■湯島サロン「平将門の居館は我孫子市にあった!」報告
平将門の居城は千葉県の我孫子市の中里にあったという新説を提唱している戸田さんのサロンは、あいにくの悪天候にもかかわらず9人の人が集まりました。
戸田さんは最初に1枚の浮世絵を見せてくれました。
神田明神に所蔵されていたものです。添付させてもらいますが、これは将門の居城に集まった無実の罪で殺害された将門たちの霊に対する鎮魂の祈りをささげたものではないかと、戸田さんは言います。
しかも、その場所は我孫子にある将門神社ではないか。それは将門の居館の近くの風光明媚な場所(日秀〔ひびり〕)にあった将門の別邸の跡に建てられたというのが戸田さんの考えです。
浮世絵の背景には富士山に並んで筑波山があり、かつては関東一円に拡がっていた香取の海が描かれています。たしかに我孫子の将門神社からは、富士山も筑波山も遠望できる。そして今はもう陸になっていますが、当時はこの前に香取の海が広がっていた。この絵の場所は我孫子の将門神社に違いないと戸田さんは言います。
つづいて戸田さんは、平将門の人物像とそれにまつわる伝説・伝承を紹介してくれました。我孫子の中里界隈には今もなお、将門にまつわる伝承は多く、それが生活習慣にまでなっているのです。近くには、首曲がり地蔵や将門の井戸という、将門にまつわる遺跡もあり、将門にまつわる物証も、かなり広くにわたって残っています。
戸田さんは、伝説・伝承を吟味していくと、それらはことごとく将門の本拠地が我孫子であることを示していると言います。しかし、戸田さんが将門居館我孫子説を唱えだしたのはそれだけではありません。将門に関する数少ない歴史資料の『将門記』には将門の王城と居館の所在地に関する記述がありますが、それを素直に読めば、我孫子の将門神社があるところにぴったりと比定されるというのです。
『将門記』は原本が失われていて、現在残っている写本には、冒頭部分が欠落しています。たぶんそこに所在に関する記事があったはずですが、今は確かめようもない。しかし、幸いに本文中に所在を推定させる記事があるのです。
そこには、「王城を下総国の亭南に建つべし。兼て檥橋(ウキハシ)を以って号して京の山崎為、相馬の郡大井の津を以って京の大津為(セ)む」とあります。この文章をもとに、戸田さんは我孫子市の中里がなぜ比定されるのか説明してくれました。ちなみに、当時、「相馬」と言えば、福島あたりではなく、我孫子周辺だったのです。
戸田さんは今回、4つのセッションに分けて解説し、それぞれの話の後に質疑や話し合いを行ってくれたので、とてもわかりやすく、参加者にも腹落ちしたと思います。
最後に戸田さんは、その後の話もしてくれました。
将門の死後、将門が任命した国司は全て逃亡先で切られた。たとえば、秩父の山中では関係者99人が惨殺された。地元では九十九神社をつくりその霊を祭っている。将門の話はこうして広く広がっている。しかも、いまなお祭られているところも少なくない。なぜ将門は三大怨霊の一つになったのか。そこに大きな意味を感じます。
話し合いでは、時代背景や将門信仰の意味など、いろいろと示唆に富む話が出ましたが、長くなるので省略します。
いささか私の贔屓目かもしれませんが、戸田さんの新説への共感はかなり得られた気がします。将門我孫子説を広げていくためのアドバイスも参加者からいただきました。
参加者のなかには、もっと戸田さんの話を聞きたいという人もいましたので、戸田さんの調査・研究がさらに進んだら、改めてまた戸田さんにサロンをお願いしたいとも思っています。また、近いうちに、戸田さんにもお願いして、将門関連の我孫子ウォーキングツアーを企画したいと思います。決まったらまた連絡します。
時代の大きな変わり目に起きた「将門の乱」はとてもたくさんのメッセージを私たちに与えてくれているような気がします。残念ながら、いまはまだ将門への関心はさほど高くはありませんが、題材としては、「鬼滅の刃」にも匹敵するほどの魅力を感じます。どなたかコミック化してくれないものでしょうか。
将門に関わるサロンは、これからも考えていきたいと思っています。話題提供者も探しています。もしこんな切り口でサロンを行いたいという方がいたらご連絡下さい。
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