■第20回万葉集サロン「〈わ〉を見つめることから始まる〈語り〉への憧憬」報告
今回は、「かなし」と「さぶし」という2つの言葉を詠み込んでいる歌を切り口にして、「〈わ〉を見つめることから始まる〈語り〉のはじまり」がテーマでした。
案内文でも紹介しましたが、升田さんは、「さぶし」という情語に込められた「寂しい、淋しい」という思いのなかに、「た」の中の「わ」「な」を客観的に捉えたときに生まれる「自己」への意識の深化を読み取ります。
そして、「自己」を見つめる目は「他者」を見つめる目を同時に育て、「語り」たい意識が人の思いの中にあるのに気づくことになる。ここから「神語り」ではない「人語り」が始まるというのです。
「かなし」を詠み込んだ歌はたくさんあるそうですが、「さぶし」の言葉は万葉後期から出てくる新しい言葉で、その数も「かなし」に比べると少ないそうです。
「かなし」という思いは、多様な場と複合的な意味をもって、「た」のなかで「わ」と「な」と共動しているのに対して、「さぶし」は、「た」との感情の連鎖を遮断して、「わ」の深部へと入っていく気持ちであり、そこから自我意識が生まれてくる。「さぶし」の言葉の前に、「…ば」「…ども」という逆接のことばがつかわれることが多いのも、そうしたことを示唆している、と升田さんは解説してくれました。
こう書くとわかりにくいのですが、実際にそれぞれの言葉が出てくる歌をいくつか読んでもらいながら話を聞くとそのちがい、あるいは変化がよくわかります。
さらにそこから大きな変化が生まれた、と升田さんは言います。
「神語り」的だった歌が「人語り」になっていくというのです。
その例として、高橋虫麻呂の歌(巻9-1742,1743)と紀郎女の歌(巻4-764)を読み比べて、前者には伝奇的ロマンがあり、後者には人間的リアルがあると読み解いてくれました。
いうまでもなく、人間的リアルのなかから、自我としての「わ」が生まれてくるわけです。そしてそこから、「和歌」と「物語」という2つの流れへと展開していくことになる。
今回、升田さんは、「かなし」と「さぶし」の違いを「円環と直線」の違いを使って話してくれました。
「かなし」は、このサロンでは「た」という言葉で表してきている「みんな」が共有し合っている世界、つまり円のなかにある言葉で、そこでは「わ」(自分)も「な」(相手)も思いを共有しあっている。みんなをつないでいるのが、「うた」なのかもしれません。
それに対して、「さぶし」は、そういう他者(多者)との共有の思いから分離されて、むしろ「た」や「な」と対峙する思いとして、個のなかで生まれてくる。
対峙するという意味で、それは対象との関係で言えば、直線的な関係にあると升田さんは言います。言い換えれば、そこで「わ」や「な」の意識が芽生え、自我へとつながっていく。「かなし」が「在る」思いなら、「さぶし」は「持つ」思いと言ってもいいかもしれません。
ちなみに、こうした自我につながる新しい言葉としては、たとえば「うれし」など、他にもあるそうです。
同じ言葉でもうたい方で意味合いが変わってくるという話や、文字になった時も書き方で意味が変わるというような話もありました。
円環と直線に関しては、そこから生き方の話にもいきました。
そういう脱線したところの話も、いつもとても面白いのですが、いつも詳しく紹介できないのが残念です。
また、この報告では肝心の読んだ歌のことはほとんど紹介していませんが、それは私の消化能力不足のためです。歌だけではなく、この報告は私の勝手な解釈も入っていますので、升田さんの意図を曲解しているかもしれませんが、その点はご容赦ください。
何しろ消化能力不足で、いつも報告には苦労しています。
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