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2022年2月

2022/02/28

■私憤と公憤

昨日と今日、私の精神状態はあまりよくありません。
いや、あまりどころではなく、怒りを抑えるのが難しいほどです。

昨日は湯島のサロンに関わるちょっとした「事件」が起こりました。
昨日湯島で行った集まりにある人が参加することを知った人(その人もサロンに参加することのある人です)が、勝手に湯島の部屋に入って来たのです。以前からその人の言動には不快感を持っていたのですが、昨日はさすがに怒りを感じました。その人のおかげで、その集まりもいささかおかしな雰囲気で始まることになりました。
さすがに私も、その人に向かって、出て行ってよといいましたが、後になって、怒りの感情が強まってきました。その人に責められた友人のことを思うと、ますます怒りを感じます。他の人には真似できないほど、誠心誠意、善意の活動をしている人なのです。

しかし、それはまあ私の「私憤」でしかありません。私の料簡が狭いのかもしれません。
ところが今日は、「公憤」を感じました。
私が住んでいる我孫子市の「公務」に関してあることを耳にしました。
私が実際に見聞したことではなく誤報かもしれませんので、内容は書けませんが、私のこれまでの体験から考えて、私には事実と思えるような話です。
話を聞いた時には、さほどではなかったのですが、時間が経つほどに怒りが湧いてきました。これは「公憤」といってもいいでしょう。

ウクライナの状況にも「憤慨」しますが、どうも最近、怒りを感ずることが少なくありません。長年生きてきて、大概のことは許せるようにはなっているのですが、この2日間、怒りにつつまれてしまっています。
気を静めるために、今日は7杯もコーヒーを飲んだのですが、気が鎮まりません。
困ったものです。

 

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■湯島サロン「不登校のリアル」のご案内

今回は、「不登校」の切り口から私たちの生き方を話し合ってみたいと思います。
話題提供してくれるのは、現在、不登校している中学3年の東翔平さんです。
前にも一度、湯島のサロンには参加してくれましたが、今回は問題提起をしてくれることになりました。問題提起者としては、湯島では最年少です。

不登校の問題は、湯島のサロンではよく話題になります。
決して、否定的な意味だけではなく、むしろ今の教育や社会のあり方への異議申し立てとして受け止める人も少なくありません。しかし観察者的な意見も多く、そこにあまり「リアル」を感じられずにいました。それに、不登校体験者の参加も少なくありませんが、これまで「価値」につながったと感ずることは必ずしも多くはありません。
そこに私自身、自分の考えと現実の違いを感じていました。

今回は、不登校のただ中にある中学生の問題提起です。まさにリアルな話し合いができると思います。問題提起してくれる翔平さんのメッセージをお読みください。

ぼくは「不登校」をしています。
大多数の人とはちがうかもしれませんが、それが自分に合っていると思っています。

学校にいく目的ってなんでしょうか。
気の合う友達といるのは楽しいし、中学時代に仲間と時間を共有するのは、人生の中で大事なことかもしれません。

でも学校には、それ以上に違和感が大きくありました。
例えば、運動会の行進は、先生がつくる作品の一部になっているようでいやでした。
でも、周りの人は何の疑問ももっていないように思えました。
そんなことがいくつもあり、学校はぼくにとって居心地が悪い場所になりました。

「不登校」は問題とされることもありますが、ぼくはそうは思いません。
学校が合う子もいれば、合わない子もいるのだと思います。
そして、学校が合わない子は、ぼくだけじゃないと思います。
学校に行くことが強いられるのはおかしいと思います。

「不登校」が前向きな選択肢になるといい。
「不登校」のぼくの今をお話できたら思います。

以上が翔平さんからのメッセージです。

「不登校」が前向きな選択肢になるといい。みなさんは、どう思われるでしょうか。
ちなみに、この「不登校」に別の言葉を入れてみたらどうでしょう。
いろんなことに気づくかもしれません。

ぜひ多くの人たちに、翔平さんのメッセージを聞いてもらい、話し合えればと思います。
教えられることや学び合うことが、きっとたくさんあると思います。
不登校の子どもたちの参加も歓迎します。
中学校や高校の先生も参加してくれるとうれしいのですが。

〇日時:2022年3月27日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「不登校のリアル」
〇話題提供者:東翔平さん(不登校中の中学3年生)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■湯島サロン「俳句の楽しさをシェアしませんか」報告

俳句詠み1年生のタカイシオミさんの「俳句の楽しさをシェアしませんか」の呼びかけで開かれた俳句サロンは、私のような俳句に全く背を向けたものまでも俳句に関心を持たせてしまうような、楽しい会になりました。
もっとも俳句好きな人は、1句しか詠む機会がなかったのでちょっともの足りなかったかもしれませんが、たぶん今度はもう少し俳句づくりを楽しむ会が開催されるでしょう。
やはり何事も最初に出会った人によって印象が全く変わることを改めて実感しました。

タカイさんが俳句を作りはじめたのは1年ほど前だそうです。しかし、そのはまりようはかなりのもので、俳句の醍醐味ばかりか、俳句の効用をていねいに、しかも実体験を踏まえて具体的に話してくれました。
俳句にまったくと言っていいくらい関心のなかった私でさえ(どちらかと言えばむしろ背を向けていました)、タカイさんの語りについつい引き込まれてしまいました。
俳句は、自らの心を開くばかりか、他者と心を通じ合わせる効用がある、しかも、時間を越えて、過去の自分や他者とも会える…、などなど、たくさんのことに気づかさせてくれました。

5・7・5とか季語とかいうのも、規則嫌いな私は煩わしいルールと思っていたのですが、タカイさんのお話を聞いていて、まったく逆なものだと思い知らされました。
それがあるからこそ、誰でも俳句が詠めるのだというのです。
最後に実際に俳句をつくらせてもらったのですが、まさにそうでした。

タカイさんの俳句にまつわる話は、内容の深い、示唆に富む話だったのですが、タカイさんが話すからこそ伝わるので、私が書いても伝わらないでしょう。ぜひ次回も、タカイさんにはまた話してもらいたいと思います。

タカイさんの話とそれを踏まえての参加者の俳句談義の後、タカイさんは4つの季語を示して、好きな季語を埋め込んだ俳句をそれぞれがつくる課題を与えてくれました。その季語はいずれも5文字で、要するにそこに、あと5文字と7文字をつければ俳句になるのです。これは入門編のスタイルのようです。

与えられた時間は5分ほどで、それを紙に書いて、俳号を添えてタカイさんに提出。誰のものかわからない形でそれぞれ評ずることになりました。
俳句心の全くない私は、季語から何かそれらしい俳句をつくろうと思いましたが、4分経ってもまったく何も浮かばない。ところがタカイさんが自分の体験を思い出せばいいというようなことを話していたので、俳句づくりを忘れて、その季語にまつわる記憶を思い出そうとしたら、なぜか1週間ほど前のあるシーンが頭に浮かんできました。そうしたらなんと7文字と5文字が自然と出てきたのです。それで俳句が完成。

前回の万葉集サロンで、人の言葉を引き出す序詞や枕詞の話を聞きましたが、俳句における季語も同じなのです。タカイさんもそうした話もしてくれました。
季語に心を任すと、言葉が向こうからやってくる。実感しました。

私自身の感想だけの報告になってしまいました。
しかし、俳句がいま広がっていることの意味がよくわかりました。
子どもたちにも、高齢者にも。

福祉の世界や更生の世界や、暴力の世界や不和の家庭にも、効果ありそうです。
そんな風に、思いを飛ばしたくなるほど、私にはいろんな刺激をもらえました。
サロンの最初に、「私は俳句が好きではないです」などと余計な自己紹介をしたことを大いに反省しました。

タカイさんの俳句サロンは、また時々やってもらえたらと思っています。

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2022/02/27

■「殺されるかもしれない人々の魂」のための黙とう

ウクライナ戦争が始まったのは、予想外でした。
先日、そうした話の一方で、キリギスの植林活動の話を書きましたが、まだまだ「国家」を中心に世界が動いているのは否定できないようです。
しかし救いがないわけではありません。

昨日、国連安全保障理事会で、ウクライナのキスリツァ国連大使が議場の外交官らに黙とうを呼びかける場面がテレビで報道されました。
「黙とうをささげてほしい。平和のために。殺された人々の魂のために。殺されるかもしれない人々の魂のために」。
私の心を打ったのは、最後の「殺されるかもしれない人々の魂のために」です。
未来に向けての黙とうをしなければならないことは、とてもつらいことです。
「黙とう」とは他者のためではなく、自分のためなのだと、あらためて痛感しました。

この書き込みの前に、私も1分間の黙とうをさせてもらいました。
できればもしこれを読んでくださる方がいたら、読む前に1分間の黙とうをお願いしたいです。そうした「みんなの思い」こそが、世界を変えると私は確信しています。

救いがないわけではないと書きました。
それは、ロシアでも国民が反戦の動きを起こしたということに象徴されるように、「国家」の意味に気づく人が増えてきたということです。

フランスの人類学者ピエール・クラストルは、50年ほど前に書いた「国家に抗する社会」のなかで、「国家とは、支配階級の、被支配階級に対する暴力的支配の行使を可能にする道具」と明記していました。国民の生活を守るための仕組みである国家というのも、理論的にはあるでしょうが、現実にはそれはなかなか難しい。
国家が保有する武力も、多くの場合、他国に向けてと同時に自国民にも向けられていることは歴史が証明しています。ロシア国民の動きは、そうした認識が広がってきているように、私には思えます。

歴史が変わりだす、そんな予兆を感じます。

しかし多くの人は相変わらず「国家」を基点に論じています。
ロシアとウクライナ、あるいはロシアと欧米諸国の対立軸だけで見ていると悲観的になってきますが、国家と人間という対立軸に思考の起点を置くとわずかな光を感じます。
「国家」の枠を超えて世界を見るという「グローバリズム」は、相変わらず「インターナショナル」の発想から抜け出られずにいます。

いまウクライナ国民を殺傷しているのは、ロシア軍ではなく「国家」ではないかと私には思えてなりません。そして、殺傷されているのは、ウクライナの人たちだけではなく、私も入るかもしれない。
「殺されるかもしれない人々」と「国家」とは、私にも決して無縁なものではない。そんな気がします。

改めて、今度は自分のために黙とうをしたくなりました。
黙とうが終わったら、フェイスブックとブログに投稿しようと思います。

 

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2022/02/25

■節子への挽歌5306:友、ほんのちょっと遠方より来たる

節子

今日はあわただしい1日でした。
坪倉さん(といっても節子は知らないでしょうが、節子が亡くなった時にわざわざ自宅までケンカに来てくれた人です)が会いたいといってきたのですが、今日は午前・午後と地元の集まりがあったため、私が湯島には行けないので、わざわざ我孫子まで来てくれたのです。

あたたかな日だったので、少し我孫子も紹介したいなと思い、まずは手賀沼公園に行き、見晴らしのいいところで、日差しを浴びながら話をしました。
それから手賀沼沿いの遊歩道を歩き、手賀沼大橋まで。この遊歩道は節子とよく歩きましたが、今は工事中で、まだ完成していませんでした。

帰りはハケの道を歩きましたが、時間があまりなかったので、途中のいろんなところによる余裕はなくてちょっと残念でした。
次の集まりがあったのですが、まあ少しくらい遅れてもいいかと思い駅前の手作り焼き菓子を出してくれるカフェmamasでコーヒーとお菓子。
mamas
は久しぶりですが、足代さんは今も通っているようです。

というわけで、3時間以上を話と歩きで過ごしたおかげで、なにやら気分もすっきりしました。なにしろこの2日間ほど、パソコンとのにらめっこが多かったですから。
歩数計を見たら1万歩近くでした。

こうしてふたりで話すのは、サロンで話すのとまた違います。
歩きながら話すのも、またいいものです。

その前後の集まりは、やはりいささか退屈でしたが。

帰宅したら、いろんなメールがまた入っていましたが、なんだか疲れてしまい、返信は明日にさせてもらうことにしました。
楽しい話だけではありませんので。

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■節子への挽歌5305:チューリップとともに春が来ました

節子

恒例の新潟からのチューリップが届きました。

毎年、新潟の金田さんが春の知らせとしてチューリップをどっさりと贈ってくれます。
それが届くとわが家は春になるのです。
今年は、例年になく春が届くのが遅かったのですが、そのせいでたぶん我孫子も寒かったのでしょう。その証拠に、今朝、チューリップが届いたら、今日はとてもあったかでした。

金田さんに電話したら、今年は黄色のチューリップがもうなかったので、色が限られてしまったのだそうです。たしかに考えたら、今年のチューリップ便は例年よりもかなり遅かったのです。金田さんに春が来るのはちょっと遅れたようですが、チューリップには例年通り春が来ていたのかもしれません。

