります。

他人やほかの本からではなく、現代の日本という国家についてのみなさんの国家観についてです。
さらに、歴史観です。今の時代は日本にとってどういう時代なのかということです。
もう一つは、経済観です。経済というものをどう考えるかです。

この、国家観、歴史観、経済観、それぞれ考えていただいたうえで、この3つの要素の連関性についてお考えいただきたいのです。
それぞれの考えに論理的に大きな矛盾が生じないようにしていただくという作業になります。バラバラではあまり意味はありません。

国家観、歴史観、経済観は単独では成立しません。
それは人体の各臓器とその作用のような物だと考えています。国家という生体が生きていくうえでの基本的な機構かもしれません。
こうすることで構想というものが生まれてくるような気がします。
こうして、初めて、日本の現代と未来の問題が見えてくると思います。
そして、現代の個人と国家の関係のあり方もまた見えてくるような気がします。

これが長年の武田さんの取り組み姿勢ですが、こう正面から問われると、いささかたじろいでしまいます。それに突然言われても、そう簡単にな話せない。

しかしめげずにみなさんそれに応じて、自論を話すことから研究会は始まりました。
参加者全員が話し終わった時はすでに予定の時間が終わるころでしたが、それから話し合いがはじまりました。

と書くといかにも整然と会が進んだように感じるかもしれませんが、原稿に対する批判や実際の運動につながっていないという厳しい批判もあり、さらに終盤になって個別的な政策課題に話題が行ってしまったために、話し合いは混迷し、あわや空中分解になりそうでした。
しかし、武田さんが呼び掛けたように「他人やほかの本から」の知識的な情報のやりとりではなく、それぞれの本音の話し合いだったので、各人の思いも見えてきて、逆にこれからの展開の手応えがあったような気もします。
本音の思いは、そう簡単には伝わり合えません。それがわかっただけでもよかった気がします。

いずれにしろ今回の話し合いを踏まえて、10月に第2回目の研究会を開催するとともに、並行して、リンカーンクラブ構想の話やその理念でもある究極的民主主義の紹介などのサロンも行うことを考えていこうということになりました。

研究会は基本的にはメンバー制で開催していきますが、関心のある方には公開していくスタイルをとる予定です。
関心のある方はご連絡いただければ、次回の案内などさせていただきます。

20210905

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■高林さんの「次世代に伝えたい私の戦時体験」

京都にお住いの高林實結樹さんは、現在90歳ですが、私よりもずっと活動的です。
高林さんは、時代とかかわりながら、しっかりとご自分を生きてこられた方で、高林さんが認知症予防活動に取り組まれていたころ、私はある会でお会いしました。

高林さんの身心から発しているオーラに共感することがあり、以来、もう15年を超えるお付き合いになります。
高林さんが取り組んでいた認知症予防ゲームを全国に広げていくための活動にもささやかながら関わらせていただきましたが、それとは別に湯島のサロンで何回かお話ししいただいたことがあります。
テーマはたとえば、記紀の編年を読み直すというような専門的なものもありましたが、ご自身の戦時体験を話してくれたこともあります。

高林流の認知症予防ゲームは各地に広がり、高林さんに共感した人たちがいまも全国で活動していますので、最近は高林さんは、自分でしかできないことに専念しだしています。

その活動の一つが、自らの戦時体験を次世代に伝える活動です。
といっても、昨今のコロナ状況では、いかに行動的な高林さんでも思うようには動けないでしょうが、高林さんは愚痴を一切こぼすような人ではありません。その状況の中で、できることに誠心誠意取り組むのが高林さんの生き方なのです。

今年の3月、京都で行われた国際婦人デーの集まりで、高林さんはスマホを使ってリモート講演をされました。タイトルは「小学6年生の時に感じた戦争への疑問・若い世代へ」。
高林さんは、そこで話した内容をそのまま小冊子にして、広く配ることにしました。
私にも送ってきてくださいました。
読ませていただき、私もまた少し高林さんの思いに協力して、この小冊子を配らせてもらうことにしました。
湯島と自宅に高林さんがどさっと送ってきてくれたので、読んでいただける方があれば、声をかけてください。

