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2022年5月

2022/05/31

■湯島サロン「知識ゼロで挑む無門関パート2〈世尊拈華〉」報告

久しぶりの金子さんの「知識ゼロで挑む無門関」サロン。今回のお題は第6則、「世尊拈華(せそんねんげ)」です。
「世尊(ブッダ)」が花をかかげた、聴衆の中でただ一人、迦葉(かしょう)だけがそれを見て笑った。このことで仏教の真髄は迦葉ただ一人に伝えられた、というお話です。

金子さんは、案内文で、この話には、師匠が弟子にどのようにその技芸における神髄を伝えるかという問題、さらにはコミュニケーションの根本問題「伝わる/伝わらない」とはどういうことかを示唆していると呼びかけていました。そして、「その答えはおそらく皆様方の予想外の地点にあります」とヒントもくれていました。

私も事前に何回か読んだのですが、難解であると同時に、極めて簡単なような気もします。いや、簡単なようで難しいというべきかもしれません。さて金子さんはどう解いてくれるのか。

サロンには、禅にもなじみがあるという人も参加していましたが、最初にまず、改めて各自、「無門関」の「世尊拈華」を読みました。そこでそれぞれの意見を、ということでしたが、なかなか発言がありません。

金子さんの誘導で、少しずつ意見が出てきましたが、公案を解くところには達しない。しかし「金子導師」は、突き放すことなく、巧みに「近づいてきた」「もう一息」といって、みんなの思いを引き出し、方向づけてくれます。時々、ヒントも付け加えながら。
そして行き着いたところは、予告通り、みんなの「予想外の地点」でした。
もっとも、その予告もまた、大きなヒントになっていたのですが。

その解は、ネタばらしになってしまうので、書きません。解が提示されてしまえば、公案の意味がなくなりますから。
それに、公案は「結果としての解」ではなく、「過程としての解」に意味があるのでしょうから。

金子さんが具体的に説明してくれたように、公案のなかにヒントは散りばめられていました。
金子さんは、途中で、「ウミガメのスープ」の話もしてくれました。
そして、金子さんはこう付け加えました。
無関係に見えることがらにも、因果はある。そうした「原因」と「結果」を論理的につなげる説明を示すのが、「公案を解く」ひとつのかたちだと。

「世尊拈華」でいえば、「掲げた花」と「破顔微笑」、「微笑」と「真髄の継承」という2組の原因-結果が考えられます。そこをつなげる「合理的な説明」を見つけることが、公案を解くことになるということでしょうか。
後の話し合いで出ましたが、公案によっては、この「原因-結果」の構造のないものもありますが。

また「伝承」というと、AからBへ、と一方向的な流れを想定してしまうが、情報の流れのない「伝承」もあるのではないか、とも話してくれました。
「コミュニケーション」とは、もともと、「共通の世界を持つ」という意味ですから、必ずしも「伝達」はなくとも成り立ちます。これも大きなヒントでした。

「世尊拈華」の公案には、いろんな示唆が含まれています。考え出すと際限がない。それもまた公案の面白さかもしれません。
かくして金子さんは、「無門関」の「永世愛読者」になったわけです。

サロンの後、参加者のおひとりから、「私の「言葉頼り」がまだまだ大事な本質をとらえられない障りとなっていることに気がつきました」というメールをもらいました。同時に、その人は、自分はこう解きたいとも書いてきました。それもまた俗人の私には納得できるものでした。

念のために言えば、その人は、金子さんの問い方に異を唱えたわけではなく、「いずれにしても「考えること」が面白かった」と書いてきたように、「過程としての解」にいろんな気づきを得たのだと思います。そこにこそ、無門関を解く面白さがあるのでしょう。私もまた別の公案を読みたくなりました。金子さんに次のお勧めはと訊いたら、第8則の「奚仲造車」を勧められました。もし気が向いたらみなさんもぜひ。

ちなみに私は、「花」や「破顔微笑」に関心を向けすぎて、事態の本質をいささか見誤った気もしますが、参加者の中にも、「花」や「笑」に焦点を重ねた人もいたでしょう。
そんな話も少し出て、「花笑み(「花咲み」とも書くそうです)」という言葉も教えてもらいました。最近、畑作業にはまっている私には、とても納得できる言葉です。
「破顔」と「微笑」も私にはつながりませんが、考え出すと際限がありません。

ちなみに、今回も本論に入る前の金子さんのお話もとても面白かったです。
その面白さは、なかなか文章では伝えられない。
それが少し残念です。

Mumon2

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2022/05/30

■節子への挽歌5354:「畑に行かない券」のプレゼント

節子

昨年までは時々、孫のにこも畑に行っていたのですが、今年になってからは畑らしくないほどの荒れた状況で、畑には行きません。バッタがいるとかカエルがいるとか言っても、頑として拒否します。
ところが先日、にこの誕生日に欲しがっていた図鑑をあげたら、81歳の誕生日に「畑に手伝いに行く券」をあげると言っていました。

夕方、にこ親子がケーキをもってやってきました。
にこからなんだかリボンのようなものをプレゼントされました。
券が折り込まれているようです。
「はたけ券」かなと思って開いてみたら、違っていました。

Niko

「おさむさん おたんじょうびおめでとう。それより、はたけにわいきません」と書かれていました。

「畑に行きません券」でした。
にこはきっと気にしていたのでしょう。
でもよほど、畑がきらいなようです。

まあ、いささかの危険があるのは否定できませんが、さてどうやってにこに連れ出すか。
知恵を出せねばいけません。

みんなでケーキを食べた後、トランプゲームをしました。
最近のわが家の誕生日は、こんな感じです。
節子がいた頃とはだいぶ違います。
節子はなんだかわかりませんが、大きなものを持ち去ってしまったような気がします。
少なくとも私の人生は、大きく変わってしまいましたし。

孫にとっても、節子がいないのが本当に残念です。

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■節子への挽歌5353:81歳まできてしまいました

節子
何と81歳です。信じられないでしょう。私も信じられない。

昨日最後に会った人から分かれてすぐに「そういえば明日は誕生日ですね」とメールが来ました。今朝、フェイスブックを開いたら、誕生日を祝ってくださるメールが入っていました。今日は私の81回目の誕生日。
フェイスブックには、たくさんの人がメッセージを送ってきてくれています。

おかげさまで、健全な老化を伴いながら、ほどほどに元気です。
身体能力の低下はかなりのものですが、いまのところ何とかこれまでの生活スタイルをつづけられています。もっとも他者から見るとかなり危うくなっているだろうことは、みなさんの声掛け言葉でよくわかります。今日の誕生日メッセージもはっきりとあらwれ手います。正直、あまりうれしいものではありませんが、こればかりは仕方ありません。

なかには、しかし思いもかけない人からのメッセージもある。
うれしいことです。
節子の知っている人も少なくありません。

誕生日だからと言って何かをしたい気分は皆無です。
今日も午前中は畑でひと汗かいてきました。
ユカが外食を誘ってくれましたが、あんまり行く気もない。
娘たちからのプレゼントも、私があんまり喜ばないので、最近はプレゼントもない。
まあ私としては、それが一番なんですが。

それにしても81歳とは驚きです。

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2022/05/28

■湯島サロン「ゆとり世代からのメッセージ」報告

ゆとり世代の鈴木あかりさんのサロンは、あかりさんよりももっと若い人や3人の子どもの母親、ゆとり教育前の詰め込み教育の中で育った人など、10人ほどの参加者がありました。話はかなり広がったり盛り上がったりで、今回もまた1時間も伸びてしまいました。

