■湯島サロン「この2年で変わったこと」報告
この2年間の、コロナ騒動で私たちの生活は大きな影響を受けていますが、どう変わったのかを振り返りながら、自らの生き方を問い直そうというサロンでしたが、意外と参加者は少なく、集まったのは私を含めて7人でした。
この2年間で何が変わったか、先行きも含めて気になることは何かなどをそれぞれに語ってもらい、そこから話し合いを広げていくというスタイルを取りました。
あまりコロナ騒ぎに振り回されていない参加者が多かったように思いますが、それでもいろんな影響を受けていると同時に、いろんな気づきを得ているようです。
自分の生き方や考え方で変わったことに関しては、たとえば私の場合、外出の機会が減り生活は不規則になり、怠惰になったことがあげられます。社会のなかで生きていると、変わりたくなくても変わらざるを得ない。その結果、身心の調子はあまりよくない2年でした。まあこれはコロナのせいではなく、歳のせいかもしれませんが。でも周辺でも、身心の調子を崩した人は少なくありません。
また、やりたくないことは「コロナのせい」にして断ったりさぼったりするという自らの性格の悪さにも気づかされましたし、自分はマスクに批判的なのに、混雑している食品スーパーなどでマスクをしていない人を見るとつい冷たい目で見てしまうという「同調性」に陥っている自分の弱さにも気づかされました。
つまり、「地の自分」の気づき、「気づきたくない自分」と出合いさせられ、自己嫌悪にさえ陥りがちですが、そういう私の話に大きな異論がなかったことからすれば、多かれ少なかれ、そういう面はみんなにもあるのかもしれません。
これはいいことか悪いことか、わかりませんが、でもまあ実際の自分を知ることは次の行動につながるでしょう。
同じことは社会にも言えます。社会の実相やさまざまな制度の実態が可視化されてきているような気がします。たとえば、人のつながりが自己中心的になり、いろんな制度から平等性という建前の虚構が露呈され、弱者切り捨ての進行が勢いを増しているのが見えてきた。分断と対立が進み、追い込められた人たちの持って行き場のないイライラが暴発することも増えている。そんな社会が見えてきている。
言い換えれば、みんなが苦労して守ってきた「安心できる社会」が壊れだしている。そんな不安感を私は持っていますが、今回のサロンではどうもこうした認識は私だけではないようです。みなさんからの話も、こうした状況につながるものだったと思います。
でてきたキーワードをいくつか紹介すれば、「信頼のない従属」「寛容性の低下と攻撃性の高まり」「好みの合う仲間意識ごとの分断」「見えない圧力の高まりのなかでの不安と恐怖」「与えられる情報への身売り」「与えられる情報の中での思考停止」「マスメディアの公共性の喪失」…。
それぞれに関して、示唆に富む話し合いがいろいろとありましたが、聞いていて、あるいは話していて、なんだか気が重くなるような内容でした。
ある人は、日本の政治も経済もメディアもあまりに劣化し、このままだと「頼りになる成熟国家」ではなく「よぼよぼの老いぼれ国家」になりかねないと嘆きましたが、たしかにそれに向かって進んでいるような気もします。
極めて具体的な話もありました。
コロナ騒ぎの中で積極的な学童保育に関わっている参加者からは、かなり生々しい子ども社会の話がありました。理由はさまざまですが、学校に行けなくなっている子どもが増えているとか、子どもの行方不明が増えているとか、これまたいずれも重い話です。
子どもたちに今、いったい何が起きているのかは、社会の未来を大きく決めていきますが、それがなかなか見えてこないのはとても気になります。
しかし、話し合いの中では、こうした状況であればこそ、新しい動きもあるし、新しい可能性も見えてきているという話もありました。
たとえば、コロナのために在宅時間が増えたおかげで、一旦クールダウンして、これまで走り続けて人生を問い質す動きもあるというのです。
また前にも同じような体験をした人がサロンをしてくれましたが、コロナのニュースのおかしさに違和感をもって、自分で情報を海外も含めて広くとるようになったおかげで、マスコミ情報がすべてではないことに気づいたという人もいました。知ってしまうと動かないわけにはいかないというわけで、その人は今自らの判断で流れに抗うような活動もやっているのですが、そういう動きが少しずつ広がっているのかもしれません。
ブラック・ライブズ・マターやアジアン・ヘイトという動きが起こる一方で、そういう動きへの批判も起こっていて、問題を顕在化させ、多くの人の知ることになり、解決の動きにつながることもある。そういう話も出ました。
そう考えると、コロナによって起こっている社会の変化を、どういう方向に向かわせるかは、まさにそこで生きている私たちの思いと行動次第なのです。
流れに身を任すのではなく、流れを活かしていかなくてはいけない。
それが今回のサロンの結論の一つだったように思います。
サロンが終わった後、私は米国の神学者ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉を思い出しました。
神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと変えることのできないものとを
見分ける知恵を与えたまえ
これは私の好きな言葉でしたが、そもそも変えることができないものなどあるのか。
すべて在るものは変わるのではないか。
そういう根本的な疑問が生まれてしまいました。
困ったものです。
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