わが家の水栽培のチューリップはまだつぼみにもなっていませんが、これできっと勢いがつくでしょう。

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2022/02/24

■節子への挽歌5304:15年ぶりの友人たち

節子

いつもは9時にはベッドに入るのですが(すぐ寝るわけではなくそこで本を少し読んでいます)、昨日は11時近くまでパソコンに向かっていました。
しかも私の苦手なzoomミーティングです。
相手はキルギス共和国の浅野哲也さんと滋賀の廣瀬さん、神奈川の浦嶋さんです。
テーマは、キルギス共和国での植林プロジェクトです。

これは宮崎さんから甥がキルギスで活動しているので応援してほしいという電話から始まりました。そもそも開発事業には私はかなり否定的なのですが、話を聞いていて、共感したのです。しかもたぶん放置していたら、在来型の経済主義や管理主義の開発が進み、地域の人にも未来世代にもたぶんいいことはないでしょう。
私が関わったところで、しかし、何もできないでしょうが、いつも書いているように、知ったものの責任からは逃げるわけにはいきません。

これに関しては時評編に書いていますので、内容は省略です。

しかしとてもうれしかったのは、画面を通してではありましたが、久しぶりに廣瀬さんや浦島さんにお会いできたことと、その2人が全く変わっていなかったことです。
お忙しいであろうにもかかわらず、とても誠実に対応してくださったことも感謝したのですが、やはりこういう世界がしっかりとあるのだと確信できたのが何よりもうれしいことでした。
人は決して打算で動いてはいないのです。
まあ2人は例外だといってしまえばそれまでですが、そういう人がいると確信できるだけで世界が明るく見えてくる気がします。

やはり人は信頼して悪いことはないということです。
キルギスの浅野さんも、思いのある人だと伝わってきます。
しかもかなり大きなビジョンに向かってアクティブに動いている。

3人から大きな元気をもらいました。

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■湯島サロン「〈私たち〉って誰のこと?」のご案内

先日開催した「私たちに欠けているもの」を話し合うサロンの報告に対して、いくつかのコメントがありました。そのなかに、「そもそも〈私たち〉って誰のことだろうか」という問いかけがありました。
私は、「社会」という言葉は、その範囲をどう設定するかで意味合いが全く違ってくるという理由から、いつも躊躇しながら使っています。でもとても便利な言葉なので、よく使うのも事実です。もしかしたら「私たち」という言葉も同じですね。

そこで、「私たち」をテーマに話し合うサロンをやってみようという気になりました。
そんなテーマでサロンが開けるのかと言われそうですが、なにしろ湯島のサロンですから、大丈夫でしょう。

みなさんは、「私たち」という言葉を使うときに、どういう範囲で話しているでしょうか。また、「私たち」と「私たちでない人たち」との違いは何でしょうか。
誰かが言った「私たち」に、自分も入ると思う時はどんな時でしょうか。

そういえば、いまから30年ほど前に、「ミーイズム」という言葉がはやった時期があります。その頃、私は「ミーイズム(me)からウイイズム(we)へ」とある座談会で話したことがあります。全く話題にはなりませんでしたが。

こう書いているうちに、改めて、ほんとにサロンになるかなあという気がしてきました。
これ以上書くと、ますますやる勇気が萎えてきそうですので、これ以上考えるのをやめて、ともかくやってみようと思います。私一人だとしたら、やはり「私たち」という言葉は幻想なのだということもわかりますし。

どんな話し合いになるかわかりませんが、よほどお暇だったらご参加ください。
いえ、忙しくても来てくれるとうれしいです。

〇日時:2022年3月5日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「〈私たち〉って誰のこと?」
〇話題提供者:佐藤修(CWSコモンズ村村長)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■キルギス共和国で木を植える浅野さんが知見を求めています

ウクライナがいささかきな臭いですが、世界にはそうでない動きもたくさんあります。

中央アジアにあるキルギス共和国で、キルギス日本友好基金というNGOをつくって、住民の生活に基点を置いた植林活動や学校や養護施設への援助など、さまざまな活動をしている日本人がいます。浅野哲也さんといいます。
その浅野さんが、いま、土砂崩れ防止も視野に入れての植林に関心を持っているので、何かできることはないかと、友人から電話がかかってきました。

政府機関や国連機関、さらには企業による開発行為には、大きな違和感を持っている私には、浅野さんの発想はとても共感できます。そこに住む人たちの生活を基点に置いた、住民の生業を支えながら支えられる地域整備こそが、「開発」(「コモンズ型開発」と勝手に呼んでいます)だろうと思っているからです。
中村哲さんが見事に示してくれたスタイルです。こうした実践に取り組んでいる日本人は、決して少なくないでしょう。もっとマスコミはとりあげてほしいものです。そうしたらみんなの世界観も少しは変わるでしょう。

私にできることはないかと考えましたが、「思い」はあっても知見が全くない私には思いつきません。そこでこの分野に知見のある人たちに助けを求めることにしました。
早速、ふたりの方が連絡してきてくれました。ふたりとももう10年以上、お会いしていない方ですが、知見・見識とともにとても信頼できる人たちです。管理主義でも経済主義でもなく、コモンズ感覚をお持ちの方で、実践者でもあります。

その人と浅野さんとでとりあえず動き出すことになり、昨夜、zoomで顔合わせし、情報交換しました。私はzoom会議も、夜も、苦手なので、傍聴するだけの予定でしたが、浅野さんの状況も理解でき、みなさんの思いについつい引きづりこまれてしまいました。

写真で見るように、キルギスの自然条件はかなり厳しそうです。土壌の性質も問題ですし、どういう植生がいいのか、よほどの知識がなければいけません。

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幸いに、最初に声をかけてくださったおふたりの知見は、浅野さんのお役に立ちそうですし、昨夜の話し合いで、さらに何をしたらいいかも見えてきました。
早速に対応してくださったおふたりには感謝しかありません。

浅野さんの構想を実現していくためには、しかし、もっと多くの知見と支援が必要かもしれません。私ができるのは、そういう輪を広げることくらいです。こういう分野に知見のある方で、共感を持っていただける方がいたら、ぜひご連絡下さい。

ちなみに今年は、日本とキルギスとの国交30周年だそうです。
その記念イベントのひとつにも植林活動が組み込まれているようです。
来世が楽しみです。

 

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2022/02/23

■節子への挽歌5303:初めての俳句

節子

今日は湯島で、俳句をテーマにしたサロンでした。
最近、俳句づくりにはまっている高井さんが主催してくれたのです。
句会とか俳句づくりが目的ではなく、まずはその前段階として、俳句の面白差について話をしてくれたのです。そして最後にみんなで俳句づくりに取り組んだのです。

私は俳句は作ったことが全くありません。
俳句は面白いからやってみたらという誘いは何回かありましたが、全く関心を持ちませんでした。5・7・5というルールにも違和感がありましたし、文字表現を技巧的に遂行するという姿勢がなじめなかったのです。季語にも違和感がありました。
しかし、今日、高井さんの話を聞いて、私の認識が無知からくるものだと気づきました。
俳句の効用が少しわかった気がします。

そういえば、節子は俳句もどきを時々詠んでいました。
今でも覚えているのは、発病後、箱根の恩賜公園で足の子を見ながら手帳に俳句を書いていたことです。
私は全く興味がなかったので、その句は憶えていませんが、節子はどこかに行くとちょっとした時間を使って、スケッチを欠いたり、俳句を欠いたり、メモしたりしていました。だから今も節子の残したものに、時々、何かが書かれているを見つけることがあります。

最後に、4つの季語が示され、それを読み込んで俳句を作ることになりました。
考える時間は5分。
みなさんはすらすら書いていましたが、私は最初に出された「冬の雨」という季語を選んだのですが、何も浮かんでこないのです。
あと1分。考えるのをやめて、最近降った雨のことを思い出そうとしました。そういえば先週、みぞれっぽい雨が降った日がありました。そのことを思い出したら、自然と言葉が生まれました。まさに自分の体験の言葉。それがなんと「7・5」なので、句は一気に完成です。

新鮮な体験でした。
考えるのではなく、体験をイメージすると俳句はできるようです。

節子がいたら、きっと喜んで参加したでしょう。
ちなみに俳号を考えるように言われたので考えました。
木偶坊三。宮沢賢治の3番目の追随者という意味です。

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■2月オープンサロン報告

2月のオープンサロンは21日(月曜日)に開催しました。
参加者は7人。オープンサロンの参加者も固定化しつつありましたが、今年になってだいぶメンバーも変わり、毎回新しい参加者が来てくれるようになりました。

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オープンサロンはテーマもなく、申し込みも不要で、出入り自由なサロンですが、いつも話が途絶えることはなく、いろんな話題が出ます。
本来は、ちょっとした意味もない話、いわゆる「スモールトーク」を意図していたのですが、毎回、ちょっと深入りしたくなるような話も出ます。

またよく参加してくれる人は、参加するたびに自分が取り組んでいるプロジェクトの進捗状況を話してくれます。それを毎回聞きたくて参加する人もいます。ある意味では、オープンサロンで連続的に語られるテーマが生まれてきているということです。これも一つのスタイルとして面白いです。毎回話が進展していくのがわかるからです。

オープンサロンからサロンのテーマが見つかり、サロンをしてもらったこともあります。
やはり「スモールトーク」や無駄話は大切だと、実感します。

ただコロナ騒ぎで、なかなかオープンサロンには来づらくなっているようです。
集まりにくいサロンであればこそ、やる意味もあるように主思いますが。

オープンサロンは、湯島のサロン活動の原点ですので、もう少し増やしていこうと思いますが、最近はテーマサロンが多くなって、なかなかできないのが残念です。
3月はがんばって2回開催の予定です。

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2022/02/22

■本間照光さんがまた「科学」に寄稿されました

湯島のサロン仲間の本間照光さん(青山学院大学名誉教授)が、岩波の雑誌「科学」の3月号の巻頭エッセイに、「幻の、核のごみ「文献調査段階」――問われぬ危うさ」を書いています。
岩波書店のサイトで公開しているので、関心のある人はぜひお読みください。

 https://www.iwanami.co.jp/news/n45930.html

 

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■第19回万葉集サロン「あらためて万葉集を読むためにーこれまでのまとめの講座」報告

今回は、「あらためて万葉集を読むためにーこれまでのまとめの講座」と題して、升田さんに話してもらいました。新たな参加者が2人ありました。

最初にまずは、万葉集に関する基本的な説明がありました。
「万葉集」は全20巻で、約4500首の歌が納められていますが、収録された歌は時代的には大きく4つに分けられること、また歌は内容によって「雑歌」「相聞歌」「挽歌」と分けられること。作者不明の歌が多いことに併せて、いま私たちが考えているような意味での「作者」では必ずしもないことなどを、話してくれました。

また表記も、いわゆる万葉仮名で、漢字だけで表記されていたのを、後世になって読みくだされたことを、額田王と柿本人麻呂の歌で実際に文字で見せてくれました。

14には東歌が多いですが、それらは具体的な地名が明記されていて、各地の語彙や方言、あるいは風土文化も歌われていて、その広がりも面白い。そんな話も少しだけ話してくれました。

つづいて、歌が文字化されたものになっていくのを、これも実例を題材にして説明してくれました。

当初の歌は、いわゆる序詞や枕詞(升田さんはそれらを「神の領域」とし「歌」と表現します)に先導されて、その勢いに乗って、自ら(「わ」)の思いを自由に「言」として表出する。そうしたなかで、「わ(我)」は「な(汝)」(「た(多)」の中から切り離された相手」を生み出し、そこに「人の領域」が育ってくる。

さらに時代が進むと、序詞や枕詞の「神の領域」も、次第に自然をそのまま叙景するような「人の言」になっていく。升田さんは、そこに「た(多)」の中で、ゆるやかに共生する「わ」と「な」が生まれてくると言います。そして、「た(多)」が「た(他)」になっていく。

このあたりが、升田万葉集サロンの基本テーマなのですが、「神の領域」が大きかった初期万葉の世界から、「人の領域」である「わ」や「な」が中心になっていき、さらには「な」との相対化が「わ(自己)」の意識へとつながっていく後期万葉の世界への変化の中に、日本人の「自我の芽生え」や「人のつながりの変化」が読み取れるというわけです。

こう書いてしまうとややこしいのですが、升田さんはいろいろな歌を通して、そういうことを、それこそ文字ではなく言葉で話してくれました。そうしたこと自体のなかにも、口誦文化と文字文化の違いが、感じられるような気がします。もっとも、以上は私の解釈も入っているので、きちんと理解できているかいささかの不安がありますが。

いずれにしろ、身体的な音が声になり、声が言になって、文字化されていく。そしてそこから歌が生まれ、文化が育っていく。そんな流れを私は改めて感じました。

さらに升田さんは、新しい視点を2つ出してくれました。
一つは、「心に乗る」という表現。もう一つは「かなし」と「さぶし」。

何かに心を乗せるとは言わずに、何かが心に乗ると言う表現が、万葉には多いそうです。
それに関していくつかの歌を紹介してくれましたが、いずれも相手は向こうからやってくるという受身的な表現が多い。そこにはまだ主体的・能動的な自己はない。