Yutori

私自身は「ゆとり教育」には高い評価をしているのですが、世間的にはあまり評価されていないようで、ゆとり教育で困ったのは誰なのだろうか、ずっと気になっていました。その後の脱ゆとり教育がどんな方向に向かっているのかも気になっています。

今回は、「ゆとり」についても話し合いたかったのですが、どうも「ゆとり」というのはとても多義的で、一筋縄ではいきません。サロンで「おかねのゆとり」ということを指摘されて、自分の視野には全くなかったことに気づかされました。私は「ゆとり」とは時間とか精神とかしか考えていなかったからです。それに気づいたとたんに、自分の視野の狭さや思い込みを思い知らされ、サロンの報告を書く気力が萎えてしまいました。

そこでサロンで実体験的な話をされていた参加者の方や話し手のあかりさんに感想をお願いして、それで報告に代えようと思いつきました。

まず話し手のあかりさんは、「話し合いの方向性がゆとり教育のネガティブな側面に集中してしまい、ゆとりを持って生きることの意味についてあまり皆で考えられなかった」のが反省点です、と書いてきました。これは私こそが反省すべきことですが、たしかになぜかゆとり教育に否定的な人が多かった気がします。

また、「教育に関連して家庭環境も話題になり、教育と家庭は切り離せない問題であって、思いがけず振り返る良い機会になりました」ともありました。家庭環境の話をした参加者がいたおかげで、その話題になったのですが、「ゆとり教育」と家庭での親子関係をつなげる話し合いにもっていかなかったことを反省しました。学校教育と社会のありようは、相互に映し合う鏡のようなものでしょうから。「ゆとり教育」を考えるなら、大人の生き方や親子関係も一緒に考えなければいけません。

あかりさんは、「詰め込み教育時代の方が概念的な理解が進んでいたということに驚き、羨ましく思った」とも言います。
これは私も意外でした。そこにこそ、ゆとり教育の意味を感じていたからです。「ゆとり教育を受けた当事者としては、教わる内容が減った、易しくなったという印象しかなく、本質的な考えについて学ぶ機会がなかったのが残念でした」というあかりさんは、授業が退屈だったようです。でもその気になれば、物事を深く学ぶように仕向けることはできたはずです。制度の運用側の問題、あるいは社会全体の風潮の問題かもしれません。

デンマークやフィンランドなど、海外の教育との違いも話題になりました。あかりさんも小学校・高校時代と2度、カナダに留学し、日本の教育との違いを肌で感じていたそうですが、「国が気まぐれで決めた教育方針に、義務教育だから、皆がそうしているから、と安易に従うのはやはり危険だなと改めて思いました」と言います。でも当の子どもたちにはどうしようもない。やはりこれは親や大人の課題でしょうか。

あかりさんも、「子供のうちは自身で選択肢を広げることに限界がありますから、個性に合わせた様々な道が開かれていて、家庭環境に寄らずどれも選べて、どれを選んでも認められる社会が良いなと思いました」と言っています。

最後にあかりさんは、こんなことも書いてきました。
「因みに、最近本当の意味でゆとりが加速しているのではないかと思う出来事がありました。たわいの無いことですが、ゆとり世代のように社会は変わっていないのに教育だけの取り組みではなく、ゆとりある社会になって来ているなと感じることがあったのです。ゆとり教育から20年程経ち、やっと社会が教育理念に追いついて来たのでしょうか。私がいつも楽観的なだけかもしれませんが」。
どんな出来事だったのかわかりませんが、私も時々、感ずることです。
「ゆとり」がますます失われている気もしますが、ゆとりを大事にする若者も増えている。私もそこに大きな希望を感じています。

次は世代の違う参加者からの感想です。
まずはあかりさんより若い大学生からの感想。

「学校も「ゆとり教育」もその後に復活した「詰め込み教育」も、僕にとってはそこを生きてきてしまったわけで、そういう学校体験全てありきで今の自分がいて、記憶をもとにあれが良かった悪かったと言っていても仕方ない気がしました。僕にとって良い面も悪い面ありましたし、悪い面も良い面になったり、良い面も悪い面になったりしていると思いますが、だからなんだという気分になってきました」。

とても共感できます。ゆとり教育論について言えば、当事者を抜きにした無責任な観察者(知識人)的議論が多いことがいつも気になっていましたが(これは別にゆとり教育に限ったことではありませんが)、大切なのは、新しい体験から何を学ぶかであって、それは体験した当事者の立場でなければ見えてこないと思っています。

次に、3人の子供が学校に通っている母親の感想。

「ゆとり世代と言われている当事者が、自分たちの何が他の世代と違うのか,はっきりわからないとおっしゃっていたこと。他と比較して育つわけではないので確かにそうですね。当事者もまわりの人間もはっきりわからないまま「ゆとり世代」という言葉だけが世に広がっていたのだと気づきました」。

「あかりさんが「授業が退屈だった」とおっしゃっていたこと。授業がわかってしまう子どもに何か用意すべきだったのでは?と思いましたが、あとから、その退屈な時間がむしろ人間にとって大切な「思索の時間」になったのではないかという思いが浮かびました。一見無駄に思える「思索の時間」があかりさんの軸を作る手助けをした可能性はあると思います」。

「教育に詳しい方が「ゆとり」について教えて下さったものの、誰がなんのためにゆとりをはじめて、誰の力で終了したのか疑問は残っています。日本社会は「誰がやったか」を隠そうとしますよね。誰がなんのために(どこからの力で?)、が明白になれば、今の教育の問題点がもっと見えてくるように思います。

いずれも同感です。
私も、「ゆとり」が「思索」を生み出すと思い込んでいましたが、「おかねのゆとり」はもしかしたら「思索」を阻害するかもしれないと気づきました。
金銭依存社会の教育の話題も出ましたが、子どもや若者の教育が社会の未来を創り出すことを考えると、私たちはもっと学校教育に興味を持つべきだと思います。

他にも話題になったことはたくさんあります。
制度はよかったとしても、制度を活かすことのできる先生が少なかったという話もありました。しかし、実際にその制度で活動する当事者たちが活用しにくい制度が、よい制度であるはずはありません。
ゆとり教育で成果を上げた事例の話もありました。

最後に私の感想を一言。
私は、「おかねなどなくても時間や精神のゆとりの持てる生き方」を目指したいと思っていますが、今や多くの人にとって求める「ゆとり」は「おかね」なのかもしれない。「おかね」はゆとりのための一つの手段だったはずなのに、いつの間にかそれ自身が目的になってしまった。そんな気がしてきました。「ゆとり教育」から「おかね教育」へ?

