■節子への挽歌5204:悟れないと気づくことが、悟りなのかもしれません
節子
今日はちょっと難しい相談に乗っていました。
かなり微妙な問題なので、さすがにここには書けませんが、親子関係がかかわっている問題です。もっとも今回相談に来たのは、当の親子ではない人です。
当の親子には、それぞれまた近いうちに会いますが、もう長い子と付き合っている問題なのです。
私からすれば、解決策はもうわかっているのですが、当事者がその気にならなければ問題は解決しません。
大体、これまでの経験から言えば、当事者がその気になれば解決する問題は少なくありませんが、当事者の多くは、問題をそのまま残していきたいのではないかと思うほど、みんな「その気」にならないのです。
親子の問題は、必ず周辺にも影響します。
今回は、その最大の影響を受けるであろう人が相談に来てくれたのです。
当事者と第三者が見ている風景は全くと言っていいほど違うことが多いです。
当事者もまた、その立場によって違う世界を見ている。
みんなそれぞれお互いを気遣うあまりおかしなことが起こっていることも少なくないのです。
今日に限らず、いろんな人が相談というわけでもなく、湯島に話に来ます。
そういう話を聞く活動を20年以上続けていると、それなりに世間が見えてきます。
また人間も見えてきます。
午後は、オープンサロンだったのですが、4人の人が来ました。
なぜか話の中で、また私が問題になりました。
私が、他者の痛みをわかっていなくて、当事者に寄り添っていないというのです。
その割にその人はよくサロンに来るのですが、この言葉もいろんなことを示唆しています。
他者に寄り添うなどということはできるわけもなく、言葉だけの自己満足でしかないと私は思っていますが、私なりの寄り添い努力は誰に対してもしてきているつもりです。
しかし他者から見たらそうは思えていないのでしょう。
ひるがえって、節子との関係を思い返せば……、いろいろと反省させられることは多いのです。
あるいは、今現在の娘たちとの関係を思い返せば……、やはり反省させられることは多い。
私はたぶん永遠に悟りなど得られようもない。
いやもしかしたら、悟れないと気づくことが、悟りなのかもしれません。
他者からの批判は、いまだにあまり快くはないのですが、感謝の念は持てるようになってきました。
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