そうしたなかで、感覚は「た」のなかで共有され、その一つの現れが「かなし」という言葉の多様な意味に現れているのではないか。
以前にも出てきましたが、万葉集における「かなし」は、最近の「悲し」「哀し」だけではなく、さまざまな意味(愛おしいという意味さえある)があると同時に、集団で共有する感覚でもあるようです。そして「かなし」の言葉の前につく言葉で、その意味はさまざまに意味をもっていく。もちろん話し方(朗誦の仕方)によっても違いは表わされていたかもしれません。

それに対して、升田さんは「さぶし」という言葉を紹介してくれました。「かなし」とちがって、「さぶし」はむしろ集団から孤愁を感じさせる。つまり、「かなし」とは逆に内に向かい、「な」とも離れた「わ(自己)」の意識を覚醒させる。そこから能動的な自我が生まれていく。

「な」や「た」と共にある「わ」から、「わ」から「な」や「た」を見るという意識の転換。斉明天皇の頃がそうした転換期だったのではないかと、升田さんは言葉から推測しています。
斉明朝から持統朝への時代は、まさに日本の国家が整っていく時代であり、国家としての自立が進んだと言われていますが、それは同時に、日本人の自我の生まれた時代だったという話は、私にはとても新鮮で納得できるものでした。

しかも、升田さんは「さぶし」が朝鮮から入ってきた言葉ではないかともいいます。これは考えだすとさらに想像が広がりますが、今回はあまり深入りできませんでした。

今回もまた時間が不足して、「かなし」と「さぶし」の歌をゆっくりと読めなかったのが残念でした。しかし、心の向きが反転して、また再反転する、そんなことが読み取れるような気がしました。いつかもう一回やってほしい気がします。

話し合いもいろいろと広がりましたが、今回は古代ギリシアの会のメンバーの友人が参加していて、イリアスの話がまた少し出ました。
そして、口承の伝承力の正確さに関する話も少しありました。これまでも何回か話題になりましたが、たしかに伝承力においても情報量においても、そして精確さにおいても、言葉の文化と文字の文化は全く違います。文字になったために、それまで生きていた歌が死んでしまったように思っている私としては、これもとても興味あるテーマです。

東国の人たちのいわゆる民謡的な歌とみやこ人の整った文字の歌との違いや、東国の文化状況の話も出ました。万葉集には意味不明な歌もあるそうですが、そこにまだ「文字で画一化されていない豊かな東国の文化」の存在を感じます。

まあ今回もまたほんの一部しか紹介できませんでしたが、万葉集を通して、草創期の日本社会のイメージがまた少し広がった気がします。
ちなみに今回の報告も、升田さんの監修を受けていないので、身勝手な解釈があるかと思いますが、お許しください。文責はすべて私にあります。
参加者の中には別の解釈を持った人もいるかもしれませんが、よかったらぜひ投稿してください。

Manyou201

 

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2022/02/21

■節子への挽歌5302:変わった人の来訪

節子

今日は、世界世直し研究所の所長という人が湯島にやってきました。
サロンで話したいという話かと思ったら、もっと根本的な話でした。
その人は、10年以上前に、この活動に全面的に打ち込んだそうですが、なかなか広がらない。
当初は、いろんなところに行って話したそうですが、変わり者扱いされて、仲間が広がらなかった。

そんな時、ある人から湯島の話を聞いて、やって来たのです。
一度、サロンに出てくれたのですが、そこで私の考えなどを知って、相談にやって来たようです。
といわれても、そう簡単な話ではありません。まずはその人の考えを知らなければ協力しようもありません。

「世直し」という言葉で感じられるように、その人は日本の明治大正さらには昭和初期の文化を基準に考えているようです。
そこにさらに「世界」がつくので、まあ一種の宗教的なにおいを感ずる人もあるでしょう。
その一方で、いわゆる「陰謀論」的なにおいもします。

今日は1時間弱のお約束でしたが、基本的な考えを知らなければどうにもならないので結局、午後のサロンの参加者が集まりだすまで、昼食抜きで話し合いました。
おそらく思想の基本は、私とは真反対の価値観をお持ちのようですが、目指していること、つまり「我欲」ではなく「コモンズ」を目指しているのは共感できます。
目線も決して高くはない(時々そういう言葉は出ましたが)。
最近、引きこもりで論考を送ってきてくれた人とは全く違います。

それにその人は、実際に苦労もされている。
金融の世界に寄生している人とは全く違います。
私とは価値観が真反対ですが、そういう真反対は許容できます。
人はその生き方に、本性が現れていますから。

なにかその人のためにできることはないかと、またよ慶安考えをしてしまいました。
実際に深く話しだしたら、たぶんお互いに決裂しかねないですが、まあ話し合いを重ねたら、溝は埋められるかもしれません。

しかし、それにしても、いろんな人がいるものです。
私もよく、変わっていると言われますが、私などの変わりようはそう大きくはないでしょう。
そういえば、以前は、こういう様々な人たちがよくやってきました。
それを少しだけ思い出しました。

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■湯島サロン「2050年のメディアはどうなる?」のご案内

湯島のサロンでは「メディア」がよく話題になります。
湯島には、新聞社やテレビ局などのメディア関係者もよく参加していましたが、最近はめっきり少なくなりました。しかし、そういう捉え方が、もしかしたら間違っているのかもしれません。
最近またマクルーハンを読み直す人も増えているようですが、メディアの概念そのものが大きく変化していると言うべきかもしれません。

湯島サロンの常連でもある坪田さんは、長年、日経の記者として、いわゆる「メディアの人」でしたが、マスメディアの盛衰を現場で体験した人でもあります。
今回は、その坪田さんから、ご自分の体験も踏まえて、メディアの現在と未来を話してもらい、メディアの意味を改めて考えられればと思っています。

坪田さんからのメッセージです。

新聞の部数が減っている。
日刊紙の部数は、過去20年で約3割減った。20代の男性で、新聞を購読しているのは10%以下。読者の平均年齢は60歳前後。
この下降傾向が上昇に転じる兆候は何一つない。

3年程前、下山進氏が『2050年のメディア』という本を上梓した。この本には「2050年のメディア」については何一つ書かれてない。軸は読売新聞の危機感。日経は取材拒否した。
生き残りが見えているのは日経のみ。

そろばんはパソコンに、馬車は自動車に生まれ変わった。
昨年邦訳が出たジャック・アタリの『メディアの未来』は、SNSの普及が局面を変えたとしている。だれもがいい加減な情報を発信する「無政府状態」になってしまった。
はたして2050年のメディアはどうなるのだろう。
私は、新聞社に「輪転機を捨てて、街に出よう」と呼びかけている。富の源泉だった輪転機が、不良資産になった。

ジャック・アタリの『メディアの未来』(プレジデント社)、『デジタル・ポピュリズム』(福田直子著、集英社新書)あたりを事前に読んでくださると幸甚です。

以上が坪田さんからのメッセージです。
メディアのあり方は、もしかしたら社会のありようを決めるだけではなく、私たち一人ひとりの生活をも方向づけていきかねません。
いわゆる「メディア・リテラシー」を高めるためにも、ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。

〇日時:2022年3月13日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「2050年のメディアはどうなる?」
〇話題提供者:坪田知己さん(文明デザイナー)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2022/02/20

■節子への挽歌5301:なにやら久しぶりに刺激的な1日でした

節子

今日は久しぶりにのんびりできそうだったので気を許していました。
キリギス共和国の植林活動に関して少し情報集めというかいいアドバイザー探しをするだけの一日になるはずでした。
しかしとんでもなく、いろんなメールが届く一日で、翻弄されてしまいました。

その始まりは、直前の挽歌に書いたスピリチュアルな人からのメールだったのです。

次に届いたのが、なんと引きこもり関係で、ある人が私をある人に紹介するメールが相手先の人と私に同時発信で届きました。そこに私の携帯電話番号まで書いているのですが、なぜ紹介するのかの理由もまったく書いていない。こういう非常識な行動には私はついていけないのです。

実は私も今日は、ある人とある人をメールでつなぐ予定でしたが、そのための準備を昨日からしてきました。つまり何のために紹介するのかという理由と、私とそれぞれの人の関係をきちんと伝えた上で、それぞれのプロフィールをそれぞれからもらい、相手に伝えていいかの了解を得ていたのです。人をネットで紹介するためにはそのくらいのことは不可欠でしょう。
ちょうどそんなことで時間をとっていたので、この突然の無作法な紹介の仕方にはかなり不快になりました。まあその人のこれまでの言動も、それに影響してはいるのですが。その人は高名な人で取り巻きも少なくないようですが、私にはそれは何の意味もありません。

そこで無視していたら、相手の人からメールが来ました。これがまたよくわからないメールです。それでますます気分が悪くなり、かなり辛辣な内容を、それでもかなりていねいに書いて送りました。
それを受けて相手から少し状況のわかるメールが届き、ようやく状況が理解できましたが、かなり無駄な時間を過ごした気分です。念のために言えば、その人は本で読んで引きこもりや8050問題についてどこかに寄稿しているようですが、私にどうして接点を取って来たのかわかりません。

その間に、今度はプロセスワークや自殺防止活動に関する問い合わせのメール。古いデータを引っ張り出して、これまた紹介しようと思いましたが、今日は時間がないので情報提供にとどめました。
次に来た話題は、政治と経済の話で、新しい気づきがあったという、ある著作をまとめている人からのこれまた長電話。一度会おうということになりかけましたが、日程が合わずに幸いに流れました。

その合間に神代文字の話があったり、コロナ感染の濃厚接触者になった話や陽性になった話があり、さらにはいささか物騒な事件の報告があったり、ともかくあわただしい1日でした。

一段落してからふと思ったのですが、節子が元気だったころは、毎日がこんな感じだったような気がします。
ユカが言うには、家族のためには頑張らないのに、他の人のためには頑張るのが私なのだそうです。
節子もそう思っていたでしょうか。

いやはや困ったものです。

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■節子への挽歌5300:久しぶりのシンクロニシティ

節子

長いメールが届きました。
もう20年近く会ったことのない知人からです。

彼女に会ったのは、コムケア活動のなかでだったと思いますが、その後、いろんなことがあり、いまはスピリチュアルの世界で活動しているようです。
数年前にフェイスブックを通して連絡があり、一度、湯島に来ると言っていたのですが、直前になって来られなくなったと連絡があり、その後、交流は途絶えていました。
しかしフェイスブックなどは見ていてくれたようで、最近、私が始めた生活事業研究会に少し関心を持ったようで連絡してきてくれたのです。

そこに書かれていたのは、最近の彼女の状況はこれから取り組みたいことの思いでした。
人の物語には、他者には理解しがたい物語があります。
文字にして読ませてもらうとそれなりにわかるような気もしますが、実際の物語はいずれも本人しかわからない展開になっているはずです。
しかしそうしたなかにも心が響き合うことがあります。

彼女が数年前に行き着いたのは、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉です。
これはまさに私が以前取り組んだコムケアの理念でもあります。
実際にしっかりと生きていれば、誰も行き着く言葉ではないかと私は思っていますが、最近はどうも理想的な言葉になってしまっているような気もします。
しかしこの言葉は、極めて現実的な言葉ではないかと思います。
にもかかわらず、そういう幸福でない小さな幸福しか目指せなくなってしまっているのは、社会が病んでいるとしか思えません。

長いメールを読ませてもらい、なぜ最近、こうしたシンクロニシティが起こるのか不思議に感じました。
そういえば、一昨日書いた植林事業に関してアドバイスを頼んだ友人の一人から届いたメールにもこんなことが書かれていました。

佐藤さん、こちらこそご無沙汰しております。思い出していただいて光栄です。すぐにこの方にお力になれるかは疑問ですが、この件について、かなりシンクロニシティを感じて驚いています。

そのシンクロニシティの内容はその後教えてもらいました。
たしかにつながっている。

大きな意志がどこかで働いているのかもしれません。
そう思いたくなることがこの数日起こっているのです。

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2022/02/19

■節子への挽歌5299:小学校時代の女友達

節子

昨日は小学校時代のクラスメイトが2人、湯島に来てくれました。
午後、サロンだったのですが、それに参加すると言うので早目に来てもらい、少し話したのです。
その間に、いまは熱海のケア付きマンションに転居した、やはりクラスメイトが偶然にも電話してきました。
いまマンションの役員をやっていて、ちょっとした問題にかかわっていてその相談でした。何かあると相談の電話がかかってくるのです。