その小冊子の「はじめに」の最後に、高林さんはこう書いています。

国家・政府のウソは今に始まったものではない。
日本とは嘘つき国家か、と子供たちから言われないように、祈りを込めて、この冊子をお手渡ししたく存じます。

実はコロナ騒ぎが起こらなければ、昨年から湯島でも、こうした「戦時体験を語り継ぐサロン」を企画していたのですが、それができないでいます。
そう思い立ったのも、高林さんがきっかけでした。
こうして高林さんの小冊子を広げる活動に関わることで、ちょっとだけ肩の荷が下りました。

 

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2021/09/04

■湯島サロン「最近の政治の動きを考える」のご案内

最近、茶色の朝シリーズのサロンを開催していませんが、茶色一色に染まっていきそうな気配は日本でもますます強まっているような気もします。

そんなさなか、菅首相が総裁選不出馬を決めたのを契機に、政局はなにやら騒がしくなってきています。
トップを変えても自民党は変わらないという人もいますし、コロナ対策で大変な時に政局でもないだろうという人もいます。
しかしそうでしょうか。
そう考える時点で、すでにもう茶色の社会への時流に加担しているとしか思えません。

トップが変われば組織は変わります。
それが組織だからです。
誰が総裁かで自民党は変わりますし、誰が首相かで日本の政治は変わります。
もちろんコロナ対策も一変することが可能でしょう。

現在の最優先課題がコロナ対策だとしても、そのコロナ対策の最大の対策は首相交代ではないかと思います。
首相への信頼感がなければ、何事もうまく進むはずはありません。
コロナ対策と首相交代は対立してはいないのです。

こういう時期であればこそ、政治が見えやすくなっています。
でも私たち生活者の政治感度は鈍くなっているのかもしれません。
そんなわけで、今回は、最近の日本の政治状況を話し合おうと思います。
できれば、自分でもできることを見つけられるかもしれません。

どんな話になるかわかりませんが、政治への信頼を取り戻すために、まずはそれぞれの政治へ思いを話し合うことから始めたいと思っています。
誰でも歓迎の気楽なサロンですので、気楽にご参加ください。
主権者としてなにか提案などある方がいたら、提案も大歓迎です。
ただし政権を非難するだけの話し合いにはしたくありませんので、よろしくお願いします。粗探し的な非難だけからは何も始まりませんので。

〇日時:2021年9月12日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修 qzy00757@nifty.com

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■節子への挽歌5127:急な気温の変化に風邪が心配です

節子

先週までの猛暑が嘘のように、一挙に秋がやってきました。
あまりに急激な変化に、寒さを感ずるほどで、体調にも影響している気がします。
風邪をひかないようにしなければいけません。
コロナ騒ぎの中では、例年の風邪も風邪では済まされない恐れがありますので。

最近の不調のもう一つは、テレビで毎日見るコロナとオリンピックの風景です。
コロナは茶番としか思えませんし、オリンピック・パラリンピックは「サーカス」としか思えません。
もちろん個々には感動的なものはあるのですが、それらが大きな茶番に取り組まれているのが、とても腹立たしいのです。
そこにまた最近は、我欲の塊のぶつかり合いの政局のニュースが加わった。
生きるか死ぬかに直面している人たちの風景が少し見えている私には、とてもやりきれないのです。

しかし、もしかしたら、これこそ私の間違いかもしれない。
みんなはいまの状況に満足しているのかもしれません。
時々、そんな気もします。

節子がいたら、こんな話もできたでしょう。
私の考えの間違いを質してもらえたかもしれません。
しかし、それもいまはできない。

今日も10月並みの気温のようです。
せめて風邪には気をつけなくてはいけません。
今日も空のない、陰鬱な朝です。
どうも元気が出ない。

困ったものです。

 

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2021/09/03

■節子への挽歌5126:新型コロナワクチン

節子

新型コロナ感染症が相変わらず広がっていて、ワクチン接種も進んでいます。
私は、いまのワクチン対策には大きな疑問がありますので、接種は受けるつもりはありません。
高齢者のため、ワクチン接種の予約券は早々と届いたのですが、躊躇なくすぐに破棄しました。
どう考えても私には理解できないからです。
しかし、だからと言ってワクチン反対運動をしようというわけではありません。

娘たちは、私のワクチン拒否には否定的ですが、だからと言って、私にワクチンを接種するようにとは一言も言いません。
しかし、彼女たちはワクチン接種を受けることにしていました。
そのワクチン接種の2回目が昨日でした。

