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2022/03/30

■湯島サロン「不登校のリアル」報告

中学生の東翔平さんの「不登校のリアル」サロンは、事前の申込者を大幅に超えて20人の参加者がありました。当日参加の方も多く、関心の高さに驚きました。もう一つ驚いたのは、中高年の男性の参加が多かったことです。

Hutoukousalon
最初に翔平さんは、自らが不登校になった理由を話してくれました。集団行動でみんなに合わせろといわれる、それが正解を押しつけられるようで圧を感じた。そして自分が否定されているような気がした、と。

さらに、参加者の問いかけに応じて、翔平さんは思いをいろいろと話してくれましたが、母親の美希さんもそばで見ていた様子や感想を少し話してくれました。
話は盛り上がりましたが、持論を述べる人もいて、翔平さんの思いが十分にみんなに伝わったかどうかはいささかの不安があります。しかしそれぞれにみんな大きな気づきを持ち帰ったように思います。私もたくさんの気づきをもらいました。

翔平さんの体験の詳しい紹介はやめたいと思います。言葉では正確に伝える自信がないからでもありますが、翔平さんの事例を特別視したくないからです。むしろ翔平さんからの大きなメッセージをみなさんにもお伝えしたいと思います。

ただ翔平さんの話に関しては参加者のほとんどは肯定的に受け止めたように思います。
それは、翔平さんのメッセージが、「不登校を選択したからこその出会いや豊かな学びがあった」ということにポイントがあったからだと思います。つまり「不登校の是非」という問題設定ではなく、もっと本質的な問題提起だったからのような気がします。

このことの意味はとても大きいと思います。問題をどう捉えるかで世界は全く違って見えてきますし、解決策もまったく違ってきます。参加者との話し合いが時々ずれてしまったのは、そうした問題認識が違っていたからでしょう。
そのことが、今回のサロンの一番大きな気づきだったかもしれません。

翔平さんにとって、学校が居心地の悪い場所になりだしたのは中学に入ったからだそうです。小学校時代はとても楽しく学校に行っていた。しかし、中学校に入ってからは、最初に話してくれたように、どうも自分が否定されるような居心地の悪さが生まれてきた。その様子を見ていた母親の美希さんによれば、学校に行くことの負担が身体にも表れてきたと言います。夏休みで少し元気が戻ったそうで、明らかに毎日の学校が負担だったようです。次第に翔平さんは学校に行かなくなり、そしてそれがまた、精神的にも身体的にも負担を強めていったようです。

中学生になったら、楽しかった学校が居心地の悪い場所になってしまった。そこに大きな示唆があるような気がします。個人の主体性が育ってくるのと関係があるように思うのです。生徒自体の意識が大きく変わるのに、学校の管理指向は変わらない。生徒に合わせて学校が設計されているのではなく、学校に生徒が無理やり合わせられるようになっているのかもしれません。そうであれば、不登校は健全な反応のようにも思えます。
夏休みには少し元気が戻ってきたということにも大きな示唆があるように思います。

しかし、翔平さんは不登校に関して、考え方が変わっていきます。
その契機になったのは、学校に行かないおかげで自由になった時間で、母親の知り合いに会ったり、近くのお店の手伝いをしたり、旅行をしたりしたことです。翔平さんの場合、不登校が後ろ向きの引きこもりに向かうのではなく、さまざまな体験のできる前向きの時間を生み出してくれたのです。
言い換えれば、学校への引きこもりからの解放と言ってもいい。自分で学ぶ自由を得たと言ってもいい。

そうしたいろいろな体験が翔平さんの意識を大きく変えていったようです。
いまの翔平さんはこう言います。
「不登校」は問題とされることもありますが、ぼくはそうは思いません。むしろ、学校に行くことが強いられるのはおかしいと思います。
翔平さんは、学校では学べないようなたくさんの学びを体験したのでしょう。つまり、「不登校」は学びの場からの離脱ではなく、逆に学びに向けての前向きの選択肢を用意してくれたのです。

