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2022年4月

2022/04/30

■第4回本間神道サロン「日本の聖母信仰 全ての女神が聖母である?」のご案内

日本の聖母研究に取り組む本間浩さんによる、神功皇后=聖母信仰ということから始まったサロンも4回目になりました。
これまでの3回のサロンで、神功皇后以外の女神の話も出てきましたし、参加者からもいろいろな質問がありましたが、今回はそれらを踏まえながら、「日本の聖母信仰」を改めて解説していただこうと思います。

本間さんは、数多く祀られる女神の中に聖母という種類があるのではなく、女神というのはそもそも母神であり、聖母であると言います。
そして本間さんは、民話や昔話、伝承や民間信仰などにも視野を広げ、体系化された知識として整理されてきている宗教観とはちがった、生活に根付いた日本人の信仰や生き方へと関心を向けさせてくれました。

本間さんは、大学ではデカルトを専攻したとお聞きしています。
近代哲学の祖と言われるデカルトと聖母信仰の「聖」がどうつながるのか、そこにも大きな興味を持ちますが、これもいつかきっとつながってくるでしょう。
それはまだ先の話としても、本間さんの話がどう展開していくのか楽しみです。

今回は、これまで出てきた参加者の疑問や関心に関してもまとめて解説してもらえるそうですが、また新しい本間さんの聖母観や日本人の信仰文化に関して、触れさせてもらえると思います。
もちろん改めての質問も受けていただけると思います。

誰でも歓迎の気楽なサロンです。
さまざまな立場の人に参加してもらえるとうれしいです。

〇日時:2022年5月15日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ   
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「日本の聖母信仰 全ての女神が聖母である?」
〇話題提供者:本間浩さん(神道学博士/日本の聖母研究者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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2022/04/29

■昨日は沖縄が日本の返還された日でした

連日、強烈な映像を見ているせいか、最近は何を読んでもウクライナにつなげて考えている自分がいます。
映像の影響力の大きさに驚くとともに、すべてのことはみんなつながっているという思いを改めて実感しています。

昨日は沖縄の人たちにとっては「屈辱の日」と言われている日でした。70年前の428日、サンフランシスコ講和条約発効で日本が独立を回復した一方で、沖縄や奄美群島などは米国統治下に留め置かれ、以来、27年間、アメリカに統治される「アメリカ世」が始まったのです。そして形は変わったものの、いまなお、沖縄には米軍の基地が残されています。

昨日、岩波新書の「〈アメリカ世〉の沖縄」を読みました。
「はじめに」にこう書かれています。

「この時期(〈アメリカ世〉)の沖縄は米軍人が最高権力者として君降した。このため軍事優先の統治によって基本的人権は保障されず、自らの事を自ら決める自治権はないがしろにされた。一方、日本政府は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を明文化した日本国憲法を制定し、平和国家として「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(前文)と表明した。だが、国民が享受できた「平和」は、沖縄の米軍基地の存在を抜きに語れない」。

ドキュメントと題されているように、本書は、「軍事植民地」状況にあった沖縄の27年間の記録です。
現在のウクライナの状況を思いながら、一気に読ませてもらいました。
なぜ多くの人は、沖縄に、ウクライナへの関心ほどの関心を持たなかったのか。いや、いまもなお持たないのか。

本書の「おわりに」に、著者の宮城修さんが、沖縄が「返還」され、沖縄が再び〈大和世)になった日の出来事を書いています。なぜか読んでいて涙が出ました。

当時、小学三年生だった私は、教室で担任の先生から日本政府から贈られた復帰記念メダルをもらった。表は首里城の守礼門をデザインしていて、裏に「祖国復帰おめでとう」と刻まれていた。姉と一緒に帰ると、日曜日でもないのに父がいる。沖縄県庁発足を伝えるテレビ番組を見ていたようだ。
「君たちは学校でメダルをもらったでしょう。日本の100円と交換しよう」
(中略)
使い慣れたドルはこの日、日本円と交換された。初めて見る日本円ほしさにメダルを差し出すと、父はいきなり家の前に広がるサトウキビ畑にメダルを投げ捨てた。唖然とする私たち。父は理由を説明してくれず、ずっと黙り込んでいた。

やはりここでもウクライナのことが思い出された。
ウクライナも大切ですが、沖縄への関心も持ち続けなければいけない。
そう思ったのが、今年の私の「沖縄の日」でした。

ウクライナ報道に時間を割くのも大切ですが、その合間に、岩波新書「〈アメリカ世〉の沖縄」をぜひ読んでほしいと思います。

 

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2022/04/28

■節子への挽歌5327:孫から教えられました

節子

昨日、久しぶりににこからお誘いがあり、自転車で近くの本屋さんまで行きました。
私自身は最近、お金が乏しいために本を買わずに図書館から借りることが多いのですが、にこには、人形は買わないけれど、本ならいつでもいくらでも買うと約束しているのです。

実は、今度の誕生日には図鑑を頼まれているのですが、先日、それを一緒に買いに行こうと提案したら、断られました。今日、自転車で行く途中、なぜ先日は断ったのかと質問したら、プレゼントは一緒に買いに行くのではなく、自分で買って渡さないとだめ。おさむさんはそのことを知らないようなので、教えてあげたというのです。
孫からマナーを教わるとは思ってもいませんでした。

そんなわけで、今日は、図鑑ではなく、別の本がほしいようでした。
書店について、いろいろと勧めましたが、すべてだめでした。
にこが選んだのは私好みの本ではありませんでしたが、約束している以上、にこに従うしかありません。プリセスシリーズでぬりえができるような本でした。

しかし、いざ買う段になってにこは迷いだしました。
この本を買っていったら、ママに怒られるかもしれないと言うのです。
迷っているので、では私が無理やり買ったと言えばと提案したところ、それではおさむさんが叱られるよと言われました。
ふたりで考えたあげく、にこの案で、買ったことをしばらく内緒にして、私の部屋に置いておこうということになりました。
たかがぬりえの本だと思って、会計に行ったら2300円でした。あまりにも高いので驚きましたが、最近の子どもたち用の本は高価になっています。
もちろんふつうの絵本は高くはないのですが。

そこからいつものように駄菓子屋さんに寄りました。
迷ったあげくにこが選んだのは68円のグミでした。
これはまたあまりの安さに驚きました。

まあ他にもいろいろとあったのですが、帰宅したら、やはりにこはジュンに自己申告したそうで、しばらくしてぬりえの作品をもってやってきました。
怒られなかったそうです。私も怒られずにすみました。

さてプレゼント用の図鑑を買っておかなければいけません。リボンもつけないとまた注意されそうです。にことの付き合いも疲れます。
節子がいたらすべて任せられるのですが。
しかし、そんなことをしたら、にこから、それはプレゼントじゃないよと言われそうです。じじつ、ユカからは同じようなことをいつも言われていますから。

 

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2022/04/27

■4月2回目のオープンサロン報告

4月2回目のオープンサロンは、サロン初参加の方も含めて、9人の参加でした。
いつものようにテーマはなく、初対面の方もいたので、それぞれの自己紹介から始めましたが、そこからいつものように様々な話題に拡がりました。

「盛岡のリンゴが届いたら傷んでいたのはだれの責任か?」「親のことで大変な時に子どもの都合で突然仕事を休む部下にどう対処したらいいか?」というような、いささか深刻な(?)問題提起もありましたが、そういう話のなかで、私が印象的だったのは、「分別してのゴミ出しが苦手」という人が複数いたことです。
というのも、最近、自治会の仕事で、まさに分別ごみ問題の相談を受けていたらからです。みなさんの話を聞いていて、私の問題の受け止め方がいささか軽すぎていたことを反省させられました。
こういうちょっとした会話から、思ってもいなかった気付きが得られるのがオープンサロンの面白さです。

ごみの分別が苦手だという話から、参加者のおひとりが、いまの社会の仕組みや制度は、複数の人たちが集まっている「世帯家庭」を前提に組み立てられているところに問題があるのではないかという指摘をされました。
人にはそれぞれ得手不得手があるが、複数家族のいる世帯であれば、ごみ分別が不得手な人がいても、それをカバーしてくれる人がいるかもしれない。しかし単身世帯であれば、その人がごみ分別が苦手であれば、もう「ごみ分別弱者世帯」になってしまう、というのです。

なるほどと思いました。社会の仕組みや制度を、個人を単位に考えるのか、複数の集団(血縁などにこだわらず)を単位に考えるかで、全く違ってくるでしょう。

これは私たちの生き方と暮らしやすい社会に関わる重要なテーマです。
いつかサロンをやってみたいと思います。

最近、サロンが多くていささか疲れるのですが、オープンサロンの方が話しやすいという人もいるので、来月もオープンサロンは2回開催しようと思います。
よかったらご参加ください。

Open20220424

 

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2022/04/26

■湯島サロン「二分心から個人の時代そして世界の再魔術化へ」報告

近藤さんによる「二分心の時代から現代そして世界の再魔術化へ」のサロンは、「二分心」への関心もあってか、10人を超える参加がありました。

Nibunsin
近藤さんの「精神(意識)発達史」という壮大なお話を短くまとめるのは難しいので、ここでは、「二分心仮説」を中心に紹介させてもらいます。これはたぶんこれからも湯島サロンでは、話題になる言葉だと思います。

「二分心(にぶんしん)」とは、簡単に言えば、アメリカの心理学者ジュリアン・ジェインズが半世紀以上前に提出した人間の心に関する仮説です。簡単に言えば、人間は左脳と右脳という2つの脳に応じて、2つの心を持っているという仮説です。

これだけ聞くとなかなかわかりにくいかもしれませんが、たとえば、私たちは、「生かされている自分」と「生きている私」の2つの自分を生きていると言ったらどうでしょうか。「生きている私」は、「生かされている自分」のほんの小さな一部でしかないと、私はいつも実感しています。

また、思ってもみなかった事故に出会って、とっさに身体が動く自分を体験したことは誰にもあるでしょう。あるいは何かに夢中になっている時には、我を忘れて何かの自分を任せている。そういうときの自分は、意識して動いている自分とは違う存在です。
こう考えると、2つの心を持っているということも何となくわかるのではないかと思います。

ジェインズによれば、意識が生まれる以前の人間は、神々の声によって言動していたが、次第に右脳と左脳が別々に機能しだし、左脳が言語を生み出し、意識を生み出してきたと言うのです。
ジェインズは3000年以上前に成立した古代ギリシアの叙事詩『イーリアス』に登場する人たちには意識というものがなく、神の声に従って言動しているというのです。

この仮説を支持する考古学的資料や心理学的知見が増えていますが、それよりもこの仮説を使うことで、さまざまな社会事象や問題の説明がしやすいということもあって、21世紀にはいり日本でも広まってきています。

二分心仮説では、当初は右脳が中心で、そこに「神」の声が降りてきて、それが身体を動かしていたと考えるわけですが、そこから行動が起こり、歌が生まれ、さらに今から3000年ほど前に、文字を伴う言葉が生まれてきたといいます。
ちなみに漢字でも楔形文字でも、「心」という意味の文字が生まれたのはいずれも3000年ほど前だとされています。

ジェインズも、3000年より前の人間たちには心がなかったんじゃないかと書いています。そう思って『イーリアス』を読むととても納得できます。そこにあるのは、神々の声に支配された、現代人のものとはまったく違う人間社会です。これは初期万葉の時代にも言えることかもしれません。

