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2021年11月

2021/11/30

■節子への挽歌5201:何かのせいにすることができる社会は生きやすいかもしれません

節子

新型コロナ騒ぎがようやく収まってきたと思っていたら、また新たな変異株が出現し、その感染力の強さから、先行きがまた見えなくなってきました。
といっても、私はまったく気にはなりませんし、今まで通りです。。

それにしてもどうしてみんなこれほどにコロナコロナと騒ぐのでしょうか。
不思議で仕方がありません。
コロナよりも注意すべきことはもっとあるだろうにと思うのです。

人はあることが気になると、他のことが見えなくなりかねません。
コロナ騒ぎの背後で、何が行われているのかが、むしろ気になりますが、まあコロナだけ心配していればいい人生は平和なのかもしれません。いまは、何かやりたくないことがあれば、コロナのせいにすることで何でも許されます。そういう意味では、新型コロナのおかげで生きやすくなっている面もあるとも言えます。
私もそれを口実にしたこともないとは言えません。

とりわけ何かをしたくないとき、断る時などに、「コロナが心配だから」といえば、それで通ってしまいます。
そういう意味では、こうした誰にでも平等に降りかかってくるような「大きな心配事」は、社会には必要なのかもしれません。
そうしたものが好都合なのは、支配する側の人だけかと思っていましたが、どうもそうではない。支配し、隷属する人たちにも好都合なのです。

何かのせいにすることができる社会は、本当は生きやすい社会かもしれません。
だから事態が収まろうとするとまた誰かが蒸し返させて来るのかもしれません。
これは一度覚えてしまうと、もうやめられません。
困ったものです。

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2021/11/29

■節子への挽歌5200:うれしいメール

節子

今朝はうれしいメールの話です。
時々、思ってもいなかったうれしいメールが入るのですが、今朝もそうでした。

コロナ・ワクチンがいろいろと問題になっていますが、ワクチンの危険性をもっと多くの人に知ってほしいと活動している知人がいますが、その人が、ワクチン支持者ときちんとした話し合いの場を持ちたいと思っていることを知りました。
彼に湯島でそういう話し合いのサロンを開いたらどうかと声をかけ、そういうサロンに参加してくれるワクチン支持者を探すことにしました。

そこで、湯島サロンに最近参加人体を対象に作っているメーリングリストで呼びかけたのですが、それに受けて、久しくお会いしていない方からメールが届きました。
彼は今は鳥取の大学にいますが、彼のパートナーが東京にいて、しかも彼女は疫学の研究者だというのです。
そこで、帰省時にもし日程が合えれば、参加したいと申し出てきてくれたのです。

何がうれしかったと言えば、その人は鳥取に行ってもなお、私がメーリングリストに投稿しているサロンの報告を読んでいてくださるということです。
時々、そういう、サロンには参加できないが、報告を読んでいるという人に出会うと、なぜかとてもうれしくなるのです。
というのは、人のつながりは見えなくとも続いていると思うからです。

ネットの効用は、私にはそういう意味で極めて大きいのです。
見えないつながりがどんどんと広がっていく。
もしかしたら、そのつながりは彼岸にさえ届いているかもしれません。
なぜかそう思えるのです。

久しぶりに、年末年初に首都圏に帰省するはずのその鳥取の人と会えるといいのですが。

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■湯島サロン「能力主義社会をどう考えますか」報告

「能力主義の社会は生きにくい」という23歳の渡邊さんに問題提起してもらって話し合うサロンは、20代の若者4人、引きこもり体験を公開している人4人と、いつもとはちょっと違ったメンバーのサロンになりました。若い世代の人たちが、生きにくさを強く感じていることの現れかもしれません。

それぞれの自己紹介の後、渡邊さんが、なぜ「能力社会が生きにくいと思ったか」を、自分の体験談として生々しく語ってくれました。そして、参加者に「能力」をどう捉えているかを問うところから話し合いがはじまりました。
それに呼応する形で、若者たちはそれぞれが自らの体験談を語ったのと対照的に、高齢世代は考えや体験談を「言葉」や「知識」で語ったような気がします。世代間の交流ができたかどうかは心配ですが、今回の話し合いの発言の主役はやはり若い世代でした。

若者たちの話は、生々しく、それこそ家族を含めたプライバシーにかかわることも多く、その内容はさすがに書きにくいので、省略します。オフレコであればこそ、自由に話し合えることもありますから、お許しください。

代わって、私の感想や気づきを紹介させてもらうことにします。

渡邊さんから能力主義社会という言葉を聞いた時、その対語として思い浮かんだのは、「身分制社会」でした。能力主義社会は本来、身分制社会や階級社会とは違い、個々人のさまざまな能力が活かされる生きやすい社会ではないのかという思いを、問い質される問いかけでした。

案内にも書きましたが、私が大学を卒業したころ翻訳されたマイクル・ヤングの「メリトクラシーの法則」には、能力主義の行き着く先の2033年の社会は新しい身分制社会になっていると予想されていました。しかし当時の日本では、身分や階級を超えて、個々人の能力で生き方が決められる自由な社会が能力社会ではないかという捉え方が多く、ましてや若い世代の私は、そこに大きな可能性を感じていましたから、暗いイメージを予測する「メリトクラシーの法則」には、違和感をもっていたのです。
今から振り返れば、ヤングの不安は見事すぎるほどに的中しています。

ただし、「能力」をどう捉えるかによって、能力社会のイメージは全く違ってきます。
能力は個々人の中に多様に存在し、それを活かし合うのが能力社会だと捉えれば、明るいイメージが開けます。逆に、「能力」の尺度が単一になってしまうと、それによって上下関係が生み出され、排除される人が出て来てしまいます。
問題は、「能力」をどう捉えるかなのです。たぶん、渡邊さんが生きづらいと思う能力社会は後者なのです。

渡邊さんもまた、親や世間の常識から、「いい大学に入りいい組織に入り、高収入を得る」という視点での能力に呪縛されていたようです。それが彼が生きにくいと思い、引きこもりがちになった理由の一つです。
しかし、最近、世界を少し広げ、さまざまな人に会うなかで、それとは全く違う能力があることに気づかされ、自分の能力にも気づきだしたおかげで、渡邊さんは生きやすくなってきたそうです。

そこで、渡邊さんは「能力」とは何だろうかと考え始めた。そして今回のサロンでも、最初にみんなにそれを問うたのだろうと思います。
問題は、「能力主義社会」ではなく、「能力の捉え方」だったのです。

能力をどう捉えるかで、世界は全く違って見えてきます。
能力の評価軸はさまざまです。にもかかわらず、最近の多くの人は、能力を金銭軸で捉える発想に浸りきっている。
最近の日本は、スポーツ能力も芸術関係の能力も、ともかくすべての能力が、金銭につなげられてしまうような社会ですから、そうなってもおかしくはありません。

能力評価軸が一つになれば、当然その評価軸を基準に上下関係が生まれ、新しい身分社会が生まれてしまう。誰もがそれぞれに能力を持っているはずなのに、なぜか能力を持っている人もっていない人というようなおかしな考えにみんな疑問を持たなくなってしまう。同じ「能力」という言葉でも、その意味は全く違います。

「自分ができることが能力」と考えるのではなく、「自分には不得手な能力」ばかりを気にして、「ない能力」を口実に自分の「身分」を決め込んで引きこもっていくわけです。それは、すでに今の社会の風潮に呑み込まれてしまっていて、私からすれば、「能力社会の真反対の身分制社会」に生きていることになる。

それにしても多くの人がテレビやネットや本から与えられた社会像を真に受けて、それに呪縛されて、何とかそれに合わせて生きようとしている状況がここまで進んでいるのかと驚きました。私の若いころは、知は新しい世界を拓くための力と言われていましたが、今や知は「監獄」への誘い水になっている。
そういう社会をつくってきたのは私たち世代なのでしょう。
若い世代に閉塞感を与えているのは、たぶん、子どもたちを育ててきた私たち世代の生き方なのではないか。もしそうなら、今日からでも生き方を変えるべきではないか。

ちなみに、私は今回のサロンで悲観的になったわけではありません。
むしろ逆です。20代の若者たちの発言に、改めて大きな光を感じたからです。

新しい世代が育ち始めている。
私たちも、彼らに見習って、生き方を変えたいものです。
そんな思いを強く受けました。
そして、誰もが持っている「自らの独自の能力」を認め合い、活かし合うような社会をつくっていければと思います。

今回のサロンに参加した若い世代からは、またそんな理想論を言うなと批判されそうですが(今回、私はかなり批判されました)、めげずに言い続けたいと思います。

Nouryoku2111

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2021/11/28

■節子への挽歌5199:話し方が下手になったと言われました

節子

ユカと話していて、最近、活舌が悪くなっただけではなく、話し方が下手になったねとよく言われるようになりました。
話がどうもうまく通じないことがあるのです。
そう言われてみると、たしかにそうです。
自分でも1年ほど前から感じているのです。

昨日のサロンの時もそうでしたが、話していてうまく話せないのです。
頭の動きと口の動きが昔はつながっていたのですが、今は明らかにずれている。
ですから話していて、自分でもおかしいと思うことが少なくないのです。
たぶん聞いている人は感じていることでしょう。

そういうことなので、できるだけ話すのを抑えようと思うのですが、それができずに、逆についつい余計なことまで話すようにもなっています。
困ったものです。

考える私、話す私、それを見ている私。
その3人の私が最近どんどん離れだしている。
そんな感じです。

自分ではあまり気づきませんが、こういう感じで私の老化はかなり進んでいるのでしょう。
歩く姿勢も最近はよくないとも言われています。
いやはや困ったものです

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■サロンに参加してくださる新型コロナワクチン支持者を探しています

新型コロナ騒ぎもかなりおさまってきましたが、その一つの理由はワクチン接種が進んだからだと説明されています。データが信頼できるものであれば、すでに日本人の8割近い人がワクチン接種を終えているようです。

しかし、その一方で、ワクチン接種を忌避している人も少なくありません。ワクチンは危険だと呼びかけている人さえいます。ワクチン禍に関するネット情報も出回っていて、接種しようかどうか迷っている人もいるでしょう。

最近、湯島のサロンに参加しだした遠藤興佑さんは、ワクチンの危険性を多くの人に知ってもらいたいと言って、街頭での呼びかけ活動などをしています。
遠藤さんは、ただ反対を唱えるだけでなく、賛成の人とじっくり話し合いたいと思っているそうですが、そういう機会が得られずに残念がっています。

そこで、湯島でワクチンに関するサロンを呼びかけて、ワクチン支持者が2人以上集まったら、サロンを開くのはどうかと提案したところ、やってもいいということなので、早速に呼びかけさせてもらうことにしました。
前に陰謀論がらみでワクチンをテーマにサロンをやりましたが、今回は、医学的な視点からの話し合いです。

できれば専門家が参加してくれるといいのですが、湯島のサロンではそれは難しいかもしれませんが、専門家以外にもワクチン支持者はいるはずです。
ワクチン支持の材料をお持ちの方でワクチン接種危険説を打破したい人がいたらご連絡いただけないでしょうか。
ぜひ相互に気づき合えるような話し合いを実現できればと思います。

ちなみに当日は、遠藤さんが、自分と反対意見の話を極力理解しようとすること、上から目線の態度・攻撃・罵倒は絶対やめること、議論に勝とうとしないこと、を条件にワクチン反対論者を集めてくれることになっています。

ワクチン賛成派も反対派も、みんなの健康を守るという点では、思いは同じはずですから、コミュニケーションできないはずはありません。合意は達成できないかもしれませんが、お互いに気づき合えることはあるかもしれません。
遠藤さんは、相手の意見を聞けて良かったと誰もが思える会にしたいと言っています。

ワクチン反対派にしっかりと物申したい人、ワクチンの有効性・有益性をきちんと説明できる人など、2人の人が集まるとサロンは成立します。
ワクチン支持者で湯島のサロンに参加してくださる人を見つけたいのですが、ぜひ協力してもらえないでしょうか。
もし該当者がいたら、ここにコメントしてもらうか、私宛メッセンジャーでご連絡いただけないでしょうか。

日程は2人集まった時点で相談させてもらいたいと思います。
よろしくお願いいたします。

 

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■節子への挽歌5198:東大卒の汚名

節子

昨日は「能力主義社会は生きにくい」というテーマのサロンでした。
若者の参加(20代が4人)が多く、その上、引きこもり体験者(現在もなおの人も)が4人も参加し、久しぶりに若者主導のサロンになりました。

時評編にも書きましたが、そのサロンで、引きこもり体験者2人から、かなり厳しい「糾弾」がありました。
東大を出て東レに入った佐藤さんは、能力主義社会のエリートで、安住できる立場で現実的でない理想を述べているだけではないかというのです。
私は理想主義者ではなく、ましてや言葉だけをもてあそぶ世捨て人でもなく、現場での実体験から考えを構築することを信条にしていますので、これは聞き捨てならぬ言葉です。

それに、時評編にも書きましたが、「一流大学を出て有名企業に入った」ことで人を評価することこそ、罠に陥っているとしか思えません。それでは現実は何も見えてこない。そもそも「一流大学を出て有名企業に入った」ことに何の価値があるのか。そこには「個人の尊厳」を尊重する意識がまったくない。そういう人は、自分もまた見えないでしょう。多くの人がそういう状況にあるとすれば、もう人間の社会は終わったとしか言いようがない。しかし、そう思ってしまえば、私もサロンの参加者の多くと同じになってしまいます。まあ、そんな感じで、彼らとも激しく言い合ったわけです。

