■第13回益田サロン「寛容性から自己・非自己を考える」報告
今回は「寛容性」という切り口から、改めて「自己・非自己」という問題を考えることになりました。いろんなことが重なって参加者が少なかったのが残念でした。
今回も、昨今のコロナ騒動を考える上での示唆がたくさんあったように思います。
益田さんは、B型肝炎ウイルスのキャリアを例に「自己寛容」の話から始めました。人によっては、B型肝炎ウイルスを取り込んでも、劇症肝炎を起こすことがないそうです。つまり、B型肝炎ウイルスも「自己」として受け入れるのです。
そして、拒絶反応を示さないものを「自己」と捉えてもいいのではないかというのです。
そう言ってしまうといかにも簡単なようですが、実はこれにはさまざまな論点が含意されています。
すぐには拒絶反応を示さないからと言って、何も変わらないのかという問題があります。事実、B型肝炎ウイルスのキャリアの人も長い時間を経て、がんの発生につながることもあるそうです。それでも「自己」と言っていいのか。ここで時間の要素が入ってきます。
キャリアになる人とならない人はどこで分かれるのかについては、出生時の母親が関係しているそうです。出生時に母親の免疫をそのまま引き継ぐので、そこでキャリアになるかどうかが決まるわけです。そこからまたいろんなことが考えられます。
これをもっと長い時間軸で考えれば、かつては非自己であったミトコンドリアがいつの間にか自己になってしまったように、ウイルスも細菌も、非自己から自己へと存在を変えていくことになるようです。だとしたら、自己と非自己とはいったい何なのか。
こうしたことから「寛容性」を考えていこうというわけです。
キャリア(健康保菌者)は、自らは発症しませんが、感染力は持ちますから、キャリアでない人にとっては、発病者と同じ存在です。
病気とは本人にとっては発症するかどうかが重要ですが、他者にとっては感染するかどうかが重要なので、キャリアもまた発症者と同じ存在と捉えていいでしょう。これは、「病気とは何か」という大きな問題を提起しています。こうしたことは昨今のコロナ騒ぎを考える上では重要なポイントのような気がします。
サロンでは、腸チフス菌のキャリアだった「チフスのメリー(タイフォイド・メアリー)」の話も出ました。当時はキャリア(健康保菌者)ということがまだわかっていなかったようで、彼女は多くの人に腸チフスを感染させてしまったのです。
メリーにとって、「腸チフス」とは病気なのでしょうか。
こうした話から、自己免疫疾患や免疫寛容機構の破壊などという方向に話が向かうことも考えられましたが、今回はあくまでも「寛容性」というところにこだわったため、自己と非自己との境界の話になりました。
その境界は、地と図と言われるようなしっかりした境界ではなく、いわゆる「あわい」のように、時間や空間をもったものであり、状況により時間により変わってくる柔軟な、言い換えれば寛容なものではないかという気がします。
そうなると「環境」もまたどう捉えるかという問題になります。環境さえも「自己」に含ませてしまうような「環世界」という考え方もあります。
この分野に関する知識が私にはほとんどないので、かなり不正確な報告で益田さんには叱られそうですが、なんだかたくさんの宿題をもらったようなサロンでした。
一時期、話題になった「ゼロ・トレランス」「無菌社会」、あるいは「ゼロコロナ志向」に大きな違和感を持っている私としては、もっとウイルスにも寛容でありたいという思いから、今回、寛容性を切り口にしてもらったのですが、どうも「寛容性」という概念は、あまりに使い勝手のいい言葉なので、議論を深めることが難しかったような気がします。
しかしそこから、新たに「時間と空間」という切り口が見えてきたかもしれません。つまり自己と非自己は、静態的にではなく動態的に取れないといけないということです。
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