左脳は言語をつかさどり、右脳は感情をつかさどるというように、脳は左右で役割分担していると言われていますが、2つの脳はつながっていて、通常は左右一緒になって脳全体で働いています。しかし事故などにより、一方が損傷を受けたり、つながりが切断されたりしてしまうとさまざまなことが起こることが確かめられています。
こうしたことも二分心仮説で考えると説明もつきますし、対処策も見えてくるかもしれません。精神障害の問題を考えるヒントも得られるかもしれません。

長い説明になってしまいましたが、近藤さんは、こうした二分心の話から始め、紀元前1000年ころに何か大事件が起こり、人間が左脳主軸から右脳主軸へとうつりだし、個人意識(心)が生まれ、そこから人類の文明文化が急激に発展しだしと説明してくれました。そして、いまやたった一人の個人的決断が全人類および地球を共有する多くの生き物たちが一気に絶滅することさえ実現可能になった、と言います。

そして最後に、その流れを変えるために、「世界の再魔術化」という道を示唆してくれました。

話し合いもさまざまな方向に展開しましたが、二分心仮説につなげて言えば、今回の参加者の多くは、やはり左脳派が多く、神の声に関する話題はあまり出ませんでした。

湯島のサロンの参加者の中には、いまだに右脳で神の声を聴いている人が少なからずいますので、いつか今度はそういう人たちに話をしてもらうサロンを企画したいと思います。どなたか話してくれる方がいたら、ご連絡ください。

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■湯島サロン「平和のための『新』政党の話」のご案内

ウクライナ戦争への関心の高まりの中で、あらためて「平和」の問題を考える動きが高まってきているように思いますが、そんななか、長年、平和や基本的人権の問題に取り組んできた川本兼さんが、行動を起こさなければと、新しい「政党」づくりを呼びかけたいと動き出しました。

川本さんはこれまで、自らを「思想家」と位置づけて、若者向けの書籍をたくさん出版してきていますが、川本さんの願いとは逆に、若者の右傾化や政治への無関心が進んでいるような昨今の状況に大きな危機感を持っているのです。

長年の思いを込めた川本さんの「新党構想」ビジョンはすでにまとめられていますが、今回、そのお披露目も兼ねて、川本さんの構想する「平和のための『新』政党の話」をお聞きするサロンを開催することにしました。
ちなみに、「新」政党とわざわざ「新」をつけていることからもわかるように、川本さんが構想している政党は、現在の政党の概念も変えていくことを目指しています。
川本さんは、ぜひとも若い世代の人たちに聴いてほしい、そして一緒に考え行動してほしいと希望しています。

川本さんの呼びかけをお読みください。

 

 平和のための「新」政党を作りたいと思っています。戦争をなくすために「戦争ができる国家」の変革を目的とした政党です。

 もちろん、その政党は国内で政党活動を行います。しかし、国内に閉じこもって活動しているだけでは、戦争をなくすことなど不可能です。ですから、「新」政党は他国の民衆にも同様な政党を作るよう働きかけなくてはなりません。そして、各国における平和のための「新」政党が連帯して「戦争ができる国家」の変革を目指すのです。

 「戦争ができる国家」を変革することを目的とする政党は、世界にはまだ存在していません。また、その目的を達成するには、気が遠くなるような時間がかかるでしょう。しかし、誰かが始めなくてはなりません。

 詳しくは、サロンの場でお話しします。

以上の呼びかけに、川本さんの活動の目的が、単に政策論ではなく、国家のあり方に視線が向けられていることが読み取れます。これまでとは違う政治活動を川本さんは考えているようです。


川本さんの思いを聴いて、ぜひ一緒に行動していく人を川本さんは探しています。
既存の政治観に呪縛されていない若い世代や女性たち、あるいは現在の政治に違和感や諦観をお持ちの方たち、ぜひとも参加していただければと思います。

ウクライナの現実は、決して彼岸の火事などではなく、私たちにもいつ起こるかもしれない話なのです。
平和を目指すみなさまの参加をお待ちしています。

〇日時:2022年5月22日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「平和のための『新』政党の話」
〇話題提起者:川本兼さん(平和に取り組む思想家)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2022/04/24

■湯島サロン「理学療法士から見て最近思うこと」のお誘い

最近、私の周辺では、身心のバランスを崩す人が少なくありません。
コロナ禍もありますが、どうもそれだけではありません。
社会がなんだか少しおかしな方向に動いているような気がしてなりません。

そんな時、うれしい申し出がありました。
長年、理学療法に取り組みながら、被災地支援に取り組んだり、リハビリテーションを理念にその知見を海外にも広げようとしたりしている山本尚司さんを、サロンによく参加される鈴木あかりさんが紹介してくれたのです。

山本さんは理学修士で、フィジオ運動連鎖アプローチ協会の代表として道場生を全国にお持ちで、ご自身でもオリンピックに帯同されたり、理学療法協会の理事を務められたりと、常にユニークで先駆的な活動をされている方です。

4月から中国に赴任予定だったのですが、昨今の社会事情により出発が遅れているとのことなので、ご無理を言って、出国前に急きょ、サロンをお願いすることにしました。

最近は、知識や言葉が氾濫し、フェイク情報も多く、なかなか社会の実相はつかみにくいですが、長年、理学療法士として個人の身体と付き合っているだけでなく、被災地支援などで社会とも生々しく触れ合っている山本さんには、今の社会が向かっている先がよく見えているような気がします。
言葉や知識と違って、身体は嘘をつかないでしょうし、そうした身体を通して社会と触れ合っていれば、社会の実相は見えてくるでしょう。

山本さんは、3.11後、支援の遅れていた福島にいち早く医療チームを率いて向かい、混沌とした人間のリアルな姿を目の当たりにした体験もあり、その時の体験記録もつくられているそうです。

そういう話も含めて、山本さんのリアルな体験を踏まえて、山本さんが見ているいまの社会の実相や人の生き方への問題提起をしていただき、私たち参加者も自らの生き方や社会のあり方を考えられればと思います。

急なご案内ですが、ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。
なお、いつもより開始時間が1時間遅い3時からですので、ご注意ください。

〇日時:2022年4月29日(金曜日)午後3時~5時
*いつもより開始時間が1時間遅い3時からですので、ご注意ください。
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「理学療法士から見て最近思うこと」
〇話題提供者:山本尚司さん(元日本理学療法士協会理事)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com (佐藤)

 

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2022/04/23

■湯島サロン「原発事故で放出された放射性物質の行方」のご案内

山森さんの自然科学サロン第2弾です。

前回は日本列島がテーマでしたが、その最後に日本海が話題になりました。
そこで日本海をテーマにしたサロンをお願いしたのですが、福島の原発事故による海洋汚染に関心をお持ちの本間照光さんからの要望もあり、今回は「海流や地殻変動」の面から「原発事故で放出された放射性物質の行方」をテーマにすることになりました。

生々しい問題を題材にして、海流や地殻変動をわかりやすく話してもらえると思います。
原発事故による海洋汚染の問題に関しては、本間さんからも社会科学的視点からの話題提供もあるかもしれません。

前回と同じく、山森さんのお話のポイントは下記しますが、今回は宿題はありません。
「学習型」のサロンですが、みなさんの気楽な参加をお待ちしています。

〇日時:2022年5月29日(日曜日)午後2時~4
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「原発事故で放出された放射性物質の行方」
〇話題提供者:山森俊治さん(遺伝子と詩吟を愛する理学博士)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

〔山森さんが予定しているお話〕
〈原発事故で放出された放射性物質の行方(海流や地殻変動の面から捉えた概要)〉

東京電力福島第一原子力発電所でたまり続けるトリチウムなどの放射性物質を含む処理水について、政府が基準以下に薄めて海に放出する方針を決めてから、413日で1年となる。
原発事故による大量の放射性物質の放出により陸上や海洋が汚染されたが、それぞれの場所でその汚染がどのように拡散し、どのような影響が出てくるのか、まだ不明な点が多い。

今回、このような放射性物質による環境汚染や今後の汚染拡大のリスク等について、海流や地殻変動や海流などの面から捉えた概要を話題提供してほしいとのご要望があり、サロンを行うこととした。

今回お話しする内容は次の3点を予定している。

 

①福島原発事故時に様々な研究者等から出された海洋流出した放射能汚染水の流れの予測図や、放射能汚染水と日本をめぐる海流および世界を めぐる海流循環との関係について仮説や中間報告を紹介したい。

原発事故により大気中に出た放射性物質は、風に乗って遠くまで運ばれ、最終的にその大部分である1215PBq(約8割)が海上へ、36PBq(約2割)が陸上へ降下したと推定されている。原子炉から海への放射性物質のおもな漏洩経路には、大気経路の他に、もうひとつ高濃度汚染水として原発から直に漏洩したものがあり、その量は3.6±0.7PBqと見積もられている。すなわち、原子炉から海へは、全体として1518PBqもの放射性セシウムが放出されたと考えられている。〔P:ペタ、(1015乗) Bq.:ベクレル(放射能の強さを表す単位)

原発事故で太平洋に流出した放射性物質セシウム134/137は、「亜寒帯循環」の海流に乗って北米海岸までたどり着き、78年後に再び親潮に乗って日本に回帰したとともに北極海まで広がっているとの見方が示されている。

一方、北太平洋の北緯15度から35度くらいの海域の亜熱帯循環に乗った一部のセシウムは太平洋上で南西に向かい、台湾付近で黒潮に乗り、対馬海峡を経て1年後に日本海に流入したとのコンピューターシミュレーションが報告されている。その他のセシウムの大部分は同海域にある亜熱帯モード水および中央モード水として海洋の内部循環に沈みこんで南下していったと考えられている。

(モード水:表層水塊の一つとして、モード水と呼ばれる水塊がある。このモード水は、各大洋の中緯度において、冬季に混合層が周りに比べて深くまで発達する海域で形成される。)

②日本沿岸域の放射性セシウムの動きから見た福島沿岸域の現状および「海洋環境における放射能調査及び総合評価事業海洋放射能調査(令和2年度)」の要点も合わせて紹介したい。{福島沿岸での黒潮系暖水(南下流)による高濃度汚染水の拡散のしにくさなど。}

③地殻変動等との関連については、断層運動、地すべり、火山減少、侵食、鉱物資源等の掘採などによる、地中等に蓄積または地下貯水池に保管していた汚染物質(泥状濃縮廃液)の漏洩による河川や海洋への流入などが危惧されている。これらに付き概要を紹介する。

(廃棄物埋設地における断層が地下水流水経路となる可能性。同様に埋設地付近の噴火やマグマの貫入、隆起、海水準変動に伴う侵食の影響など。)

 

 

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■ウクライナ戦争での国家の役割を考えたいです

もう古い本ですが、政治学者のウィリアム・コノリーの著書、『アイデンティティ/差異』という本があります。コノリーの本は私には消化不良でしたが、時々、共感できる言葉と出合えました。

昨日、岩波新書の「政治責任」という本を読んだのですが、そこに記憶に残っていた文章が引用されていました。再読したくなって書棚を探しましたが、残念ながら見つかりませんでした。