そのことをフェイスブックに書いたら、またいろいろとコメントが届きました。
東レの先輩の京極さんは、大企業に入ったのは事実だが、安住せずに飛び出したのは立派だと書いてくれました。

まあ東レはいいのですが、何とも厄介なのは「東大卒」という経歴です。
これに関しては、たとえば節子もよく知っている武田さんからは、佐藤さんは東大卒だからどんなバカげたことを言っても人は聞いてくれるが、私が言っても聞いてもらえない、とよく言っていました。彼は慶応大学卒ですから、私には東大卒とどこが違うのだと思うのですが、彼にはそれは通じません。

しかし、そういわれると逆にバカにされた気がします。つまり、私の言っていることはバカげたことなのにみんなが耳を傾けるのは「東大卒」という肩書があるからだよと言われているわけですから。これこそ侮辱というべきでしょう。

同世代ならともかく、今の若者たちもそういう風に思っているのかと思ったら、とても寂しくなりました。
過去の経歴などに影響されない、今現在の私と付き合ってほしいわけですが、そうならないのが残念です。
しかし、どこかにそう思わせてしまう言動が私にあるのかもしれません。
注意しなければいけません。

節子は私と結婚して、東大卒の無意味さを十分に知ったはずです。
でもまあ東大卒にしては、私は少しはまともな方だと自負はしていますが。

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■性善説は「楽観」ではなく「希望」

今朝の朝日新聞の「日曜に想う」で、論説委員の郷富佐子さんが「新自由主義の終わりと性善説」と題して、ルトガー・ブレグマンの「希望の歴史」を紹介しています。
その最後に、ハラリとの対談で、ハラリから「楽観的すぎる」と指摘されたブレグマンの反論が紹介されています。

楽観と希望は異なる。楽観主義は一種の自己満足で、人を怠け者にする。でも希望は、物事を変える可能性を示す。私が歴史を好きなのは、いまの社会や経済の仕組みが宿命などではなく、大きく変えられると教えてくれるからだ。

同書は、前にも紹介したとおり、人間は生まれながらに利己的だという「常識」を崩し、性善説を証明しようとしているのですが、この「性善説」というのが実に癖ものです。

昨日の湯島サロンでも、大学生の一人が性悪説で社会を見ているというような発言があったのですが、前にサロンの報告で書いたように、善か悪かは基準によって反転します。

結局は、いまの自分と同じ人がデファクトかどうかということではないかと思いますが、そう解すると、性悪説論者は社会の多くの人と自分の価値観が違うと表明していることになります。なぜなら社会は性悪説が基本と思っている人も、自分は性悪とは思ってはいないでしょうから。となれば、性善説と思っている人は、さぞかし生きづらいことでしょう。他者は信じられないわけですから。

ブレグマンの発言を改めて読んでみて、性善説は「楽観」ではなく「希望」を持つことにつながることに気づきました。
性善説や希望がデファクトになれば、困るのは誰か。
そう考えると、生き方が変わるのではないかと思うのですが、逆にそう思わない限り、新自由主義はますます強固になっていくでしょう。

やはりこう考えるのは理想主義で、現実的ではない発想でしょうか。
ちなみにブレグマンは、「希望の歴史」の最後に、読者にこう呼びかけています。

現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日の下で良いことをし、自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、だまされやすい非常識な人、と見なされるかもしれない。だが、今日の非常識は明日の常識になりえるのだ。

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■昨日はサロンで厳しく糾弾されました

昨日は「能力主義社会は生きにくい」というテーマのサロンでした。
若者の参加(20代が4人)が多く、その上、引きこもり体験者(現在もなおの人も)が4人も参加し、久しぶりに若者主導のサロンになりました。

サロンの報告はまた別途書く予定ですが、私はかなり厳しく糾弾されました。
一流大学を出て有名企業に入った佐藤さんの意見は、安住した立場で理想を述べているだけではないかというのです。
意外なのは、60代の参加者たちもそれに合意したことです。

しかし、「一流大学を出て有名企業に入った」ことで人を評価することこそ、罠に陥っているとしか思えません。それでは現実は何も見えてこない。そもそも「一流大学を出て有名企業に入った」ことに何の価値があるのか。そこには「個人の尊厳」を尊重する意識がまったくない。そういう人は、自分もまた見えないでしょう。多くの人がそういう状況にあるとすれば、もう人間の社会は終わったとしか言いようがない。しかし、そう思ってしまえば、私も今日の参加者の多くと同じになってしまいます。

私は、社会の常識や通説には極めて懐疑的に接していて、自分が見聞・体験したことを基本に社会像を組み立てている現実主義者だと思っていますので、いささかむきになって反論しましたが、多勢に無勢、流れをひっくり返せませんでした。
みんな与えられた情報でしか社会を見ていないのでしょう。
まさに昔書いた「非情報化社会」が実現しているようです。

「能力社会」の対語は「身分社会」と言ってもいいと思いますが、今の多くの人には、能力社会は新しい身分社会のように固定的に受け止められているのかもしれません。
ということは、自分の視点で考えなくなってきているということでしょう。
「できることが能力」と考えるのではなく、「ない能力」を口実に自分の「身分」を決め込んで引きこもっていくわけです。

それにしても多くの人がテレビやネットや本から与えられた社会像を真に受けて、それに呪縛されて、何とかそれに合わせて生きようとしている状況がここまで進んでいるのかと驚きました。知は今や「監獄」への誘い水になっている。
そういう社会をつくってきたのは私たち世代なのでしょう。

昨日のサロンでのやり取りの言葉は、岸田さんの手帳には、たぶん書かれていないでしょう。立憲民主党の党首選に出ている人たちにも、こういう生の声が飛び交う現場に足を運んでほしいものです。
もっとも表面的な発言を聞いているだけでは、何も聞こえてこないかもしれません。
サロンを長年やっているおかげで、発声される言葉と発声させている思いとには大きなずれがあることがようやく少しわかるようになった気がします。

サロンから気づかされることはたくさんあります。
こういう場がもっと増えるといいのですが。

ちなみに、私は昨日のサロンで悲観的になったわけではありません。
むしろ逆です。
20代の若者たちの発言に、改めて大きな光を感じたからです。
新しい世代が育ち始めている。
そんな思いを強く受けました。

サロンの報告をどう書けばいいか。
まあ今日は全く忘れて、明日以降に書こうと思います。
私には「つづき」をやりたいくらいのサロンでした。

参加者の数名は、サロンの後に二次会に行ったようですが、私は二次会が必要なようなサロンはやりたくないので、基本的にはいつも参加しません。
その点からだけでも、私の思いはあまり参加者には伝わっていないようです。
困ったものです。

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2021/11/27

■湯島サロン「2021年を振り返るサロン」のお誘い

*今回からサロンの始まり時間が1時間繰り上がり午後1時からになります。

昨年末に、グラフィックデザイナーの林さんによる「2020年を振り返るサロン」を開催しましたが、今年も林さんから同じ趣旨のサロンの提案がありました。
林さんの印象に残った事件や話題を月別に整理し、それと重ねて自分の周辺での事柄を紹介、そういう形で12か月を振り返るというサロンです。
それにあわせて、参加者もまた自分の1年を振り返り、みんなで「無駄話」でもできればと思います。

林さんの進行ですので、ゆったりした、あったかなサロンになるでしょう。
最近はなかなか過去を振り返る機会がありませんが、忙しい年末に、この1年を自分の生活と重ねながら振り返ると新しい気づきを得られるかもしれません。
いつもとはまた違った雰囲気のサロンですが、気が向いたらご参加ください。

始まりの時間がいつもより1時間早い午後1時からですので、お間違いないようにお願いします。

〇日時:2021年12月23日(木曜日)午後1時~3時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「2021年を振り返る」
〇話題提供者:林裕也さん(フリーランスのグラフィックデザイナー)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■節子への挽歌5197:着る服がわかりません

節子

寒くなりました。
季節の変わり目は、何を着たらいいかいつも迷うのですが、迷うどころかそもそも着るものが見つかりません。
最近は、ユニクロの同じ製品を着続けているのですが、シャツの上に着ようと思い、カーデガンを着ていこうと思ったら、肘に穴が空いていました。

ユカはみっともないから着ていくなと言いますが、まあ最近は膝が破れているジーンズもファッッショと言われている時代なので、いいだろうと着ていくことにしました。
しかし、外に出たらそれでも寒い。
そこでいろいろと探して薄手のコートを見つけました。
まあ捨ててもいいような古いコートですが、まあいいだろうとそれを着ていくことにしました。
なにしろサンダル履きなので、ちょっと見ではホームレスや徘徊老人に間違えられそうです。
しかし、まあ実体はそう変わらないので気にすることはないでしょう。

節子がいなくなってから、衣料をあまり買わなくなりましたので、気に入らずに来たことのないままに捨てずに残されていた服を着るようになってきています。
買いに行けとユカは言いますが、まあ先行きそうないので、無駄な服を買うこともありません。
そもそも私はおしゃれには全く無頓着なのです。

もっともかつてはそうではない時期もありました。
会社時代、車内で一番早くカラーシャツを着始めた一人でもありました。
大阪には、私と違って本物のおしゃれな先輩がいましたが、その人とほぼ同じ時期にカラーシャツを着て会社に行きました。
しかし私はそれもすぐに飽きてしまいましたが。
若いころはジーンズも愛用した時期も短かったですが、ありました。

ますます寒くなりそうです。
いつもユニクロのTシャツだけと決めていると迷うこともなく便利なのですが、季節の変わり目はちょっと困ります。

どこか探せば、何かが出てくるかもしれません。
明日は在宅なので少し探してみようと思いますが、さてこの時期、何を着たらいいのでしょうか。
季節が変わるのはいいのですが、面倒なことも起こります。
変温動物がうらやましいですね。

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■政治サロン「久しぶりに選挙に関わって感じた日本の政治」報告

選挙を通して日本の政治を考えるサロンの2回目は、しばらくビジネスの世界に軸足を移していた、市民活動の草分けのおひとり佐藤祐子さんが、久しぶりに今回、選挙に関わって、今の選挙や政治に疑問噴出したというので、その疑問などを話してもらいました。

本論に入る前に、祐子さんは自己紹介を兼ねて、市民活動に取り組みだしたきっかけになった地元手賀沼の水質汚染に関わる合成洗剤から石鹸への切り替え運動の話を少ししてくれました。その話があまりに興味深かったのと、それこそまさに市民の政治の話ではないかと思ったのですが、今回のタイトルを思い出して、それはまた改めてサロンをお願いすることにさせてもらいました。

しかし、そこで話が何となくはずんでしまったのか、それにつづく参加者の自己紹介も、いつもなら10分で終わるのが、なんと1時間近くかかってしまいました。もちろん、自己紹介と言ってもそれぞれが今回の選挙に感じたことも含めて話してもらったのですが、みんないろいろと言いたいことが山のようにあるようです。

そして本論。
祐子さんは、今回の選挙では、ボランティアスタッフとしてある立候補者を応援しましたが、政党ではなく人を選んだといいます。やはり政治の基本は、人ではないかというのです。またビジョンも大事だが、実現できる実践的な政策や目標こそが大切ではないかと言います。きれいごとはいくらでも並べられますが、みんなの声をしっかりと聴いて、その実現に実践的に取り組んでくれるような信念のある人を選ぶ目が国民にないと政治は他人事になってしまう。そして、実体の伴わないポピュリズム政治に陥ってしまいかねないというのです。

たしかに以前の選挙は、政党よりも人を選んでいたように思いますが、最近はせっかく人を選んでも、その人が政党に属している限り、なかなか個人としては行動できないのが実状です。党議拘束が強まる中で、せっかく私たちが選んだ政治家が組織の部品になってしまったら選挙の意味も失われかねない。

その意味でも、選んだ後、政治家がどう行動するかをしっかりと「監視」し「応援」する仕組みがなければいけないと祐子さんは言います。つまり選んだ人が人として活動していけるように支え続けていかなくてはいけないと言うのです。
一時期、話題になったオンブズマン制度は今はどうなったのかという話もありましたが、残念ながらそういうものも次第に利権化しがちで、あまり機能していないのが現状でしょう。
前にもサロンで話したことがありますが、私は、国民に開かれた政策シンクタンク機能と独自の市民メディアを持つ評価システムが必要だと思いますが、問題は利権化しない仕組みをどう育てていくかかもしれません。

祐子さんはまた、信頼できる代表を選んだらその人を信頼し続けること、そのためには自らも汗をかくことが大切ではないかと言います。選んで終わりの選挙ではなく、選んだ後もしっかりと応援し、声を伝えていくことが国民の責務ではないか、というわけです。
そういう仕組みとして「後援会」というのはありますが、これもまた利権集団になりかねない。祐子さんが考えているのは、そういう後援会組織ではない、もっと開かれた仕組みなのでしょう。

祐子さんは、単に選挙の話だけではなく、時代環境も含めて大きな視点からご自身の生き方や選挙への姿勢を話してくれました。併せて、ご自身が体験したフィンランドなどでの地方議会や学校教育などの話も紹介してくれました。

