■節子への挽歌5319:死への準備を急がないといけません
節子
なかなかバタバタしている状況から抜け出せません。
それと実は最近また読書時間が増えています。
ロシアやウクライナについての本を読みだしていますが、読めば読むほどわからなくなります。
もう一冊、偶然に見つけた本にこの2日間、引き込まれていました。
ケンブリッジ大学の哲学者スティーブン・ケイブと言う人が書いた『「不死」の講義』という本です。とても読みやすい本なので一気に読み終えました。
副題は「永遠の命への本能的欲求が人類をどう進化させたのか」となっています。
書き出しが、古代エジプトのネフェルティティの話です。
アテン神を信仰したファラオのアクエンアテンの妃であり、ツタンカーメンの母。
アブシンベル神殿を思い出します。
それもあって、引きずり込まれるように読んでしまったのですが、最近、私の死生観がいささかずれてきているのを感じていましたが、この本を読んで改めて、どうも私の死への感覚は一般的ではないことを確信しました。
私は「不死」だとか「長寿」を全く望んでいないのです。
しかし、そういう考えになったのは、節子を見送ってからです。
死後の世界に、節子がいると思えば、死には別に恐れも不安も感じません。
むしろ何か一種の期待さえある。
こういう感覚になったのは、節子のおかげかもしれません。
節子がいた頃は、いわゆる現世での生に強い未練を感じていましたから。
この本ではほとんど話題にされてはいませんが、生きることは無数の幸運に恵まれている結果です。
逆に言えば、常に死と隣り合わせで私たちは生きています。
いまから思えば、私も家族も、よくまあ生き続けてこられたものです。
ですから私には、生きていること自体がむしろ特別な気がするのです。
生への未練は全くありませんし、今日死んでも、あるいは死ななかっても、素直にそれを受け入れられます。
もっともその準備がきちんとできていないので、娘たちには迷惑をかけてしまいますので、死ぬのはできれば避けたいですが。
そういう死への不安のなさが、実は問題なのだと最近痛感しています。
節子は早々と逝ってしまったが故に、残された家族は大きな影響を受けました。
それを体験した以上、娘たちには過剰な迷惑はかけられません。
準備を急がねばならない。
昨夜はそんな思いで、よく眠れませんでした。
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