しかたなく孫引きで、その言葉を紹介させてもらいます。

こうした状況下(後期現代という意味です)で、主権的ないし自律的な実体としての国家、すなわち「外交関係」に入るものとしての、あるいは(民主的な理念の枠組の中で)集合的運命をコントロールするだけの効率性を持つ、民主主義的にアカウンタビリティのある政治的実体としての国家という古典近代的な概念は、次第に時代錯誤的で危険なものとなりつつある、と私は思う。

ウクライナ戦争を見ていて、つくづくそう思います。
国家制度を大きく脱構築させていかなくては、世界は壊れるような気がしてなりません。

 

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2022/04/21

■ジョン・ダワーの「戦争の文化」とウクライナ戦争

ジョン・ダワーの「戦争の文化」を読みました。いつもながら目を開かされます。
ジョン・ダワーは近現代史に造詣が深いばかりでなく、ベトナム戦争やイラク戦争に関しても示唆に富む発言をしてきています。第二次世界大戦後の日本人の生活を描いたジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」は、ぜひ多くの人に読んでほしい本です。
http://cws.c.ooco.jp/book2.htm#001

昨年末に翻訳出版された、この「戦争の文化」も多くの人に読んでほしいと思います。
ダワーの本を読んでいつも感ずるのは、私の歴史の知識がいかに一面的なものであるかということです。同時に、マスコミで報道されている情報も、いかに操作されているものであるかということです。
そうしたことに気づくと、いま毎日報道されているウクライナ戦争の受け取り方も少し変わるかもしれません。

ダワーは、「戦争の文化」が国家を戦争へと導き歴史に汚点を残すことを、9.11後のアメリカを例にとって説明してくれています。
現在の国際法は、戦争を規制しているものの、そのこと自体が戦争を許容していますから、国際法そのものが「戦争の文化」の一部だとダワーはいいます。
この視点はとても大切なように思います。

9.11で起こったのは、グループ思考と群れ行動です、その始まりはやはり飛行機がツインタワーに突入する映像でした。
グループ思考の虜になると、みんなが同じ意見を持ち、議論もなくなるし、異論も消えてしまう。そして群れ行動が蔓延していくとダワーは書いています。そこから出てくるのは、「国のために死をも厭わない」という、私には本末転倒した正義感です。

ダワーは、アメリカに比べて、第二次世界大戦敗戦後の日本には反戦の文化が根をはっていると書いています。私もそう思っていました。
しかし最近の様子を見ていると、どうもそうではなかったようです。
マスコミ報道や多くの人たちのウクライナ戦争への反応を見ていると、そんな不安が高まります。

ちなみに、監訳者もあとがきで解説していますが、本書は「戦争の文化」をテーマにしていますが、「平和の文化」という語で始まり、「平和の文化」という語で終わっています。監訳者の三浦陽一さんは、「戦争の文化」の自覚がないために愚かな戦争が繰り返されるのだとすれば、「戦争の文化」の自覚による「戦争の文化」からの脱却のプロセスがすなわち「平和の文化」なのであり、本書はそのためのパイオニア的な歴史研究である、と書いています。
私もそう思います。それが、この本を多くの人に読んでいただきたいと思う理由です。

よかったらぜひ。上・下巻2冊ですが、下巻だけでもぜひお読みください。

 

 

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2022/04/20

■湯島サロン「知識ゼロで挑む無門関パート2〈世尊拈華〉」のお誘い

一昨年、コロナ感染症が広がりだしたころ、状況が見極めずに、中止になったり延期になったりしたサロンがいくつかあります。

その一つが、金子さんの「知識ゼロで挑む無門関」サロンです。
コロナ禍が広がる直前に、第1回目をやってもらい、好評だったので2回目をお願いしたのですが、コロナ感染症の急激な広がりの中で、開催できずにいました。
その2回目が、ようやく開催できることになりました。

間がかなり空いたので、改めて「無門関」についての紹介です。
「無門関(むもんかん)」は、中国南宋時代の禅僧 無門慧開(えかい)によって編まれた仏教書で、門下の修行僧を悟りに導くために編まれた問題集(公案集)です。
禅における公案とは、いわゆる禅問答やその問題のことですが、たとえば「隻手の声」という有名な公案があります。「両手を叩くと音がするが、片手の音とはなんだろう」という問いですが、みなさんにはどんな音が聞こえるでしょうか。

前回は、これも有名な「百丈野狐」を題材に「無門関」の読み方の手ほどきをしてもらいましたが、今回は「世尊拈華(せそんねんげ)」に取り組みます。

金子さんからのメッセージをお読みください。

前回の第2則「百丈野狐」は、輪廻や因果応報のやりとりをトリックに話が進み、全く違う答えが導き出されました。
禅門の修行者の「気構え」のようなものが提示されていました。

さて第2弾は第6則「世尊拈華(せそんねんげ)」を取り上げさせていただきます。
一般には、拈華微笑(ねんげみしょう)という言い方で、あるいは「以心伝心」という言い換えでご存知の人も多いでしょう。

「世尊(ブッダ)」が花をひねった、聴衆の中でただ一人、迦葉(かしょう)だけがそれを見て笑った。このことで仏教の真髄は、(師のテストに合格した)迦葉ただ一人に伝えられた。というお話です。

さてさて、この話の何が問題なのか?
最も優秀な弟子に当然のごとく伝わったというお話なのでは?

そこが禅の一筋縄ではいかないところ。
第6則は、私たちに「本当にそうか?それでいいのか?」を徹底的に問いつめます。

このお話には、師匠が弟子にどのようにその技芸における神髄を伝えるかという問題とそもそも「伝達」とは何か?
さらにはコミュニケーションの根本問題「伝わる/伝わらない」とはどういうことかを示唆します。
興趣尽きないお話です。

答えはおそらく皆様方の予想外の地点にあります。
さて今回はどこにトリックがあるでしょうか?

以上が金子さんからの挑戦状?です。
さてさて、どんな展開になるのか。

前回もテキストとして利用した、岩波文庫の西村恵信訳註「無門関」の「世尊拈華」の部分をPDFで添付させてもらいました。
参加される方はあらかじめ読んでおいてください。

ダウンロード - e585ade38080e4b896e5b08ae68b88e88faf20.pdf

難しいテーマですが、「知識ゼロ」でもいいと金子さんは言ってくださっているので、気楽にご参加ください。
コミュニケーションの極意に気づかせてもらえるかもしれません。

〇日時:2022年5月28日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ: http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:金子英之さん(「無門関」永世愛読者/i2 associates代表 大学で東洋美術史を学んでからデザイナーをやっています)
〇テーマ:「知識ゼロで挑む無門関〈世尊拈華〉」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修: qzy00757@nifty.com

 

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2022/04/19

■緊急サロン「ウクライナ戦争のもうひとつの捉え方」報告

ロシアによるウクライナ侵攻の映像が毎日テレビで流されています。その映像に触れていると、どうしても思考は方向づけられてしまいます。最近は映像にだまされることも多いので、注意しなければいけません。
一方、ネット情報にはまってしまうと、これまた注意しないといわゆるエコーチェンバー効果で思考が方向づけられてしまいます。

歴史的な背景を知らずに、目先の情報に感情的に振り回されて話している人が多いような気がしますが、そうしたことを避けるために、開かれた場でいろんな立場の人が話し合うことは大切です。

そこで、前回はウクライナやロシアに関する基礎知識を学ぶサロンを開催しましたが、今回はあまりテレビでは報道されることのない情報にも触れながら、メディアに振り回されないメディアリテラシーを高め、あらためてウクライナ戦争を捉え直そうというサロンでした。

最初にまず中島さんから、ウクライナ戦争の報道を材料に、世上に出回っている「マスメディア情報」をどう受け止めるか、というメディアリテラシーに関わる話がありました。メディアに乗せる情報をいかようにも加工できる時代においては、情報の受け手として、ただ無批判に受けいれるだけではなく、しっかりと真偽を評価していく批判的な姿勢が大切です。思考の枠組みも柔軟にし、異論にも関心を持っておくことが大切です。

つづいてき北川さんから、長年フォローしていて信頼性が高い個別情報源の紹介があり、それらからウクライナ侵攻の理解を深めるための視点をいくつか紹介してくれました。また、なぜロシアはウクライナ侵攻したかに関してのさまざまな立場の人の論考を紹介。最後にウクライナ侵攻で世界は変わるのかということに関しても、私見を含めていくつかの見方を話してくれました。

おふたりのお話を受けての話し合いも、さまざまな意見が出ました。
そのいちいちを紹介するのはやめますが、この事件を見て、日本でも平和に向けての活動に取り組みたいと具体的な計画を話してくれた人もいますし、背景は背景として、どうしたら今の惨状を止められるのかと問いかける人もいました。

参加者のなかにも、いろいろと調べ自分で考えている人もいて、世界の人たちがウクライナ戦争(この表現には違和感を表明した人もいますが)をどう捉えているかに関して、日本のマスコミではあまり報道されない話も紹介されました。
そういう情報を並べて聴いていくと、やはり日本はウクライナ戦争に関してもいささか特異な情報状況に置かれているのかもしれない気がします。

いまウクライナで起こっていることに関する見方や評価に関しては、いろいろでしたが、単に表層的な面だけではなく、歴史を含めて、いろいろと自分で調べ、考えている人が少なくないのが印象的でした。まあそういう人が今回は集まったのかもしれません。
本当は、そうでない人たちにこそ、聞いてほしかった話がたくさんありました。

情報が溢れるほど多い最近の状況のなかでは、一人で情報収集しているとどうしても偏りが生じますし、判断も独りよがりになりがちです。マスコミ情報だけでも偏りますが、ネット情報も自分好みのものへと集中しがちです。

こうしてみんなが情報や疑問を持ち寄って、事態の理解を深め、どうしたらいいかを考える、それも自分の問題、日本の問題として、実践的に考えていく。異論を排除するのではなく、異論にも耳を傾ける。そういう場がいろんなところで生まれてくればいいなと思います。
なぜそういう場が生まれてこないのか、そこにこそ現代の最大の問題があるのかもしれません。

北川さんは参考として、3つのドキュメンタリー映画を推薦してくれました。いずれも201516年の作品ですが、それを観るだけでも、なぜ今回の戦争が起こったのかの理解が深まります。それがわかれば、戦争を止める方法も見えてくるはずです。
マスコミ情報中心の人たちには、ぜひ観ていただきたいと思います。
もちろん批判的に、で結構です。

  • 2015ドキュメンタリー映画「ウィンター・オン・ファイヤー:ウクライナ、自由への闘い」監督 エフゲニー・アフィネフスキー (Netflix
  • ドンバス 2016"ドキュメンタリー映画 監督 アンヌ=ロール・ボネル
    https://www.youtube.com/watch?v=ln8goeR5Rs4
  • 2016ドキュメンタリー映画『ウクライナ・オン・ファイヤー ―Ukraine on fire—』
    https://thefact.jp/2022/3812/ イゴール・ロパトノク監督(オリヴァー・ストーン)

最後に北川さんも言及した、先ほど話題になった東大入学式での河瀨直美さんの祝辞の一部を引用させてもらいます。

例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか? 誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?