考えさせられる話がたくさんありましたが、私が一番印象的だったのは、祐子さんの「政治の捉え方」です。「石鹸運動」がそうであるように、生活者目線で政治を捉えていますし、そうであれば、もっと若い人や女性が、政治の中に入ってこなければいけないというのです。そうでなければ、「政治屋」の利権政治にしかならないというわけです。

ちなみに、「石鹸」の取り組み時の話として、祐子さんは海外に行った時に感じたという、それぞれの国の生活意識の違いを話してくれましたが、それもまた、政治の主役は誰なのかという問題につながっています。
私は、「民のための国家か、国家のための民か」の違いが、政治の基本枠組みを決めると思いますが、たぶん北欧にはまだ「民のための国家」の文化が残っているのかもしれません。国民もまた、政治家にすべて丸投げではなく、自らの政治責務を果たしているのでしょう。だから政治が生活につながっている。

今回も20代前半の若者が参加していましたが、彼は極めて辛辣で、そもそもあなたたち高齢者世代が政治の世界で力を持っている限りだめだというのです。
前回も話題になりましたが、選挙権者と被選挙権者の年齢制限が違うのもおかしいですが、それ以上に、もっと若者や子供たちの声もきちんと反映されるようにしないといけないと祐子さんは言います。海外にはそうした例は少なくありません。

岸田さんの耳にも子供たちの声が入るといいのですが、おそらく今の日本の政治の仕組みでは入りようもないでしょう。自民党総裁選挙や立憲民主党党首選挙に際しても、「子どものための政策」は話題になっても、「子どもの声を活かす政策」は話題にはなっていません。ここに日本の政治の基本姿勢を感じます。
若年層と高齢者で票の重みに差をつけるという話も出ました。民主主義理念には反しかねませんが、一考に値するように思いました。

若者からは、選挙も政治ももっと楽しいものにしたいという意見もありました。選挙ももっと面白いイベントにできるはずです。コスタリカの事例を以前話題にしたことがありますが、投票率が上がらないと嘆いていても始まりません。本当に投票率をあげたいのであればいくらでも方法はあるでしょう。ワクチン接種率は上げようとしても、投票率は上げようとしないのが、今の日本政治かもしれません。

いずれにしろ今の日本の政治は、生活との距離があまりに離れすぎているように思います。だから政治への関心は高まらない。その一因は、生活につながる自治体政治が国家政治モデルになっているからではないかと思いますが、たまたまある市の市議会議長が参加していたので、自治体政治の話もいろいろと話題になりました。ここから変えていけば、政治がもっと生活につながってくるかもしれません。

しかし、祐子さんの行動に示されているように、その気になれば今でも政治家と国民はつながれます。実際に今回参加された人の中には選挙時にボランティアとして政治家と接点を持った人も複数いましたが、政治家本人と直接接するとイメージは変わるというのです。政治家と生活者の距離は、生活者側からも変えられるのです。政治家を非難しているばかりでは、何も始まらないですが、自らが動けば何かが変わっていくかもしれません。

政治に関しておかしなことを話し合う場がもっとあってもいい、という話もありました。
最近、茶色の朝シリーズのサロンをやっていませんが、コロナ騒ぎもおさまってきたので、来年からまた再開しようと思います。

政治に関して、私たちにできることはたくさんあります。
それと生活は政治に密着している。
そういうことに改めて気づかせてもらったサロンでした。
いささか横道にそれすぎてせっかくの祐子さんからのメッセージを十分には引きだしそこなった気もしますが、また機会を持ってくださると言うので、少し視点を変えて、もう一度、生活者の政治のサロンをやってもらおうと思います。

若者と女性が参加してくださったので、刺激的なサロンになりました。
ありがとうございました。

Senkyo2

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2021/11/26

■節子への挽歌5196:脳梗塞疑惑は晴れました

節子

先月の筑波山で失神したらしい「脳梗塞疑惑事件」以来、健康に気をつけろ、水を飲め、無茶をするなと言われることが多くなって、いささか辟易しています。
なぜなら私は、誰かに何かを言われるとその逆をしたくなるタイプだからです。
困ったものです。

今日、脳神経外科に行ってきました。
定期検診日だったのですが、医師に報告したら、それは「心臓」の問題で「脳」の問題ではないと言われました。脳梗塞は失神ではなく、しびれが現れるそうで、もし失神したらそのままだと言われました。

というわけで、脳梗塞疑惑は晴れました。
もっとも、それで問題解決ではなく、またいろいろと言われましたが、まあ忘れることにしましょう。医師もまた私を気遣ってくれますが、まあ人は健全に老化し、健全に死を迎えるのが幸せでしょう。
人生100年などという言葉を聞くと、なんでそこまでして「消費者」を務めなければいけないのか、とついつい思ってしまうのです。

しかし筑波山リベンジは諦めました。
そもそもあれは準備不足でした。
これまで私はほとんど「思いつき」で生きてきましたが、そろそろそういう安直な生き方は改めないといけません。
せめて死に関しては、準備をして取り組もうという気になってきています。
そろそろ平安な死に向けての準備をしなければいけません。

年明けのできるだけ早い時期に、「どう死を迎えるか」サロンを、70歳以上対象に開催しようと思いつきました。
やはり「思いつき人生」はなかなか直りそうにもありません。
困ったものです。

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■節子への挽歌5195:また宿題を背負い込んでしまった気がします

節子

昨日の湯島のサロンは、節子も知っている我孫子の佐藤祐子さんに問題提起してもらいました。
我孫子からは小竹かつらさんも参加してくれました。
かつらさんは和服での参加です。まあいつも和服の人ですが。
サロン終了後、このおふたりと一緒に帰ったのですが、おふたりはすっかり意気投合したようで、私が話に入り込む余地はないほどでした。
和文化という面で、同じ世界にいるようです。

祐子さんとは本当に久しぶりです。
節子の葬儀以来でしょうか。
お話を聞いていて、私の知らない側面がたくさんあることを知りました。

昨日のサロンは、予定とは全く違って、参加者の自己紹介が長くなってしまいましたが、何回も聞いているはずの人も、毎回なのですが、新しい側面が見えてきます。
そこがまた面白い。

昨日は引きこもり青年が久しぶりに参加してくれました。
実は彼とは半年前に杉並の引きこもり家族会で会っているのですが、その後、失調してしまい、しばらく家から出られなかったのだそうです。
それは聞いていたのですが、まさかの参加申し込みが直前に届きました。

彼は偶然ですが、自己紹介の順番が最後になりましたが、そこで辛辣な発言をしました。それを聴いていて、私もああだったのかなと思うところがりましたが、しかしその後の話し合いでは次第に溶け込んできて、話にいろいろと刺激を与えてくれました。
サロンが終わった後、少し彼と話しました。
半年前にあったことは全く覚えていませんでした。それほどよくなかったようです。
やはりセルフヘルプグループ的な集まりは、長い目で見たら弊害も多いように思います。
結局は、引きこもりの場所が少し広くなるだけで、問題は解決しないからです。
改めてそんなことを考えましたが、もう少し早くそれに気づけばよかったと思います。
でもまあ、今からでもやれることはあるかもしれない。

またいくつかの宿題を背負い込んでしまったサロンになりました。
祐子さんの話のなかからも宿題が見つかりましたし。

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2021/11/25

■節子への挽歌5194:ゆっくり回る走馬灯

節子

にこによると、私ももうじき死ぬようですが、それで気づいたのですが、私が最近見ている夢は、私の過去を思い出す走馬灯のようなところがあります。
よく「死の直前には走馬灯のように過去の記憶がよみがえる」と言われますが、最近の夢は後で考えるとどうも私の過去を再現しているようなものが多いのです。
登場人物も実に様々で、もうすっかり忘れていた懐かしい人が登場することもあります。

夢の内容は起きるとすぐに忘れてしまいますが、起きた瞬間には、なにやら懐かしさとか充実感とか苦々しさと、過去の記憶につながっている気がします。
昨夜見た夢は、あるイベントを行うかどうかを仲間に説得している状況でしたが、以前実際にあったこととかなり重なっている気がします。
メンバーも懐かしいメンバーで、もうこの数年会ったこともない人たちです。

まあこうやって「ゆっくりと回る走馬灯」を見ているのかもしれません。
もちろんだからと言って死期が近いというわけでもないでしょう。
でもその一方で、死期はすでに決まっているという思いを私は強く持っていますので、近いのかもしれません。
それを知っているのは死神しかいない。

昨日も私よりもかなり上の高齢者おふたりから電話をもらいました。
お互いの無事を確認する意味でも、高齢者になると電話をしたくなるのかもしれません。
しかし私はどうも逆で、今も気になる人が一人いますが、電話をする気にはなれません。
それにまだその人は、ゆっくり回る走馬灯には登場しませんので。

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■寄付と外食とどこが違うのか

先月31日に選挙で選ばれた議員がたった1日だけの在職なのに1か月分の文通費100万円をもらったことが話題になっていますが、それへの対応として、もらった文通費を寄付することで問題が解決されたというような風潮が気になっています。
使用使途や領収証が問題になっていますが、ここでも政治団体などに寄付して、寄付の証明書をもらえばいいだろうという主張をする政党もありますが、これもとても違和感があります。

あるいは、辞職した都議会議員だった木下さんが、仕事をせずに得た報酬を「寄付」したから問題はないだろうというような態度の記者会見を見ると、寄付ってそんな意味なのかと思ってしまいます。

私は「寄付」と「外食支出」とどこが違うのか理解できません。
「寄付行為」は、何か公的な行為と考えがちですが、「寄付」も「私的な私財支出」であることには何の違いもありません。違いは、単に支出によって得る結果だけです。外食は自らの空腹を満たし、栄養を獲得できますが、寄付は自らの気持ちを満たし、他者からの感謝を獲得できます。要するにいずれも「我欲のための行為」であることには変わりません。
木下さんも某政党も、それが全くわかっていないのではないかと思います。

そもそも「寄付」は、自らの私財の処分方法の一つです。
「寄付」ができるということは、寄付するお金や物を自らが自由に処分できるものとして私有したということですから、寄付をしようが外食でぜいたくな料理を食べようが、同じことなのではないかと思います。
むしろ「寄付」のほうが、外部を巻き込むだけ、我欲要素は大きいと思います。外食は自分のお腹の中で完結しますが、寄付は社会的な影響力を持つからです。

たった1日の在職なのに、あるいは犯罪を起こして仕事をできないような状況にしてしまって仕事をしなかったにもかかわらず、文通費や報酬を受け取ったことが問題になっているにもかかわらず、「寄付をしたからいいだろう」というような開き直りは、私には理解できません。
寄付ではなく返却や受取辞退すればいいだけの話をなぜ勝手に処分してしまうのか。

それにしても、「寄付」とは何かをもっとしっかりと考えてほしいものです。
「寄付」が美徳化され、あまりに安直に行われている最近の風潮には大きな違和感があります。

私もかつては経団連が呼びかけていた個人の1%クラブに入っていたことがありますが(当時私は5%基準でした)、今も一応その精神をつづけています。
もっとも最近は年金以外の収入はゼロに近いので、お金の寄付はなかなか難しいのですが、時間の寄付はできないことはありません。

しかし、そもそも「寄付」という発想は今はもうありません。社会を維持していくには、できる範囲で何かできることをやることは、自然なことですから。

 

 

 

 

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■第18回万葉集サロン「宮廷歌人の苦悩-吉野讃歌を中心に」のご案内

前回の万葉集サロンは、「宮廷歌人の苦悩」と題して、宮廷歌人の歌の変容を通して、時代の流れや人々の意識の変化に触れる予定でしたが、最初に読んだ笠金村の「志貴皇子挽歌」とそれに関わるいくつかの歌の話が弾んで、肝心の吉野讃歌にまで話が進みませんでした。

「吉野讃歌」は天皇を讃美する行幸従駕歌の一典型として、高い儀礼性を保ちながら白鳳の柿本人麿から天平の山部赤人・笠金村・車持千年といった宮廷歌人をはじめとして、田辺福麿・大伴旅人・大伴家持へと引き継がれていきました。
そこに、「受け継がれるもの」と「失うもの」とを抱えたまま時代の推移をはっきりと顕証する「吉野讃歌」の姿を見ることができます。それは、「モノと人と言葉の変容」と言い換えてもよいかもしれません。
言霊の世界を行く人麿、深い意味を継承しつつ新たな表現世界を叙景、抒情、物語に模索して行く天平の歌人たち。和歌を開き和歌へと収斂して行く言葉の扉を、「吉野讃歌」も担っています。

そこで今回は、前回読み残した、山部赤人や笠金村の吉野讃歌と柿本人麻呂の吉野讃歌とを読み比べながら、宮廷歌人の苦悩に迫ってみたいと思います。
同じ万葉集と言っても、飛鳥・白鳳と天平とでは、歌のスタイルも雰囲気も大きく違っていることを感じとれると思います。
同時に、ずっとテーマになっている、「わ(自己)」と「な(相手)」、さらには「た(他者)」との関係の変化もこれまで以上に見えてくるかもしれません。

前回参加していない方もいると思いますので、最初に前回の簡単な復習もしてもらう予定です。

前回、参加された方は資料を持参していただければと思います。
今回の初参加者には資料を用意しておきます。
初めての方ももちろん、「万葉集」を読んだこともない方も歓迎です。
どうぞ気楽にご参加ください。

〇日時:2021年12月18日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇テーマ:「宮廷歌人の苦悩-吉野讃歌を中心に」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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2021/11/24

■節子への挽歌5193:おさむさんの目はどうしてそんなに細いの?