ちなみに3人とも女性です。
伴侶と別れみんな一人暮らしですが、みんなとても元気です。
男性のクラスメイトは昨年、今年と2人見送りました。
男性と女性とでは、なぜか元気の度合いが違います。
私が一番仲が良かった男性の同級生は3人ともすでに亡くなっています。
だから集まりも、いつも女性ばかりです。

小学校時代のクラスメイトとは今もつながりがあります。
おそらくそれは小学校卒業後、いろんな活動を一緒にしていたからでしょう。
私は小学校時代、一度転校しているので、一緒だったのは3年弱だったのですが、クラス替えはなかったので、それなりのつながりはできているのです。

小学校時代の同級生に会うと、ついつい時間が戻ってしまい、なぜか心が安堵します。
どうしてでしょうか。

一人がおいしいサンドウィッチを持ってきてくれました。
いまもこうして私はみんなに支えられているのです。
節子がいなくなっても、そんなわけで何とか元気で生き続けています。

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■節子への挽歌5298:気になっていた人から返信がありました

節子

以前よく湯島のサロンに来ていた若い人がいます。
一時、過労でおかしくなり、今はそういう人たちの支援の活動にも取り組んでいる人です。
その人はフリーで仕事をするようになったのですが、忙しい時はとても忙しいようで、ある時には、湯島のサロンにやって来たものの、最初から最後まで部屋にあるソファーで寝ていました。よほど疲れていたのでしょう。

彼のことが最近気になっていたのですが、思い切ってメールしてみました。
今朝、返信が届きました。

仕事の多忙と、持病の線維筋痛症の悪化で、いろいろなことが遅れており、余裕がない状態が続いております。
少なくとも、あと3ヶ月位は行けそうにありませんでしたが、ちょっと顔見せに、直近の何かのサロンに参加してみようと思います。

安堵しました。
彼はもしかしたら今も独り暮らしです。

こういう人たちがゆるやかにつながり、支え合うとまではいかないまでも、気遣い合うつながりが育っていくといいと思うのですが、問題はどうやってそれをつくっていくかです。
私も、いま始めた「生活事業研究会」にこのテーマで参加するのも一案かもしれません。
私が講師役なので、いささか複雑ですが、それも面白そうです。
きちんと参加費は私も払ってです。
少し考えてみようと思います。

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2022/02/18

■節子への挽歌5297:人は「死ぬとき」には死ぬのです

節子

数年前から2か月ごとに脳神経外科に通っています。
脳のMRI検査をしたら、細い血管が2本消えかかっていたので、以来、血液サラサラの薬を3種類毎日飲むとともに定期的にいろいろと検査しているのです。

今日は今年初めてのMRI検査でした。
結果は悪化していないようで、現状維持だそうです。
MRI画像で見ると、たしかに血管が途中で消えていますが、周辺ががんばって、機能を分担しているのだそうです。人間の身体の見事さに感心します。

そういうことを知れば知るほど、死は定められたものと思うようになります。
無駄に抗うこともありません。
人は「死ぬとき」には死ぬのです。

節子もたぶんあの時が「死ぬとき」だったのでしょう。
最近、なんとなくそういう風に考えられるようになってきていますが、にもかかわらず、私の対応には悔いが残ります。
あの頃は、節子はまだ死なないという思いだけでした。
いまさら気づいても何の役にも立ちませんが。

自分が「死ぬとき」はわかるものでしょうか。
たぶんわかるだろうなと思っているのですが、もしそうなら、節子もわかっていたはずです。
それを無理やり延ばしていたのかもしれません。
そうさせてしまったことを今でも反省しています。

私のために無理やり延ばさせてしまった。
ユカが時々言うように、私はどうもあまりに自己中心的に思考してしまうのかもしれません。
気をつけなければいけません。

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2022/02/17

■節子への挽歌5296:ちょっとうれしいことが起きました

節子

最近はいろんなトラブルがらみの相談メールや電話が少なくないのですが、今日はちょっと嬉しい電話がありました。
しばらくお会いしていない、めずらしい方からの電話でした。
何事かと思ったのですが、相談があると言うのです。

いま中央アジアのある国でNPO活動している甥から、ある相談を受けたのだそうですが、それに関して私に相談してきてくれたのです。
かなり専門的なことなのですぐには応じられなかったのですが、とても前向きの話なので何とか力になれればと思い、協力することにしました。
といっても、私が何かをする訳ではなく、人探しや情報探しなのですが。

こういう相談は、以前なら一も二もなく引き受けたのですが、最近はエネルギー不足でいささかの不安はあります。でもまあやれるまでやってみようと思います。
それにそのプロジェクトがうまくいけば、とてもうれしい話です。

早速、その分野なら相談に乗ってもらえそうな人を2人思い出しました。
といってももうこの数年、全く交流がありません。
この2人は、今回のことがなくても、いま何をしているかずっと気になっていた人たちです。
フェイスブックを探して、メッセージしてみました。
ところが何と直ぐに2人から返信がありました。
2人とも覚えていてくれたのです。
うれしい限りです。

まあこんなことでうれしがるのもおかしな話ですが、やはり人のつながりを感じるとうれしいものです。
やはり人のつながりは本当の財産です。

この話がどう展開していくかはまだわかりませんが、もしかしたら少しは役に立てるかもしれません。
誰かの役に立てることも、本当にうれしいことです。

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■「これがスポーツか」

毎日、テレビをつけるとオリンピックばかりです。
オリンピックに大きな違和感を持っている私としては、いささかうんざりです。
しかし多くの人は、選手の活躍に感動しているようです。
娘も感動してテレビを見ています。
何の感激も持てない私は、よほどおかしいのでしょう。

昨日、見る番組もなかったので、録画していた映画「ポンペイ」をテレビで観てしまいました。そこに、剣闘士がローマの兵士たちに襲われるシーンが出てきました。
ポンペイに派遣されたローマの元老院議員が目当ての剣闘士を殺すために命令させて行うのですが、その剣闘士の恋人が、「これがスポーツか」と元老院議員に言うのです。

これがスポーツか!

そうか、私の最近のオリンピックへの違和感はこれなのだと、気づきました。
最近のオリンピックには古代ローマのサーカスと剣闘士のイメージをいつも重ねていたのですが、一番の違和感は「これがスポーツか」という違和感だったのです。
こんなことを言うと、ごうごうたる非難を受けそうですが。

メダルの多寡を競うのもとても嫌な感じでした。
それにやはり「金」がいいという選手を見るととてもがっかりします。
ますます避難ごうごうでしょうね。

しかし、いま話題のカミラ・ワリエワさんのドーピング騒ぎを見ていると、こんなことが行われている世界が「スポーツ」などとはどうしても思えないのです。
剣闘士を使ったショーとどこが違うのか。

苦労してがんばっている選手たちへの冒瀆ではないかといわれそうです。
誤解されそうですが、オリンピック選手を非難しているのではありません。
ついでに言えば、私は剣闘士も非難はしていません。

「スポーツができない者」のひがみなのかもしれません。
しかし、どうしても昨日聞いた言葉が耳を離れません。
「これがスポーツか!」

さらに思うのです。
「これがスポーツか」の「スポーツ」に、違う言葉を入れてみると当てはまることが少なくない。
「これが教育か」「これが政治か」「これが事業か」「これが福祉か」…
際限がない。

長生きしすぎて、時代についていけなくなってしまったようです。

 

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2022/02/16

■第14回益田サロン「ワクチンの今昔一老学者の感慨」のご案内

細菌学者の益田さんのサロンは、今回、ちょっと寄り道をすることになりました。

先日開催した「ワクチンをもっと知ろう」のサロンで、免疫学に関する最新の情報に触れた益田さんは、学生時代に学んだ免疫学と隔世の観があることを実感したそうです。そして、改めて、予防接種の原理や利害得失を考えるのも大切ではないうかと思い立ったのです。そこで、今回の益田サロンは、「ワクチンの今昔 一老学者の感慨」と題して、基本から考えてみようということになりました。
「ワクチンシリーズその3」です。

「老学者の感慨」とありますが、思い出話をするのではありません。
益田さんは、前回のワクチンサロンの後、こう書いてきました。

自分がこれまで抱いていた破傷風やジフテリアの予防接種に対する盤石の信頼も、その根拠が少々怪しいのではないかと思いました。結核菌に対するBCGの効果なども含めて改めて予防接種の利害得失を考えてみたくなりました。また予防接種の対象になる病原体の生態も同時に考える必要があるように思います。コロナウイルスの生態は細菌の生態とは大きく異なりますが、予防接種の原理からすると共通に対処できる面もあるように思います。今までのテーマであった宿主と寄生体の関係などにもつながることのように思います。山森さんのお話と合わせて聞いていただくとあるいは新しい見方が可能にならないかなと思います。

これを読むと、益田さんは今もなお、学ぶ姿勢が旺盛で、決して「感慨にふける老学者」などではなさそうです。
具体的には、次のような話が出てきそうです。

「予防接種の理念」「ベーリング・北里の不活化ワクチンの開発」「パスツールの狂犬病ワクチンに対する疑念」「ジェンナーと牛痘・生ワクチンの原理」「自己非自己と免疫機能」「IgGとIgAの対比」「母児免疫…母乳の恩恵」「水痘と帯状疱疹の関係」…。
盛りだくさんですが、こうした話から改めて現在話題になっている新型コロナワクチンへの理解が深まるような気がします。

山森さんのワクチンサロンに参加した人はもちろんですが、それに参加しなかった人も歓迎です。学者の話はなかなか難しいですが、益田サロンは途中でも気楽に何でも質問できるスタイルなので、気楽にご参加ください。
ワクチンに関して、私たちはもっと基本から学び直すことが大切かもしれません。

みなさんの気楽な参加をお待ちします。

〇日時:2022年3月6日(日曜日)午後2時~4時
*またはじまりの時間を2時に戻しましたのでご注意ください。

〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「ワクチンの今昔一老学者の感慨」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■コロナ感染不安症に私もかかってしまっているようです

私はいつも娘から「常識がない」と注意されています。
たしかに自分でもそう思うことがありますが、そのために誰かに迷惑をかけていることもあるでしょうが、それになかなか気づきません。気づくくらいなら常識がないとは言えないでしょうから。

いまさらと笑われそうですが、今日は、いまはできるだけ人と会うことを避けるのが、「新しい生活様式」なのだと思い知らされました。
自治会会長役を4月で引き継ぐ準備を始めています。
すでに来年度の新会長も決まり、一度、引継ぎの打ち合わせをしたいと思い、メールで連絡を取っていますが、なかなか返信がありません。気になって私が引き継ぐ前にやったことを連絡しました。しかしそれでも連絡がありません。
近くなので訪問しようかとも考えましたが、念のため返事が欲しいとメールしました。
そうしたら返信がありました。

そこに書かれていたことを読んで、返信のなかった意味がわかったような気がしました。

コロナもあるため極力訪問や相対は避けたいと思います。

そういえばその人からもらった以前のメールに、オンラインで打ち合わせできないかと書かれていたことがあるのを思い出しました。
自治会活動までオンライン? 私にはその発想が理解できなかったのですが、コロナ感染を心配してくれていたのです。
なにしろ私は高齢者なので、みんな気遣ってくれているのでしょう。
いやその人がお仕事の関係で、他者に迷惑をかけてはいけないので、感染予防に心がけなければいけないのかもしれません。
いずれにしろ、「極力訪問や相対は避ける」のは「新しい生活様式」になっているのでしょう。それに気づかない私は、非常識と言われても仕方がない。娘が言う通りです。

それにしてもみんなこれほどまでにコロナ感染が心配なのだとは思ってもいませんでした。電車でマスクをしていないと注意される時代なのです。いや間もなくワクチンを接種していないと相手にされなくなるかもしれない時代なのです。
もしかしたらメールのやりとりさえも感染のリスクがあると思っているのではないかと思ってしまうほどです。さびしい時代になりました。
もう自治会などやめた方がいいとつい言ってしまたくなる気分です。
まあそう思うのもまた、私のストレスがたまっているからでしょう。
これもまた「コロナ感染不安症候群」の変異症の一つかもしれません。

しかし新しい常識によって、よくなったこともあります。
コロナ感染以外は、みんなきっと怖くなくなったのでしょう。
ただただコロナ感染を防止すればいいのです。
それ以外の不安はみんなとんでしまった。

いやいやそう考えるようでは、私のコロナ感染不安症もかなり重症のようです。
困ったものです
少しは「常識」を身につけなければいけません。

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■節子への挽歌5295:コロナ感染不安症候群

節子

自治会会長役を4月で引き継ぐ準備を始めています。
すでに来年度の新会長も決まり、一度、引継ぎの打ち合わせをしたいと思い、メールで連絡を取っていますが、なかなか返信がありません。
気になって私が引き継ぐ前にやったことを連絡しました。