副反応が出なければと思っていますが、2人とも今のところ微熱が出たくらいで大きな異常は起きていません。
しかしまだ気は許せません。
何しろ今のワクチンはあまりにいい加減なものだからです。

娘たちもそれを心配していますが、まあ今のご時世では、私のようにわがままな生き方はできないでしょう。
特にユカの場合は、いわゆる基礎疾患もあるので、万一、コロナ感染したら大変なのです。
ジュンはジュンで、連れ合いがレストランをやっていますので、万一かかったらお店も休業にしなければいけません。
自家営業の場合、休業は死活問題なのです。

用心深いユカは、万一を考えて、1週間ほどの軽食の備蓄をしています。
まあそれが無駄になるといいのですが。
もう1日間って、何か異常が出なければいいのですが、ちょっと心配です。

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■湯島サロン「他人の写真で自己発見・ 自己覚知 ~ 写真の解読も何かに役立つ?」のご案内

湯島サロンに参加されている仲谷さんからの提案で、ワークショップ形式の対話型鑑賞サロンを開催します。
ファシリテーター役は、提案者の仲谷さんです。

対話型鑑賞とは、美術教育普及の一環として、最近、美術館や学校教育の現場などで広がりだしているプログラムで、ある作品を観てその作品に関して数人で話すことによりその作品への理解を深めようとする試みです。

今回のサロンは、そうした対話型鑑賞に似たワークショップですが、仲谷さんによれば、作品への理解を深めることを目指す対話型鑑賞と違い、参加者の自己発見や自己覚知への助けになるとともに、コミュニケーション力向上を目的にしています。

仲谷さんからのメッセージです。

今回のワークショップでは、参加者に一緒に同じ写真を見て頂き、各々にその写真を解釈して頂きます。 「正しい解釈」や「間違った解釈」を見付けるのが狙いではなく、出て来た解釈を話し合い、個々の解釈間の相違点や類似点を見付け、相違点が見付かればそれらの相違点がどの様に生まれたか探っていく。そうしたことを通して、参加者それぞれが、改めて自分を再発見していくのが第の狙いです。

ある写真を見て、その写真が何を表すかを考えたり誰かと話すのは普段はやらないのではないのでしょうか。 普段やらない活動に携わることにより今迄は気付かなかった、普段は表には出ない面に気付くかもしれません。 隣に座った参加者への理解が深まるかもしれません。

第2の狙いは私達が毎日受取る情報の影響への自覚を高める助けとなることです。 スマホの普及以後、毎日何十個もの写真を見る人は多いでしょう。 今回のワークショップで、そうした多くの写真を見ることの影響に少し気付けるかもしれません。写真の見方が増える切っ掛けになるかもしれません。

以上が仲谷さんからのメッセージです。

仲谷さんにとっても、新しい試みのようです。
どんなワークショップになるか楽しみです。
みなさんのご参加をお待ちしています。

〇日時:2021年10月3日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「他人の写真で自己発見・ 自己覚知 ~ 写真の解読も何かに役立つ?
〇話題提供者:谷透さん(視覚文化愛好者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■節子への挽歌5125:耳を澄ませば大空にかの人の声が聞こえて

節子

9月になってしまいましたGふぁ、またしばらく挽歌をさぼっていました。
そのせいか、元気ですかと言うメールもいただきました。
まあ、元気と言えば元気ですが、元気がないと言えば元気でない日が続いています。

今日は節子の14回目の命日です。
命日気分(と言うのもおかしいですが)がどうも出てこないのですが、朝早く、深紅のバラの花が届きました。
節子も知っている升田さんからでした。
そういえば、昨年ももらいました。

Img_20210903_083451

メッセージカードがついていましたが、バラがついたお礼をメールしたら、もともとの手書きのメッセージカードの写真が送られてきました。
花束について歌花屋さんが作ったものは、いかにも仏事的な感じでしたので、よく読まずに捨ててしまいましたが、手書きのカードは繰り返し読みました。
印象がまったく違うのです。
ちなみに、私は「仏事イメージ」がとても嫌いで、供花などは辞退させてもらっているのです。
でも手書きのメッセージはまったくちがいます。