節子

昨日、本土寺に帰りに孫のにこと一緒に食事をしました。
その時の話です。

にこは私の前に座ったのですが、私の顔をまじまじと見て、こう訊いてきたのです。
「おさむさんの目はどうしてそんなに細いの?」
これを聞いて、一緒にいた娘たちは大笑いです。
たしかに私の目は、異常なほど細いのです。
にこはもしかしたら最近ずっとそれを考えていたのです。

にこの問いに対して、私は、「どうしてだと思う?」と問い返しました。
にこは、ほとんどすぐに、「わかった、歳をとっているからだ」というのです。
娘たちはさらに大笑い。
これももしかしたら、にこが考え抜いて到達した結論だったのかもしれません。
何しろ即答でしたから。

そこで重ねて、「どうして歳をとると目が細くなるのか」と訊くと、「もうじき死ぬからかなあ」と言うのです。
いやはや、困ったものです。
もしかしたら、にこは間もなく私が死ぬと思っているのかもしれません。

もし仮にそうだとすれば、にこは私にどうかかわればいいか困るでしょう。
そう思うと、最近のにこの私への対応が少し変わってきているの理由がわかるような気もします。
彼女はどう付き合えばいいか混乱しているのかもしれません。

まあそれはともかく、この問いかけにはみんな大笑いです。
私も大笑いでしたが、目が細くて世界がよく見えないのは事実なので、いささか困ってはいるのです。

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■超古代史が姿を現しだしました

最近、湯島のサロンに来た人が「月刊ムー」の愛読者だと自己紹介がありました。
私も超古代史と言われる話が大好きで、ムー大陸とかアトランティスとかの本は、よく読んでいました。
学校での歴史では古代文明の始まりは、大体において56000年前に設定されていますが、私は1050012000年前説を勝手に信じています。
若いころはトルコのカッパドキアは超古代の核戦争跡だという説さえそうかなと思ったりしていました。さすがに今はもうそんなことは信じていませんが、ピラミッドやスフィンクスの建造時期はやはり10500年前だったと思っています。

コリン・ウィルソンの「アトランティスの遺産」の翻訳書の表紙には、水上に浮かぶスフィンクスが描かれていましたが、購入した当時はその表紙に毎日見とれていました。

大学生の頃、トルコ古代美術展でいくつかの土器を見てから、トルコのアナトリアになぜか不思議な魅力を感じていました。
数年前に読んだ「先史学者プラトン」でチャタル・ヒュユク遺跡は知り、そこからギョベックリテペ遺跡のことを知りました。
https://chahoo.jp/gobeklitepe/

いろいろな人が言っていた12000年前の前古代遺跡がだんだんはっきりと見えてきたようです。
今朝の朝日新聞には、ギョベックリテペ遺跡調査に日本も参加することになったと報道されています。
日本での報道量は一気に増えてくるでしょう。

歴史が一変するかもしれません。
歴史が変わると、世界の見え方は一変します。
私たちも、知識を日々新たにしていかなければいけません。
一度身につけた知識に呪縛されて、世界が見えなくなっている人は少なくありません。

 

これからの報道が楽しみです。

 

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■節子への挽歌5192:フクロウがにぎやかです

節子

最近のわが家は、またいろんなところにフクロウが住みつきだしました。
と言っても、生きたフクロウではなく、フクロウの置物です。

フクロウは私が一時期、集めていたのですが、これも節子がいなくなってからもうやめてしまいました。
フクロウ集めに限りませんが、すべてが一時期止まってしまい、そのほとんどは今も動き出してはいないのです。
フクロウはいろいろなところにおいていますが、孫たちとの同居によって、そこからは追いやられてしまいました。
一部は玄関先にも置かれることになりましたが、ほとんどは2階に置かれることになりました。
しかし置く場所がない。
それにユカはフクロウが好きではないのです。

仕方なくいろんな場所に置かれだしていますが、トイレには20匹くらいはいます。
大きなものは廊下や階段の途中にいますが、小さなものはリビングの棚に並べてしまいました。そのにぎやかなこと。いろんなフクロウが密集しているのです。

コレクションは、コレクターにとっては意味がありますが、他の人にはほとんど意味がない。節子が一時期集めていたリンゴの多きものは、今やほとんど見捨てられた状況です。エジプトではあんなに時間をかけて探したリンゴの置物も、今は他のと一緒に押しやられています。
フクロウだけではなく、リンゴもいくつかは復活させようかと思いますが、今はともかくまだ片づけが終わっていないのです。

年内には片づけを終わらせたいのですが、なかなか気が乗りません。
注意しないと片づけないまま、人生を終わってしまいそうです。

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2021/11/23

■第3回本間神道サロン「日本の聖母いろいろ」報告

日本では数少ない聖母研究者の本間浩さんのサロンの3回目は、「日本の聖母いろいろ」と題して、これまで話してきた神功皇后信仰や媽祖信仰以外の日本の聖母信仰がテーマでした。言い換えれば、「聖母信仰とは何か」を考える材料を話題にしてくれました。

実は、神功皇后と聖母が、私の中ではなかなかつながらずにいたのですが、それが今回、ようやくつながってきたような気がします。と同時に、視界が開け、聖母信仰にまつわるさまざまな意味が少し解けてきたようにも思います。

本間さんはまずこれまでの2回の話を簡潔にまとめてくださり、そこから話を始めてくれました。八幡神社との関係も復習してくれました。
その上で、「聖母」とは「聖女」とはちがい、「聖なる者の母」ということから「聖なる母」とされていること、したがって母と子を一対で祀る「母子神」信仰でもあることを説明してくれました。

関連して、欧米での聖母につながる言葉を紹介してくれました。
聖母と言えばマリア信仰をまずイメージしますが、聖母、処女、我らが貴婦人(例えばフランス語では「ノートル・ダム」)、神の母とかいろいろな言葉がある。そういう広がりのなかで、聖母信仰を捉えると、人類の基層文化である母性信仰、生み出す力や育てる力、豊饒への祈り、さらには太陽信仰にまでつながっていることに気づかされます。

日本には、「聖母」の、より古い言い方として、「大帯姫」(おおたらしひめ)という言葉があり、「子どもを育てる偉大な女性」という意味だったそうです。
菅原道真が「天神」を象徴するようになったように、一般名詞が特定の事物を「独占」していった事例はいろいろとありますが、それと同じように、神功皇后が次第に「大帯姫」や「聖母」概念を独占していったが、神功皇后以外にも「聖母信仰」につながる存在はいろいろとあると本間さんは説明してくれました。
視界がまた一挙に広がった気がします。

「聖なる者の母」とは言い換えれば「神の子を産む母=聖母」となりますが、聖母である証の一つは「処女懐胎」です。処女が子を産むことは人間には不可能なことであり、それは神の出現の奇跡を示しています。
神功皇后の場合は、その変形としての異常出産で応神天皇を生んだとされています。応神天皇は、諡号に「神」の文字が使われているように、特別の存在とされている天皇の一人であり、「聖なる者」といってもいいでしょう。であれば、その母である神功皇后はまさに「聖母」だったわけです。

しかし、聖母は神功皇后だけだったわけではありません。
処女懐胎や異常出産をした女性は古事記や日本書紀などには数名登場します。本間さんは、木花之開耶姫(このはなさくやひめ)、玉依日賣(たまよりひめ)、加えて、かぐや姫や金太郎、菅原道真にもそうした処女懐胎のヴァリエーションが語られていることを紹介してくれました。さらに話は貴種流離譚や異類婚姻譚にまで広がりました。

日本神話とか、寺社縁起の話などにはこのように、聖母信仰がたくさんみられるわけで、
それが日本の文化や私たちの生き方にもつながっているというわけです。

私は、今までとても狭い視野で「神功皇后=聖母」観を捉えていましたが、こうして視野を広げると、いろんなことに気づかされます。
そしていろんな疑問も生まれてくる。
どうして「聖女」「聖母」や「魔女」という言葉はあるのに、「聖男」「聖父」「魔男」という言葉はないのか。
イスラム世界における「聖母信仰」とはどのようなものなのだろうか。
また、「処女懐胎」や「異常出産」が「聖なる者」を生み出すことの意味も考えていくと未来(AI世界)に向けての想像の世界は際限なく広がっていきます。

本間さんの話は、まだまだ続きます。
最初の「聖母サロン」の時に、本間さんが「今回はプロローグです」といった意味がようやくわかってきました。
本間さんの「聖母サロン」はこれからも続きます。
ぜひ多くの人に参加してほしいと、改めて思いました。

Shoumo

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■節子への挽歌5191:久しぶりの本土寺の紅葉

節子

今日は孫のにこも幼稚園が休みなので、みんなで本土寺に紅葉を見に行くことになっていました。
にこ母娘はあまり体調がよくないようなので、迷ったのですが、結局、行くことになりました。

本土寺に行くのは久しぶりです。
それにいつもはアジサイやあやめの時期に行っていました。
紅葉の時にも行ったことはあるような気もしますが、あまり記憶にありません。

本土寺も久しぶりですが、紅葉目的で出かけるのは節子を見送ってからは初めてかもしれません。節子は紅葉や桜が好きでしたから、よく付き合わされましたが、その節子がいなくなってからは、どうも気が進まなくなってしまいました。
ですから紅葉狩りもまた久しぶりなのです。

本土寺は予想以上に混んでいました。
参道沿いにもたくさんのお店が出来ていました。
以前はこれほどではありませんでした。
人はにぎわってはいましたが、紅葉はまだ少しさびしい気がしました。
いや紅葉が寂しいのではなく、私の気持ちが寂しいためだったかもしれません。
あまり紅葉を楽しんだ気にはなれませんでした。

お花見も紅葉狩りも、私の中では、昔とは全く違ったものになってしまいました。
楽しむというよりも、哀しむものになってしまった。
我ながらちょっと意外ではありますが。

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■節子への挽歌5190:自宅でサロンのできないわけ

節子

昨日は道路関係の話で市役所の職員が3人やってきました。
ある問題を投げかけていたので、その説明に来てくれたのです。

最近、市役所の人たちはよくわが家に来てくれます。
しかし基本的には玄関先で対応しています。
以前は、そういう場合も自宅に入ってもらい、お話を聞いていたのですが、昨年娘家族と同居した後、1階は娘家族に譲ったので、そういう気楽に入ってもらって話をする場所がなくなってしまいました。

今回は来るのがわかっていたので、2階で対応しようと思い、延ばし延ばしになっていた掃除を思い切って推し進めました。
それで何とかお客さん対応の空間に近づきました。
まあこれで何とか対応できると思っていたのですが、3人も来るとは思ってもいませんでした。それに、玄関先でいいというのとコロナ問題もあるのでということで、結局、玄関先で済ませてしましました。
したがってあまり余計な話は出来ない結果になりました。

これは私の本意ではありません。
人は無駄話をするから関係が育つのですから。
せっかく珈琲まで淹れていたのが無駄になってしまいました。

今の家をつくる時に、リビングでは10人ほどは集まれる場所にしようと思っていました。節子も協力してくれましたが、大きなテーブルやイスなどを探しているうちに節子は病気になり、計画は挫折しました。以前も書きましたが、「未完のプラン」に終わってしまったのです。
それでも以前、自治会長を引き受けた時には、10人ほどの集まりも自宅でやりましたし、我孫子まちづくり編集会議の最初の数回の集まりも自宅でやりました。広さだけはあったのです。
しかし、今はその部屋は娘家族に譲り渡しましたので、2階にはせいぜい2~3人しか受け入れられる部屋しかないのです。
これはとても残念なことですが、

私の人生設計は、大きく変わってしまったわけです。
本当は湯島ではなく、自宅で毎日、サロンだったのですが。

節子が残していた資金を使えば、そういうオープンな場をつくれたはずですが、その資金は残念ながらあることですべて失ってしまいました。
今から思えば、もう少し資金をためておけばよかったとも思いますが、もう対価をいただく仕事は15年以上ほとんどやっていないので、自分の生活を支える資金にさえ、最近は事欠くほどです。
困ったものですが、でもまあ何とかなっているのが不思議なくらいです。

節子がいたら、私の日々の過ごし方は全く違ったものになっていたことでしょう。
そう思うこの頃です。

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2021/11/22

■節子への挽歌5189:エジプト在住の中野さん

節子

カイロの中野正道さんからメールが来ました。
最近日本の雑誌の取材を受けて、そのインタビュー記事が掲載されたのです。
中野さんの写真が載っていました。
最後にお会いしてから25年ほどたっていると思いますが、中野さんも歳をとりました。

わが家の最初の海外家族旅行はエジプトでした。
娘たちには会社を無理やり休ませて、付き合わせたので、娘たちからは評判がよくなかったのですが、幸いに現地をずっと案内してくれたのが中野さんでした。それで娘たちの印象も変わったと思います。
初めての海外旅行だったので、その時にはあまり感じなかったのですが、その後、何回か海外ツアーに参加して、中野さんがちょっと違うのがわかりました。
単に仕事で案内という感じがあまりなかったのです。
何か心通ずるものを感じ、以来、ずっとお付き合いが続いています。