「ゆとり」とは、いったい何なんでしょうか。
あらためて、考え直さなければいけなさそうです。

長くなってすみません。

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2022/05/27

■節子への挽歌5352:落ちてきたひな鳥

節子

幼稚園から帰ってきたにこが玄関でジュンと騒いでいます。
なんだろうと降りて行ったら、野鳥の子どもがわが家の中庭に落ちてきたそうです。
巣から早目に飛び出して失敗したのでしょうか。
そういえば、数羽の親鳥が近所の家の屋根の上やテレビアンテナの上で鳴き続けています。

そこで箱を用意してひな鳥を入れてやりました。
いつも親鳥が食べている庭のジュンベリーの実も小さく刻んで口に入れましたが、まだ呑み込むすべを知らないようです。いつもは親鳥に押し込んでもらっているのです。

あまり近くにいると親鳥が降りてこられないだろうと少し放置することになりましたが、しばらくしていってみるとひな鳥は箱から飛び出して中庭の隅っこに隠れています。
これは本能なのでしょう。

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中庭は隔離されているのですが、安全とは言えません。
というのは近隣の猫が時々やってくるからです。
さてどうするか。
にこの知恵が働くといいのですが、まずは図鑑で餌を見つけると言っています。
まあ生物を大事にする親子なので、何とかするでしょう。
雨が上がったので、よかったです。

親鳥はいまも大きな声で鳴いています。
ひな鳥事件は、時々起こっていますが、今回のはめずらしいです。

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2022/05/26

■節子への挽歌5351:畑に2回も行きました

節子
昨日に続いて、今日も畑作業でした。

体調もだいぶ戻ってきたので、病院よりも畑療法が効果的だと判断して、今朝も9時過ぎに畑に出かけました。今日の作業を刈り取った草を埋める穴掘りです。ところがこれが難作業です。
なにしろ篠笹の根っこが半端でなく張りめぐっているのです。根切り鎌で切るにもかなりの力が入ります。そのうち太陽も強くなり、暑くなってきました。
今日は注意しようと、買い物に出かけていたユカに電話して、麦わら帽子と飲み物を届けてもらうことにしました。

穴は何とか一つ掘りましたが、40分もかかりました。そこに刈り取った草を詰め込みました。こんな穴をこれから4つほど掘らねばいけません。
開墾作業は大変なのです。顔から汗がしたたり落ちる感じです。

もう帰ろうかと思っていたら、娘が帽子とアクエリアスを届けてくれました。それで一息ついたら、また草刈りがしたくなりました。草刈りは成果が目に見えてわかるので、面白いのです。

夢中に草を刈っていたら、近くの青木さんがやってきました。
青木さんは昔からの地元住民で、兼業農家ですが、会社はもう定年退社して、たぶん暇なのです。花かご会の時に節子にお世話になったと、前も行っていました。

私は草刈りは土の上に座り込んで作業をするのですが、青木さんも土の上に座って話し出しました。話はいろいろです。
青木さんと私は別に自治会のメンバーですが、自治会のトラブルなどの話をしてくれましたが、同時にウクライナ戦争の話から食料自給の問題にまで、幅広い話です。昔はこうやって地域の人たちの情報共有がなされていたのでしょう。
気が付いたら11時半、青木さんは11時過ぎに約束があったようで、あわてて帰っていきました。
私も帰りが遅くなったのですが、上から私が青木さんと話しているのが見えるので、大丈夫だと思って呼び戻しの電話がなかったのでしょう。

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今日は午後もまた畑に行きました。かなり成果が上がりました。
しかし、野菜はいささか危ういです。せっかくの小玉スイカは消えかかっています。困ったものです。

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2022/05/25

■節子への挽歌5350:元気がだいぶ戻りました

節子

今日は初夏のようないい天気です。
にもかかわらず、どうも調子がよくありません。
どこがどうとうまく言えませんが、胃腸の調子が悪いのはたしかです。
食欲もない。
昨日はお医者さんに行こうかで追うか迷ったのですが、結局、畑作業療法のほうがいいと判断して、畑に行きました。でもどうもよくならない。

昨夜は夕方テレビを見ていたら、急にお刺身が食べたくなった。
これは回復の前兆です。食欲が出たのですから。
ユカが買ってこようかと言ってくれたのですが、どうせなら近くの回転ずしに行こうかとジュン母子も誘って、はま寿司に行きました。
孫のにこはお寿司が大好きなのです。

ところが、目玉商品はすでに完売で、おいしそうなお寿司がないのです。
こうとわかっていたら、お刺身にすればよかったといささか後悔。
でもまあ孫との会食もできたので、少し元気が出ました。

お寿司の後、孫はいつもポテトティップスを食べるのですが、どういうわけか今日は届いたらまず最初の1本を私にくれました。
孫にも私がよほど元気なく見えたのでしょうか。
子どもはなにしろ本質を見抜きますので。

今朝は少しよくなった気がしますが、基本的には変わりません。
朝、畑に水をやりに行ったのですが、それだけで疲れてしまいました。
でもまあとてもいい天気のおかげで、湯島のサロンにやってきました。

初夏の湯島は、ぼんやりしているにはとてもいいところなのです。
明日は医者に行こうか決めようと思います。
サロンには、私の健康を心配したと言って若者が参加してくれました。
うれしいことです。

彼はさらにうれしいことを言ってくれました。
佐藤さんが亡くなったから15年後にお墓参りに行きますよ、と。
先日の挽歌の記事を読んだようです。
まあこれでもう安心して死ねそうです。

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■「論語と冠婚葬祭 儒教と日本人」の紹介

個人がばらばらになりがちな最近、あらためて家族や仲間について考えています。
そんな時、一条真也さんが新著を送ってきてくれました。
現代書林から出版された「論語と冠婚葬祭 儒教と日本人」。儒教研究者加地伸行さんとの対談をまとめたものです。

一条さんは、冠婚葬祭の会社の社長ですが、その博識ぶりは加地さんも認めるように、中途半端なものではありません。私が知る限り、読書も行動も、けた外れの人です。
一条さんは新著を書くと必ず私にも送ってくださいます。教えられることがいつもたくさんあります。今回もいろいろな気付きを与えてくれました。

儒教などというといかにも古い話に感ずるかもしれません。
しかし本書を読むとわかってもらえると思いますが、私たちの生活を大きく支えてきたのは儒教の精神だったような気がします。それがいま、崩れだしているような気がします。それは社会の混乱につながりかねません。そんな不安が私にはあります。

儒教の中心には、孔子の「論語」があります。
最近、渋沢栄一の「論語と算盤」が改めて読まれているようですが、一条さんは本書は、「論語と算盤」の副読本として読んでもらってもいいと言っています。

私が子どものころ読んだ本に、下村個人の「論語物語」があります。
この本は私の生き方に大きな影響を与えました。
私の生き方は論語とは真反対のような気もしますが、それでもどこかで論語の影響は否定できません。そこには生き方の基本があったように思います。

冠婚葬祭も、いまでは簡略化の傾向がありますが、逆に今こそ、その意味を問い直していくことが大切ではないかと、一条さんは考えています。私も共感します。
そういう意味で、一条さんの活動は長年ずっと関心を持っていました。

一条さんには「儀式論」という大著もあります。これは「人間とは何か」を考えさせられる本です。これもよかったら読んでみてください。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#161211

儒教といえば、すぐ思い出すのは、「仁義」や「忠孝」ですが、これに関してもわかりやすく説明されています。
たとえば、「孝」というと、多くの人は「親に対する絶対的服従の道徳」と思いがちですが、そうではないと言います。死んでも、なつかしいこの世に再び帰ってくることができるという「招魂再生」の死生観と結びついて生まれてきた観念が「孝行」だと言うのです。そこにあるのは「生命の連続」の概念によって、死への不安を「生」への安心へと導くと言います。私にはとてもよくわかります。
では「仁」とはなにか、「礼とはなにか」と、次々の儒教の精神が、日本人の生活とつなげられながら、説明されていくのです。