しかしそれでも連絡がありません。
近くなので訪問しようかとも考えましたが、念のため返事が欲しいとメールしました。
そうしたら返信がありました。

そこに書かれていたことを読んで、返信のなかった意味が分かったような気がしました。

コロナもあるため極力訪問や相対は避けたいと思います。

そういえばその人からもらった以前のメールに、オンラインで打ち合わせできないかと書かれていたことがあるのを思い出しました。
自治会活動までオンライン? 私にはその発想が理解できなかったのですが、コロナ感染が心配だったのでしょう。
それほどみんなコロナ感染不安におびえているのかと驚きました。

結局、引継ぎは3月の後半に最小限の時間で行うことになりましたが、そのための準備は、その人の名前で私が行うことになりました。
なんだか割り切れないのですが、まあ仕方がありません。

それにしてもみんなこれほどまでにコロナ感染が心配なのだとは思ってもいませんでした。
もしかしたらメールのやりとりさえも感染のリスクがあると思っているのではないかと思ってしまうほどです。
さびしい時代になりました。
もう自治会などやめた方がいいとつい言ってしまたくなる気分です。

まあそう思うのもまた、私のストレスがたまっているためでしょう。
これもまた「コロナ感染不安症候群」の一つかもしれません。

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■節子への挽歌5294:事件の被害者と加害者

節子

昨夜は明け方にみぞれが降っていましたが、8時頃からは態様も出て来て、いい天気になりそうです。

今週は病院や自治会活動などもあって在宅で過ごす予定ですが、ネット社会のおかげで、在宅でも何かと事件が飛び込んできます。
いい事件もあれば、心配な事件もある。
そうしたことも、昨今のコロナ騒ぎとも無縁でないような気もします。
いまや1億総ストレス時代かも知れません。
しかもなかにはいささか物騒な話も含まれていて、新聞ネタになるような殺傷事件につながりかねないような話まであります。

私は、時々、世間の常識とは食い違って、被害者と加害者を逆転して受け止めてしまう場合があります。
正確に言えば、事件が起きた場合、すべての関係者は、つまり加害者も被害者もという意味ですが、みんな「被害者」であり、それを見過ごしていた周辺の人たちこそが「加害者」ではないかと思うことが少なくありません。

そういう風に捉えると、世の中で起こっているすべての事件が、私とは無縁ではなく、ある意味で私自身が「加害者」になっているということになります。
そう考えてしまうと、いろんな事件報道に合うと、気が滅入ってしまいます。

だから新聞もテレビも見ないと元気になるわけです。
最近、新聞を読まない人が多くなったというのも、こうしたことと関係があるかもしれません。
事実、しばらく新聞もテレビも見なかったら元気になったという人もいます。

在宅ということは、新聞やテレビに接する時間が増えますので、元気がなくなってしまうわけです。読まなければいい、見なければいいというわけですが、そこに新聞やテレビがあるとついつい見てしまう。
困ったものです。

朝、気になっていた人から、いい方向に動き出しているとメールが届きました。
少しホッとしました。
でも気は許せません。
ウクライナも気になりますが、友人知人のトラブルも気になります。

人は何でもっとおおらかに生きないのでしょうか。
新型コロナウイルスに対する多くの人たちの反応を見ていると、とても寂しくなります。
そこに他者への目線と同じものを感ずるからです。

陽射しがちょっと強まってきました。
今日は元気で過ごせそうです。

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2022/02/15

■5293:歯医者さんの定期検診(2022年2月15日)

節子

最近、歯医者さんの定期検診を半年以上さぼっていました。
久しぶりに行ってきました。
定期検診ではまずは歯磨きの磨き残しがチェックされます。
今回はなんと9.8%。これまででの最高記録です。
いつもは30%前後とあまり成績はよくないのです。

つづけて歯周病チェック。これは残念ながら4か所が悪化。
その理由の一つは、睡眠時のマウスピースをさぼっているからです。
前回も注意されたのですが、歯医者さんに通っているときはいいのですが、歯医者さんに行かなくなるとまあいいかとさぼってしまうのです。
人は、睡眠中にかなり歯ぎしりするようで、それが歯周病にもよくないのだそうです。
それは判っているのですが、マウスピースをして寝るのが苦手なのです。
でもまあ、またしばらくは思い出して頑張ろうと思います。

それから歯石などの除去と具合いの悪いところのチェック。
幸いに虫歯は見つかりませんでした。

そういえば、一番の問題は、検査前に行うことになっている血圧測定です。
なんと下は100を超え、上は200を超えたのです。
でもまあこれはいつものことなのです。
たぶんは医者さんの血圧測定器は私と相性が悪いのです。

今の歯医者さんに通いだしたのは、節子が亡くなってからです。
最初の頃はいつも歯医者さんではたぶん泣きそうな哀しい顔をしていたはずです。
節子はがんが再発する前に、歯医者さんにはしばらく行けないかもしれないのでと、友人の息子さんがやっている歯医者さんに通っていました。
それが終わった直後に再発したのです。
だから歯医者さんには、特別の思いがあります。
歯医者さんの椅子に座るといつもそれを思い出す。

でも今通っている歯医者さんはとてもいい歯医者さんです。
この歯医者さんに節子を連れてきたかったといつも思います。
歯医者さんで1時間、椅子に座っているといろんなことを思い出します。

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2022/02/14

■節子への挽歌5292:久しぶりに長電話

節子

しばらく連絡がなかった武田さんから電話がありました。
彼はこの数か月、最後の本を仕上げようと原稿をまとめているのです。
その途中で何か新しいことを思いついたり、考えに迷うことがあると、私に電話をかけてきて、いつも1時間前後の長電話になるのですが、最近、私がいかにも異論を唱えることが多いので、電話の回数が減ってきているのです。
私の返答は、考えれば考えるほど内容が劣化しているという、武田さんにとっては一番聞きたくない内容が多いからかもしれません。

しかし正直に言えば、だいたいどんな人の作品も論文も、最初の頃が一番輝いていて、山を超えたらどんどん退屈になってくるような気がします。
武田さんの本も、ある時期からは退屈に向かってきているように思います。
でも本人は、自分の思考はどんどん良くなっていると思いがちです。

これは武田さんに限ったことではありません。
私自身も同様です。

私は書籍などほとんど書いたことはありませんが、いくつかの小論は書き残しています。巣した小論でも、思い返せば、40代の頃に書いたものが一番よかったような気がします。小論に限りません。話もそうです。
先日、久しぶりに小一時間話をさせてもらいましたが、話していてそれがよくわかります。内容にひらめきがなく、我ながら退屈です。困ったものですが。

まあそれはそれとして、2か月ぶりくらいに武田さんと長電話でした。
それにしてふたりとも一向に成長しない。
堂々巡りに長電話をこの数十年続けているような気がします。
いやはや困ったものです。

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■節子への挽歌5291:権威筋に従う生き方

節子

相変わらず新型コロナ感染症への不安が世の中を覆っています。
コロナ感染症よりも大きな不安が他にたくさんあるはずなのに、なぜか多くの人はコロナ対策をしていれば大丈夫なように思っているようにさえ思います。
そしてもっと恐ろしいのは、ワクチンをしたら安心だと思っている人も少なくないことです。

私は、むしろワクチンを接種することで逆に病を呼び込む可能性を高めるのではないかとさえ思っていますので、ワクチンは打ちませんし、新型コロナ以外の病への注意のほうを重視しています。
ですから世間の目からは私のほうがおかしく見えるのかもしれません。

昨日は、新型コロナワクチンのことをもっと知ろうという趣旨のサロンでした。
遺伝子操作の専門家の山森さんが、分厚い資料まで作ってくださって、話をしてくれました。
細菌学者の益田さんやワクチンに反対の立場の宮庄さんや北川さんも参加してくれました。
2時間の山森さんの解説は、基本的なことも踏まえて幅広い話をしてくれましたが、聞けば基ほど、わからないことがわかってきます。
ワクチンを接種すべきかどうかなど到底判断できません。
だからみんなも「権威筋」の言うことに従って、ワクチンの接種を素直に受けているのでしょう。

権威筋への不信感の高い私は、逆に権威筋が言うのであれば、その反対を選ぶのがいいだろうと判断していますので、ある意味ではやはり権威筋に従っているとも言えるでしょう。
ともかく複雑な社会になってしまったものです。

昨日のサロンでは、しかしワクチンとは無関係なことに思いをはせていました。
たとえば、今回話をしてくださった山森さんは、ご多用のなかを、いつも資料を作成し、しかも参加者分をコピーしてきてくれます。
多分どこかで講演したら、それなりの謝礼をもらえるはずですが、湯島のサロンは謝礼をもらえるおどころか、講師役でさえ参加費を自発的に負担しているのです。
自由に箱に入れていく仕組みなので、参加者の中には参加費を払わない人もいますが、山森さんはいつも部屋に入ってくるなり、参加費を箱に入れるのです。

これは山森さんに限りません。そういう人は少なくないのです。
それを見ていて、いつもなんだかとてもあったかな気持ちになります。

社会はこうした人たちによって支えられているのです。
サロンを続けていると、本当にいろんな人がいるのがわかります。
そういう人と触れ合えるのがサロンをつづけられる一つの理由です。
私も、山森さんや益田さんのような人を見習わなければいけません。

ちなみに権威筋とか権力意向とかに反応しがちな人もいないわけではありません。
口で反権威的な言葉をよく発する人のなかには、そういう人も少なくありません。

言葉は、いろんな意味でその人の本性を露呈します。
私もたぶん言葉を通して自分を表出しているのでしょう。
なかなか自分ではそれがわかりませんが。
自分で思っているのとは反対に、私も権威筋の意向に従って生きているのかもしれません。
少し注意しなければいけません。

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■湯島サロン「ワクチンについてもっと知ろうパート2」報告

新型コロナワクチンの接種対象も広がり、接種がますます進んでいますが、その一方で、不安も広がっています。しかし、新型コロナワクチンに関して、知ろうと思ってもなかなかわからない現実があります。
そこで、ワクチンの是非を話し合うのではなく、新型コロナワクチンに関して基本的なことを学び合うサロンを山森さんにお願いしました。

山森さんは、さまざまな資料を集めてきてくれて、それに基づいて、ていねいに説明してくれました。あまり知識のない人も対象にとお願いしたので、「コロナウイルスの基本構造」や「ワクチンの種類」から話をはじめてくれました。つづけて、ちょっと専門的なことや話題のトピックスなど、広範囲な解説をしてくれましたが、限られた時間だったので、山森さんはていねいな資料集を配布してくださり、サロンの後に資料をじっくりと読んで学べるように配慮してくださいました。

参加者とのやり取りも自由にいれてくださったので、そのやりとりで理解を深めることもできました。また考える論点というか、何が問題なのかに気づかせてもらいました。同時に、さらなる疑問も生まれましたが、言い換えれば調べる視点を教えてもらった気がします。
しかし、新型コロナワクチンを接種すべきかどうかを判断するのはやはり難しく、多くの人が「権威筋」の意見に従おうという風潮も理解できます。しかし少なくともリスクだけは知っておくことが大切ですし、こうしたことが学べる(質問できる)場がもっとほしいと思いました。

サロンでの山森さんの話の内容は、案内にも詳しく書きましたので、繰り返すのはやめますが、もし山森さんの配布資料を読みたい方がいたら、ご連絡ください。
山森さんがデータをクラウドにアップしてくださっていますので、私に連絡くだされば、山森さんからダウンロードするためのURLを連絡してもらいます。山森さんに直接連絡してくださっても大丈夫です。

話し合いの最後のほうでは、ワクチン問題を超えて、新型コロナ感染症の広がりに関する疑問の話にもなりました。そこにこそ「新型コロナワクチン」を考えるポイントがあるのかもしれないからです。これに関してはまた改めてサロンが開けないかと思っています。

同じ「ワクチン」と言いながら、今回の新型コロナワクチンは私たちが知っているワクチンとはそもそも同じものなのかという話も出ました。ワクチンを接種したら感染予防になると受け止めている人が多いと思いますが、果たしてそうなのか。そんな話も話題になりました。知れば知るほど、わからないことが増えてきます。

参加してくださっていた細菌学者の益田さんが、新型コロナワクチンを理解するためにも、改めて予防接種の原理と利害得失を考えてみるのも意味があるのではないかと提案してくれました。

そこで改めて「ワクチンの今昔 一 老学者の感慨」という話をしてもらうサロンを36日(日曜日)に開催することにしました。予防接種の基本に戻って、温故知新することも意味があるのではないかと益田さんは考えていますが、新しい状況が生まれてきているなかであればこそ、「老学者」の感慨から学ぶことも多いのではないかと思います。