最初の海外旅行先としてエジプトを選んだのは私でした。節子は欧米派でした。幸いに節子はその数年前に欧州旅行をしていましたから、私の提案に不承不承賛成したのです。
でもたぶんエジプトは楽しかったようで、次の旅行も地中海周辺に異を唱えませんでした。そうなった一因は、たぶん中野さんに出会えたからでしょう。
家族みんなが中野さんにはとても好感を持ったのです。

帰国、中野さんはご夫妻で一度、湯島にも来てくれました。
その時には難病の子供を支援する活動をして、私たちもささやかに支援に関わりましたが、その後もいろいろとおふたりからは教えられることが多かったのです。
しかし、中野さんがどういう人かは全く知りませんでした。
雑誌のインタビュー記事を読んで、驚きました。
そして中野さんたちの生き方が少し納得できた気がします。

節子がいたら、エジプトには多分もう一度行けたでしょう。
返す返すも残念です。
この記事を節子にも読ませたかったです。

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■節子への挽歌5188:彼岸との距離が近くなった気がします

節子

挽歌をさぼっているうちに、挽歌を書けなくなってきました。
むしろ節子に伝えたいことは毎日それなりに出て来るのですが、私と彼岸との距離が近くなったのか、節子の位牌に向かって、心で思うだけでもういいかと思うようになってきてしまいました。

自然の流れにはあまり抗わないのが私の信条なので、パソコンに向かってもどうも挽歌を書くよりもほかのことを優先してしまううちに、また1か月近くのずれが生じてしまいました。
困ったものです。

昨日、久しぶりに夢に節子が出てきました。
もうその内容は思い出せませんが、困っている私を助けてくれたような気がします。
私が道に迷っている。そんな場景が残っています。

改めて、たまっている話を節子に話す挽歌をまた書こうかという気になりました。
と思って、書こうと思ったら、今度は書こうとしたことが思い出せない。
本当に困ったものです。

まずは朝食を食べてからにしましょう。
実は最近は朝のテレビ体操もやらなくなり、朝食も少し乱れだしています。

昔と違って、冬が苦手になってきています。
今日も冬空です。

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2021/11/21

■12月オープンサロンのご案内

12月のオープンサロンの1回目は1日に開催します。
オープンサロンは、テーマはなく、話したい人は話す、聞きたい人は聞く、そんな気楽なサロンです。気が向いたらどうぞ。
出入りは自由です。
湯島のサロンに来たことのない人も、私と面識のない人も、誰でも歓迎です。
〇日時:2021年12月1日(水曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■湯島サロン「人の本質は善か悪か」報告

参加申込が直前まであまりなかったので、みんなあまり関心がないのかなあと思っていましたが、なんと10人を超える参加者があり、意見が飛び交うにぎやかなサロンになりました。フェイスブックで見たと言って、新しい人も2人参加してくれました。写真を撮りそこない、その様子を紹介できないのが残念です。

テーマは、人の本性は善か悪か。
最初に、紹介文にも書いたブレグマンの新著「希望の歴史」の冒頭に出ている問いかけをさせてもらいました。こういう問いかけです。

飛行機が緊急着陸して、機体が破壊され炎上しだした。早く脱出しなければならない。
〈惑星A〉では、乗客は、近くの席の人々に大丈夫ですかと尋ね、助けが必要な人から機外に助け出される。乗客たちは望んで自分の命を犠牲にしようとする。たとえ相手が、見ず知らずの他人であっても。性善説の世界。
〈惑星B〉では、誰もが自分のことしか考えず、パニックが起きる。押したり、突いたり、たいへんな騒ぎとなり、子どもや老人や障害者は、倒され、踏みつけられる。性悪説の世界。
さて、あなたはどちらの惑星に住んでいるのだろうか?

AかBかを紙に書いて一斉に出してもらった後、各人からその理由を説明してもらいました。予想に反して、〈惑星B〉を選んだのは3人だけでした。多くの人は性善説だったのです。しかもその理由も、自分の生活体験から語る人も少なくなかったのです。

次に、では自分自身はAかBか、つまりこういう状況でどう行動するかを聞きました。保留条件を付けた人はいますが、全員がAでした。自己認識はみんな「善い人」。

そこで、この世界は惑星Bだと答えながら自分はA的に行動するという人に、なぜ自分は性善なのに他者は性悪だと思うのかと訊くところから話し合いがはじまりました。

話し合いはにぎやかでしたが、途中で、参加者から「そもそも善と悪とはどう区別するのか」という問いかけがありました。
もしかしたらそれこそが本当の問いなのかもしれません。

いうまでもなく、善悪の判断基準は人によって違いますし、○×の問題ではなく、状況によって善悪が反転することもあるでしょう。それに「善い人」もいつも「善い」だけではなく、時と場合によっては「悪い人」に転ずることもある。人はみんな「善い面」も「悪い面」も持っているはずです。

善悪よりも、利己的か利他的かと置き換えたほうがわかりやすいという指摘もありました。たしかにそのほうがわかりやすい。しかしそうなると今度は「己」とはどこまでの範囲なのかが問題になる。

「希望の歴史」には、人は仲間(広義の己)とそれ以外とでは全く違った反応をするという事例がたくさん出てきます。
仲間意識を持つことが、個々の存在としてはむしろ賢く強かったネアンデルタール人に打ち克ってホモ・サピエンスが生き残った理由だとも言われます。しかし、逆にその仲間意識が、仲間以外のよそ者には厳しく当たることになる。時にホローコスト(大量虐殺)さえ起こってしまう。
つまり利己(性悪)と利他(性善)はコインの裏表でもあるのです。

これは話し合いのほんの一例ですが、ともかくいろんな話題が出ました。
最近起こった京浜急行車内での事件やいじめやDVの話。留守の時に家に鍵をけることの意味なども話題になりました。
戦場のクリスマスの話も出ました。たとえ戦っている者同士も、前線で直接出合うと実際には銃も撃てなくなるという話も「希望の歴史」には紹介されています。
人は相手のことを知ってつながりが生まれると、「性悪」にはなりにくくなり、性善的な面が出やすくなる。とすれば、人が直接に出会うことこそが大切ではないか。それを阻害しかねないコロナ騒ぎやマスクは問題ではないか。こんな話も出ました。
性悪説は権力者にとっては都合がよいという指摘もありました。
被災者支援の活動に取り組んでいる人も参加していたので、災害ユートピアやその反動の話も少し出ましたが、これはいつかきちんと話題にしたいと思っています。

マスコミは、幸せな話よりも凶悪事件や悪い人の話を報道しがちなので、それに浸っている私たちは、いつの間にか人は性悪だと思わされているのではないかという話もありました。たしかに殺傷事件は減少しているのに、その目立ち方はむしろ増えているため、物騒な社会になってきたと思っている人は少なくないでしょう。
逆にちょっとした「性善的な行為」、たとえばコンビニで買い物をした時に、レジの人に「ありがとう」と声をかけるような小さな行為の積み重ねで、人間観は変わっていくのではないかという提案もありました。

まあこんな話が2時間半、続いたのです。みんなそれぞれに考えたことは違うかもしれませんが、いろんな気づきもあったのではないかと思います。

最後に、人は本来善い人であるとしても、なぜ今の社会は「信頼感」も「安心感」もない社会になっているのか、という問いかけもありました。
それはやはり社会のあり方にある。知らない人も含めて社会が大きくなっていくとピラミッド型の組織が生まれ権力者が生まれ、私的所有が生まれ、お金が生まれる。
そのために本来性善な存在だったのにみんな自己防衛的に性悪になってしまう。
どうしたらそういう状況を変えて、みんな気持ちよく暮らせる社会を作り出せるか。それが課題なのです。

ちなみに、自分のまわりに「性悪な人はいますか」という問いかけもしましたが、いるという人はたぶんそうはいないでしょう。でもなぜかその外には「性悪な人」を想像してしまう。不思議な話です。

報道から与えられる情報によって、私たちの人間観や社会観は大きな影響を受けます。
それに振り回されることなく、まずは実際の自分の周りの人との関係の中から、しっかりと自分の人間観や社会観を育てていきたいものです。そういう意味でも、こんな話し合いを時々していきたいと思います。

長い報告のわりには、話し合いの内容をほとんど紹介できなかったのが残念です。
しかし、他者もみんな自分と同じように「善い人」だと思えば、人生はとても生きやすくなる。時に裏切られることもないとは言えませんが、それには多分理由があるのでしょう。好き好んで人を裏切る人はそうはいないでしょう。それに、みんなから「善い人」だと思われていることがわかれば、多くの人は「善い人」になるでしょう。

ブレグマンは「希望の歴史」を次のような文章で締めくくっています。

「私たちは、本当は惑星Aに住んでいて、そこにいる人々は、互いに対して善良でありたいと心の底から思っているのだ。だから、自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。最初のうちあなたは、だまされやすい非常識な人、と見なされるかもしれない。だが、今日の非常識は明日の常識になりえるのだ」。

そしてこうも書いています。

「わたしたちが、大半の人は親切で寛大だと考えるようになれば、全てが変わるはずだ」。

ブレグマンの「希望の歴史」を読むと元気が出てきます。
もしお時間があればぜひお読みください。
そしてまずはコンビニで買い物をしたら「ありがとう」と言ってみませんか。
何かが変わりだすかもしれません。

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2021/11/19

■湯島サロン「住んでいるまちを楽しくしよう」のご案内

8月に開催した「はじまり場サロン」で、竹形さんがすでに取り組んでいる「地域を楽しいものにしていく構想について話をしてくださいました。
その時の話は、みんなが使い合える地域SNSづくりだったのですが、その後、話はどんどん広がり、住んでいるまちをみんなで楽しく快適なものにしていこう」という、「STREET LIFE PROJECT」へと発展してきています(まだ発展進行中です)。
しかも、そのプロジェクトに関心を持つ人も増えてきて、来年に向けての展開計画もまとまりだしてきました。

湯島のオープンサロンでは時々、進捗ぶりを紹介してもらっていたのですが、お話を聞いていて、各地でまちづくりに取り組んでいる人たちにも聞いてほしいなという思いが強くなってきました。
そこで、竹形さんにお願いして、サロンを開催してもらうことにしました。

竹形さんの構想は、全国どこでも展開できる柔軟なスタイルになっていて、むしろそうした各地の活動が自立共生的につながることを目指していますので、その地域地域にあった実践者のネットワークが大切になっていくでしょう。
竹形さんの構想はまだ進化中ですが、そこには地域通貨(竹形さんは自由通貨と今は呼んでいます)構想や世代を超えた相互共生の仕組みなど、とても具体的な提案も含まれています。

自分の住んでいるまちでも何かしたいと思っている方(すでに取り組んでいる方も含めて)には、大きな示唆が得られるだろうと思います。
年末の少しあわただしい時期ではありますが、ぜひ来年は自分の住んでいる地域で何かをしたいと思っている方にはぜひ参加していただきたいサロンです。
みなさんの参加をお待ちしています。

〇日時:2021年12月12日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「住んでいるまちを楽しくしよう」
〇話題提供者:竹形誠司さん(地域活動家)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修  qzy00757@nifty.com

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2021/11/18

■11月オープンサロン報告

今回はオープンサロンと言いながらも、参加者のおひとりが取り組んでいるプロジェクトの話で盛り上がってしまい、ほぼそれで終わってしまいました。
オープンサロンなので話したかったのにという人もいたので、少し時間を延ばしてその人のお話も少しお聞きしました。
話したい人がいかに多いか、改めて考えさせられました。

ちなみに湯島のサロンはみんなで創っていくことを目指していますので、もし話をしたいという方がいたらご連絡ください。
その人を中心として話をするサロンを企画しますので。

コロナ規制が解除されてきて、人の集まりも復活してきているので、湯島のサロンも、もう役割を果たして、そろそろ以前のような頻度に戻そうかと思っているのですが、なかなか減らすのは難しそうです。
来年もサロンを継続していくようにしないといけなさそうです。

ちなみに今回話題になったのは、竹形さんが取り組んでいる「住んでいる街を楽しくしよう STREET LIFE PROJECT」です。
これに関しては、できるだけ早く竹形さんにサロンをやってもらおうと思います。
まちづくりに取り組んでいる、あるいは取り組みたいと思っている人にはぜひ参加してほしいサロンになると思います。

オープンサロンは、参加者が少なくとも、できるだけ開催し続けるようにしようと思います。

Open20211117

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■湯島サロン「新型コロナ・ワクチンに関する気になること」報告

新型コロナ感染症もようやく収まりを見せつつありますが、それに伴い、それにまつわる様々な疑問への関心も薄れてきて、ワクチン接種やウィズコロナ生活も「(新しい)日常化」しそうな気配が強まっています。
その一方で、この事件から事の真相の一端が見えてきたという人もいますし、いわゆる「陰謀説」への関心を高めている人もいます。

「陰謀」というと、頭から否定する人もいますが、歴史を振り返れば、事実だった「陰謀説」は少なくありません。今回の新型コロナに関しても、昨年1月に中嶋さんが湯島で話した「陰謀説」のなかにも、その後、事実だと確認されたことも少なくありません。「陰謀」という言葉に騙されてはいけません。それこそが「陰謀論の罠」だとも言えますから。

それはともかく、マスコミ情報を鵜呑みにしてはいけないという意識は広まっているような気もします。そこから生まれている「不信感」と「批判姿勢」は全く別のものでしょうが、そうした意識がこれからどう進んでいくのか、とても気になります。

