■湯島サロン「オメラスとヘイルシャム(「幸せ」を考える)」報告
私が7年前に書いた小文「オメラスとヘイルシャムの話」を読んで「幸せ」について話し合うサロンは、あまり参加者はいないだろうなと思っていました。というのも、その小論が意外と長いので、読む人はあまりいないだろうなと思ったのです。
昨日は午前中は地元での集まりがあり、それが少し延びたため、私が湯島に着いたのは開始時間の15分ほど前でした。もしかしたら待たしているかもしれないと思っていたら、部屋はすでに開いており、4人の人が私を待っていました。そういえば、この部屋はコモンズ空間なので誰もが入れる部屋なのです(いつもとは限りません)。
みんな私が途中で倒れたのではないかと楽しみ?にしていたようですが、息せき切って到着した私に、まずは休んでと声をかけてもらいました。
というわけで、なんだかいつもとは違うサロンの始まりになってしまいました、
すでに話が弾んでいたのです。
ところで、「オメラス」と「ヘイルシャム」は、いずれも小説に出てくる場所ですが、その小説は、私たちの幸せの陰にはだれかの犠牲がある、自らの幸せのために誰かを犠牲にしていいのか、という問いかけを私にしてきました。それで今回も、みんな「幸せ」をどう捉えているのかなあ、というのが私の関心事でした。
私自身は、あまり幸せとか不幸とか考えたことはなく、むしろその2つは同じものかもしれない、ただ捉え方の違いだけと感じているのです。
もうひとつの関心は、もし幸せとか喜びとかがあるとして、それは「与えられるもの」なのか「自分で実現するもの」なのかということです。
これに関しては、私は今回改めて確信できました。
私は後者の考えですが、幸せは、その気になれば誰もがすぐに手に入れられるということです。
「与えられる幸せ」は、入手は難しいかもしれませんが。
サロンの終わりごろに参加者の一人が、トルストイの「愛のあることころに神あり」という商品を紹介してくれました。帰宅して書棚から探してすぐ読みました。
それは「窓の一つしかない地下室の小部屋」で生活している靴職人の話でした。
オメラスのこどもを思い出す状況設定です。
同じ地下室生活でも、両者には大きな違いがある。
その違いに問題のすべてが含意されているような気がしました。
サロンは出だしがあまりにもゆるかったので最後までゆるい感じでした。
時々、ところで本題に戻してと、私が言う場面が何回もありました。
でもなぜかみんな自らの過去の話(それも極めて私的な内面的な話)を語りだすのです。
それを聴いていて、そうか自らを語ることこそが幸せなのかもしれないと思いました。
つまり幸せはいつも過去にある。
オメラスにキリストを感じた人もいますし、王様を感じた人もいる。
私は宗教(信仰)に大きな価値を感じていますが、それも今回、話し合いたかったことの一つですが、今回はそこまで議論を進められませんでした。
でもトルストイが語る靴職人もキリストと共に生きている。
他者に対して道具(手段)として接するか愛(目的)で接するかという問題や、ゼロサム社会とプラスサム社会という話題も出ました。まあよくある切り口ですが、今回は当事者が自分の生々しい問題として語ってくれたので、言葉だけの議論にはならなかったような気もします。
私が期待していた話し合いにはあまりならなかったような気もしますが、逆に後で考えるといろんな示唆をもらった気もします。正面から話し合うのがいいとは限らないのです。
サロンでの話し合いの報告には全くなっていませんが、もしお時間があれば、ぜひ小論をお読みください
http://cws.c.ooco.jp/heilsham.htm
そしてぜひ感想を話に湯島に来てください。できるだけ時間を調整しますので。
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