対話形式なので、とても読みやすい本です。
ぜひ多くの人に読んでもらい、生き方をちょっと考え直すきっかけにしてもらえればと思います。それだけでも社会は変わっていくでしょう。

ちなみに一条さんは、本書に続いて、「仏教と日本人」「神道と日本人」を出版していくそうです。これもまた楽しみです。

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■湯島サロン「平和のための『新』政党の話」報告

長年、平和や人権について考えてきた川本さんが、これまでの著作活動から、その思いを次世代につなげていくための活動へと進みたいということで、「平和のための『新』政党の話」の構想をまとめつつあります。
今回は、いわば川本さんの決意のお披露目のサロンでした。

川本さんの構想の出発点は、「戦争ができる国家」の変革を目的とした活動を国家の枠を超えて創り出していくということです。モデルの一つは「緑の党」です。
「緑の党」はいまでこそ、世界各地に展開していますが、その始まりは、半世紀前の1972年実施のオーストラリア・タスマニア州選挙に向けて結成されたグループでした。
「緑」をうたっていますので、環境保護に取り組むイメージが強いかもしれませんが、今では平和で持続可能なエコロジー社会を目指す、幅広い政策をもつ政党です。

川本さんの構想もこれに同じく、起点には戦争や平和がありますが、目指すところは、人間を基本としたみんなが豊かに暮らせる社会づくりです。
サロンの案内でも紹介しましたが、川本さんは「その目的を達成するには、気が遠くなるような時間がかかるでしょう。しかし、誰かが始めなくてはなりません」と考えています。その最初の一歩とも言うべきサロンでした。

サロンには、20代から80代までの男女9人が集まりました。
まず川本さんは、新政党づくりの背景と活動の理念をまとめた小冊子をみんなに配布し、なぜ自分がこの活動に取り組むことにしたかを紹介しました。

川本さんの新党構想の要点は次の8点です。
・これまでの政党とは異なるタイプの「最左翼政党」
・戦後日本国民の原点を受け継ぐ政党
・「希望する平和」でなく、「獲得する平和」を追求する政党
・「平和のための革命」を担う政党
・「新」平和憲法の制定をも追及する政党
・「平和の未来」を掲げる少数政党
・人権革命・「平和のための革命」を世界に発信する政党
・「かけがえのない他者」を思いやる人間が担い手となる政党

おそらく参加者は、この構想には大きな異論はないでしょう。
むしろ、「どう具体的に行動するのか」「新しい政党の理念とその実現性は」「平和とはどういう状況か」などというところに関心があったようで、話し合いはいささか紛糾しました。

川本さんとしては構想をしっかりと共有した上で、その実現に向かう方策などを話し合う仲間を求めていたように思いますが、参加者は「平和のための『新』政党」構想実現に取り組む具体的な計画を期待していたようです。
参加者はみんな現状に危機感を持っていて、新しい動きを起こすことへの期待も大きいために、いささかの食い違いが生じてしまったのかもしれません。

いま、世界各地では、若者を中心にさまざまな運動が起こっていて、それが緩やかにつながりながら、各地に広がっています。
私が知る限り、そうした活動の基本にあるのは「表情のある(つまり抽象的ではない)人権」や「個人にとっての(つまり国家にとってのではない)平和」です。
川本さんが敢えて、戦争とか政党とか左翼とかいう言葉を使っているところに、私は違和感がありますが、川本さんの思いには共感できます。ただ今回は、話し合いが時間切れになってしまい、これまでの政党との違いや平和の捉え方の違いなどに焦点が合わなかったのが残念でした。

なお川本さんの論考を読んでみたいという方がいたら、データで送らせてもらいますので、私宛にご連絡下さい。
できれば、川本さんのサロンももう一度、企画したいと思います。
今度は参加者は、事前にそれを読んできた上での前向きな話し合いができればと思っています。これは川本さんが受けてくれれば、の話ですが。

ウクライナの現状から学ぶべきは、軍事力の増強や核保有国への属国化だけではないはずですから。

Heiwa202205

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2022/05/24

■節子への挽歌5349:やっと畑に行けました

雨もあって、また10日近く畑に行けませんでした。
今日はいい天気になったので、気になっていた畑に行くことにしました。

実は数日前から胃腸の痛みなど、いろいろと体調がおかしいのですが、畑に行くのが病院よりもいいだろうという判断をしたのです。
途中で倒れたら大変なので、一緒に行こうとユカを誘ったのですが、断られました。
もちろん私が畑に行くのにも反対です。
それに何でこんな太陽が出ている暑い時に行くのかとまた叱られました。
しかし、太陽がぎらぎらしている時でなけれなば私は畑に行く気にならないのです。

畑に着いて、まず先日植えた野菜に挨拶しましたが、みんな瀕死の状態です。
でもまあ、ナスとトマトは何とか大丈夫そうです。
支えの棒を立てました。

それから草刈り。
この時間は至福の時間です。草や土の感触がとてもいいのです。
太陽にじりじりと照らされるのも気持ちがいい。

笹のほかにはセージが広がっています。
一時期、セージ畑にしようかと思ったこともあるのですが、まあしかし選択していると大変なので、ともかく一度すべてを刈り取ることにしました。
深い草藪を刈り込んでいったら、行方不明になっていた鍬が見つかりました。
これで畑が耕せます。

アーティチョークが大きなつぼみを2つつけていました。
草に負けずに頑張っています。
先日少し救出したイチゴは、小さいながらも実をつけていました。
のどが渇いていたので、早速に食べましたが、甘くはないもののなつかしいイチゴの味がしました。

刈り取った草は埋めようと思っていますが、今日は、体調もよくないので穴掘りはやめました。しかし今年はごみ処理ではなく、大地に戻そうと思います。
昨年10本くらいまでに育てたアオイは1本だけしか出ていません。
まあ野草を刈り取ればきっとまた芽が出てくるでしょう。

1時間、いい汗をかいたおかげで、体調も少し良くなった気分ですが、でもどこかい違和感がある。自宅に着いたら疲れがどっと出て、また玄関で大の字になって5分ほど寝ていました。
体力の低下は、自分ながら驚きます。

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■湯島サロン「脳の食べ物は言葉だけ? ~脳への栄養の再考 ~」報告

視覚的媒体を活かして話し合うワークショップ形式の仲谷さんのサロンは、サロン初参加の人も含めて7人が集まりました。

今回のプログラムは、参加者の一部が目をふさいで見えない状況にし、みんなには提示された画像(絵や写真)を、その画像が見えていない人に楽しんでもらうというものでした。
1回目は1人だけ、2回目は2人が目を覆って、盲目状態にして、みんなと会話を楽しむというわけです。
それぞれに使う画像は、ある雑誌の表紙と記録的な写真でした。

今回の進め方は、いずれも目が見えない状況にある人からの質問から始めるスタイルでした。
それぞれ1時間ほどかけてのワークショップでしたが、見えていない人に説明するために、画像をよく見なければいけません。よく見ていると、最初の印象とは違ってくるのといろいろと小さなところに気が付きます。私たちは、物事のほんの一部しか見ていないことにも気づきます。
また話し合ってみると、同じものでも人によって解釈はさまざまです。また、見えない人の関心と見えている人の関心の違いにも気づかされます。