そこで思い出すのが、ウェーデンのグレタさんです。彼女は高校生の時、政府の温暖化対策に抗議するために学校を休み、国会議事堂前で2週間座り続けました。彼女が使ったプラカードには、「気候のためのスクールストライキ」と書かれていました。誰も彼女を不登校とは思わなかった。グレタさんは学校に行くよりも大事なことに時間を向けたのです。主体性が育ってきた子どもたちを、一律に学校に閉じ込めておくことは無理がある。グレタさんに限らず、欧米の若者たちは、学校以外の場でも活躍し、世界を変えてきています。
ここからも学ぶべきことはたくさんある。

当然のことですが、社会には学校以外にたくさんの学びの場があります。学校はその一部でしかない。しかし、日本では多くの人が学校だけが学びの場と考えて、学校に行かないと学べないと考えているように思います。そのため、「不登校」が否定的に捉えられやすい。しかし、学校制度がさまざまな豊かな学びの場を見えなくしてしまっていると言ってもいい。
事実、今回参加したほとんどの人は、学校(最近さまざまな学校が出てきていますが)への登校は当然という認識にいまだ呪縛されているように感じました。

もう一つ気になったのは、不登校を前向きにとらえ、豊かな学びの場を体験した翔平さんの話を、幸運に恵まれた特別な事例と捉える人が多かったことです。
なかには理解ある家族、幸運なめぐりあわせなどを指摘する人もいました。
私自身は聞いていて、なんだか違う気がしました。

学校には行かなければいけないのだという考えを捨てて考えれば、もっと素直に翔平さんの選択を受け入れられ、そういう子どもたちへの対応策が見えてくるはずです。
翔平さんは、学校も学びの一つとして、いわば「不登校」を活かす体験をしたのだと思いますが、どうしたら他の人もそういう学びができるかを翔平さんの体験から学んでいくことができるでしょう。でも彼の事例を特別視してしまったら、そういう学びは得られない。

これは確認できませんでしたが、翔平さんは決して学校や先生を否定しているのではないと思います。
サロンでは学校という仕組みや先生の資質に関しても話題になりましたが、翔平さんや母親の美希さんも、それと敵対しようなどとはまったく思っていない。むしろもし仕組みが悪いのであれば、先生と一緒になって、仕組みを変えていけないか、と思っているように感じました。そのためにも、「不登校のリアル」を先生たちもしっかりと把握し、不登校を活かした学びの場づくりを希望しているように感じました。

ともすると私たちは問題が発生すると誰かのせいにして対立構造を創り出しがちですが、対立からは何も生まれない。関係者が一緒になって、問題を正しく設定して仕組みや意識を変えていくことの方が効果的です。

もう一つ書いておきたいことがあります。
参加者から、不登校に関して父親はどう対応したかという質問がありました。
翔平さんの父親は、バングラディシュ出身です。ですから日本人とは学校の捉え方が違うのです。だから息子が「不登校」だと言っても、日本人の父親とは受け取り方が違うようです。
これは翔平さんの場合の特殊事情ですが、とても示唆に富む話だと私は思いました。

長くなってしまいました。
書きたいことはまだまだたくさんありますが、このくらいでやめます。

今回のサロンは、翔平さんにとっては思いを発する初めての場だったので、言い残したことがたくさんあるでしょう。話しあっていて気づいたこともあるかもしれません。それをもっとしっかりと聞き出すことができなかったのは、私の失策でした。
できれば改めて、今回、事故で急に欠席になってしまった大学生や高校生も入れての不登校話し合いサロンを企画したいと思います。同世代のほうが翔平さんの思いをうまく引き出してくれるでしょう。今回、そのことも実感しました。

翔平さんは、自分が体験した「前向きの不登校」「明るい不登校」をいろいろな人に話していきたいと言っています。
もし翔平さんの話を聞きたいという方がいたら、ご連絡下さい。
もっとも4月から翔平さんも高校生ですから、忙しくなるかもしれませんが。

書きたいことのほんの一部を書いただけですが、いつもの倍に長さになってしまいました。どなたか補足があれば、ぜひフォローしてください。いろんな人が参加してくださいましたので、受け止め方もさまざまだと思いますので。

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