別途また案内させてもらいますが、ご関心のある方はぜひご参加ください。

いつもながら山森さんには感謝します。
参加者のみなさんもありがとうございました。

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2022/02/13

■節子への挽歌5290:新しいコーヒーメーカーが早速届きました

節子

サロンだったので、湯島に行きました。
湯島に着いたらドアの外に升田さんが待っていました。
電車の中でメールを受け取ったのでわかってはいましたが、さすがに驚きました。
というのは、升田さんはいつもより早起きして、わざわざあるものを届けに来てくれたのです。
本当はドアの外に置いていく予定だったそうですが、偶然にも私が湯島に着く時間とほぼ同じになったので、待ってもらっていたのです。

届けに来てくれたのは、ミニコーヒーメーカーです。
届けてくれた理由はあります。

昨日、湯島のオフィスのコーヒーメーカーを壊してしまったこと、あ益田さんに別件で送ったメールに書いてしまったのです。
ところが、そのメールが届く少し前に、益田さんは家の掃除をしていて、数年前に買って使っていなかったミニコーヒーメーカーを偶然に見つけたのだそうです。
あまりの偶然さに、これは私に届けなければ思ったのだそうです。
それで今朝早起きして、わざわざ1時間以上かけて、届けてくれたのです。
なんとまあありがたいことです。

その上、サロンの時には私がきちんと昼食をしていないことに気づいて、途中でサンドウィッチまで買ってきてくれました。
次の予定まで、少し時間があるとのことだったので、早速、珈琲を淹れてみました。
なかなかいい調子です。サンドウィッチもシェアしながら2人で食べました。

まあそんなわけで、壊れたコーヒーメーカーに代わって、新しいコーヒーメーカーが届きましたが、残念ながら新しいのは一人用でした。
やはり4人用くらいのがないと不便かもしれません。
実は、節子がいるころから使っている4人用のコーヒーメーカーを私は愛用し続けています。今回壊したのもそれですが、この商品はロングセラー商品で今も売っているのです。数年ごとに買い替えていますが、今回は買い替えたばかりだったのです。
まあまだ売っているでしょう。明日にでも探しに行こうと思います。

今もコーヒーメーカーは湯島に複数台在りますが、なかなか気に入ったものは少ないのです。

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■第1回生活事業研究会の報告

昨日、第1回目の生活事業研究会を開催しました。
8人が参加してくださいました。
できればこれからも広げていきたいと思いますので、簡単な報告をさせてもらいます。
近いうちに、第2期をスタートさせたいと思っています。

案内でも書きましたが、生活事業とは「自分たちの、自分たちによる、自分たちのための事業」で、収益目的や「社会のため」などという多義的な、従ってご都合主義的な目的のための事業ではありません。自分たちの生活を豊かにするために自分たちでなければできないことを実現していく地に足つけたプロジェクトと言ってもいいかもしれません。

研究会は、そんな活動を始めたいという思いを実現につなげていくための6回のプログラムを用意しています。
参加者それぞれの事業の実現に向けて動きだすことだけが目的ではありません。
「それぞれのやりたいことを実現し合う場」「いろんなプロジェクトをつなぐ場」をつづけることで、そこに一種の「コミュニティ」が生まれればと思っています。それも「開かれたコミュニティ」「成長するコミュニティ」です。

すぐには理解しにくいかと思いますが、このプログラムを通して、参加してくださった人たちとそういうコミュニティづくりに取り組めればと思っています。

今回は「事業」と「生活」について少し考えてみました。そのうえで、参加者の「やりたいこと」を話してもらいましたが、その「やりたいこと」を徐々に具体化(事業化)していき、後半では実現のためにみんなでお互いに知恵を出し合おうと考えています。

8人が参加してくださいましたが、みなさんのやりたいことが何となくつながっているのを感ずると同時に、他にもこういう「やりたいこと」を何となく感じている人は多いだろうなと思いました。私が想定していたよりも、みなさんの「やりたいこと」は漠然としていたからです。
そうした「やりたいこと」を他の人の知恵も借りながら、具体化していき、「事業」や「プロジェクト」にまとめていくその過程で、人のつながりが育ち、生活が実感できるようになる。そんなことが実現できればいいなと、改めて思いました。

予定では5月頃に第2期をスタートさせる予定でしたが、もっと早くスタートさせたくなりました。そんなわけで、早速、今回参加できなかった人も含めて「補講」も行うことになりました。
もし「やりたいこと」が何となくあって、まだ形にはなっていない方がいたら、気が向いたら参加してください。有料なので、気安くはお薦めできませんが。
別途案内はしていますが、いま予定されているのは、2月27日の午後4~6時です。
また3人以上集まれば、別途開催しますので、もし希望される方がいたらご連絡ください。

そこから何か新しい物語を生まれてくる、そんなコミュニティを目指したいと思っています。どう展開していくか、まだ私にも見えていませんが。

参加者が撮ってくれた写真の1枚に、これからの展開のプログラムが出ています。
こんな感じで研究会は進めていく予定です。

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■節子への挽歌5289:またコーヒーメーカーを壊してしまいました

節子

昨日の有料セミナーは無事終わりました。
久しぶりに「対価」をもらうセミナーでしたが、参加者は私が何も言わない内にいつものように箱の中に1000円を入れ、用意した領収書も不要でした。
終了後、確認したらきちんと全員分が入っていました。
湯島では、そういう文化がいつの間にか育っているようで、それがとてもうれしい気がしました。
サロン以上に、みんなで育てていこうという気持ちが生まれている気がします。

ところで、昨日は話をする準備が終わり、みんなが来る前にコーヒーを飲もうと思い、小さなコーヒーメーカーでコーヒーを淹れようとしたのですが、なぜか手が滑ってサーバーを割ってしまい、ガラスが部屋中に飛び散ってしまいました。
これまでも何回もこうした失敗をしてきていますが、最近はずっとなく、むしろ古くなったので買い替えるという感じだったのですが、今回は大失敗、それも有料セミナーの直前です。
やはり久しぶりにお金をもらうということが緊張を引き起こしたのでしょうか。

幸いに定刻前の早い時間に来る人がいなかったので、掃除を終えることができました。
しかし残念ながらコーヒーを飲む時間はなく、そのうちに参加者が集まりだしました。
なにかの直前に思わぬ事故が起きると、それだけで少しリズムが崩れてしまいますが、まあ参加者のやさしさで無事乗り越えられました。

3時間を超える研究会は、意外と共感者が多く、もっと反論異論があるかと思ったのですが、むしろ共感のほうが多かったような気がします。
私自身の考えも、もう勢いを失っているのかもしれません。
いろいろと思うことの多い3時間でした。

それはともかく、またコーヒーメーカーを買わなければいけません。
同じものがあるといいのですが。
割れてしまったコーヒーメーカーは、とても気にいっていたのです。

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■生活事業研究会の補講のご案内

2月12日にスタートした生活事業研究会(第1期)では、初日に参加できなかった人を対象にした「補講」を次のとおり開催します。
主に「生活事業」という考え方を中心にお話しし、それを踏まえて参加者がやりたいと思っていることを発表してもらい、それを整理していくための手立てをお話しさせてもらいます。
開かれたスタイルで開催しますので、関心のある方はご参加ください。
後半では、生活事業研究会の進め方に関しても話し合いを行い、第2期への参考にさせてもらいます。

補講に参加された方でご希望の方は、第2期の参加を優先受付させてもらいます。
まあ第2期が実現すかどうかは確実ではありませんが。
やりたいことのある人が5人以上集まったら、新たな研究会をまたスタートさせていきます。

参加ご希望の方はご連絡ください。

〇日時:2022年2月27日(日曜日)午後4~6時
〇会場:湯島CWSコモンズ村オフィス
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇内容:生活事業を考え、生活事業研究会が目指すものを話し合う
(生活事業研究会第1日目とほぼ同じ内容)
〇参加費:1000円
〇申込先(必ず事前に申し込んでください):佐藤修 qzy00757@nifty.com

 

 

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2022/02/12

■節子への挽歌5288:久しぶりに対価をもらう仕事です

節子

節子を見送った後、すべての「対価をもらう仕事」をやめました。
結果的に、何かをやって対価をもらったことはありますが、最初から対価を意図しての仕事はやめたということです。
その結果、節子が残してくれたわが家の貯金は見事に減少し、その上、いろんなトラブルに巻き込まれて、すべてなくなってしまいました。
毎年180万円の年金収入が、私の全収入になりましたが、それもどうも支出オバーであることが最近わかりました。

まあそのせいでもないのですが、何とか湯島の部屋だけは維持したくて、対価を得る仕事をすることも考えているのですが、なかなかそううまく行くものではありません。
それでもそろそろ限界にきていることもあって、新しく取り組む活動には「対価」をもらうことにしました。
といってもわずか1000円なのですが、最初から対価を組み込んでの仕事は久しぶりです。いささか緊張します。
今朝、その領収書をつくったのですが、久しぶりの領収書づくりなので、印刷して、その不手際に気付き、2回も作り直しました。
困ったものです。

何をやるかと言えば、生活事業研究会という連続講座です。
「生活事業」とは聞きなれない言葉ですが、私の造語です。
いろんな思いを入れこんでいますが、まだなんとなく腹には収まっていません。

まあそれはともかく、昨日はこの準備で朝から夜までかかりきりでした。
幸いに呼びかけに応じて、8人の方が参加してくれることになりました。
ちょうど予定していた定員そのものです。
他にももう一人オブザーバー参加したいと言う人がいますが、今日の私の話を聞いて、継続を断念する人もいるかもしれませんので、たぶん6~7人になるでしょう。

節子が元気なら、20年前に始められたのですが、いささか遅きに失していますが、まあ少しがんばってみようと思います。

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2022/02/11

■湯島サロン「私たちに欠けているもの」報告

最初に、ある2冊の書籍からの2つの文章を読んでもらいました。それぞれに「昭和な生き方」と「令和な生き方」と私が勝手にタイトルをつけた文章です。

極めて簡単に言えば、前者の「昭和な生き方」では、少しくらい高くても近くの商店で買い物をする生き方、後者の「令和な生き方」では、1円でも安いお店で買い物をする生き方です。お金を基準とした生き方かどうかとも言えます。

もう少し丁寧に言えば、昭和の時代、私たちは、家族や会社という、いわゆる中間組織に帰属し、いざとなったらそれが私たちを守ってくれました。その結果、自分よりも会社を大切にする「会社人間」が増えたり、家族や親せきの絆の抑圧に苦しんだりした人も少なくなかったかもしれません。

そこで、みんな自由を求めて、そうした中間組織から飛び出して生きだしたのですが、その結果、「自己責任」で生きなければいけなくなった。自由にはなったものの、「不安」もまた生まれてきた。

かつてはいざとなったら守ってくれたはずの、家族や地域社会や会社組織も、解体されてしまって、戻れる場所はなくなってしまった。いまはまだ「引きこもり」や「故郷に帰る」などという言葉がありますが、多くの人は「引きこもる場所」「帰る場所」さえなくなりつつあるのです。

個人として生きていくのは、自由よりも不安が大きく、結局はお金だけが頼りになってきてしまった。気がついてみたら、お金のために生きているような人生かもしれない。

まあ、そんなことを示唆している(とも受け取れる)文章です。
関心のある人は、この報告の後に引用していますので、読んでみてください。

その文章を読んだうえで、「本当にいま私たちに欠けているのは何だろうか」と参加者に問いかけさせてもらいました。そしてまた、「いざとなったら誰かが助けてくれると思えますか、誰も助けてくれないと思いますか」とも問いかけさせてもらいました。

今回の参加者は、ほとんどが「自由」に生活しているフリーランスの方が多かったのですが、思った以上にみんな「不安」はないようです。しかし、その一方で、結局、いつか一人で死んでいくかもしれないという思いは否定できないようです。私にはそれがとても重要なことなのですが、どうもそう思うのは私だけなのかもしれません。そういえば、昭和の時代にも、所詮、人は独りで死んでいくと言っていた「物知りな識者」はいました。私は、人は決して「独り」ではないし、ましてや「独り」では勝手に死ねないと思っています。なぜなら人は独りでは生きていけないからです。人は誰かと必ずつながっている。だから生きていけるのだと思っています。

今回は、私が自分の思いが強すぎたために、話し合いの渦中に入り込みすぎてしまい、どんな話し合いがあったかうまく思い出せません。
でも、いま私たちに「一番」欠けているのは、やはり人と人との表情あるつながり、支え合い、気遣い合う関係ではないかという思いを、ますます強めました。それに気づけば、勝手に「独り」で死ねなくなる。いや生き方も変わってくる。
問題は、そうした「つながり」や「仲間」をどう見つけて育てていくかです。

参加者からは、すでにそういう方向でさまざまな動きが出始めているという話もでました。たしかにそうかもしれません。私のまわりでもそういう動きは少なくない。
しかし、社会が「個人」をばらばらに分断し、個人を管理する方向に向かっている動きもまた否定できませんし、そういう流れにみんな乗ってしまっているような気もします。

