■性善説は「楽観」ではなく「希望」
今朝の朝日新聞の「日曜に想う」で、論説委員の郷富佐子さんが「新自由主義の終わりと性善説」と題して、ルトガー・ブレグマンの「希望の歴史」を紹介しています。
その最後に、ハラリとの対談で、ハラリから「楽観的すぎる」と指摘されたブレグマンの反論が紹介されています。
楽観と希望は異なる。楽観主義は一種の自己満足で、人を怠け者にする。でも希望は、物事を変える可能性を示す。私が歴史を好きなのは、いまの社会や経済の仕組みが宿命などではなく、大きく変えられると教えてくれるからだ。
同書は、前にも紹介したとおり、人間は生まれながらに利己的だという「常識」を崩し、性善説を証明しようとしているのですが、この「性善説」というのが実に癖ものです。
昨日の湯島サロンでも、大学生の一人が性悪説で社会を見ているというような発言があったのですが、前にサロンの報告で書いたように、善か悪かは基準によって反転します。
結局は、いまの自分と同じ人がデファクトかどうかということではないかと思いますが、そう解すると、性悪説論者は社会の多くの人と自分の価値観が違うと表明していることになります。なぜなら社会は性悪説が基本と思っている人も、自分は性悪とは思ってはいないでしょうから。となれば、性善説と思っている人は、さぞかし生きづらいことでしょう。他者は信じられないわけですから。
ブレグマンの発言を改めて読んでみて、性善説は「楽観」ではなく「希望」を持つことにつながることに気づきました。
性善説や希望がデファクトになれば、困るのは誰か。
そう考えると、生き方が変わるのではないかと思うのですが、逆にそう思わない限り、新自由主義はますます強固になっていくでしょう。
やはりこう考えるのは理想主義で、現実的ではない発想でしょうか。
ちなみにブレグマンは、「希望の歴史」の最後に、読者にこう呼びかけています。
現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日の下で良いことをし、自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、だまされやすい非常識な人、と見なされるかもしれない。だが、今日の非常識は明日の常識になりえるのだ。
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