■湯島サロン「私たちに欠けているもの」報告
最初に、ある2冊の書籍からの2つの文章を読んでもらいました。それぞれに「昭和な生き方」と「令和な生き方」と私が勝手にタイトルをつけた文章です。
極めて簡単に言えば、前者の「昭和な生き方」では、少しくらい高くても近くの商店で買い物をする生き方、後者の「令和な生き方」では、1円でも安いお店で買い物をする生き方です。お金を基準とした生き方かどうかとも言えます。
もう少し丁寧に言えば、昭和の時代、私たちは、家族や会社という、いわゆる中間組織に帰属し、いざとなったらそれが私たちを守ってくれました。その結果、自分よりも会社を大切にする「会社人間」が増えたり、家族や親せきの絆の抑圧に苦しんだりした人も少なくなかったかもしれません。
そこで、みんな自由を求めて、そうした中間組織から飛び出して生きだしたのですが、その結果、「自己責任」で生きなければいけなくなった。自由にはなったものの、「不安」もまた生まれてきた。
かつてはいざとなったら守ってくれたはずの、家族や地域社会や会社組織も、解体されてしまって、戻れる場所はなくなってしまった。いまはまだ「引きこもり」や「故郷に帰る」などという言葉がありますが、多くの人は「引きこもる場所」「帰る場所」さえなくなりつつあるのです。
個人として生きていくのは、自由よりも不安が大きく、結局はお金だけが頼りになってきてしまった。気がついてみたら、お金のために生きているような人生かもしれない。
まあ、そんなことを示唆している(とも受け取れる)文章です。
関心のある人は、この報告の後に引用していますので、読んでみてください。
その文章を読んだうえで、「本当にいま私たちに欠けているのは何だろうか」と参加者に問いかけさせてもらいました。そしてまた、「いざとなったら誰かが助けてくれると思えますか、誰も助けてくれないと思いますか」とも問いかけさせてもらいました。
今回の参加者は、ほとんどが「自由」に生活しているフリーランスの方が多かったのですが、思った以上にみんな「不安」はないようです。しかし、その一方で、結局、いつか一人で死んでいくかもしれないという思いは否定できないようです。私にはそれがとても重要なことなのですが、どうもそう思うのは私だけなのかもしれません。そういえば、昭和の時代にも、所詮、人は独りで死んでいくと言っていた「物知りな識者」はいました。私は、人は決して「独り」ではないし、ましてや「独り」では勝手に死ねないと思っています。なぜなら人は独りでは生きていけないからです。人は誰かと必ずつながっている。だから生きていけるのだと思っています。
今回は、私が自分の思いが強すぎたために、話し合いの渦中に入り込みすぎてしまい、どんな話し合いがあったかうまく思い出せません。
でも、いま私たちに「一番」欠けているのは、やはり人と人との表情あるつながり、支え合い、気遣い合う関係ではないかという思いを、ますます強めました。それに気づけば、勝手に「独り」で死ねなくなる。いや生き方も変わってくる。
問題は、そうした「つながり」や「仲間」をどう見つけて育てていくかです。
参加者からは、すでにそういう方向でさまざまな動きが出始めているという話もでました。たしかにそうかもしれません。私のまわりでもそういう動きは少なくない。
しかし、社会が「個人」をばらばらに分断し、個人を管理する方向に向かっている動きもまた否定できませんし、そういう流れにみんな乗ってしまっているような気もします。
そうした動きは、今回のコロナ騒動ではっきりと見えてきた。しかもそのための口実に、「他者に迷惑をかけるから」という、「変形された自己責任論」が使われている。他者に迷惑をかけるからマスクをし、ワクチンをしましょう!
一見、自由に向かっていると思っていたら、またいつの間にか、自分を主体的に生きることがむずかしくなってきた。
そのうえ、いざとなったら守ってくれていた家族も同僚も隣人もいなくなってしまった。とすれば、何か大きなものにすがるしかない、それが嫌なら、自分で気遣い合える仲間をつくっていかなければいけない。
とまあ、こんな話が行われたのですが、このテーマは湯島サロンが目指す大きなテーマでもある「コミュニティ育て」にもつながっています。また切り口を変えて、こうしたサロンを重ねていこうと思っています。
サロンで話されていた内容とあまり関係のない報告になりましたが、そこで語られていた底流の物語は、こんな感じだったような気がします。それぞれ思うことは違っていたかもしれませんが。
今年も、湯島から新しい「コミュニティ」や「気遣い合う関係」が育っていけばいいなと思っています。
以下にサロンでみなさんに読んでもらった文章を紹介しておきます。
〔A〕昭和な生き方
A夫妻は、埼玉県北部で200年近く続く酒の問屋を経営しており、地域と深いつながりをもっている。地元でガソリンスタンドを経営している古くからの友人がいる。郊外に量販店ができると、酒もガソリンも灯油も、安価な量販店に客を奪われ風前の灯のようになっていた。でも友人同士なので、互いに多少高くても、酒やガソリンを買うことにしていた。
そこに東日本大震災が襲ってきた。危機的な状況の中で、量販店のガソリンは瞬く間になくなった。経済合理性と効率性を重視していた量販店は、倉庫に在庫を抱えないことで、安価を実現していたためである。一方、在庫を備蓄して細々と経営していた地元のスタンドには、震災直後にもガソリンはあった。そこでA夫婦は優先的にガソリンを購入することができた。ところが、長蛇の列をつくつていた人たちが集団となって詰め寄り、罵声が飛びだした。なぜ、そいつに優先してガソリンを売るのだ、不公平だというわけです。
この光景に、戦後の日本の象徴的なかたちが現れている。鮮やかなまでに2種類の人間がここには存在する。
―「国家の尊厳」(先崎彰容 新潮新書 2021)(一部書き換えています)
〔B〕令和な生き方
(昭和の頃)、個人は直接リスクにさらされないように守られていた。当時「護送船団」という言葉があって、悪い意味で使われていたけど、実際のところ人々は大船たちの船団に守られて生きていた。
私たちは会社とか学校とか組織とか、なんらかの大船に所属して、そこで乗組員として人生を航海していた。大船は風除けとなり、波から私たちを守ってくれた。個人が失敗しても、みんながリスクをシェアしてくれた。
もちろん、そこには大量の不自由があった。大船には大船のルールがあって、みんなで一緒に航海をしているわけだから、小舟のように自由にはいかない。
だから、人々は小舟に憧れを抱いた。世間とか組織の価値観を離れて、「いかに生きるかを自分で決める。小さな物語はその頃、解放の物語だったのだ。だから、心はキラキラと輝いていた。
それから20年経った。もはや小舟で航海することは解放でも何でもない。望んでいようといまいと、誰もが小舟で生きざるを得ない世界になったからだ。もう守ってくれる大船は存在せず、みんな小舟で大海に放り出されるようになった。
私たちは自由になったのかもしれない。確かに私たちは嫌になれば、どこへでも出ていけるようになった。だけど、本当のところ、私たちが感じているのは自由の心地よさではなく、脆弱さであり、不安だ。大船に守られることのないままに、大海原の圧倒的な力に脅かされているからだ。大きすぎる物語に私たちは剥き出しでさらされている。
この20年で、大船は解体された。つまり、中間共同体が解体された。人々は個人化していった。小舟で航海するようになった。それが多くの良きことももたらしたから、私たちはもう昔には戻れない。
―「心はどこに消えた?」(東畑開人 文藝春秋 2021)(一部省略しています)
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