■湯島サロン「〈私たち〉って誰のこと?」報告
「〈私たち〉って誰のこと?」を話し合うサロンには、あんまり人は集まらないだろうなと思っていたのですが、10人も参加してくれました。話し合いもとても示唆に富むものが多く、呼びかけた私の思い違いを気づかされました。
やはり人のつながりや仲間を求めている人は多いのだなと勝手に思ったりしてしまいました。「〈私たち〉って誰か」を考えるのは、自らの生き方や自らが生きている社会を考えることでもあるのです。
今回は参加者の話し合いのサロンなので、問題提起などは用意していなかったのですが、最初に「私たち」という言葉を入れて、普段話しているような短文を書いてもらい、それをそれぞれ紹介してもらうことからサロンは始まりました。
その短文から、それぞれが「私たち」という言葉をどんな風に捉えているかを話すきっかけにしたいと思っていたのです。ところが参加者の内2人から、普段「私たち」という言葉を使ったことがないと指摘されました。
考えてみると確かに私も、書き言葉では使いますが、話し言葉ではあまり使わないことに気づかされました。あるいは論点をぼかしたり、責任をあいまいにしたりするような時に使う言葉なのかもしれません。
また別の人からは、子どもたちは使うようだという話もありましたが、これには、先生や大人から使わされているのではないかという人もいました。たしかに私も孫と話していて、「わたしたち」という言葉は聞いたことはありません。幼稚園では使っているようですが。
そもそも誰かが私に向かって「私たち」と話しかけてきたら、どうして勝手に私もいれてしまうのかと反感を持つことも少なくありません。そう考えると、「私たち」という言葉は、上から目線で話す人が使う言葉かもしれません。
その一方で、私たちと思える人が多いと心がやすまるのも事実のように思いますし、「私たちの世界」が広くなれば、住みよい世界になるかもしれません。
いま起こっているウクライナの状況の中で、ウクライナの人とロシアの人の間にも「私たち」感覚が生まれているのをテレビで観ると「私たち」意識の大切さを改めて感じます。そんな話も出ました。
言葉の話も出ました。英語では私(I)と私たち(we)は全く別の言葉ですが、日本語では「私」に複数を表現する「たち」をつけて表現します。万葉集サロンをやっている升田さんも参加していたので、古代の日本語における「私たち」の言葉の話も出ました。
さらに、中間組織やアソシエーション、あるいはコミュニティまで話題は広がりました。「私たち」という切り口からいろんなことが見えてくることがわかりました。
私は、できるだけ「私たち」といえる人を増やしたいと思っていますが、実際にはなかなかそう言える自信がありません。他者の気持ちはなかなかわからず、自分勝手に相手を「私」の世界に引っ張り込んで「私たち」という自信がなかなか持てないのです。
にもかかわらず、私はどこかに「私たち」といえるゆるやかな人の集まりの中で暮らしている人が増えるといいなという思いがずっとあります。湯島で長年サロンをつづけているのも、その思いがあるからです。でもなかなかそれができない、
その理由は、もしかしたら、「私たち」という言葉には「上から目線」があるからなのではないかと今回気づきました。
お互いに本当に対等につながれる人の輪が広がれば、たぶん「私たち」などという言葉は不要になるのでしょう。「あなたたち」「私たち」などという言葉がなくなればいいなと、そんな思いを改めて感じたサロンになりました。
勝手なサロンの呼びかけに応じてくださったみなさんに感謝します。
たくさんの気づきを与えてもらえました。
(サロンでの話し合いの内容をきちんと紹介していない報告になってしまいました。すみません)
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