話し合いが一段落したところで、果たしてどんな画像だったと思うかを目を覆っていた人に話してもらい、その後、目の覆いを外して、画像を見てもらいます。
時間をかけたせいか、なんとなく画像の情報はつたわっていたような感じでしたが、たぶん、目の見える人が持った感情的なものまでは伝わっていなかったような気がします。
また説明する側も、「説明」という言葉に象徴されるように、論理的に解説する傾向が強いのが印象的でした。

しかし例えば、2回目の写真の時には、それを見たとたんに、何人かが笑ってしまいました。目の見えない状態の人には、それが気になったようで、どうして笑ったのかという問いかけもありましたが、その理由はなかなか説明が難しいことに気づかされました。

いろいろなことの気づかされるワークショップでした。
仲谷さんは、他にもプログラムを用意してきていたようですが、時間が無くなってしまい、今回はこの視覚を遮断して人とのコミュニケーションだけで終わりました。
仲谷さんは、この手法を組み合わせたコミュニケーション支援や自己再発見のためのプログラム開発を検討しているそうです。
課題はたくさんありそうですが、そのプログラム開発そのものも面白そうです。

どなたか仲谷さんとコラボレーションしたいという方がいたら、仲谷さんに連絡してみてください。仲谷さんは、研究会的なものも立ち上げたいと思っているそうです。
また希望者がいれば、仲谷さんのワークショップ型サロンを企画することも考えたいと思います。

ちなみに、サロンのタイトルの「脳への栄養の再考」に関しては、直接には話し合いにはありませんでしたが、いろいろと考えるヒントがあったような気がします。

Nakaya22

 

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2022/05/23

■節子への挽歌5348:不安な1日

節子

一昨日からまた胃腸が痛くなりました。
痛みはさほどではないのですが、気持ち的にはどうも気が出てこない。身体全体に違和感があるのです。
そろそろ寿命かなという気もしだしていますが、それ以前にともかく得も言われぬ辛さがある。
困ったものです。

節子もこういう日々を過ごしたのでしょうか。
でもいつも隣に私がいた。
何の救いにならなくて、辛さを気楽に話せる人が近くにいると気分的には安心でしょう。

私の場合は、娘が聞き役ですが、やはり伴侶への気安さと娘とではだいぶ違う。
そんな気がします。
やはり伴侶の存在は大きいのです。

こういう状況が続いていたら、病院に行こうかなと思いますが、もう少し様子を見ようと思います。
なんだかとても不安に駆られて1日でした。

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2022/05/21

■節子への挽歌5346:論語物語

節子

最近、中国ドラマの「始皇帝」と「三国志」を見続けています。
歴史的ないろいろなことを知るのも思いsロいのdすが、そこに出てくる「忠孝の精神」にはいろいろと考えさせられます。
ドラマですから、どこまでが真実かはわかりませんが、親への孝と仕えるものへの忠とが、社会の秩序を維持していたことがよくわかります。
いまから考えれば、不条理にさえ感じますが、秩序を維持するとはそういうことかもしれません。

先週、佐久間さんから新著「道教と日本人」が送られてきました。
とてもわかりやすく共感できました。

そこで思い出したのが、小学生のころ読んだ下村個人の「論語物語」です。
詠んだのは6年の時ですが、いまから考えると、あの本は私の基本的な価値観を決めたのかもしれません。
大学時代以降は、むしろ儒教的な考えには否定的だった気もしますが、結局は何とかそうした呪縛から抜け出たくて、そう思いこもうとしていたのです。
たぶん節子にも同じようなところがあり、いち早く親元から出たにもかかわらず、結局は親思いの人でした。

この歳になると、そういうことが素直にわかるようになってきます。
気になって、書棚から「論語物語」を探し出しました。
これは小学生のころ読んだ本ではなく、その後、再刊されたものを購入したまま、一度も読んでいない本です。
字が小さくて読むのは大変そうですが、そして読んでもたぶん退屈でしょうが、近いうちに読み直してみようと思います。

ちなみに、中学生の頃読んだ鈴木三重吉の『古事記物語』も、なんとなき記憶に残っています。
古事記は何回か読み成そうと思い、本も何回か購入していますが、こう考えると、私の価値観はとても保守的で古色蒼然としている気がします。

どちらが本当の私でしょうか。
たぶん、論語物語に共感した私が、やはり私なのでしょう。
だから節子に会えたのかもしれません。
節子は論語の人でしたから。

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■第15回益田サロン「頭の論理と体の論理」のご案内

細菌学者の益田さんのサロンも16回目を迎えます。
新型コロナウイルス感染症を話題にして始まったこのサロンも、テーマは大きく広がってきていますが、今回は「頭の論理と体の論理」をテーマに選びました。

益田さんからのメッセージです。

寿命は有限であるというのは体の論理ですが、頭の論理はいつまでも生きていたいというものです。
他人からの臓器移植では拒絶反応を起こして死んでしまうのが体の論理ですが、拒絶反応を抑えてでも体を生かしたいというのが頭の論理です。
体が死んだら土にかえるというのが体の論理ですが、体が死んでも魂は不滅だというのが頭の論理です。
これは若い時に水ぼうそうの後、身体に潜んでいたウイルスが、宿主が高齢になって死にそうになると帯状疱疹を起こしウイルス粒子として体を脱出して自分だけは生き残ろうとすることにも似ています。
ウイルスは頭の論理を採用しているようです。

以上が益田さんの解説ですが、なんとなくわかったような気もしますが、でも「体」と「頭」とはどう違うのか、考え出すとまたややこしくなりそうです。
益田さんはまた、人間は、頭が体を支配しようとしていると考えがちだが、それは生物が環境を支配するという主客転倒の例といえるかもしれないといいます。頭の論理が生み出す世界には限界があるのか、という問題もありそうです。

サロンで、益田さんと話し合いながら、またさまざまな示唆が得られそうなサロンです。
益田さんは、最近湯島のサロンでも話題になる二分心仮説や物心二元論にもつながるかもしれないと言っています。
いつものように、参加者の問いかけで、話題や論点も変わっていきますので、ぜひご自分の関心のある方向に話題を向けるようにしてもらえれば、さらにサロンは面白くなるでしょう。それもまた益田サロンの面白さの一つですので。

益田さんのサロンにこれまでも参加されなかった方も気楽のご参加ください。
テーマは難しそうですが、予備知識などなくても大丈夫ですので。

〇日時:2022年6月10日(金曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「頭の論理と体の論理」
〇話題提供者:益田昭吾さん(細菌学者/慈恵医大名誉教授)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2022/05/20

■節子への挽歌5345:ワタアメ

節子

昨日、にこが友達のお母さんから「ワタアメ」をつくるおもちゃをもらったそうです。
その話を聞いたので、夕方、にこにワタアメをお願いしますと頼みました。
いろんな味があるけど、なに味がいいか、と訊かれましたので、「いろんな味」でお願いしまうと言ったら、「いろんな味」という味はないよと言われてしまいました。

私が声をかけた時は、にこはじゅんと一緒に庭の芝生を植え変えていましたので、すぐにはワタアメは届きませんでした。
夜になっても届かないので忘れられてしまったなと思っていました。

ところが今日、私は午後、在宅だったのですが、3時過ぎににこが帰ってきました。
いつもはバスを降りた後、近隣を散歩しながら帰宅するのですが、今日はめずらしくすぐに帰宅。玄関でじゅんと話していました。
聞こえた言葉は、「だっておさむさんにワタアメをつくってやりたい」という言葉です。
どうも母親のじゅんは、ワタアメづくりはあまり賛成ではなく、今日はやめようと言ったようです。それに対しての答が、どうも聞こえてきたのです。