マスコミ情報をそのまま受け止めるのではなく、批判的に受け止めながら自らいろいろとネット検索などしながら、事態を批判的に見続けているおふたり、中嶋さんと北川さんによる「新型コロナ・ワクチンに関する気になること」サロンは、10人を超す参加者がありました。
どこかに引っかかっている人は少なくないようです。

今回は前半でまず中嶋さんから、コロナ騒動に関して、「個別の情報についての真偽はわからないが」という前提の下で、中嶋さんが想定しているある仮設を改めて整理してくれましたが、同時に、「マスコミ情報との付き合い方」のような話がありました。

一言で言えば、日本人は一般メディアを信用しすぎではないか? 真実はいつも隠されている、という視点でメディア報道などを見る必要がある。証拠のあるマイナーな真実情報よりも、メジャーなウソ情報に人は踊らされてしまいがちだが、もっと真実を感じる発想を知ってほしいというのが中嶋さんからのメッセージの一つでした。

「仮説」の内容に関しては、中途半端に書くと誤解されそうなので、省略します。

後半は、それを受けて北川さんからコロナやワクチン問題を読み解く関係書籍や気になる発言者の紹介があり、つづいてワクチンに焦点を絞ってのネット情報の紹介でした。

たとえば、こんな話です。
・新型コロナ・ワクチンに関する気になることに関する米国のネットサイト
・ワクチンの治験不足問題
・ワクチン接種で実際に不具合が生じている情報
・ワクチンに関するファイザーと日本政府との契約の不平等性
・ワクチンのナノチップ説
・一体何のためのワクチンかに関する疑惑追及
・そもそもの死亡率や重症度に関する疑問
・兵器説とそう仮定した場合の防衛手段に関する告発
最後に新型コロナ治療法に関する情報までありました。

これらも内容はここでは省略しますが、関心のある人はご連絡いただければ北川さんからの情報の一部のデータを送らせてもらいます。

話し合いは例によって自由奔放に展開しました。
にぎやかすぎて、とてもうまく報告することはできません。

コロナ騒ぎで、いわゆる「陰謀論」への関心が高まりました。
もちろん荒唐無稽な話もありますが、真実につながっている話もあるはずです。
それをひとからげにして葬り去っては、ますます事実は見えなくなりかねません。
虚構か事実かという二項対立で受け止めるのではなく、そこから見えてくるものを見ていく姿勢やリテラシーが、今こそ求められているように思います。

見ようと思えば、見えることはいろいろとある。
与えられた情報で世界を見るのではなく、もっと自分の心身で世界を見ていこうと改めて思いました。

Wakutin

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2021/11/14

■節子への挽歌5187:孫との回転寿司

節子

昨日はにこも一緒に食事に行こうと思いました。
にこの幼稚園が休みになる土日は、私がほとんど在宅しないため、なかなか一緒に食事する機会がありません。
同居はしていますが、家での食事は基本的に別々なのです。

それで久しぶりに土曜日が在宅だったので、にこを誘ったのです。
実は久しぶりに肉料理を食べたかったのですが、お店を選ぶ優先権はにこにあります。
にこが一番好きなのは、「おうどん」なのだそうです。
その次がお寿司、肉料理は優先度は一番低いのです。
うどんはちょっと避けてもらい、何とかお寿司になりました。
お寿司と言っても回転寿司です。

にこはもしかしたら食べるのよりも回っていくお寿司を取るのが好きなのかもしれません。
そういえば、以前もお店選びの基本がそのお店にある「ガチャガチャ」というおもちゃ販売機だったこともあります。
孫との食事は、メニューではないようです。

食事の後、近くの手賀沼に盛んを獲りに行こうと誘いましたが、やはり断られました。
魚を取るのは相変わらずだめなのです。
そういえば、この意見の違いから一時期関係が悪化したことがありますので、あまり押しすぎてはいけません。いまもそういいわけではありませんし。

今日行った回転寿司屋さんはスシローですが、とても混んでいました。
最近の回転寿司には、寿司らしからぬものが少なくありません。
私も今回、生まれて初めてエビのてんぷらの乗ったお寿司を食べてみました。
にこはフライドポテトを食べていました。
もう回転寿司屋はお寿司屋さんではなく、回転レストランでしかないような気がしてきました。

少し生活リズムを取り戻せました。
頭の疲労感もだいぶなくなりました。

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■第11回益田サロン「生物の自己複製/変異と自発性」のご案内

今年最後の益田サロンは、「生物の自己複製と自発性」をテーマにしようと益田さんから提案がありました。
最近はあまり聞きませんが、以前は、生物とは、「膜で外界と仕切られている」「代謝を行う」「自分の複製を作れる」とよく言われていました。
特に「自己複製能力」は生物の生物たるゆえんとされていた気がします。
今回は、その「自己複製」が一つのキーワードです。
これはここ数回話題になっている「復元・復原」につながっています。

もう一つのキーワードは「自発性」です。
これも益田サロンでよく話題になる「生物と環境」の動的な関係を改めて考えようということです。
環境あっての生物という発想は最近はかなり見直されていて、生物と環境は双方向的な共進化関係と捉えられてきているように思いますが、これは言うまでもなく、益田サロンの基本テーマでもある「図と地」問題や「自己の捉え方」につながっています。

どういう風に話が展開するかわかりませんが、今回も益田さんと参加者とのやり取りで方向は決まっていくことになるでしょう。どこに向かうかわからない、ミステリアスサロンをぜひ楽しみに来てください。
益田サロンの常連のみなさんも、一度も参加されたことのない人も、大歓迎です。

〇日時:2021年12月4日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「生物の自己複製/変異と自発性」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■政治サロン「初めて真面目に投票して感じた日本の政治」報告

今年21歳の川端さんは、18歳から選挙権を得た世代です。
川端さんはこれまでも投票に行っていましたが、今回は、「自分だけ」では生きられない自分の人生の選択をしていくのが政治なんじゃないか、という思いで、選挙投票に取り組んだそうです。
選挙への姿勢が変わったら、いろんな気づきがあり、政治の見え方も変わってきたと言います。
選挙を振り返って、日本の政治を話し合うサロンの第1回目は、大学生の川端さんのそんな体験と政治観をお聞きすることから始まりました。

川端さんがまず感じたのは、「若者よ、選挙へ行こう」という呼びかけや「ネット投票の制度を作ったら投票率上がるんじゃない」というような考えへの違和感でした。
選挙に行くことは手段であって目的じゃない。ただ「選挙に行こう」と呼びかけて対症療法的に選挙に行く人を増やしたところで大事な問題が見えなくなるだけじゃないのかと思ったそうです。
では選挙に行く目的は何かといえば、それはまさに自分の人生につながっている。
選挙でだれに投票するかを考えることは、「他人事」ではなく「自分事」なんだと思えるかどうかが大切ではないかと、川端さんは言います。

テレビの選挙番組での選挙の扱われ方にもいろいろと感ずることがあったそうです。
たとえば、立候補者も番組も、いずれも党の勝敗にこだわっている感じが強く、日本をどうしようかという、政治の内容に関する議論はあまりない。政治とは勝敗だけではないはずだ。たとえ意見が違っていても、お互いにそれぞれの考えをぶつけ合って、より良い世界に向かって取り組んでいく姿勢がもっとあってもいいのではないかと思ったそうです。

一方的に自論を発するだけでなく、お互いの良さを認め合って、新しい政策を生み出す。せめぎ合うだけではなく、お互いの良さを認め合ってもいいのではないか。
たしかに、選挙期間にそういう建設的な論戦がもっとあれば、国民の選挙への関心は高まるでしょう。選挙は国民の政治への理解を深めるいい機会になるはずです。

国民審査に関しては、制度上ついていけない人が多いのではないのかと言います。それにそもそも「不信任の人にバツをつける制度」になっているが、人にバツをつけるのって疲れるからやりたくないという人が多いだろうと川端さんは言います。
たしかにバツをつけるのは、議員を選ぶ(マルをつける)投票とは真反対の行為です。これもまた、選挙へのモチベーションを下げている一因かもしれません。選挙と切り離して、別のかたちでやる方策はいくらでもるはずです。

このように川端さんには、今の選挙制度への違和感が強かったようです。

しかし、そうはいっても、自分の人生の選択とつなげて立候補者の政見放送やテレビでの言動を見ていると、しっかりした意志を持っている人も見えるようになってきたと言います。つまり、言葉だけの人や勝ち負けだけしか考えていないような人ばかりではなく、意志を持っている人もいる。そういう人がテレビに出て来ると気が楽になる感じがしたと言います。

結果的には、川端さんは、政治への信頼感を少し取り戻したようです。
最初は、あまり実体を感じないような人でさえ、よく見てみると、身体のすみずみまで意志のない人はいない。顔つきが全く不健康でも、当人の意識がそこに向いていないだけで、ひとを想う気持ちのようなものが陰には潜んでいるように見える。そんな気がするようになってきたと言います。
もしかしたら、今の日本の政治家は、自分も含めて、私たち国民の姿を映す鏡ではないのか。

つまり、私たちは政治家をもう少し信頼して、期待するべきではないのか。
最初から政治家に期待もせずに非難ばかりするのではなく、もっと政治家を信じて、自分の気持ちを投じる、そして期待を向ける。そういう風に気持ちを向けることが実際に世界を変えていくことにつながるのではないだろうか、と思うようになった。
それも選挙投票日だけではなく、常日頃から彼らの言動に関心を持ち、期待していくことこそが、本当の意味での「投票」ではないのか。
そのためには、政治家を見放すのではなく、その人の心を見つめ続けることも必要なのではないか。
つまりは、すべての出発点は、自分にあるのではないか。

政治は他人事ではなく、自分事だと気づけば、政治の見え方も変わってくる。
どの党が勝ったとか誰が当選したかということも重要だけれども、もっと重要なのは、政治に意見を表明できる選挙の機会にこそ、私たちは、自分の人生とのかかわりの中で、政治への関心と期待を強めるべきではないか。

川端さんの話からは、そんなメッセージを感じました。
私には、政治の本質(誰のための政治なのか)を問い直すような問いに感じました。

参加者が少なかったこともあって、話し合いはかなり突っ込んだものになりました。時間も予定を1時間を超える長丁場になり、さまざまな話題が出ましたし、選挙制度の持つ意味や今回の選挙結果の具体的な捉え方も話題になりました。
選挙結果も、人によって受け取り方が違うのも興味深かったです。具体的な政党への評価の話もありました。

最後に川端さんに、今回の体験はどう発展していきそうか質問しました。
たとえば、選挙権だけでなく被選挙権も18歳からに制度改革するような運動や自分の人生の選択と政治を話し合う若者の話し合いの場づくりを呼びかけるような運動をしたらどうかとお聞きしましたが、関心を持ってもらえませんでした。
そもそも、学生同士で、政治を語ることはほとんどないそうですし、今もむしろ忌避されるテーマのようです。
そういう実態を変えていくにはどうしたらいいか。
それが私には最大の関心事です。

なお選挙を振り返るサロンの2回目は、1125日、今度は久しぶりに選挙活動に関わった生活者佐藤祐子さんがその体験を話してくださいます。
みなさんの参加をお待ちしています。

Senkyo202111122

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2021/11/13

■湯島サロン「小さいことはいいことだ!の実践」報告

農福連携のあり方を実践的に研究している熊本の宮田喜代志さんのサロンは、今回はいつもとは違い、いわば活動から見えてきた新しい経済や社会のあり方に焦点を合わせた「小さいことはいいことだ!の実践」がテーマでした。
これまでの宮田さんのさまざまな活動が整理されて、次の段階への展開の方向づけが示されたといってもいいでしょう。その基本軸は、「小さいことはいいことだ!」という宮田さんのこれまでの仮説への確信です。

そういう視点から、宮田さんは最初に「広がる農福連携」の概要を話し、続いてそうしたところから見えてくる「日本の社会問題の本質とその変化」、実際に起こっている「経済社会の主役の変化」や「新しい農業の潮流」などを、宮田さんらしい視点で、言い換えれば「現場起点の小さな活動の積み重ね」から、実証的に話してくれました。
なにしろ宮田さんの背景には膨大な実践的知見がありますから、同じ言葉でも重みが違います。

農福連携というと、農業や福祉の問題と捉えられがちですが、宮田さんは、「農福連携を地域づくりのキーワードに据え、地域共生社会の実現へつなぐ取り組みが進められている」と考えています。これも実際に宮田さんが体験したことからの実感でしょう。
しかもそれが、今や「国策」にもつながっていて、たとえば「地域共生社会ビジョン」の実現を担う主体として各地の農林水産業にかかわる中小企業・小規模事業者が重要な役割を果たしだしているというのです。
マスコミ情報からはなかなか見えてこない、そういう実相が、現場を足繁く回っている宮田さんには多分はっきりと見えるのでしょう。

宮田さんはこうも言います。
各地の経験から、農福連携を中心に地域づくりのプロセスで多様な結び付きが生まれ、新しい地域コミュニティが形成されることが分かってきた。それは単なる問題解決の動きではなく、新しい社会を創造していく動きだ、と。
そこから宮田さんは「国家」「市場」「国民」の関係が今大きく変わりつつあると概念図で示してくれました。そこではこれまでの重層的なピラミッド構造ではない、ネットワーク型の社会構造モデルが示されましたが、いずれにしろ、農福連携の取り組みは、農業や福祉の世界を超えて、私たちの社会のあり方を示唆している、と宮田さんは確信しているのです。

