■節子への挽歌5206:他者を心配することの意味
節子
しばらく音信不通だった武田さんから電話が来ました。
まあ武田さんとは意見の食い違いから、時々、彼の方から音信断絶になるのですが、少し経つとまた電話がかかってくるのです。
しばらくの空白期間に少しは変化していると期待したいところですが、これまでの経験では全くそれは期待できません。
まあ数か月の空白期間は、電話の最初の1~2分で埋められてしまい、その後は、意見の食い違いの状況が全くと言っていいほど、変わることなく空白期間がなかったような関係になるのです。したがって、またしばらくしたら断絶関係になるでしょう。
困ったものです。
武田さんは今、これまでの活動の集大成に向かっています。
そのため、それ以外のことには巻き込まれたくないと言うので、私からは声をかけないようにしています。
今回の取り組みには賛成はしましたが、荷担はできないでしょう。
そのうちお互いに人生が終わりますから、まあ長い付き合いでしたが、一緒に何かを成し遂げることはできませんでした。
まあそれもいい。
音信不通の同世代の友人が何人かいます。
以前は気になると連絡を取ることもあったのですが、最近はそういうのを一切やめました。しかし、これも不思議なもので、私が思い出してどうしているだろうかと思うと、その数日後に連絡があることが多いのです。
やはり何か特別の見えないつながりというのがありそうです。
昨日はもう一人、私より少し年上の人からも連絡がありました。
私よりも元気そうで、むしろ私のことを心配しているのかもしれません。
そういえば、武田さんも、私の健康状況と経済状況を心配していました。
他者を心配する。
これも生きる意味を与える要素かもしれません。
他者を心配する気持ちが消えてしまったら、自分の人生も多分消えるでしょう。
人は、他者のためではなく、自分のために他者のことを心配するのかもしれません。
私はまだいろいろと他者のことが気になりますので、もうしばらくは生き続けるようです。
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