しばらくして、にこは4本のワタアメをもってやってきました。
3つは小さなワタアメ、もう1本は大きなワタアメです。
そして、小さなワタアメは、ブドウとパインと普通味だとはなしてくれました。
大きなワタアメは普通味。
そしてどれがいいのかと訊かれました。

大きいのでもいいのか、と訊いたら、いいと言います。
迷いましたが、結局、めずらしいブドウ味を選びました。
一緒にいたユカもお相伴したのですが、ユカは普通味の小さい方を選びました。

Wataame202205201
渡したらにこは1階に戻っていきました。
昨日から気になっていたのかもしれません。
いつもおさむさんはきらいだと言っているのに、うれしいことです。

もらったワタアメを食べてしまってから、写真を撮っていなかったことに気づいたので、下に降りて行って、にこの大きなワタアメの写真を撮らせてもらいました。
にこはまだ小さなパイン味をたべていました。
明日もまたお願いしますと言ったら、明日はお休みだということ。明後日もお休みだそうです。

どうもワタアメづくり機は、使用後の処理が大変なようで、ジュンはあまり歓迎していないようです。
にこは母親思いの子なので、しばらくはワタアメは休業のようです。

ちなみににこの作ったワタアメはなつかしい味でおいしかったです。

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■節子への挽歌5344:信仰の力

節子

昨日、応現院を案内してくださったのは阿部夫妻です。
阿部和子さんは、小さな時から病気がちだったそうですが、ある時に真如苑の信仰に出会い、人生を変えたようなお聞きしています。
両親は法華宗徒だったようですが、お経を聞いても意味が分からない。
しかし真如苑の教えはわかりやすい言葉で語りかけてくれるのにとても共感したようです。

節子の両親は浄土真宗でした。
結婚して法事に参加するうちに、読経の後、わかりやウイ言葉で親鸞の教えを説くのです。
それが私にはとても新鮮でした。
意味の分かる説法と意味の分からない不思議な読経。
この組み合わせが、おそらく信仰の核にあるのでしょう。

難病や余命宣告を受けた人が、宗教に帰依することは少なくありません。
それで救われた友人知人もいます。
節子はどうだったのでしょうか。
たぶん信仰には向かわなかった。
勝手な推測ですが、私がいたからです。
節子は発病後は私に完全に身を任せていました。
それもひとつの信仰かもしれません。

にもかかわらず、私はそれに応えてやれなかった。
ただただ節子の病気は回復すると思い込むことによって、問題から逃げていたような気もします。
悔いがたくさん残ったのはそのせいです。

難病で不治を言い渡された人が、いろいろと名医を探して治った話を聞くことがあります。
先日もまさにそうした話を聞いたのですが、そういう話に接するたびに、罪悪感が浮かびます。
節子にはもっと誠実に取り組むべきでした。
そういう思いから、いまもなお、抜け出せません。

時々とても滅入ってしまうのです。

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2022/05/19

■節子への挽歌5343:真如苑応現院の法翔会

節子

今日は、真如苑応現院の法翔会に寄せていただきました。
信徒である友人夫妻からお誘いを受けていたのです。
私自身は、真言宗徒ですが、教団活動にはほとんど関心はないものの、信仰においては日本の仏教を拠り所にしています。ですから、仏教系の新興宗教にも関心があります。

真如苑は真言宗系で、涅槃経に所依していると聞いています。
以前、真如苑開祖の真乗の評伝を紹介され、読ませてもらいました。
そこに出てきた、どんな人も例外なく救われるという「闡提成仏」の考えに興味を持っていました。それに真如苑は最近も若い世代も巻き込んで広がっているという話も聞いていました。私自身は入信の可能性はゼロですが、その前提で法要を体験させてもらったのです。

どうせなら、立川にある一番大きな応現院での法翔会がいいのではないかというので、今日は案内してもらったのです。
施設の立派さにも驚きましたが、それ以上に若い世代の人も多いのに驚きました。

1時間にわたる法要の後、全館でさまざまな接心が行われていました。
真如苑の接心は、禅宗などとは違い、一種のカウンセリングのような要素もあって、霊能者と言われる人との個別対談形式で行われます。
今日、私を案内してくれたご夫妻も、接心を受けているそうですが、何も言わずとも霊能者の前に座ると心を読み解いてアドバイスなどをしてくれるのだそうです。

若い世代の人が多いのは、こうした接心のせいかもしれません。
みんな心穏やかな表情をしていましたが、なんだか孤独を感じさせる若者が少なくないような気もしました。みんな一人で座って何か手帳にメモしている様子も印象的でした。
接心もいいけれど、サロンもあるといいなと、勝手に思ったりしていました。

応現院の案内もしていただき、礼拝の仕方も教えてもらいました。
その後、真如苑に関していろいろと教えてもらいました。
みんなで支え合って世の中をよくしていこうという理念がよくわかります。
その一方で、宗教としてできることはたくさんあるなと改めて思いました。

友人夫妻のおかげで、滅多にできない体験をさせてもらいました。

ちなみに、応現院に入る時に、入り口にいた人が「おかえりなさい」と声をかけてくれました。真如苑の信徒は、みんないざとなったら帰る場所があるのです。
いま必要なのは、そういう「帰る場所」ではないかと思っている私には、とてもこころなごむ言葉でした。
もしかしたら、帰る場所があるから、みんないい人になれるのかもしれません。

いま多くの人にとって必要なのは、「帰る場所」かもしれません。
幸いに私には「帰る場所」があります。
でも残念ながらそこには節子がいません。
しかし、そのおかげで、私には「行く場所」もある。

そんなことを考えながら、2時間かけて帰宅しました。

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2022/05/18

■第4回本間神道サロン「日本の聖母信仰 全ての女神が聖母である?」報告

本間浩さんの聖母信仰サロンも4回目になりました。

今回は、「すべての女神が聖母である?」という大きな問いかけのもとに、記紀の語るアマテラスは聖母なのか、「大祓詞」に登場する罪汚れを大海原に持ち出すとされる瀬織津姫は聖母なのか、が、いろいろなエピソードや関連した話などに言及しながら、紹介されました。
また、これ以外にも、これまでのサロンで出た参加者の質問も解説してくれました。

話の内容は、いずれも興味深いもので、太陽神やうつぼ船神話、処女懐胎や異常出産の意味など、それだけでも1回のサロンのテーマにして改めてじっくりと聴きたい話題が多かったのですが、本間さんはレジメも作ってきてくださったので、そうした膨大な話も何とかついていけました。それにしても奥が深い。
しかし理解すると、さらにまた疑問が出て来て、関心はどんどん広がってしまいます。

本間さんは、「聖母は罪を引き受けて許してくれる存在」だと説明してくれました。
これはとてもわかりやすいというか、納得できます。
何をもって「罪」とするかなど、ここでは問題になりません。
ややこしい条件を付けての引き受けではなく、無条件ですべてを引き受けるというところにこそ「聖」の意味があるのでしょう。すべてを清浄にしてくれる存在こそが聖母信仰。もしそうならこれほど大きな勇気を与えてくれるものはないでしょう。