こうしたネットワーク主体の一つとして、CSACommunity Supported Agriculture:地域支援型農業)のような、「市民協働型農業」も今回は取り上げられました。宮田さんは必ずしも強調しませんでしたが、私自身はCSAにこそ「農業」と「福祉」の「連携」を超えた第3の理念(「コモンズの共創」)を感じているのですが、宮田さんの農福連携活動もまた、次のステップに向かいつつあることを今回は強く感じました。

宮田さんはまた、話の中で、今の社会をどう変えていくかについて示唆している3冊の本(「定常型社会」「デフレの正体」「日本はどこで間違えたのか」)を紹介してくれました。宮田さんはそれに加えて、日本でも40年ほど前に話題になったシューマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル」およびその「再論」を読み直され、そうした本の中に、大きなヒントがあることに改めて気づいたそうです。
実践者のそういう感想には重みを感じます。

農福連携に実際に関わっている人の参加も多かったので、話し合いも活発で、かなり掘り下げた議論もありました。その内容を紹介できないのが残念ですが、その一部はまた別の機会にサロンをしてもらえればと思っています。

湯島のサロンの話し合いを聞いていていつも思うのは、どんなテーマであれ、私自身の生活に深くつながっているということです。
そればかりか、全く違うテーマのサロンなのに、話されている内容はつながっていることが少なくありません。いろんな問題が絡み合っているのが社会なのです。

「農福連携」も決して、農業や福祉に限った話ではありません。
「農」や「福」という文字にあまり影響されずに、ぜひまた農福連携がらみのサロンにはいろんな人が参加してほしいと改めて思いました。

Miyata20211109

 

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■節子への挽歌5186:1週間読書に埋没していました

節子

また1週間ほど挽歌をさぼりました。
書きたいことはいろいろとあったのですが、この1週間、めずらしく読書に埋没していました。
学生の頃読みだして、いつも途中で放棄していたマルクスの「資本論」です。

時評編には書いたのですが、今回はマルクス主義の視点からではなくマルクスの視点から「資本論」を解説してくれている佐々木隆治さんの本と1963年版の大月書店の「資本論」を並行して読んだのです。
1巻だけですが、それでも1000頁を超える2分冊の大部です。

それに字が小さくて読みにくい。
正直、疲れきりました。

そのため、挽歌は気になってはいましたが、すべての時間を「資本論」読書に費やしていたわけです。
そしてなんとか1週間で読了しました。

それはよかったのですが、その後、文字を扱うのが嫌になり、サロンの報告さえも書けなくなってしまいました。
そんなわけで生活リズムは大きく変調してしまったのです。
ずっと座って読書をつづけていたので、体調もあまりよくありません。

今日からまた少しずつ挽歌を書きだそうと思います。
この間、いろいろとありました。
同級生の訃報もあれば、夢と現実の混在がますますひどくなったこともある。
うれしい話もあれば、いやな話もある。
読書に埋没はしていましたが、読書三昧とは言えない1週間でしたが。

 

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2021/11/12

■はじめてきちんと「資本論」第1巻を読みました

この1週間、佐々木隆治さんの「マルクス資本論」を片手に、「資本論」第1巻を読んでいました。こんなにきちんと読んだのは生れて始めてです。
テキストは1963年の大月書店版ですが、やはりとても読みにくい。
それに2分冊になっていて、分量もすごいのです。

Image01

でも佐々木隆治さんのガイドに沿って、何とか読み終えました。
読後の感想は、面白かったの一言です。

当然のことながら、内容はすでにこれまで様々な本で何回も読んでいることばかりでしたが、改めてきちんと読むと、マルクスの慧眼にはやはり感服します。しかし、残念ながら、マルクスは、あるいはそれに続く人たちは、せっかくの気づきも活かせなかった。ここまで見据えていたのになぜ流れを止めることを彼は放棄していたのでしょうか。おそらくマルクスは、見えすぎていたのでしょう。そして、歴史に身を任せた。

しかし、最後に、資本主義時代の成果を踏まえて、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有を基礎とする個人的所有を再建する時代を確信していたことが書かれています。
私がこの40年間、目指してきた「コモンズの共創」は、すでにマルクスによって予言されていたことに気づきました。
大学生時代に最初に「資本論」を読みかじった時に、それに気づいていたら、こんな遠回りはしなかったのかもしれません。
でもまあ、その遠回りがとても面白かったことも事実ですが。

それにしても、こんなに集中して読書したのは久しぶりです。
この1週間、一人でいる時にはほぼすべて読書でした。
勢いに乗って、第2巻を読もうと思っていたのですが、少し時間を置くことにしました。
第3巻は、たぶん読む気は起きないでしょう。つい最近も一度挫折していますし。

しばらくはもう少し明るい本を読もうと思います。

 

 

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2021/11/11

■湯島サロン「好奇心は人を変えるか」報告

加藤誠也さんの「好奇心」サロンは、10人を超す大盛況でした。
しかも6歳から80歳の幅広い世代の参加で、時間もまた1時間も延びてしまいました。

Koukisin
今年度のノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さんが記者会見で、ここまで研究を続けられてきたのは「好奇心が原動力」と話したことが話題になりました。
好奇心を育て、好奇心に沿って生きることは日本では難しいというメッセージでもあったと思いますが、今回の加藤さんのお話も、そうしたことに深くつながる問題提起だったと思います。

加藤さんは長年、企業経営コンサルタントして活動してきていますが、組織も人も変容が求められているにもかかわらず、なかなか変われないことを実感しています。そればかりか、仕事もあまり楽しんでいない人が多い。にもかかわらず、みんな疲れ切っている。加藤さんは、使命感や責任感に押しつぶされているのではないかというのです。

加藤さんは、ソニーの創業者の盛田さんがよく話していた「自分を変えることを楽しもう」という言葉を紹介してくれましたが、仕事って、本来は楽しいものではないのか。私はそう思います。楽しくなければ楽しいものにしていけないものだろうか。楽しそうに話す真鍋さんの顔を思い出します。

改めて、私たちは「好奇心」との付き合い方を見直す必要があるのではないか。
加藤さんが、改めて大学院に通いだして「好奇心」に取り組みだした理由がよくわかります。

本論に入る前に、加藤さんはご自身の「好奇心」の対象の一つとして、「ズレ」という言葉を出してくれました。
たとえば、「したいこと」と「していること」とのズレです。
真鍋さんは好奇心に従って「したいこと」に取り組んだ。しかし最近の日本人の多くは使命感や責任感、あるいは与えられた仕事に呪縛されて自らの好奇心を抑制しているのではないか。それでは自分の生活も組織も社会も、生き生きしてこないのではないか、と加藤さんは考えているようです。

私たちの人生を楽しく豊かなものにし、社会も組織も豊かで元気にするためには、「好奇心」が大きなカギを握っている。加藤さんからのメッセージを、私はそう受け止めました。

加藤さんは、パワーポイントと配布資料を使いながら、1時間ほど、話題提供してくれました。さまざまな視点や問いかけがありました。詳しい紹介はあきらめて、項目だけをいくつか紹介します。

「使命感・責任感と好奇心・探究心」
「興味(感情)と好奇心」
「プラスの好奇心とマイナスの好奇心」
「好奇心は自分のうちにあるのか、環境で出会うものなのか」
「人の成長変容段階と好奇心」
「現前の見えているものの呪縛力と見えないものへの好奇心」
「課題解決の原動力・牽引力としての好奇心」
「もう一人の自分との対峙」
「好奇心の効用と功罪」

どれをとってもじっくりと話しあいたいテーマばかりでした。

好奇心をどう捉えるかという話も出ました。
人によって捉え方はさまざまでしたが、それを話し合うだけでもおそらくたくさんの気づきが得られるでしょう。

参加者の一人から、サロン翌日、好奇心に関して続きのサロンをやってほしいというメールが届きましたが、今回、加藤さんが問いかけてくれたどれか一つのテーマを選んで、好奇心パート2サロンを企画したくなっています。

真鍋さんが提起してくださった「好奇心論議」は、残念ながらその後、立ち消えとは言いませんが、忘れられそうで心配です。
そうならないように、近いうちにまた呼びかけさせてもらいます。

加藤さんの大学院での好奇心研究はまだ始まったばかりです。
博士論文がまとまったら、また是非サロンでお話をしてもらいたいと思っています。

 

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2021/11/09

■第3回本間神道サロン「日本の聖母いろいろ」のご案内

日本の神道における「聖母信仰」研究に取り組んでいる本間浩さんのサロンの3回目は、「日本の聖母いろいろ」と題して、これまで話して来た聖母神社、神功皇后以外の日本の聖母を話題にして、お話しいただきます。

「聖母」という言葉にこだわらずに、信仰の実態をうかがえば、神功皇后信仰は日本の聖母信仰の一例にすぎず、ほかにもじつにさまざまな聖母が日本で祀られている、ということに気づかされると本間さんは言います。
今回は、狭い意味での神道にとどまらず、日本神話とか、寺社縁起の話などから、さまざまな「聖母」を紹介していただき、そうしたなかから、私たちが育ててきた日本の文化や私たちの生き方に思いをはせたいと思います。
「聖母信仰」から、いろんなことが見えてくるような気がします。

神道とか聖母とか、全く関心がないという人も含めて、誰でも歓迎の気楽なサロンです。
さまざまな立場の人に参加してもらえるとうれしいです。

〇日時:2021年11月21日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ   
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「日本の聖母いろいろ」
〇話題提供者:本間浩さん(神道学博士/日本の聖母研究者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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2021/11/08

■ストーリーテリング協会主催ワークショップ報告

ストーリーテリング協会主催の「物語りを共創するワークショップ」が6日に開催されました。
案内をさせていただいたので、簡単な報告だけさせてもらいます。

今回は、ある意味では試験的な試みで、最近、ストーリーテリング協会で関心を持っている「物語共創ワークショップ」の入り口を体験してもらいました。
8人の方が参加し、3時間のワークショップの後、見返りの話し合いを持たせてもらいました。
ファシリテーターは協会の吉本さんで、私はコーヒ-兼カメラ係でした。

参加者は男女半々。立場もさまざまです。
企業やNPOに関わっている方もいましたし、フリーランスで活動している人もいました。
コミュニケーションや思考を発展させ、進化・深化させるツールも使いながらのワークショップでしたが、私自身はそれには参加せずに横から見せてもらっていました。

今回は、物語の基本構造のひとつである「起承転結」を軸としてワークショップが構成されていましたが、「転」(ノイズ)の大切さを、横から見ていて改めて強く感じられました。
今回の体験をもとに、吉本さん中心にさらにプログラムは進化していくだろうと思います。
参加者のお一人は学童関係の活動をしていますが、早速に応用展開してみたいと話していましたし、NPO活動されている人は、翌日また湯島に来てくれました。参加者のみなさんがそれぞれにプログラムをいろいろな方向に展開していっていただければうれしいです。

参加してくださったみなさんはとても楽しんでくださっていました。
参加できなかった私は、あまり楽しめませんでしたが。

吉本さんはまた第2弾、第3弾とワークショップに取り組んでいきたいと言っていましたが、もし関心のある方、あるいは、実践の場に即したプログラム開発に一緒に取り組みたいという方がいたら、吉本さんにご連絡ください。

今回のワークショップはサロンとは違うスタイルでしたが、来年からはこういう形のワークショップも検討していければと思っています。
もし主催されたい方がいたらどうぞ。私はコーヒ-兼カメラ係をさせてもらいます。

 

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2021/11/04

■「‟認知症と拘束”尊厳回復に挑むナースたち」のご紹介

しばらくご無沙汰していた平岩千代子さんから1冊の本が送られてきました。
平岩さんには、私がささやかに医療や福祉の問題にかかわった時には、いつも応援してもらった記憶があります。
その平岩さんが、大学院で医療福祉ジャーナリズムを学び直し、その修士論文をもとに、読みやすいブックレットにまとめて出版されたのです。
「‟認知症と拘束”尊厳回復に挑むナースたち」(日本看護協会出版会 900円)

本を開いて驚いたのは、本書の冒頭が、「父が縛られることに同意はできない」という言葉で始まっていたことです。
その一言で、本書の主旨が理解できましたが、同封されていた手紙を読んで、平岩さんのこのテーマへの思いも伝わってきました。

長い人生を懸命に生き抜いた最終楽章で、身体拘束されるのはあまりにも切なく悲しい。人生100年時代といわれるようになりましたが、「長生きしてよかった」と思える生活や療養の環境を整えることが喫緊の課題です。一市民としてできることはないか。

思ったら行動を起こす。私が知っている平岩さんの生き方です。
直ぐに読ませてもらいました。

本編は平岩さんが出会った、人間の尊厳を根底において活動されている3人の看護師のインタビューです。生い立ちや立場、仕事も違うのですが、そこから伝わってくるのは、いずれも「現場の生の人間の声」です。

病院での身体拘束の話は、今も時々聞きますし、湯島のサロンでも時に話題になります。
しかし本書を読んで思うのは、私にとっても決して無縁の話ではないなということです。
同時に、この問題は、福祉とは何か、医療とは何か、そして、生きるとは何かを真正面から問うてきていることに改めて気がつきました。

