■5137:記憶は過去のものではない
生物学者の福岡伸一さんは、合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ「効果」であると言っています。
生命が「効果」。
以前はあまりピンとこなかったのですが、最近はとても共感できています。
私たちの身体は分子的な実体としては、どんどん入れ替わっていると言われています。
私の身体を構成する「物質」は2~3年の内にすべて入れ替わるわけです。
とすれば、私の記憶もまたどんどん入れ替わっているのでしょうか。
福岡さんは、もし記憶が分子によって保持されるとすれば、分子が分解された時点で情報は失われる、と言います。とするならば、私の記憶は細胞の、つまり私の身体の外側にあるわけです。
記憶もまた、刻々と変化してもおかしくないわけです。
福岡さんは、「生命は行く川のごとく流れの中」にあり、いわば身体はその流れの淀みのようなものとも言っています。
大きな自然の中での、一つの「現れ」でしかない私の「記憶」はもっと危うい存在です。
DVDに記録されているようなものではなく、思い出すたびに、少しずつ違っているかもしれません。
事実、そういう経験はよくします。
この挽歌のはじめのころに書いた「節子像」と、いまもっている私の「節子像」もまたかなり違っているでしょう。
私のなかでは、節子もまた生きていて、どんどん「成長」しているわけです。
こう考えると、過去とは決して過ぎ去った固定的なものではない。
過去こそまさに現在であり、現在の私が作り出していると言ってもいいでしょう。
この頃、特に記憶の危うさを感ずることが多くなってきました。
過去と現在と未来が、私の中では一体化しつつあるのかもしれません。
秋晴れになりました。
でもどうも気分が晴れてこない。
困ったものです。
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