私はやっと聖母信仰の意味がわかった気がします。
まあいつものように「早とちり」かもしれませんが。

でも、すべてを引き受けてくれる存在が、なぜ「母」「女性」なのか。
そこに何か大きな意味というか、信仰の本質があるような気がしてなりません。
本間さんは「すべての女神は聖母」だと説明されましたが、それは言い換えれば、「すべての聖母が女神であるわけではない」、つまり「女神」ではない「聖母」がいるということです。では、「女神ではない聖母」とは何だろうか。もしかしたら、その一人は「魔女」でしょうか。問いは広がります。
本間さんからは、そういう「数学的」な問いかけは、神道をかたる時にはふさわしくないとやんわりと言われたような気もしますが、どうも気になります。

また本間さんは、「始原(大元)にある聖なる存在」から「聖母」が生まれ、そこから「女神」が生まれた、と(たしか)言われました。
聖女・聖母・魔女がいて、聖男・聖父・魔男がいないのはなぜか、という問いも本間さんは取り上げてくれましたが、そこで性を超えたところにあるのが「聖(ひじり)」だと教えてくれました。となると、「聖」から「聖母」が生まれ、そこから「女神」が生まれたということになります。つまり女系の流れです。

では男系の流れはどう展開したのか。なぜ女系中心だったのか、次々と問いかけたくなります。
「大元にある聖なる存在」にはむしろ男性のイメージを感じます。アブラハム系の宗教の神は男性なのでしょうか女性なのでしょうか。キリスト教では「父なる神」という言葉ありますので、男性でしょうか。
それに、世界各地で最高神と言われる太陽神も男性のイメージです。
そもそも「聖」とは何なのか、いや、「神」とは何なのか。

ちなみに、ギリシャ神話では、はじまりはガイアと呼ばれる大地の女神ですし、ローマ神話では、神々は豊穣な実りを産む自然と結びつけられており、そのほとんど全部が女性だったようです。
人類の物語は女性から始まった。でも最高神のイメージはむしろ男性。
この矛盾(役割分担)をどう理解すればいいか。

これに関連して、そもそも性別を超えたところに「聖」はあるという話もありました。参加者からは「陰陽」の話も出ました。
本間さんも、話のなかで、和魂と荒魂の話を出されました。伊勢神道などでは、瀬織津姫はアマテラスの荒魂とされていることも教えてくれました。
このあたりはもう少しお話を聞きたかったところです。

処女懐胎や異常出産が「聖なる者」を生み出すことに関しては、とてもわかりやすい説明で納得できました。
要は過去を清算し、新しい物語を始めるためなのでしょうか。おそらくさまざまな流譚の物語も同じでしょう。つまり、過去はいくらでも創り出せるというわけです。
これも大きな示唆を与えてくれます。
やはり「信仰」は人生を元気にしてくれます。

まだまだたくさんの興味深い話がありましたが、長くなるのでやめます。
聖や聖性について、さらに詳しく知りたいと思いました。
そこにこそ、私たちの生き方の根本があるような気がします。

それにしても「すべてを無条件で引き受ける」というのはすごいことです。
少しは見習いたいものです。

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■湯島サロン「不登校を考えるパート2」のご案内

■湯島サロン「不登校を考えるパート2」のご案内

不登校を前向きにとらえて、その体験を語ってくれた東翔平さんのサロンには、たくさんの人が参加しましたが、自論をお持ちの方も多く、話し合いは盛り上がったのですが、翔平さんの話を十分には聞けなかったような気もします。
それに、参加者の平均年齢もだいぶ高かったので、翔平さんも話しにくかったかもしれません。

そこで、今回は、翔平さんよりちょっとだけ年上の高校生の宮嶋奏太さんと大学生の川端修平さんにも加わってもらい、前半ではその3人に思い切り話しあってもらい、後半は参加者も一緒になって、「不登校」を切り口に、それぞれの生き方を考えていければと思います。

前半の話し合いは、川端さんに進行役をお願いしようと思いますが、川端さんは前にも湯島でサロンをやってくれていますので、湯島のサロンの雰囲気も体験しています。その体験を踏まえて、今回の3人の話し合いを通して、次のようなサロンにしたいと言っています。

他人の話を聞き、そこに映る自分の姿を観る。自分の語る言葉に耳を澄まし、知らない自分に出会う。
滑らかに言葉を話せてしまうとしたら、今までの考え方の習慣を繰り返しているだけかもしれません。
「不登校」を切り口とした体験から出てくる言葉、あるいは沈黙を起点として、自分の思い込みの向こう側にいる相手の声を聞き、そこに観えてくる「わたしの人生」に目を向けていく場にしたいです。

この川端さんの思いを聞いて、ハッとさせられました。
私も自分の人生を問い直せそうです。

ちなみに、「不登校」の「登校」に別の言葉を入れれば、すべての人の問題にもつながります。
さらに、学校や教育のあり方、あるいは私たちの生き方へも話が広がるかもしれません。
3人の若い世代からのメッセージから学ぶことは多いはずです。
ぜひさまざまな立場の人の参加をお待ちします。

〇日時:2022年6月5日(日曜日)午後2時~4時(少し延びるかもしれません)
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「不登校を考えるパート2」
〇話題提供者:東翔平さん・宮嶋奏太さん・川端修平さん
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■「新しい経済」に向けての2冊の本をお薦めします

週末に雨が降ってどろどろの畑には行けなかったので、晴耕雨読ではありませんが、週明けの2日間、読書に埋没し、2冊の本を読了しました。
偶然選んで、並行して読んだのですが、深くかかわっている2冊でした。

一冊は、スペインやポルトガルで活動している4人の経済学者が書いた「なぜ、脱成長なのか」(NHK出版)、もう一冊はアダム・スミスの評伝「アダム・スミス 共感の経済学」(早川書房)です。
いずれも今の経済の問題をわかりやすく指摘し、それにどう向かうかを示唆しています。

「なぜ、脱成長なのか」には、コモンズをつくり、維持し、享受していくプロセスを意味する「コモニング」という言葉を登場させています。
これは私の長年のテーマである「コモンズの共創」につながっていますので、とても共感できます。著者たちも関わっているであろうバルセロナの事例も元気が出ます。

「アダム・スミス 共感の経済学」は、「共感」を通じた人間への深い理解を中心にした「人間の科学」という捉え方から、「経済学」を根本から捉え直そうと呼びかけています。フェミニスト経済学の視点は、私が今湯島で始めた「生活事業研究会」につながるものを感じます。
私のアダム・スミス理解はまだまだ狭かった気がします。「道徳感情論」も一応は読んではいるのですが、経済学者だという思い込みが強すぎました。

同書の最後の部分を引用させてもらいます。

この偉大な業績の価値を正しく評価した人はまだいない。過激思想や誤った事実認識が渦巻き未来の見えない今日の世界にあって、スミスの知恵と思想は、その合意まで含めていまなお有効だ。私たちは過去のどの時代にも増してアダム・スミスを必要としている。

本書を読み終えて、その意味がよくわかります。「新しい資本主義」が議論されていますが、委員のみなさんにはぜひ読んでほしいものです。

いつものように、2冊を並行して読んだのですが(一方に疲れると他方を読む感じで)、今回は偶然にも同じテーマにつながっていました。いずれも「新しい経済」「新しい生き方」を示唆するものでした。
この本はお薦めです。

友人が私が6年前に書いたフェイスブック記事を思い出して、なぜか昨日、シェアしてくれました。
それを読んでなんだかうれしくなって、2冊の本を紹介してしまいました。
前者は軽い本なのですぐ読めるでしょうが、後者は少しハードです。
でもいずれも多くの人に読んでほしい本です。