そうした動きは、今回のコロナ騒動ではっきりと見えてきた。しかもそのための口実に、「他者に迷惑をかけるから」という、「変形された自己責任論」が使われている。他者に迷惑をかけるからマスクをし、ワクチンをしましょう!
一見、自由に向かっていると思っていたら、またいつの間にか、自分を主体的に生きることがむずかしくなってきた。
そのうえ、いざとなったら守ってくれていた家族も同僚も隣人もいなくなってしまった。とすれば、何か大きなものにすがるしかない、それが嫌なら、自分で気遣い合える仲間をつくっていかなければいけない。

とまあ、こんな話が行われたのですが、このテーマは湯島サロンが目指す大きなテーマでもある「コミュニティ育て」にもつながっています。また切り口を変えて、こうしたサロンを重ねていこうと思っています。

サロンで話されていた内容とあまり関係のない報告になりましたが、そこで語られていた底流の物語は、こんな感じだったような気がします。それぞれ思うことは違っていたかもしれませんが。
今年も、湯島から新しい「コミュニティ」や「気遣い合う関係」が育っていけばいいなと思っています。

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以下にサロンでみなさんに読んでもらった文章を紹介しておきます。

〔A〕昭和な生き方

A夫妻は、埼玉県北部で200年近く続く酒の問屋を経営しており、地域と深いつながりをもっている。地元でガソリンスタンドを経営している古くからの友人がいる。郊外に量販店ができると、酒もガソリンも灯油も、安価な量販店に客を奪われ風前の灯のようになっていた。でも友人同士なので、互いに多少高くても、酒やガソリンを買うことにしていた。

そこに東日本大震災が襲ってきた。危機的な状況の中で、量販店のガソリンは瞬く間になくなった。経済合理性と効率性を重視していた量販店は、倉庫に在庫を抱えないことで、安価を実現していたためである。一方、在庫を備蓄して細々と経営していた地元のスタンドには、震災直後にもガソリンはあった。そこでA夫婦は優先的にガソリンを購入することができた。ところが、長蛇の列をつくつていた人たちが集団となって詰め寄り、罵声が飛びだした。なぜ、そいつに優先してガソリンを売るのだ、不公平だというわけです。

この光景に、戦後の日本の象徴的なかたちが現れている。鮮やかなまでに2種類の人間がここには存在する。

    ―「国家の尊厳」(先崎彰容 新潮新書 2021)(一部書き換えています)

〔B〕令和な生き方

(昭和の頃)、個人は直接リスクにさらされないように守られていた。当時「護送船団」という言葉があって、悪い意味で使われていたけど、実際のところ人々は大船たちの船団に守られて生きていた。
私たちは会社とか学校とか組織とか、なんらかの大船に所属して、そこで乗組員として人生を航海していた。大船は風除けとなり、波から私たちを守ってくれた。個人が失敗しても、みんながリスクをシェアしてくれた。
もちろん、そこには大量の不自由があった。大船には大船のルールがあって、みんなで一緒に航海をしているわけだから、小舟のように自由にはいかない。
だから、人々は小舟に憧れを抱いた。世間とか組織の価値観を離れて、「いかに生きるかを自分で決める。小さな物語はその頃、解放の物語だったのだ。だから、心はキラキラと輝いていた。

それから20年経った。もはや小舟で航海することは解放でも何でもない。望んでいようといまいと、誰もが小舟で生きざるを得ない世界になったからだ。もう守ってくれる大船は存在せず、みんな小舟で大海に放り出されるようになった。
私たちは自由になったのかもしれない。確かに私たちは嫌になれば、どこへでも出ていけるようになった。だけど、本当のところ、私たちが感じているのは自由の心地よさではなく、脆弱さであり、不安だ。大船に守られることのないままに、大海原の圧倒的な力に脅かされているからだ。大きすぎる物語に私たちは剥き出しでさらされている。

この20年で、大船は解体された。つまり、中間共同体が解体された。人々は個人化していった。小舟で航海するようになった。それが多くの良きことももたらしたから、私たちはもう昔には戻れない。

―「心はどこに消えた?」(東畑開人 文藝春秋 2021)(一部省略しています)

 

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■生活事業研究会の申込受付終了のお知らせ

直前のご案内ですが、12日から始まる「生活事業研究会」ですが、定員に達しましたので、申し込みを終了しました。
また、これは「自由参加」ではありませんので、念のため。

どうも誤解されている方がいらっしゃるようなので、直前ではありますが、念のため、お知らせすることにしました。
万一、当日突然来られてもお断りすることがあるのでご承知おきください。

 なお今回、要件に該当しないために、参加をお断りした方もいますが、また4月か5月に「第2期」をスタートさせる予定ですので、改めてご検討ください。

また、今回参加される方で、12日に参加できない方を対象に、2月27日の午後4時過ぎから「補講」を開催する予定です。これはオブザーブ可能ですので、もしご関心があればご案内させてもらいますので、ご連絡ください。ただし、申し訳ありませんが、今回の研究会には参加できません。「第2期」をお待ちください。

 勝手ながら、よろしくお願いいたします。

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2022/02/09

■節子への挽歌5287:薬漬け

節子

また挽歌をさぼってしまいました。
特に何かがあったわけでもなく、体調も順調に回復に向かっています。
しかしまだ挽歌書きがルーチンになっていないので、1日書かないとついつい書かない日が続いてしまうのです。困ったものです。

今日は日光浴をしたいほどのいい天気です。
日光浴と言えば、またまたある本に影響されてコロナ対策を口実にビタミンDのサプリメントを飲むことにしました。ビタミンDが免疫力を高めるそうなのです。
少なくとも1か月は続けようと思います。

ちなみに最近はいささか薬漬けです。
胃腸の関係が5種類、高血圧関係が2種類、脳の血管対策が3種類です。
まさか私がこんなことになるとは思ってもいませんでした。

しかし5種類の胃腸薬のおおかげで、お腹の調子はほぼ回復しました。
にもかかわらず食欲はあまり戻ってきません。
駄菓子類をつまみ食いするのもかなり抑えています。
その上、最近は果物があまりありません。
食生活も次第に正常化するでしょう。

あとはもう少し歩くことです。
これはなかなか難しい。
もうひと頑張りです。

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2022/02/07

■第13回益田サロン「寛容性から自己・非自己を考える」報告

今回は「寛容性」という切り口から、改めて「自己・非自己」という問題を考えることになりました。いろんなことが重なって参加者が少なかったのが残念でした。
今回も、昨今のコロナ騒動を考える上での示唆がたくさんあったように思います。

益田さんは、B型肝炎ウイルスのキャリアを例に「自己寛容」の話から始めました。人によっては、B型肝炎ウイルスを取り込んでも、劇症肝炎を起こすことがないそうです。つまり、B型肝炎ウイルスも「自己」として受け入れるのです。
そして、拒絶反応を示さないものを「自己」と捉えてもいいのではないかというのです。
そう言ってしまうといかにも簡単なようですが、実はこれにはさまざまな論点が含意されています。

すぐには拒絶反応を示さないからと言って、何も変わらないのかという問題があります。事実、B型肝炎ウイルスのキャリアの人も長い時間を経て、がんの発生につながることもあるそうです。それでも「自己」と言っていいのか。ここで時間の要素が入ってきます。

キャリアになる人とならない人はどこで分かれるのかについては、出生時の母親が関係しているそうです。出生時に母親の免疫をそのまま引き継ぐので、そこでキャリアになるかどうかが決まるわけです。そこからまたいろんなことが考えられます。

これをもっと長い時間軸で考えれば、かつては非自己であったミトコンドリアがいつの間にか自己になってしまったように、ウイルスも細菌も、非自己から自己へと存在を変えていくことになるようです。だとしたら、自己と非自己とはいったい何なのか。
こうしたことから「寛容性」を考えていこうというわけです。

キャリア(健康保菌者)は、自らは発症しませんが、感染力は持ちますから、キャリアでない人にとっては、発病者と同じ存在です。
病気とは本人にとっては発症するかどうかが重要ですが、他者にとっては感染するかどうかが重要なので、キャリアもまた発症者と同じ存在と捉えていいでしょう。これは、「病気とは何か」という大きな問題を提起しています。こうしたことは昨今のコロナ騒ぎを考える上では重要なポイントのような気がします。

サロンでは、腸チフス菌のキャリアだった「チフスのメリー(タイフォイド・メアリー)」の話も出ました。当時はキャリア(健康保菌者)ということがまだわかっていなかったようで、彼女は多くの人に腸チフスを感染させてしまったのです。
メリーにとって、「腸チフス」とは病気なのでしょうか。

こうした話から、自己免疫疾患や免疫寛容機構の破壊などという方向に話が向かうことも考えられましたが、今回はあくまでも「寛容性」というところにこだわったため、自己と非自己との境界の話になりました。
その境界は、地と図と言われるようなしっかりした境界ではなく、いわゆる「あわい」のように、時間や空間をもったものであり、状況により時間により変わってくる柔軟な、言い換えれば寛容なものではないかという気がします。
そうなると「環境」もまたどう捉えるかという問題になります。環境さえも「自己」に含ませてしまうような「環世界」という考え方もあります。

この分野に関する知識が私にはほとんどないので、かなり不正確な報告で益田さんには叱られそうですが、なんだかたくさんの宿題をもらったようなサロンでした。

一時期、話題になった「ゼロ・トレランス」「無菌社会」、あるいは「ゼロコロナ志向」に大きな違和感を持っている私としては、もっとウイルスにも寛容でありたいという思いから、今回、寛容性を切り口にしてもらったのですが、どうも「寛容性」という概念は、あまりに使い勝手のいい言葉なので、議論を深めることが難しかったような気がします。

しかしそこから、新たに「時間と空間」という切り口が見えてきたかもしれません。つまり自己と非自己は、静態的にではなく動態的に取れないといけないということです。

さてさて益田サロンは、これからどういう方向に展開していくでしょうか。
ますます楽しみになってきました。

Masuda13

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2022/02/06

■生活事業研究会のお誘い(開催日が変更となりました)

先日ご案内した「生活事業研究会」の開催日が変更となりましたので、改めてご案内いたします。直前になっての日程変更をお許しください。どうしても、12日はだめな場合は、個別に「補講」をしますので、ご連絡ください。

「生活事業」とは、聞きなれない言葉ですが、私の勝手な造語です。
一言で言えば、「自分(たち)の、自分(たち)による、自分(たち)のための事業です。つまり社会のための事業ではなく、ましてや収益(金銭)のための事業でもありません。自分(たち)の生活を豊かにするために自分(たち)でなければできないことを実現していくプロジェクトと言ってもいいかもしれません。

はじまり場サロンでも、参加者がこんなプロジェクトに取り組みたいという思いを発表してもらっていますが、それを実際に実現していくことを目指していこうというのが、この研究会の目的です。

サロンとは違い、6回連続で毎回1000円の有料制です。サロンと違うのは、話し合うだけではなく、参加者それぞれが実際に行動を起こし、構想した事業(プロジェクト)を実現するのが目的です。宿題も出ます。会員登録制を取りますが、途中で脱会ということもありますが、できればぜひとも自らの生活事業実現へと向かってほしいと思います。
私も含めて、参加者はそれぞれの生活事業にアドバイスしあいながら、自分も事業起こしに取り組んでいくという、汗も知恵も、その上、毎回参加費もかかる研究会です。

毎月1回(原則として第2土曜日)開催していく予定です。
1回目は、「生活事業」の捉え方や研究会の進め方について私からお話しした上で、参加者それぞれが取り組みたい事業(プロジェクト)を簡単に紹介してもらい、それを同じ様式で整理してもらうように、宿題を出させてもらいます。

2回目以降、実際に各自の事業に即して、話し合う形で進めていきます。
第1期は7月までの6回を想定しています。
研究会に参加したからと言って、事業(プロジェクト)が実現できるとはかぎりませんが(ご本人次第です)、ともかく何かが動き出すことを目指したいと思います。

具体的な取り組みたい事業(プロジェクト)のある方の参加をお待ちしています。
参加者(とりあえずのオブザーブ参加者も)は必ず前日までに申し込んでください。

〇日時:2022年2月12日(土曜日)午後1時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇参加費:1000円
〇申込先:佐藤修  qzy00757@nifty.com

 

 

 

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2022/02/04

■節子への挽歌5286:いやな腹痛はほぼ消えました

節子

昨日、薬を飲んで早く寝ました。
そのおかげでどうも「いやな腹痛」はなくなりました。
痛さや違和感はまだ残っていますが、もう大丈夫でしょう。
最近、食生活を変えようと思い、かなり不摂生をしていたのが原因だったかもしれません。
しばらくはあまり食べずにまずは整腸に努めようと思います。

しかし、お腹の調子が悪いとこんなにも気力が出ずに思考力もなくなるのかと驚きました。
大切なのは頭脳よりも胃腸かもしれません。
やはり、食はすべての基本です。

昨日は節分でしたが、にこが家中に豆をまいてくれました。
かけ声は残念ながら「福は内、鬼は外」。
わが家の伝統は引き継がれませんでした。節子と私の時には、「鬼は内、福も内」でした。節子が旅立ち、その後、山のような災厄もやってきましたから、この掛け声は説得力を失ったのです。

