■「殺されるかもしれない人々の魂」のための黙とう
ウクライナ戦争が始まったのは、予想外でした。
先日、そうした話の一方で、キリギスの植林活動の話を書きましたが、まだまだ「国家」を中心に世界が動いているのは否定できないようです。
しかし救いがないわけではありません。
昨日、国連安全保障理事会で、ウクライナのキスリツァ国連大使が議場の外交官らに黙とうを呼びかける場面がテレビで報道されました。
「黙とうをささげてほしい。平和のために。殺された人々の魂のために。殺されるかもしれない人々の魂のために」。
私の心を打ったのは、最後の「殺されるかもしれない人々の魂のために」です。
未来に向けての黙とうをしなければならないことは、とてもつらいことです。
「黙とう」とは他者のためではなく、自分のためなのだと、あらためて痛感しました。
この書き込みの前に、私も1分間の黙とうをさせてもらいました。
できればもしこれを読んでくださる方がいたら、読む前に1分間の黙とうをお願いしたいです。そうした「みんなの思い」こそが、世界を変えると私は確信しています。
救いがないわけではないと書きました。
それは、ロシアでも国民が反戦の動きを起こしたということに象徴されるように、「国家」の意味に気づく人が増えてきたということです。
フランスの人類学者ピエール・クラストルは、50年ほど前に書いた「国家に抗する社会」のなかで、「国家とは、支配階級の、被支配階級に対する暴力的支配の行使を可能にする道具」と明記していました。国民の生活を守るための仕組みである国家というのも、理論的にはあるでしょうが、現実にはそれはなかなか難しい。
国家が保有する武力も、多くの場合、他国に向けてと同時に自国民にも向けられていることは歴史が証明しています。ロシア国民の動きは、そうした認識が広がってきているように、私には思えます。
歴史が変わりだす、そんな予兆を感じます。
しかし多くの人は相変わらず「国家」を基点に論じています。
ロシアとウクライナ、あるいはロシアと欧米諸国の対立軸だけで見ていると悲観的になってきますが、国家と人間という対立軸に思考の起点を置くとわずかな光を感じます。
「国家」の枠を超えて世界を見るという「グローバリズム」は、相変わらず「インターナショナル」の発想から抜け出られずにいます。
いまウクライナ国民を殺傷しているのは、ロシア軍ではなく「国家」ではないかと私には思えてなりません。そして、殺傷されているのは、ウクライナの人たちだけではなく、私も入るかもしれない。
「殺されるかもしれない人々」と「国家」とは、私にも決して無縁なものではない。そんな気がします。
改めて、今度は自分のために黙とうをしたくなりました。
黙とうが終わったら、フェイスブックとブログに投稿しようと思います。
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