私の読後感を一言で言えば、一市民としてできることはある、ということです。

読んでいただくと分かりますが、これは決して医療や福祉に関わるだけの問題ではありません。「はじめに」で平岩さんは、「見える拘束」と「見えない拘束」に言及されていますが、私はそのくだりを読みながら、まさに私たちの日常生活も、今やこうした状況になるのではなかとふと思いました。
だとしたら、看護師ではない私にもできることはあるはずです。

看護師の田中とも江さんがインタビューの最後に話した言葉が、強く心に残りました。
私の考えにあまりに重なっていたからです。

私には社会を変えることはできません。できることは目の前の人が安心して暮らしを営むための支援をすること。言い換えれば、私自身が自分らしく生きたい。これって尊厳のことですよね。

内容を紹介するよりも、気軽に読めるブックレットですので、ぜひ直接読んでいただき、3人の看護師の声を聴いていただきたいと思います。湯島においておきますので、関心のある方は順番に読んでみてください。

また次のサイトから注文できますので、購読してもらえるとうれしいです。
https://www.jnapc.co.jp/products/detail/3906

 

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■節子への挽歌5185:誰と共に生きるかで全く違った人生になる

節子

体調はもうほとんど戻りました。
もっとも前回の筑波山事件以来、身体の老いと脆さに関しては、意識するようになりました。もうあまり無理は出来ないでしょうが、無理を封ずるわけにも行きません。無理のない人生は、あまり生きるに値しないと思いますので。

先の選挙結果を材料に、湯島でサロンを何回かやろうと思います。
1回目は大学生が話題提供者ですが、2回目には節子もよく知っている我孫子の佐藤祐子さんにお願いしました。
祐子さんと節子は、私が知っていた以上にかかわりがあったようですね。
彼女のメールからそれを知りました。
一緒に生活していた伴侶とはいえ、知らないことは多いものです。

いまもし節子が元気だったら、私の生き方はおそらくかなり違ったものになっていたでしょう。どんな生き方になっていたかは、予想もつきませんが、少なくとも今のような生き方にはなっていないでしょう。

節子と一緒にサロンをやっていたころに湯島に来ていた人たちと会うと、やはり昔の生き方を少し思い出します。
昨日、お会いした2人は、いずれもその頃のサロンの常連でした。
しかもいずれも節子にも強烈な印象を与えた人です。
あの頃のサロンと最近のサロンは全く雰囲気が違います。

人は自分一人では生きていません。
誰と共に生きるかで、全く違った人生になる。
節子と一緒に40年ほど暮らして、そう思います。

それがいい人生だったかどうかはわかりませんが、今となっては、それ以外の人生は考えられないことは事実です。

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■政治サロン「久しぶりに選挙に関わって感じた日本の政治」のご案内

選挙を通して日本の政治を考えるサロンの2回目は、佐藤祐子さんに話題提供をお願いしました。

佐藤祐子さんと知り合ったのは、地元の我孫子市の市民活動に関連してです。
当時、祐子さんは全国的にも先進的と言われていた我孫子市の市民活動を、活動当事者としてだけではなく、その広がりを応援する活動にも取り組まれていました。
しかし、その後、家業へと軸足を移されたこともあって、しばらくはご一緒する機会もなくなっていましたが、家業も山を越したようで、また市民活動にも取り組めるようになったという連絡を受けました。

またお会いしたいと思っていたら、今回の選挙結果に関する私のFBの記事にコメントをいただきました。
そこには、「今回の選挙結果に驚き失望しました。更に政治家だけが責任取らず復活出来るこの国の選挙に疑問噴出です。国を任せられるのでしょうか」とありました。

今回の選挙には、祐子さんは久しぶりに、ある立候補者のボランティアスタッフとして活動していました。
祐子さんは、市民活動と政治活動を切り離して考えてはいません。それは私が祐子さんと出会ったころから変わっていません。私も、国政と言えども、出発点は市民の地道な市民(生活者)活動であるべきで、生活と無縁な政治などあるはずがないと思っていますので、その姿勢に共感しています。

しばらく選挙活動から距離を置いていた祐子さんが、今回の選挙で何を感じたのか、とても興味があります。そこでご無理を言って、「久しぶりに選挙に関わって、感じた日本の政治」という切り口で、生活者目線での問題提起をしていただこうと考えたわけです。幸いに引き受けてもらえました。

1回目の大学生とはまた違った視点から日本の政治を考えることで、政治と生活者のつながりや生活者にとっての政治の意味などが話し合えればと思います。
また祐子さんは、この十数年、ビジネスの真っただ中にいた女性ですが、そういう立場からの政治観もお話しいただけると思います。

ぜひ様々な立場の人にご参加いただければと思います。
最近、コロナで足が遠のいている女性のみなさんにもぜひ参加していただきたい。
気楽なサロンですので、気楽にご参加いただければと思います。

〇日時:2021年11月25日(木曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:佐藤祐子さん(久しぶりに選挙活動にボランティアとして参加した生活者)
〇テーマ:「久しぶりに選挙に関わって感じた日本の政治」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2021/11/03

■節子への挽歌5184:死者からの誘い

節子

今日は、節子もよく知っている2人の人に、午前と午後、それぞれ会いました。
しかも、全く無縁な世界に住む、その2人をつなぐ私の友人がいるのですが、その友人が今年亡くなっていたことも知りました。
なにやらその友人が、今日を仕組んだような気さえしました。

その友人は、多摩大教授だった北矢さんです。
北矢さんとは、お互いに信頼し合う関係でした。
節子の胃がんが発見されたときに、彼は親身になっていろいろとアドバイスしてくれました。しかし、その後、彼も伴侶が(がんではないですが)病気になって、自らの生き方も変えました。それもあって最近はしばらく交流が途絶えていました。

午前中会ったのは節子もよく知っている小宮さんです。
小宮山さんと出合ったのは北矢さんの研究会に私が話をしに行って以来です。
それが縁で、湯島のサロンに来るようになり、長い付き合いが始まりました。

午後、会ったのは柴崎さんですが、彼もまた同じ北矢研究会で出会い、湯島に通いだした一人です。
柴崎さんから、そろそろ「終活」にはいろうと思うなどというメールが入ったので、まだ早すぎると会うことにしたのです。

小宮山さんから北矢さんが亡くなったことを聞きました。
午後から、柴崎さんと会う予定だと私が話したので、北矢さんのことが話題になったのです。それがなければ、私は北矢さんの逝去をまだ知ることはなかったでしょう。

実はそればかりではないのです。
しばらく前に、やはり北矢さんと共通の知人である河北さんとの交流が始まりましたが、その時、河北さんから北矢さんの名前が出たのです。
なにやらこの2か月ほど、どこかで北矢さんの思い出が時々顔を出していたのです。

しかし、どうして急に、小宮山さんと柴崎と会うことにしたのか。
それも同じ日に。
彼岸と此岸とのつながりを、やはり意識せざるを得ません。
昨日の2人との、それぞれかなり長い話し合いの様子も、北矢さんは見ていたかもしれません。

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2021/11/02

■政治サロン「初めて真面目に投票して感じた日本の政治」のご案内

今回の総選挙をみなさんはどう受け止めたでしょうか。
それぞれ受け止め方は違うでしょうが、私にとってはいろいろなことが浮き彫りにされるとともに、新しい希望の光を感ずるものでした。

選挙は、現在の日本の政治体制においては、国民が主権者として意見を表明できる数少ない場の一つです。同時に、主権者としての責務として、政治の現状をしっかりと確認し、政治のあり方についてそれぞれが学び気づく機会だろうと思います。
そこで今回の総選挙をテーマにしたサロンを2~3回開催することにしました。

その第1回は、「初めて真面目に投票して感じた日本の政治」と題して、大学生の川端さんに話題提供していただこうと思います。
彼にとっては初めての選挙ではなかったのですが、今回は事前に資料も集め検討し、真剣に考えて投票に行き、投票後も選挙結果に関心を持ったという意味では、「初めて真面目に取り組んだ選挙」と言ってもいいそうです。
そんな川端さんに、選挙で気づいたこと、考えたことを話してもらい、それを材料にみんなで話し合えればと思います。
ぜひ様々な立場の人に参加していただき、今回の選挙を次につなげていければと思っています。

言うまでもありませんが、政治の立場は別に問いません。最近、湯島は反自民の考えの人が多いようですが、むしろ様々な立場の人が意見を交わし合う場にできればと思っています。自公民支持者も野党支持者も、政党支持なし派も、政治に絶望の人も無関心の人も、どなたも歓迎です。

世代も立場も超えた異論のぶつけ合いのなかから、政治のこれからの課題が見えてくるかもしれません。
気楽にご参加いただければと思います。

〇日時:2021年11月12日(金曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:川端修平さん(新しい経済に関心を持つ大学生)
〇テーマ:「初めて真面目に投票をして感じた日本の政治」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2021/11/01

■節子への挽歌5183:30年ぶりの友人とメールして感じたこと

節子

一夜明けて選挙結果の詳細がわかってきました。
結果はあまりにも無残でしたが、新しい動きも感じられ、希望の光は見えてきました。
希望の光は、一言で言えば、世代交代と古い権威の崩壊です。
地道な住民とのつながりがまた力を持ち始めてきたようにも思います。
政治への関心の高まりかもしれません。

FBに投稿した私の意見にもさまざまなコメントがありました。
思ってもいなかった人からも長いコメントがありました。
もう30年近くお会いしていない人です。
人のつながりとは不思議なもので、その人とはある座談会でご一緒したことが一度あっただけなのに、その後もつながりが続いています。
わずか2時間ほどの座談会でのやりとりに、お互いきっと思うところがあったのでしょう。

長年交流があっても、切れたとたんに忘れてしまう人もいれば、一度あっただけなのに関係がずっと続いている人もいる。
しかし、30年近くも会っていないというのであれば、まだ会っていない期間が15年にも満たない節子との関係はどうなるのでしょうか。
たしかに会っていなくてもメールでやりとりができるか、できないかの違いはありますが、考えてみればそれもあまり大した違いでもないかもしれません。

なぜなら私の問いかけに関する節子の応えは、ほとんどわかっているからです。
また会える可能性の有無に関しては、彼岸で会えるかもしれないということを考えれば大きな違いにはならないでしょう。
節子が死んだように、私もまたいつか死ぬことは確実ですので、死というのはそう特別のことでもないような気がしてきています。
これは歳のせいかもしれません。

選挙の話からおかしな話になってしまいました。
今回の選挙はおそらく日本の政治の地盤を揺るがせ始めた気がします。
少し政治に関するサロンをつづけようと思います。

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■総選挙の結果は私の思っていたこととは真反対でした

選挙は、私の期待とは完全と言っていいほど、反対の結果になりました。
一言で言えば、予想は完全に裏切られたということです。

自民党は圧勝し、維新の会と国民民主党も大勝利となりました。立憲民主党は大敗。
野党連合は、予想に反して大失敗で、おそらく根本からの見直しを迫られるでしょう。
私にとってのせめてもの救いは、山本太郎政権への足場が出来たことくらいでしょうか。
とともに、若い世代の感覚での選挙への動きの基盤もつくられたような気もします。
そういう意味では、政権交代がはじまった感じはあります。

これまでの選挙で、私の予想が当たったことは一度しかありません。
鳩山さんによる友愛内閣の誕生です。あの時は初めて選挙結果に感動しました。
短い政権でしたが、私には幸せな1年でした。

それ以外は常に期待を裏切られ続けています。
次回もまた同じ繰り返しになりそうですが、私の姿勢は変わりません。
常に私自身が納得できる結果を目指す(予想する)のが私の姿勢です。
思っていれば、念じていれば、いつか実現するというのが私の信念ですから。
諦めたらそこですべては終わりますから、現実的な結果を予想することは、私の場合は全くありません。

残念なのは、投票率が上がらなかったことです。
私の周辺では結構盛り上がっていて、早々と投票に行った人も含めて、少なくとも60%は超えると思っていました。これは本当にがっかりです。日本の政治は国民の多くを満足させていることの証かもしれません。実際の行動こそが真実を示唆しているはずです。
私が生きている世界の偏りと狭さを、改めて思い知らされました。

今回で、立憲民主党が野党のリーダーなどとは誰も思わなくなるでしょう。
原発を再開し、私にとっては理に合わない消費税中心の税制へと統治概念を変更した野田元首相が在籍しているだけで立憲民主党には拒否感がありますが、今回はその拒否感を抑えて応援しましたが、やはり選挙結果が出た後の枝野党首の発言には違和感がある。

大きな時代の岐路になる選挙も終わりました。
「政治屋の政治」から「政治家の政治」へと方向は変わりました。
政治屋的な言動の無力さははっきりしてきましたし、政治屋的な人がかなり退場していくでしょう。これまでの選挙活動とは違った動きもいろいろとで始めました。
幸いに岸田さんは私にはまだ「政治屋」になっていない「政治家」の面が残っているような気がします。
岸田さんが流れを変えてくれるかもしれないという期待もあります。
流れというよりも、政治の質を変えてくれるかもしれません。

結果を肯定的に受け止め、その中での自分の生き方を考えたいと思います。
まあいつもながら期待を裏切られてめげていますが、今回は2~3日で回復するでしょう。

岸田さんが、思い切って行動を始めてくれれば、元気になるかもしれませんし。
甘利さんの処置は見事でしたし。

 

 

 

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