■節子への挽歌5201:何かのせいにすることができる社会は生きやすいかもしれません
節子
新型コロナ騒ぎがようやく収まってきたと思っていたら、また新たな変異株が出現し、その感染力の強さから、先行きがまた見えなくなってきました。
といっても、私はまったく気にはなりませんし、今まで通りです。。
それにしてもどうしてみんなこれほどにコロナコロナと騒ぐのでしょうか。
不思議で仕方がありません。
コロナよりも注意すべきことはもっとあるだろうにと思うのです。
人はあることが気になると、他のことが見えなくなりかねません。
コロナ騒ぎの背後で、何が行われているのかが、むしろ気になりますが、まあコロナだけ心配していればいい人生は平和なのかもしれません。いまは、何かやりたくないことがあれば、コロナのせいにすることで何でも許されます。そういう意味では、新型コロナのおかげで生きやすくなっている面もあるとも言えます。
私もそれを口実にしたこともないとは言えません。
とりわけ何かをしたくないとき、断る時などに、「コロナが心配だから」といえば、それで通ってしまいます。
そういう意味では、こうした誰にでも平等に降りかかってくるような「大きな心配事」は、社会には必要なのかもしれません。
そうしたものが好都合なのは、支配する側の人だけかと思っていましたが、どうもそうではない。支配し、隷属する人たちにも好都合なのです。
何かのせいにすることができる社会は、本当は生きやすい社会かもしれません。
だから事態が収まろうとするとまた誰かが蒸し返させて来るのかもしれません。
これは一度覚えてしまうと、もうやめられません。
困ったものです。
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