■節子への挽歌5246:大みそかの朝に暇に任せて想うこと
節子
大みそかの今朝も、5時前に目が覚めてしまいました。
以前は大みそかと言えば、てんてこ舞いの大忙しさでしたが、節子がいなくなってからは、なぜかそういう生活から卒業しました。
年末と言っても、年賀状も書かなくなりましたし、最近はホームページの更新も中断してしまっています。
大掃除も今年は、娘たちとの同居で生活空間が半分になったので、ユカ任せですし、仕事らしい仕事も最近はしていないので、やらなければいけないことはほとんどないのです。
しかし考えてみると、以前はなんであんなに忙しかったのでしょうか。
会社時代、よく正月休みにはゆっくりとして本でも読もうと思うとかいう人がいましたが、私の場合は正月休みは普段に増して忙しかった。
会社時代には、正月休みには役員向けのレポートを書いていたり、やり残した仕事を持って帰ってやっていたり、仕事人間だったこともあります。
記憶に残っているのは、懸賞論文で当時まだ会社にもなかったワープロを賞品でもらい、それを使って、会社の基本方針を変える提案の役員向けレポートをつくり、年明けに全役員に配布したらそれが話題になったことです。そしてそれが大きなプロジェクトになって、私は人生を変えてしまった。
あの頃は、なんとか会社を変えようと頑張っていました。
家族でもよく出歩きました。来客もあり、三が日は近くの神社やお寺への初詣でしたが、成田山に行って大変な目にあったりしたこともありました。
いつも忙しい年末年始でしたが、最近はやることがないほど退屈な時もあります。
コロナもあって新年の来客は全くありませんし、私も出かけない。
コロナは日本の文化をかなり壊しているような気もします。
今朝も早起きしましたが、とりわけやることもない。
まあ「積み残したこと」は、山のようにあるので、その気になればやることはたくさんあるのですが、その気にならないのです。
最近、本も購入していないので、読む本もない。
昨夜は昔読んだ大化の改新や壬申の乱の関係の本を5~6冊引っ張り出して、ベッドで読んだのですが、一度読んだ本なので1時間もあればすべて読んでしまえる。もちろんポイントだけしか読まないような粗雑な読み方ですが、なんとなく思い出せて、また新しい物語が組み立てられるのです。まあ私の最近の読者スタイルはそんな感じなので、1日に10冊くらいは読めてしまう。テーマがあればですが。
というわけで、早く起きたのにやることがないのです。
困ったものです。
人生のパートナーがいないとこんなにも退屈なのかと不思議に思います。
そういう生き方に、私はなってしまったのです。
一人で生きていくことができなくなってしまった。
一昨日のサロンで、40代の引きこもり体験者から「佐藤さんは孤立とか孤独を感じたことはないのですか」と問われました。
思い返したのですが、そういう感覚に陥ったことは私の場合はないのです。
というか、孤立とか孤独とかということが、そもそも感覚的にわからない。
ある意味では、サロンでみんなとにぎやかに話していても、誰も私のことなどわかってはいないだろうなという感覚はあるのですが、それが孤立や孤独とは思えない。
そもそも人は分かり合えるはずもないと学生の頃から思っているからです。
でも節子は違っていた。
節子を伴侶に選んだ時に、これからは2人で生きていこうと決めたからです。
彼女には私のすべてをシェアしてもらおうと頑張った時期もあり、やはりそれができないなと思った時期もありますが、結果的には私の半分は節子に乗っ取られることに成功した気がします。
だから、節子がいなくなった後は生きるのがやっとになってしまった。
いや、実はもう生きていないのかもしれません。
そんな気さえする。
まだ外は真っ暗です。
やることもないのに、早く起きすぎました。
やり残していたことをやろうかと思います。あまり気が進みませんが。
ほんとうはやることはやまほどあるのですから。
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