この報告を読んで、さらに「もう一つの捉え方」の話し合いをやりたいという方がいたら、ご連絡下さい。
さまざまな視点から見ていかないと、見えてこないものもあるかもしれませんから。

Ukuraina20220417

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2022/04/18

■第20回万葉集サロン「〈わ〉を見つめることから始まる〈語り〉への憧憬」報告

今回は、「かなし」と「さぶし」という2つの言葉を詠み込んでいる歌を切り口にして、「〈わ〉を見つめることから始まる〈語り〉のはじまり」がテーマでした。

案内文でも紹介しましたが、升田さんは、「さぶし」という情語に込められた「寂しい、淋しい」という思いのなかに、「た」の中の「わ」「な」を客観的に捉えたときに生まれる「自己」への意識の深化を読み取ります。
そして、「自己」を見つめる目は「他者」を見つめる目を同時に育て、「語り」たい意識が人の思いの中にあるのに気づくことになる。ここから「神語り」ではない「人語り」が始まるというのです。

「かなし」を詠み込んだ歌はたくさんあるそうですが、「さぶし」の言葉は万葉後期から出てくる新しい言葉で、その数も「かなし」に比べると少ないそうです。
「かなし」という思いは、多様な場と複合的な意味をもって、「た」のなかで「わ」と「な」と共動しているのに対して、「さぶし」は、「た」との感情の連鎖を遮断して、「わ」の深部へと入っていく気持ちであり、そこから自我意識が生まれてくる。「さぶし」の言葉の前に、「…ば」「…ども」という逆接のことばがつかわれることが多いのも、そうしたことを示唆している、と升田さんは解説してくれました。

こう書くとわかりにくいのですが、実際にそれぞれの言葉が出てくる歌をいくつか読んでもらいながら話を聞くとそのちがい、あるいは変化がよくわかります。

さらにそこから大きな変化が生まれた、と升田さんは言います。
「神語り」的だった歌が「人語り」になっていくというのです。
その例として、高橋虫麻呂の歌(巻9-17421743)と紀郎女の歌(巻4-764)を読み比べて、前者には伝奇的ロマンがあり、後者には人間的リアルがあると読み解いてくれました。
いうまでもなく、人間的リアルのなかから、自我としての「わ」が生まれてくるわけです。そしてそこから、「和歌」と「物語」という2つの流れへと展開していくことになる。

今回、升田さんは、「かなし」と「さぶし」の違いを「円環と直線」の違いを使って話してくれました。
「かなし」は、このサロンでは「た」という言葉で表してきている「みんな」が共有し合っている世界、つまり円のなかにある言葉で、そこでは「わ」(自分)も「な」(相手)も思いを共有しあっている。みんなをつないでいるのが、「うた」なのかもしれません。

それに対して、「さぶし」は、そういう他者(多者)との共有の思いから分離されて、むしろ「た」や「な」と対峙する思いとして、個のなかで生まれてくる。
対峙するという意味で、それは対象との関係で言えば、直線的な関係にあると升田さんは言います。言い換えれば、そこで「わ」や「な」の意識が芽生え、自我へとつながっていく。「かなし」が「在る」思いなら、「さぶし」は「持つ」思いと言ってもいいかもしれません。
ちなみに、こうした自我につながる新しい言葉としては、たとえば「うれし」など、他にもあるそうです。

同じ言葉でもうたい方で意味合いが変わってくるという話や、文字になった時も書き方で意味が変わるというような話もありました。
円環と直線に関しては、そこから生き方の話にもいきました。
そういう脱線したところの話も、いつもとても面白いのですが、いつも詳しく紹介できないのが残念です。

また、この報告では肝心の読んだ歌のことはほとんど紹介していませんが、それは私の消化能力不足のためです。歌だけではなく、この報告は私の勝手な解釈も入っていますので、升田さんの意図を曲解しているかもしれませんが、その点はご容赦ください。
何しろ消化能力不足で、いつも報告には苦労しています。

 

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■国民の無関心が戦争を引き起こす

一昨日、テレビで観たのですが、ロシアでウクライナ戦争反対のデモをしていたロシア人女性が、インタビューを受けて、「戦争が起こったのは私たちが政治への関心を持っていなかったからだ」と反省の言葉を話していました。

それを見ていて、ロシアの人たちの目覚めの予兆を感じました。
ウクライナでは、そういう意識は国民の間に生まれているのでしょうか。国家のためにと立ち上がる国民はいても、戦争をやめさせようと政府に立ち向かっている国民はテレビ報道では見たことがありません。

戦争を起こすも止めるも、政権の政策次第です。
戦争に反対する国民と戦争に加担する国民。
ロシアとウクライナは対照的です。
しかし、ロシア国民もウクライナ国民も、政治への無関心がいまの事態を引き起こし、その影響を受けていることにおいては違いはありません。

日本ではどうでしょう。
ウクライナの惨状の映像をテレビで観て、ウクライナ戦争への関心を高める人はいても、日本の政治への関心を高めたという人の話を聞いたことがありません。

日本では先日、れいわ新選組の議員を除く国会議員全員が賛成して「ロシアによるウクライナ侵略を非難する決議」を行っています。つまり私たち国民を代表する国会議員、言い換えれば、日本国民全員がウクライナの側に着くと宣言したことになります。
政府の決定と国会の決議とは意味が全く違います。しかし、それに関しても日本の国民の関心はほとんど見えてきません。
立法府の国会が、どうして戦争している一方の国を敵とするような決議をするのか。なにやら第二次世界大戦前に、一見、勢いがあったドイツと組んだ時のことを思い出してしまいました。まるで日本は第二次世界大戦前に戻ってしまったようです。

あの決議の報道を読んで、ロシアが日本に核兵器が撃ち込むかもしれないという不安が起きましたが、政治への関心を持っていたにもかかわらず行動していなかった責めは受けなければならないと諦めて、心を鎮めました。

大きな無力感もあって、この2年ほど、政治関係のサロンを、あまりやっていませんでした。
しかし、いかに微力でも、政治についての話し合いの場は大切です。
来月からまた、政治に直接つながるサロンを増やしていこうと思います。
それこそが、ウクライナの惨劇をやめるために私ができることだと思いますので。

どなたか話したい方がいたら、ご連絡下さい。
話し合うサロンの場を提供します。

 

 

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2022/04/17

■節子への挽歌5326:「かなし」と「さぶし」

節子

昨日は万葉集サロンでした。
いつもの常連が腰を痛めたり、急用ができたちで欠席、参加者は5人でしたが、その分、ゆっくりと話せたサロンでした。
テーマは「かなし」と「さぶし」。

講師役の升田さんによれば、広くいろんな思いを包み込んでいた「かなし」という感情のなかから「さぶし」とか「うれし」という、個別な思いに進化し、そこから自我が生まれてきた。そこから「神語り」から離れた「人語り」が始まったというのです。
とても共感できる話です。

私自身、この15年、「さぶし」や「うれし」の世界から「かなし」の世界に戻ってしまったような気がします。
節子を見送った後、すべての感情が一緒になり、判断能力を大きく失っていた気がします。その世界にいると、悲しも哀しも、愛しも一緒くたになっていく。怒りも諦めも、消えてしまい、あるのはただただ感情が支配する世界で、論理的な判断が全くできなくなっていた気がします。

次第に、論理的思考も戻ってきましたが、感覚の融合された世界は戻らない。
そんな気がしてなりません。

さびしさやうれしさはあまり感じなくなった。
ただただ相手とシェアできるようになってきた。
もちろん失望や怒りは起こりますが、それもまあ昔の名残的な弱い感情に留まりがちです。
人の死にも涙は出ず、人に幸せにもうれしさがあまり出てこない。

この気持ちは、なかなかうまく言葉にできませんが、なにか15年前までの自分とは全く違ってしまっているような気がします。

 

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2022/04/16

■節子への挽歌5325:楽あれば苦あり

節子

湯島のオフィスに行くには、58段の急な階段を上らなければいけません。
実盛坂と言うところなのですが、湯島にオフィスを開く前から気になっていた急坂です。
会社を辞めて湯島のオフィスを開いて以来、ずっとこの階段を利用していますが、最近はいささか辛い感じがしてきました。

ところがその階段の横に大きなビルができました。
オーナーは私のオフィスを管理している綱島さんですが、そのビルに併設して、公開のエレベータをつくってくれたのです。
いかにも綱島さんらしい。
あまり大ぴらにはいっていませんが、階段が大変な人はそのエレベータが使えます。

それを知って、私も使わせてもらっていましたが、先日、はたと気がつきました。
この急な階段を上り下りしているせいで、脚力はあまり落ちていないのではないか、と。
そこでその日はエレベータを使わずに、歩いて58段を上りました。

楽あれば苦あり、という言葉があります。
言い換えれば、苦あれば楽がある。
やはり目先の楽だけで行動するのではなく、苦を楽しく受け入れることも大切です。
まあ疲れているときはエレベータにするにしても、いつもはやはり階段を使おうと思います。

節子はこの階段ができる前から、疲れている時には綱島さんのビル内のエレベータを使わせてもらっていましたが、今ならどうしたでしょうか。
この階段が登れなくなったら、湯島に来るのをやめようと思っています。

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■湯島サロン「脳の食べ物は言葉だけ? ~脳への栄養の再考 ~」のご案内

昨年、視覚的媒体を活かして話し合う、ワークショップ形式のサロンを仲谷さんのファシリテーションで開催しました。
仲谷さんは、視覚的媒体を活用して、相互理解を深めるとともに、自らのコミュニケーション力を高めるためのワークショップの開発に取り組んでいます。
まだ開発途中ですが、一緒に取り組む仲間も探しています。

前回は、組写真を使って、そこからそれぞれが読み取るメッセージを話し合ったり、組写真を使った物語づくりを行ったりしましたが、今回はそれを踏まえて、さらに一歩進めたワークショップです。
タイトルも「脳の食べ物は言葉だけ? ~脳への栄養の再考 ~」。

仲谷さんからのメッセージをお読みください。

湯島サロンで提供される話題はワクチン~戦争~和歌と多岐にわたります。 使われる媒体という点ではそれらの会で使われるのは主に言葉です。

知らない言葉が出たので話し難くなる人も少なくないでしょう。 使える語彙数、読んで分かった本の冊数や携わったプロジェクトの数等が多いほど話し易くなりがちでは。

黙りがちな人も画像を使うと少し話し易くなる? 言葉だけを用いると話し難い子供、日本語が苦手な人や学習障害が有る人等も。 頭の良い誰かが考えた諸説等の理論武装を脱ぎ捨てて頭を使いませんか。 言葉や知性偏重による歪みに気付けるかも。

以上が仲谷さんからのメッセージです。

これだとまだ何をやるのか分からないかもしれませんが、ともかく画像の新しい活用策を考えようという、メディアリテラシーにもつながるワークショップです。
仲谷さんは、新たな使い道を探すと普段あまり使わない脳の部位も使い、脳を再活性化させるかもしれないと言っています。

ワークショップと言っても完成したワークショップではありません。参加者みんなで一緒に画像を新たな使い方を作り上げてみようということです。言葉の制約から解放されて、誰もが平等に話せるのではないかと仲谷さんは考えています。
それが自らの脳を活性化するとともに、他者とのコミュニケーションを広げ深める上でも何か示唆が得られそうです。

遊び心、好奇心をお持ちか試行錯誤から学べるならぜひご参加下さい。

〇日時:2022年5月21日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「脳の食べ物は言葉だけ? ~脳への栄養の再考 ~」
〇話題提供者:谷透さん(視覚文化愛好者)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2022/04/15