メッセージの最後に、

耳を澄ませば大空にかの人の声が聞こえて

とありました。
でも残念ながら今日は聞こえませんでした。



Img00227

早速活けてもらい、節子に供えました。

節子の命日も、もう14回目  。
はやいものです。
しかしなかなか元気が出てきません。
命日前後は、なぜか気が沈みます。

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2021/09/01

■第10回益田サロン「遺伝子は〈夢〉を見るか」報告

〈夢想と現実〉を切り口にして「生物と環境」「自己と非自己」を考える話が益田サロンでは続いていますが、その都度、新しい発見があるような気がします。
益田サロンは、講座型サロンではなく、益田さんも含めて、それぞれが考えるサロンですので、どう展開していくかわからないのが面白いところです。

今回は、益田さんの次のメッセージから話し合いがはじまりました。

結果など意図せずに行うのが夢。
しかし、その結果が現実になった途端に、それは夢ではなくなる。

そして、遺伝子重複の話が紹介されました。
遺伝子重複とは、遺伝子を含むDNAのある領域が重複する現象のことだそうです。
遺伝子の重複が生じていると、重複した遺伝子の一方は選択圧から解放されるため、経代に伴う変異が起こりやすい、つまり結果を意図せずに「夢」が起こりやすくなる。

もう一つ益田さんが言ったのは、変異は環境によって起こるのではなく、遺伝子の内発的な現象だということです。結果など考えずに、ということには、環境とは関係なくということが含意されていると言えるでしょう。

いずれの指摘も、論点(異論)がたくさんあります。
話し合いは、今回もかなり激しく展開しました。

もっとも今回初めて参加した人によれば、異論が飛び交っているようで、大きな違いはないように感じたそうです。たしかにそうかもしれません。ちょっとして視点の違いが、言葉にすると大きな違いになってしまうこともあります。でもそこを大切にするのが益田サロンの特徴です。

たとえば、遺伝子が内発的に起こした変化も、結果として環境によって受容されなければ消えていきます。つまり夢で終わってしまい、変異にはつながらない、とも言えます。
もっとも私は、実現しないからと言って無意味だったとは思いません。実現しない夢こそが、夢を実現させていると考えています。

今回もまた益田さんは破傷風菌の話をしました。
毒素を持っている破傷風菌は自らが死ぬことで仲間の破傷風菌を守っていくが、その時の「自己」とはどう考えればいいのかという、このサロンでよく話題になる話です。
個体として自己を捉えるか、種として自己を捉えるかという問題ですが、夢も同じように考えればいいでしょう。
消えていくたくさんの夢もまた毒素をもった破傷風菌のように、変異につながっている存在だとも言えるでしょう。
実現したかどうかに関しても、そう簡単に決めていいのかと、私は思います。

益田さんの最初のメッセージから、環境にはじき出されて消えてしまうのが「夢」だとしたら、実現した視点から考えると、夢とは過去の屍のような存在です。夢と言うと、何か「未来」とつなげて考えがちですが、夢とは過去の話ということになる。この意味を考えていて、私は一晩眠りそこないました。まだ解けていない謎です。

少なくとも、目的(結果)を考えないのが夢だとすれば、因果の世界から飛び出していますから、時間からも解放されていることになる。しかし、「変化(変異)」とは、時間の概念に支えられている概念ですから、話はこんがらがってきてしまう。
そこから「時間とは何か」という話にもなりました。

いずれにしろ、目的や時間を超えての「夢」があるからこそ、生命は存在しているというような話になった気がしますが、これは私のいつものような勝手な勘違いかもしれません。

しかし、生きるということは、そうした夢(全く無意味な動き)に支えられているのかもしれません。これは論理の世界(AI)を超えているとも言えるでしょう。
ちなみに、アンドロイド(AI)は夢を見るかに関しては、今回も参加してくださった山森さんが918日のサロンで話題にしてくれる予定です。

サロンの最後に、益田さんは最近手づくりした作品を持ち出しました。
輪ゴムを回しておいたうえで、机の上にそれを出すと動き出す作品です。
すべての動きには、「因果」があるということでしょうか。
それと今回の益田流の「夢」の捉え方をどうつなげたらいいのか、また禅問答のような問いかけが出されてサロンは終わりました。

次回は、「生きる」と「自由」がテーマになるかもしれません。

Masuda21081

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