« ■節子への挽歌5196:脳梗塞疑惑は晴れました | トップページ | ■節子への挽歌5197:着る服がわかりません »

2021/11/27

■政治サロン「久しぶりに選挙に関わって感じた日本の政治」報告

選挙を通して日本の政治を考えるサロンの2回目は、しばらくビジネスの世界に軸足を移していた、市民活動の草分けのおひとり佐藤祐子さんが、久しぶりに今回、選挙に関わって、今の選挙や政治に疑問噴出したというので、その疑問などを話してもらいました。

本論に入る前に、祐子さんは自己紹介を兼ねて、市民活動に取り組みだしたきっかけになった地元手賀沼の水質汚染に関わる合成洗剤から石鹸への切り替え運動の話を少ししてくれました。その話があまりに興味深かったのと、それこそまさに市民の政治の話ではないかと思ったのですが、今回のタイトルを思い出して、それはまた改めてサロンをお願いすることにさせてもらいました。

しかし、そこで話が何となくはずんでしまったのか、それにつづく参加者の自己紹介も、いつもなら10分で終わるのが、なんと1時間近くかかってしまいました。もちろん、自己紹介と言ってもそれぞれが今回の選挙に感じたことも含めて話してもらったのですが、みんないろいろと言いたいことが山のようにあるようです。

そして本論。
祐子さんは、今回の選挙では、ボランティアスタッフとしてある立候補者を応援しましたが、政党ではなく人を選んだといいます。やはり政治の基本は、人ではないかというのです。またビジョンも大事だが、実現できる実践的な政策や目標こそが大切ではないかと言います。きれいごとはいくらでも並べられますが、みんなの声をしっかりと聴いて、その実現に実践的に取り組んでくれるような信念のある人を選ぶ目が国民にないと政治は他人事になってしまう。そして、実体の伴わないポピュリズム政治に陥ってしまいかねないというのです。

たしかに以前の選挙は、政党よりも人を選んでいたように思いますが、最近はせっかく人を選んでも、その人が政党に属している限り、なかなか個人としては行動できないのが実状です。党議拘束が強まる中で、せっかく私たちが選んだ政治家が組織の部品になってしまったら選挙の意味も失われかねない。

その意味でも、選んだ後、政治家がどう行動するかをしっかりと「監視」し「応援」する仕組みがなければいけないと祐子さんは言います。つまり選んだ人が人として活動していけるように支え続けていかなくてはいけないと言うのです。
一時期、話題になったオンブズマン制度は今はどうなったのかという話もありましたが、残念ながらそういうものも次第に利権化しがちで、あまり機能していないのが現状でしょう。
前にもサロンで話したことがありますが、私は、国民に開かれた政策シンクタンク機能と独自の市民メディアを持つ評価システムが必要だと思いますが、問題は利権化しない仕組みをどう育てていくかかもしれません。

祐子さんはまた、信頼できる代表を選んだらその人を信頼し続けること、そのためには自らも汗をかくことが大切ではないかと言います。選んで終わりの選挙ではなく、選んだ後もしっかりと応援し、声を伝えていくことが国民の責務ではないか、というわけです。
そういう仕組みとして「後援会」というのはありますが、これもまた利権集団になりかねない。祐子さんが考えているのは、そういう後援会組織ではない、もっと開かれた仕組みなのでしょう。

祐子さんは、単に選挙の話だけではなく、時代環境も含めて大きな視点からご自身の生き方や選挙への姿勢を話してくれました。併せて、ご自身が体験したフィンランドなどでの地方議会や学校教育などの話も紹介してくれました。

考えさせられる話がたくさんありましたが、私が一番印象的だったのは、祐子さんの「政治の捉え方」です。「石鹸運動」がそうであるように、生活者目線で政治を捉えていますし、そうであれば、もっと若い人や女性が、政治の中に入ってこなければいけないというのです。そうでなければ、「政治屋」の利権政治にしかならないというわけです。

ちなみに、「石鹸」の取り組み時の話として、祐子さんは海外に行った時に感じたという、それぞれの国の生活意識の違いを話してくれましたが、それもまた、政治の主役は誰なのかという問題につながっています。
私は、「民のための国家か、国家のための民か」の違いが、政治の基本枠組みを決めると思いますが、たぶん北欧にはまだ「民のための国家」の文化が残っているのかもしれません。国民もまた、政治家にすべて丸投げではなく、自らの政治責務を果たしているのでしょう。だから政治が生活につながっている。

今回も20代前半の若者が参加していましたが、彼は極めて辛辣で、そもそもあなたたち高齢者世代が政治の世界で力を持っている限りだめだというのです。
前回も話題になりましたが、選挙権者と被選挙権者の年齢制限が違うのもおかしいですが、それ以上に、もっと若者や子供たちの声もきちんと反映されるようにしないといけないと祐子さんは言います。海外にはそうした例は少なくありません。

岸田さんの耳にも子供たちの声が入るといいのですが、おそらく今の日本の政治の仕組みでは入りようもないでしょう。自民党総裁選挙や立憲民主党党首選挙に際しても、「子どものための政策」は話題になっても、「子どもの声を活かす政策」は話題にはなっていません。ここに日本の政治の基本姿勢を感じます。
若年層と高齢者で票の重みに差をつけるという話も出ました。民主主義理念には反しかねませんが、一考に値するように思いました。

若者からは、選挙も政治ももっと楽しいものにしたいという意見もありました。選挙ももっと面白いイベントにできるはずです。コスタリカの事例を以前話題にしたことがありますが、投票率が上がらないと嘆いていても始まりません。本当に投票率をあげたいのであればいくらでも方法はあるでしょう。ワクチン接種率は上げようとしても、投票率は上げようとしないのが、今の日本政治かもしれません。

いずれにしろ今の日本の政治は、生活との距離があまりに離れすぎているように思います。だから政治への関心は高まらない。その一因は、生活につながる自治体政治が国家政治モデルになっているからではないかと思いますが、たまたまある市の市議会議長が参加していたので、自治体政治の話もいろいろと話題になりました。ここから変えていけば、政治がもっと生活につながってくるかもしれません。

しかし、祐子さんの行動に示されているように、その気になれば今でも政治家と国民はつながれます。実際に今回参加された人の中には選挙時にボランティアとして政治家と接点を持った人も複数いましたが、政治家本人と直接接するとイメージは変わるというのです。政治家と生活者の距離は、生活者側からも変えられるのです。政治家を非難しているばかりでは、何も始まらないですが、自らが動けば何かが変わっていくかもしれません。

政治に関しておかしなことを話し合う場がもっとあってもいい、という話もありました。
最近、茶色の朝シリーズのサロンをやっていませんが、コロナ騒ぎもおさまってきたので、来年からまた再開しようと思います。

政治に関して、私たちにできることはたくさんあります。
それと生活は政治に密着している。
そういうことに改めて気づかせてもらったサロンでした。
いささか横道にそれすぎてせっかくの祐子さんからのメッセージを十分には引きだしそこなった気もしますが、また機会を持ってくださると言うので、少し視点を変えて、もう一度、生活者の政治のサロンをやってもらおうと思います。

若者と女性が参加してくださったので、刺激的なサロンになりました。
ありがとうございました。

Senkyo2

|

« ■節子への挽歌5196:脳梗塞疑惑は晴れました | トップページ | ■節子への挽歌5197:着る服がわかりません »

サロン報告」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ■節子への挽歌5196:脳梗塞疑惑は晴れました | トップページ | ■節子への挽歌5197:着る服がわかりません »