■4月2回目のオープンサロンのご案内

4月2回目のオープンサロンのご案内です。
2回目は24日の日曜日です。

いつものようにテーマはなく、出入り自由な気楽なサロンです。
どなたでも気楽に「話し」に来てください。もちろん「聞き」に来ていただくのも歓迎です。こんなサロンをやりたいという提案も歓迎です。

〇日時:2022年4月24日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修 qzy00757@nifty.com

 

 

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■言葉に管理される人間から言葉を活用する人間へ

前の記事を書いていて、蛇足的に書いておきたくなったことがあります。
湯島のサロンの宣伝のようなものですが。

人は4000年ほどまえに、ようやく「意識」や「心」を創り出したと言われています。
それまでは、ただただ「自然の存在」として音を発し、行動していた。
音や行動の発信源は、自然現象であり、それを五官を通して、「放し」「離し」「話し」ているうちに、外部のものを「欠き」「描き」「掻く」「書く」ことを身につけ、言葉や文字が生まれてきた。
そして文化や文明が起こってきたわけですが、どうもそれもそろそろ終焉するようです。

「話」も「文字」も、いや「言葉」そのものがすべて、AIの管理のもとで、再び人間の手を離れていくように思います。
つまりかつてそうだったように、言葉がまた人間を管理しだしていく。
第二次バベルの塔革命です。

4月23日に、湯島で「二分心」をテーマにしたサロンを近藤さんがやってくれますが、こういうところまで話が行くかもしれません。
明日予定されている升田さんの万葉集サロンでのテーマも、こういう話を根底において、もう20回目です。升田さんは、万葉集の歌は文字でなく音声で読むことを勧めます。
30日に予定されている細菌学者の益田サロンの今回のテーマは「ものの力と言葉の力」。益田さんは書筆にも興味をお持ちのようで、時々白川静さんの「字通」が話題になります。

そんなわけで、湯島のサロンでは、「言葉に管理される人間から言葉を活用する人間へ」というのが、表には出ていない大きなテーマのひとつなのです。

 

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■「人新生の時代」か「人消失の時代」か

JR東日本の恵比寿駅のロシア語の案内表示が紙で隠されていたことがわかり、SNS上で話題になっていたそうです。JR東日本の経営陣がそんなバカげたことをやるはずもなく、一部の乗客の批判の声を受けて駅長が決断し、それに対するまたまた利用者の声を受けて、駅長が紙をはがしたのだと思います。

こうした事例はいろんなところで起きているのかもしれません。
問題は、誰も何も考えずにただただ目先の問題解決だけに目をやっている状況があまりに拡がっている。
私は、サロンで時々、もう人間はいなくなりつつあるのではないかと口にしてしまいますが、ますますそんな気がしてきています。
「人新生の時代」などとはしゃいでいる人たちも多いですが、「人消失の時代」ではないかと思います。

そういえば、以前にも、ウクライナの人が経営しているロシア料理のお店の看板が壊されたりしたこともありました。
ロシア国家やロシア政府とロシア人やロシア語とはまったく別のものです。
人間として考えれば、そんなことはすぐにわかるでしょう。

私の感覚では、両者はむしろ対立概念ですが、両者の主客関係がどうも逆転し、それにすっかりなじんでしまった人が圧倒的に多くなってしまったのかもしれません。
昨今のワクチンやマスクの状況を見ていると、日本も今やロシアと同じだなと言う気がしてなりません。
いやロシア以上かもしれません。

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2022/04/14

■湯島サロン「農業と食材を見直し、未病に繋ぐ健全なコミュニティ形成」のご案内

世界を舞台に、多彩な活動を重ねてきた平山さん(奄美農畜水産事業組合代表取締役)は、時代の大きな変化を見据えながら、いま一番大事なのは、やはり生命を支えるための食と農ではないかという原点に還ってきて、改めて土壌微生物活性化農業の復活に取り組みだしています。

しかし、日本の農業(農政)の実態や食材(食生活)の現状を知れば知るほど、その難しさを思い知らされ、個々の問題ごとに取り組んでいくだけでは十分ではなく、大きな構想を描いて、長期的な展望のもとに、多面的な取り組みをしていかなければならないという思いを強めているようです。

そこで、「食材マスター(食材評価技能士)」制度を創り人材を育てていくとともに、実際の農場を運営しながら、土壌微生物の活性化を根底に置いた循環型農業を展開し、さらには医療関係者との連携も組みながら未病知識の普及にも取り組んでいく準備をしてきましたが、それを踏まえて、そろそろ実践に取り組もうとされています。

そこで、一度、湯島サロンでその構想や計画を紹介してもらうことにしました。
平山さんがどうしてこういう構想にたどりついたのか、そのお話を聞くことで、最近の農業や食材の現状と問題点に触れることができ、生活者として何に気をつければいけないかの示唆ももらえると思います。
また、共感を持ってもらえる人がいたら、ぜひ仲間になってもらい、一緒に実践型のプロジェクトチームのようなものを立ち上げたいと平山さんは言っています。

湯島でも時々話題になる「農福連携」や「医食同源」にもつながっています。
ぜひ多くの人に参加していただければと思います。

〇日時:2022年5月8日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「農業と食材を見直し、未病に繋ぐ健全なコミュニティ形成」
〇話題提供者:平山典彦さん(奄美農畜水産事業組合代表取締役)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■4月1回目のオープンサロンの報告

413日のオープンサロンには、平日にもかかわらず10人近い人が参加しました。

どうして平日の午後に、こんなに人が集まるのか不思議ですが、なかにはテーマサロンよりもオープンサロンのほうがいいという人も少なくありません。
たしかにオープンサロンにだけ参加する人もいます。
もともと湯島のサロンは、テーマのないオープンサロンから始まりましたから、私にはうれしいことで、これからも月に2回開催していこうと思います。

それに最近の風潮では、午後であっても、土日よりも平日のほうがどうも人が集まりやすいようです。ここにも生活スタイルの変化を感じます。
ちなみに定年退職した高齢者が多いわけではなく、昨日はむしろ若い人が多く、定年退職者はゼロでした。

それはともかく、昨日もまたいろいろな話題で盛り上がりました。
ジョーカー予備軍のサロンの余韻もあったので、引きこもりや格差社会が話題になったかと思えば、地域コミュニティづくりに取り組む竹形さんの経過報告もありました。
竹形さんの活動の構想を簡潔にまとめた「ストリートライフ・プロジェクト: 住んでいる街を楽しくしよう Kindle版」も公開されていますので、関心のある人はぜひお読みください。
Amazon.co.jp: ストリートライフ・プロジェクト: 住んでいる街を楽しくしよう eBook : 竹形誠司:

ゆとり教育世代のなかで育った人もいて、最後は「ゆとり教育」が話題になりました。その受け止めは人によって大きく違うようです。
今日は用事があったので定刻には終わりたかったのですが、なかなかうまくいきません。

今月2回目のオープンサロンはまだ決めていませんが、今週中にご案内できると思います。

Open20220413

 

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2022/04/13

■生活事業研究会の第2期の募集をそろそろ考えています

湯島ではサロンの他に、今年から連続講座型の生活事業研究会を開催しています。
現在は第1期の3回目まで終了しています。

「生活事業」とは私が勝手につくった造語で、「自分たちの、自分たちによる、自分たちのための事業」と定義しています。自分たちの生活を豊かにするために自分たちでなければできないことを実現していくことという事業(プロジェクト)で、お金のためとか社会のためという、昨今の「事業」概念を問い質そうという狙いもあります。
毎回数枚のワークシートが課題として出されます。

現在は9人の人が参加してくれています。
ほとんどが「やりたいこと」があっての参加ですが、なかには「やりたいこと」がない人もいます。
また「やりたいこと」をもって参加してくれた人も、私の話を聞いているうちに頭が混乱してきて、「やりたいこと」を見直す羽目になった人もいます。
まあそれが私の一番の希望なのです。

ただ話し合っているだけで生まれる仲間(コミュニティ)もありますが、何かに取り組みたいという思いを軸に、話し合いを続けることで生まれる仲間(コミュニティ)もあります。今回はそれも目的の一つで、参加者それぞれが取り組んでいる事業が、別の事業とつながって、新しい事業(プロジェクト)が創発していくことも目指すことの一つです。まあこれはそんなに簡単ではありませんが。

いずれにしろ実験的な試みなので、うまくいくかどうかは参加者次第です。
毎回1000円の参加費をいただいていますから、ある成果を出さなければいけないのですが、まあ新しい価値の創発のためには、参加者を増やしていくことが大切です。
そこで、5月には第2期をスタートさせようと思います。

参加者が5人いないと成り立ちにくいので、関心を持っていただけたらご連絡下さい。
すでに事業に取り組んでいる方も、全く何もしていない方も、歓迎です。但し6回の毎月の研究会に参加して、ワークシート作業も受けていただける方を対象にしています。

開催日はまだ決めていませんが、正式にスタートすることになったらまたご案内します。

 

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2022/04/12

■節子への挽歌5324:私が花見に行けないわけ

節子

時評編に書きましたが、昨日、湯島でジョーカー予備軍を自称する若者のサロンをやりました。
彼は両親とほぼ縁を切って、今ひとり暮らしをしています。

今朝もらったメールによれば、一昨日、サロンが終わり、私と別れた後、上野公園に行って、噴水に濡れながら踊っていたそうです。もしかしたら、彼のことですから、家にも帰らずに公園のベンチで一夜を過ごしたのかもしれません。
持参してきたリュックには、自分で調理した食料も持参していて、いつでもどこでも泊まれるような生活をしているようです。

私の書いたサロンの報告にも反応してくれました。
実に的確なコメントです。
この若者は、やはりただものではない。
そんな気がします。

ところがサロンの目に彼と話をしているときに、佐藤さんは花見に行きましたか、と質問されました。
なぜかその時、ついつい思うに任せて話してしまいました。
妻が花が大好きで、死の直前に花見によく付き合わされた。それで妻を見送った後は、どうしても花見に行けなくなってしまった、と。
感受性の強い彼は、すぐに察したようで、地雷を踏んでしまったとつぶやきました。
気のせいか、彼の表情を見たら、彼にも何か思いがあるような気がしました。

桜の花は、人の心を開きもすれば、閉じもする。
あらためてそのことに気づかされました。

いつになったら花見に行こうという気が戻ってくるのでしょうか。

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■節子への挽歌5323:節子と話し続ける効用

節子

友人から連絡があり、午前中、会いました。
彼は独身ですが、高齢の母親にがんが見つかり、手術は無理だと言われたのだそうです。
それで連絡してきたのです。
ともかく会うことにしました。

最近はかつてとは違い、がんも直る時代になってきているとはいえ、がんと言われると関係者は精神的に動揺してしまいます。
そういう時には、ともかく会うのがいい。

私は節子だけではなく、両親もがんで見送りました。
ですからなんとなく「がん宣告」によって起こることがわかる気がするのです。
それに友人の母親は私よりも高齢です。
高齢者の死生観も、なんとなくわかる。
もちろん人によって全く違うでしょうが、それも含めて、わかる世界がある。
そんな話をしました。

