« ■湯島サロン「新型コロナ・ワクチンに関する気になること」のご案内 | トップページ | ■節子への挽歌5180:風邪の懸念で養生 »

2021/10/26

■湯島サロン「贈り物はもらうほうが幸せですか、あげる方が幸せですか」報告

「贈与」をテーマにしたサロンは、いつもより若い世代の多いサロンになりました。20代前半の人が2人もいましたし。
「贈与」は、私たちの日常生活と切り離せないテーマなので、話はどんな方向にも展開できます。ですから今回のサロンでの話題もさまざまでした。

肝心の問いかけ「贈り物はもらうほうが幸せですか、あげる方が幸せですか」は、どうも参加者全員、贈る方が幸せだという感じで、問いの立て方を間違ってしまったことに気づきました。私の認識不足でした。

なかには、「贈与」は「支配」につながっているので、贈り物は嫌いだというような意見もありました。たしかに贈与は、人のつながりを豊かにする一方で、上下関係や拘束意識を生み出す面もあります。さらには、行き過ぎたポトラッチのように社会を壊してしまうような面もないわけではありません。

贈与と交換、贈与と布施、さらには共助の話など、さまざまな視点から、話は弾みました。話し合いはあまりにも多岐にわたり、思い出せませんので省略します。サロンでは検討のためのメモを配布させてもらいましたが、それを見てもらえると、どんな議論があったかは少しわかると思います。
ダウンロード - e8b488e4b88ee382b5e383ade383b3e383a1e383a2.docx

今回は(最近そうなりがちですが)、サロンの報告というよりも、サロンを終わっての私が感じたことを少し書かせてもらいます。

「贈与」と「交換」は結局は同じものであるような気がますますしてきました。
同時に、それは「自分」をどう捉えるかにもつながっているように思います。
添付のメモのイラストを見てもらえれば、わかってもらえるかもしれません。

家族関係では家族内の贈与に「交換」の要素は考えられなかったと思いますが、最近はどうもそうではないような気もする一方、かつては交換の世界でも、たとえば商店での売買にも単にお金と物とのやり取りでない、お金にも物にも、そこになにかプラスアルファのような「余剰価値」が乗っていたような気がします。
買うという行為には、「分けてもらった」という意味がこめられ、売るという行為にも「役立ててうれしい」という意味が込められていました。
贈与と交換を区別して考えること自体、経済主義に陥っているのかもしれないことに、今回改めて気づかされました。

シェアリングエコノミー(分かち合いの経済)という動きが広がっていますが、これは「個人所有(私有)」という発想を超えようとしています。そこでは、交換でも贈与でもない、共有ということが経済の基盤をつくっています。
贈与と交換は、個人所有を基盤に成り立つ概念です。「贈与」という概念は、交換経済になじんだ人の、貧しい発想かもしれません。

そんなことを話し合ったせいか、一時期流行った「自分をほめてあげたい」という言葉を思い出しました。あの言葉にはずっと違和感があって、気になっているのですが、現実では、さらに「自分への贈与」ということも広がっているようです。

言うまでもありませんが、贈り物は受け取ってもらって初めて「贈り物」になります。
相手がいないと、贈り物は出来ません。
そう考えると、贈与を受け取ってもらえる人がいることの幸せに気づきます。
生きるとは、贈り物を受け取ってもらえる人を探すことなのかもしれません。

そして、贈与を受け取ることの大切さもわかります。
贈り物を受け取ることなら、誰にもできることかもしれません。
そう考えていくと、いまの経済とは全く違った経済が見えてくるような気がします。

このテーマはもう少し考えていきたいと思います。

最後に永六輔作詞の「生きているということは」のはじめのフレーズを紹介させてもらいます。
ユーチューブでも聴けますので、お時間があればぜひ。
https://www.youtube.com/watch?v=oNaIH095OSI

生きているということは 誰かに借りをつくること
生きていくということは その借りを返してゆくこと

まだまだ私は死ねません。返せていない「借り」がまだ山のようにありますので。
困ったものです。

Zouyo

 

|

« ■湯島サロン「新型コロナ・ワクチンに関する気になること」のご案内 | トップページ | ■節子への挽歌5180:風邪の懸念で養生 »

サロン報告」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ■湯島サロン「新型コロナ・ワクチンに関する気になること」のご案内 | トップページ | ■節子への挽歌5180:風邪の懸念で養生 »