■節子への挽歌5237:湯島のサロンは巡礼宿?
節子
昨日は鈴木章弘さんが「世の中に増えるとよいと思うもの」というサロンをやってくれました。
鈴木さんは今年70回以上、サロンに参加してくれたそうです。サロン主宰者の私でさえ驚くほどの回数です。
副題に「コロナ禍の湯島巡礼で感じたこと」とありますが、コロナで鈴木さんはこの2年、サンチアゴ巡礼に出かけられずにいるのです。
サロンの報告は時評編で行いますが、鈴木さんは話の最後に、「湯島のサロンは巡礼宿(アルベルゲ)」と言いました。私はアルベルゲのオスピタレロというわけです。
その是非はともかく、たしかに湯島のサロンを主宰していると、さまざまな「旅人」に出会います。以前よりも最近はメンバーが固定されがちですが、それでも様々な人と出会う場になっています。
動く巡礼者と待ち受けるオスピタレロとは、いずれも巡礼者と言ってもいいでしょう。
その実感は私にもありますが、鈴木さんはそれを実感してくれている数少ないサロン参加者なのです。
ちなみにオスピタレロは巡礼宿で巡礼者の世話をする人ですが、ホスピタリティにつながっています。ですからサービスではなく、同じ仲間として扱うのが基本なのです。私もホスピタリティの姿勢を大事にしています。
ですから湯島のサロンでは、すべての人が同じ立場です。仲間として扱うのが基本です。
なかに時々、他者を「〇〇くん」と呼ぶ人がいますが、私には大きな違和感があります。「さん」づけと「くん」づけを使い分ける人は、他者を評価し差別していると思っていますので、そういう人には来てほしくないのですが、常連の中にもそういう人が何人かいます。私には異物が紛れ込んでいるようで、とても不快なのですが、しかしそれでも受け入れるのがホスピタリティだと思っているので、仕方ありません。
呼び方以外でも、人を「評価」する人がいます。大体他者を評価する人は、自らのことを物語っていることが多いのですが、そうは思うもののあまり気持ちのいいものではありません。しかし、私もまた時に、同じ過ちを犯しているのではないかと時々反省します。
まあそんなことも含めて、サロンは私には多いなる学びの場です。
サロンの話になるといささか私はむきになる傾向がります。
昨日もだいぶ自己主張してしまいました。
そういう意味では、鈴木さんからはオスピタレロ失格と言われそうです。
でもまあ来客が絶えない限り、サロンは続けたいとは思っています。
時々、止めたくなることもあるのですが、必ずまた、つづけたくなるような良い出会いがあるのです。
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