しかし話しているうちに、私自身の死生観はやはり世間とは大きく違うかもしれないという気がしてきました。
どこかで死を待っているような、おかしな気持ちがあるのです。
もちろんできれば避けたいという気持ちの方が強いのですが、どこかで死を受容する気持ちもある。
それもこれも、こうやって毎日、死者の節子と話し続けているからかもしれません。

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■湯島サロン「ジョーカー予備軍が語る〈邪道と王道の幸福論〉in 2022」報告

引きこもり体験者で自称「ジョーカー予備軍」の牧野さんのサロンは予想以上にたくさんの人が参加してくれました。何よりもうれしかったのは、同じく引きこもりや不登校の体験を公表している多世代の人が参加してくれたことです。

私は、この問題に関しては、閉じたセルフヘルプグループではなく、開かれた場で、体験を踏まえて前向きに話し合える場がもっと増えるといいと思っています。引きこもりや不登校は、何ら特別の話ではなく、みんなもたぶんシェアしていることですから。

しかもうれしいことに、牧野さんは最初に「この場を主張の場ではなく、理解と学習の場にしたい」と話してくれました。これは湯島サロンの理念ですが、私自身最近確認するのをおろそかにしていたような気がします。サロンに参加してくれていた牧野さんは、それを確認してくれたわけです。

ちなみに、牧野さんのいう「ジョーカー」は、数年前に話題になった映画『ジョーカー』の主人公を意味しています。この映画は、「バットマン」シリーズに出てくる悪役のジョーカーを主役にした映画で、なぜジョーカーが生まれたのかを描いた作品です。

参加者の一人がそのあらすじを、思いを込めて紹介してくれました。
牧野さんの話を聞いていて、彼が「ジョーカー予備軍」に込めたメッセージがよくわかりました。私もこの映画は2回観ていますが、なかなかメッセージを素直に受け止められずにいました。改めてまた観ようと思います。今度はかなり理解できそうです。

牧野さんは2部構成で、参加者との話し合いも含めながら、話してくれました。
前半では、牧野さんの体験をある若者のナラティブ(物語)として語ってくれました。時に「私的な思い」がやや過剰に入っていた気はしますが、物語として、自然な感情移入も含めて、参加者には受容(理解)されたように思います。牧野さんが、この語りのために、衣装も含めてさまざまな趣向を凝らしてくれたおかげかもしれません。

話し合いでは同じようなことを体験した人も多く参加してくれたので、とてもリアルなやりとりがありました。もっとも私たち中高年世代は、まだまだ「主張」したがる傾向があり、体験者たちはちょっと話しにくかったかもしれません。体験からの話がもっと聞きたかったのですが、なかなか思うようにはなりません。でも体験者同士の話し合いもいつもよりも少したくさんできたような気もします。

休憩をはさんで、後半に入りました。休憩中、牧野さんは瞑想したり身体を動かしたり、そこにもメッセージを込めていたように思います。

後半のテーマは、タイトルにある「邪道の幸福論」。
牧野さんはそれを3つの項目に整理してくれました。
「健康的に自殺しよう」「他人を見下そう」「世界のみにくさを受け入れよう」です。
まさに「ジョーカー」的で、きちんと説明しないと誤解されそうな表現も含まれていますが、それぞれに関して、牧野さんはていねいに解説してくれました。

たとえば、健康的な自殺とは、我を忘れるような夢中になれる時間を創ろうということでもあり、他人を見下すとは、相手の苦悩を理解してやろうとも受け取れました。また、世界のみにくさを受け入れるとは、みにくさを認めることではなく、変えることができないことはそれを前提に考えよう、というように受け取れました。
いずれにしろ、自責するよりも前に向かって行動しようというメッセージを感じました。
これは私の解釈ですから、参加者それぞれ違う受け止め方をしているかもしれません。

ただ、こうまとめてしまうとなんだか物知り顔の専門家の退屈な話のように聞こえるかもしれませんが、それは私の表現力、あるいは「文字表記」の限界です。
サロンでは、こういう話の中に、牧野さんの現在の生活スタイルが随時散見され、そうしたことがあいまって、もっと豊かなメッセージを生み出してくれていました。

牧野さんはサロンの途中で、時間を延ばすことを提案し、1時間延ばしましたが、それでも終わりそうもありませんでした。牧野さんが自分の問題としてではなく、ある若者の物語として語ってくれたことで、あまり深刻にはならずに、話し合いも広がったような気がします。体験をもつ参加者の話もとてもよかったです。

サロン終了後、牧野さんは、今回は王道の幸福論を話さなかったが、今度やってもいいというような話をしてくれました。
牧野さんの「王道の幸福論」には興味があります。そもそも「幸福」とは何かも含めて、牧野さんのサロンのパート2が実現できるかもしれません。

ちなみに牧野さんは20代です。今回のサロンには前回話をしてくれた10代の翔平さんも参加し発言してくれました。いつもながら若者の感性や知性から学ぶことの多さに気づかされるとともに、学ぶ姿勢を失いたくないなと改めて気づかされたサロンでした。

このテーマで、体験者たちによる公開フォーラムをいつか開催したいと思っています。
彼らから、社会が学ぶことはたくさんありますから。

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■第15回益田サロン「ものの力と言葉の力」のご案内

細菌学者の益田さんは「ものづくり」が趣味のひとつで、サロンでも毎回、手作りの独楽(こま)や動く人形などを持ってきて紹介してくれます。
益田さんにはもう一つ関心を持っていることがあります。サロンでも時々、話に出ますが、文字や言葉です。

そこで、今回は「ものの力と言葉の力」をテーマに、益田さんに問題提起してもらってのサロンです。もちろんいつものように、細菌学視点からの独自の見解がお聞きできると思います。

益田さんからのメッセージをお読みください。

物は言葉より雄弁ではと思います。言葉は物とは別に雄弁です。何方も雄弁ですが、どこか大きく違います。まわっている独楽は何かを語っています。しかしその言葉はなかなか理解できません。まわっている独楽を言葉で表すことは容易です。どのようにも表現できます。こういう場合、独楽自身と言葉とはどのような関係があるのでしょう。

回っている独楽と言葉。さてどんな話になるのでしょうか。
いつもながら益田さんのちょっと禅問答的なサロンを楽しめるでしょう。
大型連休に入ったばかりの土曜ですが、よかったらご参加ください。

〇日時:2022年4月30日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「ものの力と言葉の力」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2022/04/11

■節子への挽歌5322:またまた疲労困憊

節子
疲れました。

今日は自称ジョーカー予備軍の若者と5時間以上付き合いました。
彼にサロンをやってもらったのですが、そのサロンには彼と同じような体験の人も複数参加し、いささか気を使ったこともあります。

ジョーカー予備軍の若者は、1年ほど前に会った時にはまだ入院するほどでしたが、今は一人住まいをしていて、気分的にはかなりよさそうです。
サロンを頼むのもいささか迷ったのですが、彼が乗り気だったのです。
しかし、サロンの前日、いささか気になるメールをもらいました。
話そうと思い過去を思い出したら、号泣が止まらないというのです。
内観がいい方向に行くこともありますが、悪い方向に行くこともある。
気になって無理をしないでいいからとメールしました。

そういうこともあったので、サロンのはじまる前に会うことにしたのです。
ところが全くの杞憂でした。
彼はむしろサロンで話すのをワクワクしているというのです。
もっともそれはそれで要注意なのですが。

彼とサンドウィッチを食べながら、心を開いて話しました。
彼との関係が一挙に縮まった気がします。
その分、疲労感に襲われました。

サロンでの彼の話は見事でした。
参加者の中にも彼と同じ体験をした30代と40代の人がいました。
30代の若者の母親も一緒でした。
それぞれは面識はありますが、それぞれはかなり違うのです。

しかも参加者の中には、そういう人たちの気持ちなど全く理解せずにもっともらしい理屈を並べる人が少なくないのです。
そういう人たちが、引きこもりや不登校や精神障害を引き起こしているという気さえしますが、本人たちはそんなことには全く気付いていない。
というわけで、サロンも疲れました。

サロンが終わっても最近はみんななかなか帰らない。
しかし、みんなが帰った後、ジョーカー予備軍の若者とまたふたりで話せました。
彼から始めて相談できる大人に出会ったというような言葉をもらいました。
彼には、そういう人がいなかったのです。

帰宅してから疲労感がどっと押し寄せてきました。
そしてパソコンを開いたら、またある人から、面談のお願いと言うメールが届いていました。
それを読んだら、またやりきれない気持ちになってしまいました。
というわけで、昨日は何もする気力がなくなり、タケノコ料理を食べて、寝てしまいました。

今日は意図的に何もせずに、元気を取り戻すことにしました。
それにしても何かから解放されると、また新しい問題が押し寄せてくる。
そういう状況から解放されないめぐりあわせなのでしょうか。

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2022/04/09

■節子への挽歌5321:自治会の会長役から解放されました

節子

自治会の会長役から解放されました。
新しい会長は大きく若返って、40代の会社勤めの人です。
引継ぎの最初の頃は、コロナもある市忙しいのでzoomのミーティング出引継ぎ会をできないかなどと言われ、いささか私としては嘆いていたのですが、実際に会って話してみると実に好青年で考えも共感できることがあって、私自身の偏狭さを反省しました。

今日はその新会長デビューの役員会でした。
私は、今年も副会長役なので、同席しました。
新会長の見事な進行に感服しました。
もちろん会議は何事もなく終了。
一応、私もお役終了で安堵しました。

新会長の自治会に関する考え方は私とは違いますが(そこにも時代を感じます)、自治会の運営方法に関してはほぼ全面的に共感しました。それにやり方が実に割り切っている。私がやらなかったことをいかにもさっぱりと断行し、しかも他者の意見には柔軟に対応する。それに幸いにほぼ全員がメールをやっているので、メール対応の仕組みができそうです。

もっと感心したのは、自治会として数年前に購入した防災機材を役に立たないと判断して廃棄する提案をしたのです。私もこういう機材は全く役に立たないなと思いながらも、廃棄は思いつきませんでした。大いに反省しました。
おかしいと思ったら行動しなければいけません。

やはり自治会も世代が若返ったら大きく変わっていくでしょう。
私は人のつながりを深めたいという考えで1年やってきたのですが、新会長はみんな忙しいのだからできるだけネットでやろうとしています。私は忙しくても地域活動も大事だと思っていますが、やはり古かったなと反省しました。
もちろん「人のつながり」は大事ですが、つながりづくりのスタイルはいろいろとある。 
今日の自治会役員会は、いろんなことを気づかせてくれました。

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■節子への挽歌5320:今年も椎田のアサリは残念ながら届きませんでした

春になると九州の蔵田さんから毎年、アサリが届きます。
蔵田さんご自身が、近くの椎田の浜に行って、採取してくれるのです。
椎田のアサリはとてもおいしく、アサリ好きの私は毎年楽しみにしています。
しかし最近、どうも収量が減ってきていて、蔵田さんも苦労していたようです。

ところが昨年からコロナの関係で潮干狩りが禁止になり、今年も禁止になったそうです。
蔵田さんは市と漁協に、どうして「密にならない潮干狩り」が禁止なのかと問い質したそうですが、ともかく「コロナ一点張り」の説明だったそうです。
今の世はコロナの一言で泣く子も黙らせることができる、と蔵田さんは憤っています。
蔵田さんが、どういう話し合いをしたか目に浮かびます。

