■節子への挽歌5198:東大卒の汚名
節子
昨日は「能力主義社会は生きにくい」というテーマのサロンでした。
若者の参加(20代が4人)が多く、その上、引きこもり体験者(現在もなおの人も)が4人も参加し、久しぶりに若者主導のサロンになりました。
時評編にも書きましたが、そのサロンで、引きこもり体験者2人から、かなり厳しい「糾弾」がありました。
東大を出て東レに入った佐藤さんは、能力主義社会のエリートで、安住できる立場で現実的でない理想を述べているだけではないかというのです。
私は理想主義者ではなく、ましてや言葉だけをもてあそぶ世捨て人でもなく、現場での実体験から考えを構築することを信条にしていますので、これは聞き捨てならぬ言葉です。
それに、時評編にも書きましたが、「一流大学を出て有名企業に入った」ことで人を評価することこそ、罠に陥っているとしか思えません。それでは現実は何も見えてこない。そもそも「一流大学を出て有名企業に入った」ことに何の価値があるのか。そこには「個人の尊厳」を尊重する意識がまったくない。そういう人は、自分もまた見えないでしょう。多くの人がそういう状況にあるとすれば、もう人間の社会は終わったとしか言いようがない。しかし、そう思ってしまえば、私もサロンの参加者の多くと同じになってしまいます。まあ、そんな感じで、彼らとも激しく言い合ったわけです。
そのことをフェイスブックに書いたら、またいろいろとコメントが届きました。
東レの先輩の京極さんは、大企業に入ったのは事実だが、安住せずに飛び出したのは立派だと書いてくれました。
まあ東レはいいのですが、何とも厄介なのは「東大卒」という経歴です。
これに関しては、たとえば節子もよく知っている武田さんからは、佐藤さんは東大卒だからどんなバカげたことを言っても人は聞いてくれるが、私が言っても聞いてもらえない、とよく言っていました。彼は慶応大学卒ですから、私には東大卒とどこが違うのだと思うのですが、彼にはそれは通じません。
しかし、そういわれると逆にバカにされた気がします。つまり、私の言っていることはバカげたことなのにみんなが耳を傾けるのは「東大卒」という肩書があるからだよと言われているわけですから。これこそ侮辱というべきでしょう。
同世代ならともかく、今の若者たちもそういう風に思っているのかと思ったら、とても寂しくなりました。
過去の経歴などに影響されない、今現在の私と付き合ってほしいわけですが、そうならないのが残念です。
しかし、どこかにそう思わせてしまう言動が私にあるのかもしれません。
注意しなければいけません。
節子は私と結婚して、東大卒の無意味さを十分に知ったはずです。
でもまあ東大卒にしては、私は少しはまともな方だと自負はしていますが。
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