今日は、節子の誕生日です。
予定では墓参りに行くはずだったのですが、あいにくユカも昨日から調子が悪く、今日は大事を取ることにして、ふたりとも家で養生です。
それにしても最近どうも元気が出てきません。

困ったものです。

 

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■1月が無為に終わってしまった言い訳

今年に入ってから、実はあまり調子がよくありません。

発端は牛乳の飲みすぎだと思うのですが、実はそればかりではなく昨年末から食生活を大きく変えることにしたのです。
そのせいで、年明け後からお腹の調子がよくありません。
お腹が痛いことが時々起こるのです。
そのせいか、食欲もあまりありません。
これまで腹痛ということあまり体験したことがないのですが、鈍痛が続くことがこれほど気力を奪うとは思ってもいませんでした。

あまりに長いので、さすがに気になって、昨日、かかりつけ医の遠藤さんに相談に行きました。
まず言われたのは、たまには胃腸の検査をしたほうがいいよということです。
私が検査嫌いなのをよく知っているのです。
そしてここぞとばかりに、薬を5種類もくれました。
私の薬嫌いもよく知っているのです。

帰宅後、すぐに飲みました。
一晩寝て、腹痛はおさまりだしました。

しかし、お腹の調子が悪いと、気力がわかず、思考力も衰えることを体験しました。
そんなわけで、今年の1月は、何もやらないうちに終わってしまったような気がします。

人間は頭で考えているのではなく、胃腸で考えているのではないかと思いだしました。
もしかしたら、頭脳と胃腸は、敵対しているのかもしれません。
どうしたら仲直りさせられるでしょうか。

こんなことを考えている私は、頭脳でも胃腸でもない。
一体誰なのでしょうか。

 

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2022/02/03

■湯島サロン「俳句の楽しさをシェアしませんか」のお誘い

メーリングリストで高井さんから俳句を楽しむ集まりの提案がありました。
その後、数名の方から意見やアドバイスがありましたが、まずは高井さんにご自分が体験している「俳句の楽しさ」を語ってもらい、それを話題に参加者も俳句を体験してみるサロンをやってみることになりました。

以下、高井さんからのお誘いです。

私は去年の1月から俳句を作りはじめました。 ご多分にもれず、テレビの「プレバト」に影響されたひとりで、テレビやラジオ 、本のみを頼りに孤軍奮闘している1年生です。それでも1年間、俳句を作っていると いろいろなことを感じました 。

まず、俳句を作るとメタ認知が起きて、自分を突き放して遠くから見ている「もう一人の自分」に出会えることです。
兼題(お題のこと)を与えられて俳句を作ろうとすると、自然と過去の記憶を掘り起こすこととなり、そこで怒りが消えたり、 あぁ、あのとき「冷たい」と感じた父親はなんと私のことを愛してくれていたのかというような喜びの気付きが起きたりします。

また、共感を体験できることです。俳句は出来不出来も比較もなく、そこに現れるその人の素直な気持ちに寄り添え、 時に疑似体験さえできます。言い換えれば、俳句を詠み合う人と共感し合えるのです。自分の記憶と重なり、涙することもあります。
その反対に、俳句はどう詠んでも受け取ってもよいので、人の考えを否定することなく、いろいろな考えがあるんだなあと受け入れられるようになります。

俳句の季語は5万以上あるといわれますが(減りつつ、増えてもいます)、それは日本の自然と文化の宝庫です。季語に触れることで、日本文化がつちかってきたな豊かな感性に触れることができます。

プレバトで俳句ブームを起こした俳人の夏井さんは、「俳句は人生の杖」といっていますが、だんだんこのことがわかるようになってきました。

私がこの1年、俳句を通して感じたこと、知ったことをまずはみなさんにお話しして、その後、作句の簡単なルールをお話したうえで、みんなで23句、その場で俳句を作って(即吟)楽しめればと思います。

俳句を詠んだことなど一度もない方こそ大歓迎です。
もちろん俳句に取り組んでいる方も歓迎で、そうした方にはぜひいろいろとアドバイスしてもらえればと思っています。
いずれにしろ、今回は、俳句って何だろうということを話題に、楽しい集まりができればと思っています。そこから俳句仲間が生まれ、いつか句会ができるようになるかもしれません。

※もしよろしければ、俳号を作ってきてください(^-^)
今回のみのものでもよいです。
はるの野原、埼玉のいちご畑、コタツのネコ、なんでもok!

※持ち物
▪太めのペン(サインペンなど)
▪本棚に眠っている歳時記がある方はぜひ(なくてかまいません)

〇日時:2022年2月23日(祭日 水曜日)午後1時~3時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf 
〇テーマ:「俳句の楽しさをシェアしませんか」
〇話題提供者:タカイシオミさん(俳句を始めたばかりの1年生)
〇会費:500円
〇参加申込先:佐藤 qzy00757@nifty.com

 

 

 

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■節子への挽歌5285:腹痛が続くのでお医者さんに行きました

節子

どうもお腹の調子がよくありません。
治ったようで治らない。
昨日また痛くなってきました。

これまであまり胃腸の痛さを感じたことがなかったのですが、お腹の鈍痛がこんなにも不快なものだと知りませんでした。ともかく思考力が出てこない。
あまりにも長いので、お医者さんに行くことにしました。
かかりつけの遠藤さんです。

佐藤さんはともかく検査をしないから、たまにはしたほうがいいよとまた言われました。
遠藤さんは、私の検査嫌いや薬嫌いをよく知っているのです。奥さんのこともあるから、きちんと検査したほうがいいよとまで言われました。
実のところ、私は別に検査も薬もそう嫌いではなく、ただ面倒なだけなのですが。
その証拠に、最近会変動さんが出してくれた降圧剤は欠かさずに飲んでいます。

遠藤さんは、最近はノロウイルスが流行っているとか、お腹を壊す風邪が流行っているとか、いろいろと言いましたが、問診は「最近生ガキや生の貝を食べていないか」と訊かれただけでした。ちょっと雑談をして、結局、血圧を測って、2週間分、薬を出しておくから様子をみようということになりました。
さすがに私も拍子抜けしました。

ところで、薬がなんと5種類も出たのです。
ここぞとばかりに私に薬を飲まそうとしているのではないかと疑いたくなるほどです。
まあお腹の鈍痛はかなりつらいので、今回は素直に飲むことにしました。
「食後」とあるけれど、別に無理して食事はしなくてもいいと薬剤師さんから言われました。

今日の昼食は孫たちと一緒に手巻きずしが予定されていたのですが(恵方巻より手巻き寿司と私も希望したので)、その前に薬を飲んでしまいました。薬を飲んだ後、手巻きずしを食べてしまいました。ほんとは昼食は抜く予定だったのですが、まあ雰囲気で食べてしまったのです。
それでまた午後は、お腹が痛くて、横になっていました。

困ったものです。

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2022/02/02

■節子への挽歌5284:久しぶりのSF長編

節子

久しぶりにSF長編を何とか読み終えました。
スタニスワフ・レムの「地球の平和」です。
フェイスブックで読むことを公言したので、読まないわけにはいかなくなったのです。

やはり私の好みではありませんでしたし、物語も十分に追えませんでしたが、なにやら最近の地球の「平和」が象徴されているような、そんな気がしました。
文中に「パンデミック」という文字も一度だけ出てきますが、これはたぶん訳が最近だからではないかと思いますが、不気味なほど、現代が見通されているような気がしました。

以前はどうしてこういう小説をあんなにもよく読んでいたのでしょうか。
節子と付き合っていた頃や結婚してからしばらくも、かなりSFにもはまっていたはずで、読んでは節子に話をしていたような気もします。
残念ながら節子は、リアリストでしたから、話は聞いていたもののあまり関心は持ってくれませんでした。しかし長いこと私と付き合っていたせいか、なんとなく受け容れていたふうもありますが。

しかし、私の考えを大きく方向づけたものは2つあります。
映画とSFです。
大学生の頃は、授業よりも映画と小説が私の先生だったような気もします。

今回はやっと読み終えたという感じです。
いささか疲れました。

ちなみにフェイブックでは、もう2冊の本を読むことを公言してしまったので、読まなければいけません。1冊は新刊ですが、1冊はこれも久しぶりの再読です。しかしいずれも短編なので、苦労はないでしょう。たぶん。

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■核兵器よりも危険な武器が実用化されつつあるという警鐘

先日、予告したとおり、スタニスワフ・レムの「地球の平和」を読みました。

久しぶりの長編小説だったというよりも、言葉や概念が飛び交うにぎやかさに、思考がついていけずに、物語の筋さえも十分に消化できないままに読了しました。
しかし、全体から伝わってくるメッセージには、共感でき、最近起こっている「平和でない平和」や「パンデミック」などを思い出しながら、奇妙に納得できる面もありました。

ところで、読み終えた後、解説が載っていたので、それも読んだのですが、そこに42年前に、あるアンケートに答えたレムの回答が紹介されていました。
長いので、すべてを紹介できませんが、その一部を紹介させてもらいます。レムの予感はあまりにも当たっているような気がしましたので。

なお、これは文芸誌『すばる』19837月号が行った「世界の作家に問う 核状況下における文学者の態度」というアンケートで、総勢30名以上の世界の作家たちからの回答をもらったようです。
レムの回答は、「核兵器による人類の危機についての私の解釈」と題されたもので、一言で言えば、核兵器よりも危険な武器が実用化されつつあると警鐘でした。

以下、一部を引用させてもらいます。

物質のもっている、軍事的に応用可能な原子核の力は、疑いもなく私たちの文明を自滅へと導くことができます。しかし、この力は同時に、そして残念ながら、現代の武器庫を構成する一つの要素にすぎません。

2つの理由によって、原子爆弾よりも制御することがむずかしいような新しい武器が、研究の場所から実用へと移されつつあります。第1に、地球を取り巻く宇宙空間へ軍事的な大量殺人の手段が持ちこまれることは、ほとんど不可避のように思われます。

しかし、第2に、核兵器に反対する者が現在より小さな悪と見なしている旧来の伝統的な兵器は、秘かに進歩をとげて、伝統の枠をつき破ろうとする段階にあります。そのようにして、戦争と平和をわかつ境界は鈍く、二次的で、曖昧なものにされてしまうでしょう。

まず第1に私がここで考えるのは伝染病(すなわち、隠微な形での軍事的攻撃)を阻止することはできません。隠微というのは、そういった攻撃が必ずしも人間の生命をただちに絶滅させるものではないからで、遅れて現われる効果によって生命に必要なものを徐々に破壊することができるような手段さえ考えられるのです。

遺伝学に由来する数多くの手段も、軍事的に、さらには隠微な形で軍事的に応用することができます。たとえば、敵の農業による食料生産の基礎に損害を与えるとか、あるいはその他に、部分的にはヴィールスによる手段(つまり、もっぱら恒常性と呼ばれる生物圏における生活様式の均衡を土台から変えてしまうような手段)が考えられます。

近い将来、一つの国の死亡率を徐々に高めることも可能になるでしょう。遺伝的に条件づけられた一定のタイプの病気の発生率を高めることもできるようになるでしょう。

しかも、その際、病気や、その他の人工的に引き起こされた危機が、一つの大陸だけで広がるようにすることも可能になるのです。

一言で言えば、たとえ、超大国間の交渉が首尾よくいって核軍縮に成功したとしても、核兵器の均衡などはくつがえすことができるし、それからさらに軍事的な大量殺人に通じる道も開けているということです。

(中略)

原子爆弾の危険を世界からとりのぞくために、そして、その空席になった場所に他の少なからず破滅的な危険を見出せないようにするために私たちが変えなければならないのは、武器のシステムではなくて、この世界そのものです。

(後略)

42年前のレムの警鐘と昨今の地球の状況。
改めて恐ろしさを感じます。

なお、レムの「地球の平和」は2つの主題を持っている思弁小説(Speculative Fiction)です。一つは「脳梁切断術を受けた人間の自己同一性」、もうひとつは「激化する軍拡競争の中での平和」。それに関して関心のある方は、この小説をお読みください。いささか難解ですが。

次は岡和田さんが編集してくださった山野浩一さんの作品を読もうと思いますが、いささか疲れたので、少し間を置くことにしました。

 

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2022/02/01

■2月オープンサロンのご案内

2月のオープンサロンは21日(月曜日)に開催します。

いつものようにテーマはなく、出入り自由な気楽なサロンです。
基本的には、いわゆる「スモークトーク」のやりとりですので、どなたでも気楽に「話し」に来てください。もちろん「聞き」に来ていただくのも歓迎です。

〇日時:2022年2月21日(月曜日)午後1時~3時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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