蔵田さんは私が知っている人のなかでも、ずば抜けて実直な人で、納得できないことには異を唱える人なのです。しかも、蔵田さんほど「悪意」と無縁な方はいません。
私などはとても及びません。
仕事で出会った人で、私はお世話になりっぱなしどころか、かなりの迷惑をかけてしまった人です。にもかかわらず、蔵田さんの私への姿勢は全く変わりません。

いまは会社も辞めて福岡に戻って、自然の中で悠々自適の生活をされているので、最近はお会いすることがありませんが、毎年、春になるとアサリを送ってきてくれていたので。ところがこのアサリが実においしく、椎田のアサリを食べて以来、近くのスーパーで買ってくるアサリはまるでアサリでないように思えるほどです。

今年もまた蔵田さんは、アサリに代わって、筍を送ってきてくださいました。
筍も私の大好物なのです。
合馬の筍もまた有名ですが、春を感じさせてくれるために、今年はわさび葉も同梱されていました。蔵田さんのこういうちょっとしたプラスアルファが、実にうれしい。

これで今年も、わが家に春がきました。
蔵田さんのおかげです。
また蔵田さんにお会いできるといいのですが。

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■緊急サロン「ウクライナ戦争に関する基礎知識の学習会」報告

4月17日の「ウクライナ戦争のもうひとつの捉え方」のサロンにむけて、まずはウクライナ戦争に関する基礎知識を学ぼうという趣旨でのサロンを開催しました。

幸いに、毎年、1年を振り返るサロンをやってくれている林さんが情報整理を引き受けてくれました。林さんは、ソ連のウクライナ侵攻が始まって以来、単に表面的に起こっていることだけではなく、なぜこういうことが起こるのかという背景に関して関心をもっていたことを思い出してお願いしたのです。

発表者の林さんは、このサロンのために、ネット情報だけではなく、改めて何冊かの関連書籍を読んでくれ、それを簡潔にまとめてくれて紹介してくれました。

林さんはまずウクライナの地政学的な意味や概要の解説の後、ロシアがウクライナに侵攻して以来の動きをざっと紹介してくれました。つづいて改めて読んだ何冊かの関連書籍をベースに、ウクライナの歴史とプーチンの歴史観や政治観につながるような話をしてくれました。
林さんは、専門家ではなく、あくまでも関心を持つ市民の一人として情報を整理してくれたので、とてもわかりやすく、基礎知識の学習会としてはとてもいいサロンになりました。こういう背景知識をもって、ウクライナ戦争報道に接したいと改めて思いました。

ただ、せっかく整理してくれた情報をじっくりと聴き、みんなで話し合いながら消化するには時間不足だったのがいささか心残りです。またもっと多くの人にも聴いてほしかった内容でした。

また参加者の中には、林さんと同じように、背景を調べている人もいましたし、現在起こっている事件に関する情報を多面的にフォローしている人もいて、話し合いからも学ぶことがたくさんありました。話し合うことの意味を改めて実感しました。

林さんはウクライナに関しては、最近、話題になっている「物語ウクライナの歴史」(中公新書)、ロシアに関しては乗松亮平さんの『ロシアあるいは対立の亡霊』や『ゲンロン67』を参考にしながら、現代思想史やプーチンの行動を支える世界観や政治思想の背景などを話してくれました。

「物語ウクライナの歴史」の「はじめに」には、『ウクライナ史最大のテーマは「国がなかったこと」』と書かれているそうですが、この一言で今の事態のかなりのことが説明できるように思います。
そこから林さんは、ウクライナの歴史を簡潔に話してくれました。

つづいて、林さんはロシアの現代思想史や現代の政治思想を、プーチンの政治行動につなげながら話してくれました。限られた時間でもあり、たぶん林さんも話し足りなかったと思いますが、プーチンが決して狂って行動を起こしたのではないことはみんな納得できたのではないかと思います。その背景にある「ユーラシア主義」も話題になりました。
私が若いころには、世界は「第1世界」「第2世界」「第3世界」と理解されていましたが、冷戦終了後、「第2世界」という言葉は消えてしまいました。
かわって「歴史の終焉」などという言葉も出回りましたが、いま私たちが暮らしている世界が理想的なわけではありません。「第2世界」とは言いませんが、今とは違う世界があってもいいと私は思っています。そのヒントがもしかしたら今回の事件の中にあるかもしれません。

なにしろ膨大な情報を、限られた時間で紹介してもらったので、ここで報告するのは難しいですが、できればいつかまた林さんには、今度はロシアに焦点を合わせたサロンをやってもらえればと思っています。

最後に林さんは、今回、いろいろと調べてみた感想をまとめてくれていました。
実践活動からの体験的感想であり、とても示唆に富むものなので、林さんの了解を得て、全文を紹介します。

プーチンは悪か、ロシアは悪か。
当然、弱者に寄り添うことや支援は必要だが、戦争当事者の情報は、たとえ被害者のものであっても、大学メディアのものであっても鵜呑みにはできない。
ショッキングな情報が、日常に直接飛び込んでくる。
条件反射的な反応だけに陥らないよう気を付けたい。

我々は第3者、だからこそ、感情的な反応から距離を置いて考えることができる。
こういう時こそ背景を知る努力をする。

プーチンの歴史観は特殊ではない。
隣国の大国の思想的動きについて、あまりにも関心を向けてこなかった。

とはいえ私は普通の生活者。
関心を持ち続けることが辛うじてできること。
極端に走って誤らないためにも、あるいは将来の備えとして。

以上が林さんの感想です。
「こういう時こそ背景を知る努力をする」。とても共感できます。
こうした基礎知識を踏まえて、17日の「ウクライナ戦争のもうひとつの捉え方」のサロンに臨みたいと思います。

それと、ウクライナ史最大のテーマは「国がなかったこと」ということの意味も改めて大切なメッセージだと思います。
「国家」とは何か。
昨年、このテーマでサロンをやりましたが、もう一度やりたくなりました。
また案内させてもらいます。

ご多用のなか、サロンのために膨大な情報を整理してくれた林さんに感謝します。

Ukuraina20220407

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2022/04/08

■今年も5月3日に「憲法」をテーマにしたサロンを開催します

私は毎年、憲法記念日には、日本国憲法の前文と第3章を読むようにしていますが、その前後に湯島でもテーマを決めて憲法に関してサロンをしています。

昨年は60年ほど前の丸山真男さんの講演記録を読んできていただき、「私にとっての日本国憲法の意味」をテーマに話し合いを行いました。
今年はどうしようか迷ったのですが、最近問題になっているウクライナ戦争にも重ねながら、憲法9条を問題にしようと思います。
ただ9条を話題にするだけではなく、視野を広げて、「安全保障」や「平和」を問題にしようかと思います。
というのも、国家の軍隊は、国民をも攻撃の対象にするからです。あるいは徴兵制度などできてしまえば、国民は戦争の道具にさえさせられてしまうのです。
憲法が目指す「平和」や「非武装」と、生活者である市民が目指す「平和」や「非武装」とはどうつながるのか。「戦争放棄」とは何を意味するのか。
そんなことを話し合い、それぞれが考える平和論を交わしながら、参加者それぞれが自らの生き方を問い直してみようというサロンです。

5月3日は、他でもいろいろと憲法がらみの集まりがあるので、日をずらそうかと思いましたが、今年は3日にこだわることにしました。
よろしくお願いします。

〇日時:2021年5月3日(火曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

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2022/04/07

■4月オープンサロンのご案内

4月1回目のオープンサロンのご案内です。

4月13日に開催予定のサロンが話題提供者から中止した色の連絡があり、中止になったので、案内が届かずに間違ってやってくる人がいるかもしれないので、急遽、オープンサロンに切り換えさせてもらいました。

よろしくお願いいたします。

いつものようにテーマはなく、出入り自由な気楽なサロンです。
どなたでも気楽に「話し」に来てください。もちろん「聞き」に来ていただくのも歓迎です。

〇日時:2022年4月13日(水曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

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2022/04/06

■国家の戦争は犯罪ではないという常識

最近では、戦争は国家間の事件だとは限りません。
対テロ戦争というのもあります。
しかし、戦争という口実で殺人を正当化できるのは国家だけです。
つまり、戦争というのは国家制度と深くつながっているのです。

国家は暴力行為を正当化するための制度とも言えます。
ですから、戦争行為は国家の世界では「犯罪」ではないようです。
戦争は外交の延長だなどと言うバカげた考えを受け入れている人もいるのが、私には理解できません。
国家の視点からは戦争は外交高位かもしれませんが、市民の視点から考えれば戦争こそが犯罪です。
国家(ステート)と国民(ネイション)を混同してはいけません。

また国家の軍隊の銃口は、外国に対してよりも自国民に向けられてきていることはこれまでの歴史の中で証明されています。
銃口が向けられるだけではありません。
たとえば徴兵制度というのが、自衛のためには必要だという人がいます。

しかし、徴兵制度もまた、国家が市民を殺人行為に強要するための制度ですから、市民の立場に立てば、徴兵されるのと殺人行為に巻き込まれるのと同じです。
徴兵された息子に、戦場で敵を殺す羽目になったら自殺しろと諭した人がいましたが、共感します。

自分たちの社会を守るために立ち上がることと国家を守るために徴兵を受け入れるのとは全く違う話です。
しかし、両者を混同する人は少なくありません。

日本国憲法の平和条項は9条だと言われています。
でもそうでしょうか。
私は9条ではなく、基本的人権を保障している第3章のほうが大事だと思っています。
今年の憲法サロンはそれをテーマにしようかと考えています。

それにしても国家が行う殺人を正当化する戦争の論理に私たちは洗脳されているようです。
キーウでの民間人遺体放置事件が問題になっていますが、病院が襲撃されたり、軍隊に徴用されたり、敵兵を殺傷することが評価されるような異常な世界では、とりわけ特別の事件ではないように思います。
焦点を合わせるべき対象を間違うことは避けなければいけません。

徴用されて戦場に行くのと志願して戦場に行くのとは違います。
もちろん「立ち向かう相手」も違います。

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■湯島サロン「平将門の居館は我孫子市にあった!」報告

平将門の居城は千葉県の我孫子市の中里にあったという新説を提唱している戸田さんのサロンは、あいにくの悪天候にもかかわらず9人の人が集まりました。

戸田さんは最初に1枚の浮世絵を見せてくれました。

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神田明神に所蔵されていたものです。添付させてもらいますが、これは将門の居城に集まった無実の罪で殺害された将門たちの霊に対する鎮魂の祈りをささげたものではないかと、戸田さんは言います。
しかも、その場所は我孫子にある将門神社ではないか。それは将門の居館の近くの風光明媚な場所(日秀〔ひびり〕)にあった将門の別邸の跡に建てられたというのが戸田さんの考えです。

浮世絵の背景には富士山に並んで筑波山があり、かつては関東一円に拡がっていた香取の海が描かれています。たしかに我孫子の将門神社からは、富士山も筑波山も遠望できる。そして今はもう陸になっていますが、当時はこの前に香取の海が広がっていた。この絵の場所は我孫子の将門神社に違いないと戸田さんは言います。

