■節子への挽歌5143:「老人の日、おめでとう」
節子
今日は敬老の日だそうです。
節子も知っているように、私はそういう祝日とかいわゆる記念日にはほとんど関心がありません。
ただ自然と歴史の中で意味をもっているお彼岸とかお盆とか節句などには意味を感じますが、敬老の人か父の日などというのは、どちらかと言えば否定的です。
時々、食事がちょっと豪華だったりしているので、理由をユカに訊くと、今日は〇〇の日でしょうなどと言われるのです。
でもそれが何だという気がしてしまうのです。
ユカから、数日前に20日にどこかに食事に行こうと言われたのですが、どうして?と訊いたら敬老の日なのだそうです。
なんで敬老の日に食事に行ったりプレゼントをもらわなければいけないのか、理解ができない。
そもそも「敬老」とは私を老人として社会から切り離すことではないかなどと思ったりしますが、それはまああまりに考えが歪んでいるでしょう。
もちろん私は「老人」ですが、だからと言って生き方を変えるつもりはないのです。
まあそれでまわりは迷惑しているかもしれませんが、まあ歳とともに、意識はともかく実際には生き方は間違いなく老人化していることでしょう。
老人を敬う日というのは、しかし私にはピンときません。
それは「老人を敬うこと」を例外的行為とすることに通ずるからです。
まあこういう言い方をするので、娘たちからはひんしゅくをかうのですが、記念日とはそういうもののような気がするのです。
孫たちがケーキを持ってきてくれて、みんなで一緒に食べましたが、にこが「老人の日、おめでとう」といったのにはいささか苦笑いでした。
でもまあ、「敬老の日、おめでとう」と言わなかったのは救いです。
ユカは、「いつもありがとう」というのがいいと言いましたが、にこにとっては、そういう感じもないでしょう。
にこはケーキよりも公園に遊びに行きたくて、気もそぞろでした。
そのため、私への絵のプレゼントはどうも完成していなかったようで、今日はもらえませんでした。
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