つづいて戸田さんは、平将門の人物像とそれにまつわる伝説・伝承を紹介してくれました。我孫子の中里界隈には今もなお、将門にまつわる伝承は多く、それが生活習慣にまでなっているのです。近くには、首曲がり地蔵や将門の井戸という、将門にまつわる遺跡もあり、将門にまつわる物証も、かなり広くにわたって残っています。

戸田さんは、伝説・伝承を吟味していくと、それらはことごとく将門の本拠地が我孫子であることを示していると言います。しかし、戸田さんが将門居館我孫子説を唱えだしたのはそれだけではありません。将門に関する数少ない歴史資料の『将門記』には将門の王城と居館の所在地に関する記述がありますが、それを素直に読めば、我孫子の将門神社があるところにぴったりと比定されるというのです。

『将門記』は原本が失われていて、現在残っている写本には、冒頭部分が欠落しています。たぶんそこに所在に関する記事があったはずですが、今は確かめようもない。しかし、幸いに本文中に所在を推定させる記事があるのです。
そこには、「王城を下総国の亭南に建つべし。兼て檥橋(ウキハシ)を以って号して京の山崎為、相馬の郡大井の津を以って京の大津為(セ)む」とあります。この文章をもとに、戸田さんは我孫子市の中里がなぜ比定されるのか説明してくれました。ちなみに、当時、「相馬」と言えば、福島あたりではなく、我孫子周辺だったのです。

戸田さんは今回、4つのセッションに分けて解説し、それぞれの話の後に質疑や話し合いを行ってくれたので、とてもわかりやすく、参加者にも腹落ちしたと思います。

最後に戸田さんは、その後の話もしてくれました。
将門の死後、将門が任命した国司は全て逃亡先で切られた。たとえば、秩父の山中では関係者99人が惨殺された。地元では九十九神社をつくりその霊を祭っている。将門の話はこうして広く広がっている。しかも、いまなお祭られているところも少なくない。なぜ将門は三大怨霊の一つになったのか。そこに大きな意味を感じます。

話し合いでは、時代背景や将門信仰の意味など、いろいろと示唆に富む話が出ましたが、長くなるので省略します。
いささか私の贔屓目かもしれませんが、戸田さんの新説への共感はかなり得られた気がします。将門我孫子説を広げていくためのアドバイスも参加者からいただきました。

参加者のなかには、もっと戸田さんの話を聞きたいという人もいましたので、戸田さんの調査・研究がさらに進んだら、改めてまた戸田さんにサロンをお願いしたいとも思っています。また、近いうちに、戸田さんにもお願いして、将門関連の我孫子ウォーキングツアーを企画したいと思います。決まったらまた連絡します。

時代の大きな変わり目に起きた「将門の乱」はとてもたくさんのメッセージを私たちに与えてくれているような気がします。残念ながら、いまはまだ将門への関心はさほど高くはありませんが、題材としては、「鬼滅の刃」にも匹敵するほどの魅力を感じます。どなたかコミック化してくれないものでしょうか。
将門に関わるサロンは、これからも考えていきたいと思っています。話題提供者も探しています。もしこんな切り口でサロンを行いたいという方がいたらご連絡下さい。

 

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2022/04/05

■ウクライナで起こっているのは、国家間の戦争ではなく、国家政府による人民への虐殺事件

キーウ近郊で多数の民間人の遺体が発見されました。
ゼレンスキーやバイデンは「戦争犯罪」だといい、日本のマスコミも「戦争犯罪」と報道しています。どうも違和感があります。
ゼレンスキーはまた、「ジェノサイド」とも言っています。これなら私にも納得できます。

日本では、プーチンやロシアが悪者になっています。ゼレンスキーやウクライナは被害者であり、正義の戦いに立ち上がっていると受け止めている人が多い。これも違和感がある。

前にも書きましたが、私は、いまウクライナを舞台に行われていることを、国家間の戦争ではなく(もちろんそういう面もありますが)、国家政府による人民への虐殺事件と捉えています。ですから、ロシアやウクライナが主語として使われる場合、それはそれぞれの政府関係者と考えています。
そして、対立構造はロシアとウクライナではなく、国家政権と国民との戦い(というよりも政府による国民への暴力行為)と受け止めています。
ですから、私にはゼレンスキーとプーチンは、そしてバイデンも、みんな仲間にみえてきます。

そもそも「戦争犯罪」という言葉はおかしな言葉です。まるで戦争は犯罪ではないかのようです。しかし、戦争はそれ自体犯罪だろうと思います。不戦条約もありますし。
聖戦というものを私は理解できていないので、勝手な思いかもしれませんが。

今回の遺体の虐殺者(実行犯)は誰なのかはわかりませんが、ロシア人を責める気にはなれません。責任は虐殺を進めているロシアやウクライナの政権担当者にあるという気がします。仮にゼレンスキー政権が手を下していないとしても、責任は免れないはずです。

枠組みを変えて世界をみると、世界の動きはかなり違って見えてきます。
プーチンを狂人にしたり、ゼレンスキーをヒーローにしたりする見方には、恐ろしさを感じます。
相変わらず「べき論」が横行していますが、問題を正しく設定しないと、解決策は見えてきません。どんどん私たちは、世界を見る目を間違ってしまってきているような不安が強まっています。

だから7日にも湯島でウクライナ問題の勉強会を開催します。
よかったら来てください。

 

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2022/04/04

■節子への挽歌5319:死への準備を急がないといけません

節子

なかなかバタバタしている状況から抜け出せません。
それと実は最近また読書時間が増えています。
ロシアやウクライナについての本を読みだしていますが、読めば読むほどわからなくなります。

もう一冊、偶然に見つけた本にこの2日間、引き込まれていました。
ケンブリッジ大学の哲学者スティーブン・ケイブと言う人が書いた『「不死」の講義』という本です。とても読みやすい本なので一気に読み終えました。
副題は「永遠の命への本能的欲求が人類をどう進化させたのか」となっています。

書き出しが、古代エジプトのネフェルティティの話です。
アテン神を信仰したファラオのアクエンアテンの妃であり、ツタンカーメンの母。
アブシンベル神殿を思い出します。
それもあって、引きずり込まれるように読んでしまったのですが、最近、私の死生観がいささかずれてきているのを感じていましたが、この本を読んで改めて、どうも私の死への感覚は一般的ではないことを確信しました。

私は「不死」だとか「長寿」を全く望んでいないのです。
しかし、そういう考えになったのは、節子を見送ってからです。
死後の世界に、節子がいると思えば、死には別に恐れも不安も感じません。
むしろ何か一種の期待さえある。

こういう感覚になったのは、節子のおかげかもしれません。
節子がいた頃は、いわゆる現世での生に強い未練を感じていましたから。

この本ではほとんど話題にされてはいませんが、生きることは無数の幸運に恵まれている結果です。
逆に言えば、常に死と隣り合わせで私たちは生きています。
いまから思えば、私も家族も、よくまあ生き続けてこられたものです。
ですから私には、生きていること自体がむしろ特別な気がするのです。
生への未練は全くありませんし、今日死んでも、あるいは死ななかっても、素直にそれを受け入れられます。
もっともその準備がきちんとできていないので、娘たちには迷惑をかけてしまいますので、死ぬのはできれば避けたいですが。

そういう死への不安のなさが、実は問題なのだと最近痛感しています。
節子は早々と逝ってしまったが故に、残された家族は大きな影響を受けました。
それを体験した以上、娘たちには過剰な迷惑はかけられません。
準備を急がねばならない。

昨夜はそんな思いで、よく眠れませんでした。

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2022/04/03

■湯島サロン「二分心から個人の時代そして世界の再魔術化へ」のご案内

湯島のサロンでは、最近、「二分心(にぶんしん)」という言葉が、様々なテーマのサロンで話題になってきています。
「二分心」とはジュリアン・ジェインズによって50年ほど前に提出された古代人の心に関する仮説で、意識が生まれる以前の人間は、神々の声によって言動していたが、次第に右脳と左脳が別々に機能しだし、左脳が言語を生み出し、意識を生み出してきたと言う仮説です。

この仮説は、人間の意識の誕生や、言語や心の誕生にもつながっているばかりか、AIやネオヒューマンを考える上でも大きな示唆を含んでいる話なので、万葉集サロンでも「私たちとは何か」「主体性とは何か」などのサロンでも話題になってきました。
そこで、一度きちんとシェアしておきたいと思い、近藤さんにお願いしてわかりやすく解説してもらうサロンを開催することにしました。

話題提供してくれる近藤さんは、心理学の造詣も深いので、今回、単に仮説の紹介だけではなく、人間の捉え方や生き方を視野に置いて、未来につなげるような話もしてくれると思います。
近藤さんのメッセージを、日時などの後に紹介していますので、ぜひお読みください。

私自身は、この二分心仮説を知ってから、人との付き合い方や社会の捉え方が大きく変わった気がします。一言で言えば、とても生きやすくなったように思います。
ぜひ多くの人に参加していただきたいサロンです。

〇日時:2022年4月23日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「二分心から個人の時代そして世界の再魔術化」
〇話題提供者:近藤和央さん(フォトグラファー)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

〔話題提供してくれる近藤さんからのメッセージ〕

紀元前1000年ころの大事件~個人意識の創発~を基点に人類の文明文化は急激な発展を開始し、わずか3000年後には、たった一人の個人的決断が全人類および地球を共有する多くの生き物たちが一気に絶滅することさえ実現可能とする「神(悪魔)の位置」にまで到達しました。

その個意識創発史を個人の内的変化という観点で眺めると、かつて、どこからともなく聞こえてくる「神の声」に従って群れの中の一匹として、あるいは夢の中のような前個意識状態、ある意味ゾンビのような生き方をしていた時代~つまり”私”や”心”という言葉すら存在しなかった時代~の意識世界(二分心)から、”私”や”自分の心”を獲得する大事件を契機に”私”が”他者”や”世界”と分離対置した「個の生」を生きるようになって3000年、いまや、社会は先祖返りとしての統合失調症という病を生み出し、多くの人に生きることの困難さが蔓延する社会~精神の危機の時代~に至っていると見えるわけです。

サロンではこうした「二分心の時代から現代までの精神(意識)発達史」について、脳科学的な知見も参照しながら振り返ってみたいと思います。
そして、未来への展望も。

上に述べたような「認知や意識や精神」の変遷(いわゆる進化あるいは進歩ないし貧困化)の果てに、私たちはいまや、後戻り不可な曲がり角を曲がって、眼前にどん詰まりの隘路が見えてきたことに気づいたのではないでしょうか?

未来のある時点で振り返ったとき、人類はこの困難を克服する道を見つけているのでしょうか?
社会や制度によってこの危機が回避できるのか?はなはだ心許ないように思われます。むしろ個の内面~個々人の意識の変容~が克服のカギになるのかもしれません。

「百匹目の猿」は、事実性においては否定された”現象”ですが、事象の潜在→顕在化プロセスの比喩としてはもしかすると有効な世界観なのかもしれません(ユングとパウリが予感した観測効果的な意味で)。「思い」が世界を変えることができるのであれば、一人ひとりの意識をシフトすることで、その総体として人類の集合意識を次元上昇させることが可能かもしれません。

サロンの最後では、そうした希望のシナリオを述べていると思われる「世界の再魔術化」という道についても目を向けてみたいと思います。

 

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