6年前の記事も改めてシェアさせてもらいます。
https://www.facebook.com/notes/355354392247074/

斉藤さん、思い出させてくれてありがとうございます。
しかし何というシンクロニシティでしょうか。

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2022/05/16

■節子への挽歌5342:また読書三昧

節子

週末に雨が降ってどろどろの畑には行けないのを理由に、週明けの2日間、晴耕雨読ではありませんが、読書に埋没し、2冊の本を読了しました。
時評編にも書きましたが、「なぜ、脱成長なのか」とアダム・スミスの評伝「アダム・スミス 共感の経済学」です。
特に後者には引き込まれてしまい、一気に読み上げてしまいました。

最近また読書が戻ってきました。
読書は面白い。
しかし注意しないと読書に埋没してあまり動かなくなる恐れがあります。
この2日間も、リビングの椅子に座りっぱなしです。
そうなると腰がまず痛くなる。
いま必要なのは、読書ではなく身体を動かすことなのです。

それにしても、時々、ふと思い出します。
いろんなことを学んだ私も、死んでしまうとその知識はどうなるのか。
果たして今読書をして知識を増やすことに意味があるのか。
なにやら少し残念な気もします。

というのも、知識が増えたおかげで、世界がよく見えるような気がしてきたからです。
他の人に説明できるほどではありませんが、世界のいろんなことがつながりだして、これまで不思議に思っていたことがわかってきたような気がしているのです。
それをだれにも伝えることなく、私とともに消えてしまう。
そう気づいた人は、しっかりと自分が行き着いたところを文書に残すか誰かに伝承するのでしょう。でも残念ながら私にはまだ誰かに伝えられるほどのところまでには達していないのです。

読書よりも身体を動かす楽しいことの方に時間を割くほうがいいのではないか。
そんな気がしないでもないのですが、でもまあ読書も面白い。

しかし、節子がいたらこんな読書三昧には陥らなかったでしょう。
節子は読書よりも身体を動かす方が好きな人でしたから。

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2022/05/15

■節子への挽歌5341:8本の野菜の苗は元気でした

節子

一昨日からかなり激しい雨風が続いたので、先日、畑に植えた野菜の苗がまた全滅するかと心配でした。
雨が上がったので、今朝、様子を見に行きました。
幸いに全員元気でした。
しかもトマトやナスを花をつけていました。

今日は、午前午後と集まりだったので畑作業はできませんでしたが、これなら大丈夫でしょう。

ついでに花壇部分の様子を見てきました。
ここも畑部分以上に笹や草が覆っています。
しかしいろいろなところで花も咲きだしています。
植えていた草花の芽は見つかりませんでしたが、シランが広がっていました。
バラの花も咲いていました。

ここは斜面地なので手入れしていくのはかなり大変です。しかも、節子がロックガーデンにしたいなどといって、石なども持ち込んでいたので、ますますややこしい。
節子がいなくなってから再開した時には、チューリップの球根を買い込んできて一面のチューリップにしたり、百日草の種をばらまいて百日草畑にしたり、まあ手を抜いての花壇づくりでしたが、それも挫折して、いまや花壇の痕跡すらありません。
困ったものです。

この時期は、雨との競争になります。
雨が勝てばまたまた草で覆われだします。
もうしばらく雨がおさまってくれているといいのですが。

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2022/05/14

■節子への挽歌5340:生活事業研究会

節子

生活事業研究会というのを今年初めからスタートさせました。
生活というところに機軸をおいて、「事業」という概念を根本から変えていこうという発想です。まあ「生業の復権」といってもいいかもしれません。

毎月同じ内容で2回ずつやっていますが、じっくり話し合うのを基本としていますので、45人の、しかし自分でなにかをはじめようという人たちの集まりです。
やってみて気づいたのですが、みんな何かをやりたいと思っている割にはしっかりと考えていない。そもそも何をやろうとしているのかさえ明確ではない。

それに比べて利益目的の事業の場合は、お金を稼ぐという目的が明確ですから、事業計画も立てやすくなる。
あらためてなぜ社会が金銭中心になってきているのかがわかあったような気がします。
お金は実にわかりやすいのです。

毎回、私からも1時間ほど話しをさせてもらっています。
今回は「仲間」がテーマでした。
生活事業の目的は「利益」ではなく「仲間づくり」と位置づけています。

だから生活事業には失敗はない。
事業が仮に挫折しても、仲間が育つからです。

しかしこういう発想は果たしてみんなに伝わるかどうか。
今日もみんなの発表を聞いていて、私が毎回話していることはあまり伝わっていないなと思いました。

だから疲れるのですが、まあ気づくことも多いので、そろそろ第2期を呼びかけようと思っています。
節子が元気だったら受講生にしたかったです。

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■5月オープンサロン報告

5月1回目のオープンサロンは6人が集まりました。
オープンサロンらしく話題もいろいろでした。
最近のテーマサロンからの話もいろいろとありました。
オープンサロンは、テーマサロンをつなげる場になるかもしれません。

今回の大きなテーマは「生きる不安」「生きる意味」だったかもしれません。
まあ人によって違うでしょうが、私にはそんな印象が残りました。

心身のリバランスに取り組んでいる川端さんからは「人の心身と大地からの距離」の話がありました。これは最近、また土にさわりだしている私にはとても納得できるものでした。

この日もサロンに出かける前に1時間半ほど、畑にしようと思っているところに行って、草刈りや土壌の手入れをしてきました。私の場合、作業する時には大地にどっしりと座るのですが、心臓のみならず顔も大地にすごく近いのです。そのせいか、居心地が実によく、作業にはまってしまい、時に倒れそうになるまで作業を続けてしまいます。
それに土壌がとてもあったかなのです。たくさんの虫や生物にも出会います。
大地に限らず、最近は床に座る生活も少なくなりました。これも私たちの精神に大きな影響を与えているような気がします。

サロンは、さらに「不安」や「承認欲求」の話へと広がりました。
なんとなく不安を抱えている人が増えていますが、その不安はどこから来るのか。
いまの日本では、その気になれば「食べるもの」は手に入りやすくなっていますが、そうした生活保障の仕組みにもどこか欠陥があるのでしょう。生活保護を受けることに負い目を感ずる人がいるということ自体、問題です。

しかし、そうした「生存の不安」もさることながら、誰かに認められたいという思いが不安の根底にあるのではないかという意見もありました。いわゆる「承認欲求」です。これもサロンでは時々話題になりますが、抽象的な「承認」はともかく、「特定の誰かに認められたい気分」と言うのなら私にもよくわかります。「認めてほしい誰か」がいれば、たとえ認められなくても生きる目標がわかる。

もしかしたら、いまの時代、認めてもらいたい人がいないことが問題なのかもしれません。あまりの「個人の時代」になってしまったからです。そしてそこにこそ、現代の不安の根源があるのかもしれません。
まあ、そんなことを思いながらみなさんの話を聞いていました。

「引きこもることで開けてきた世界がある」という発言もありました。不安で引きこもったら、新しい世界が見えてきたと言うことでしょうか。そうであれば、「引きこもり」は決して「引きこもり」ではありません。その人が語りだしたら、示唆に富む話がいろいろと聴けるかもしれません。今回はそこまではいきませんでしたが。そうした期待を持たせたまま終わるのも、またオープンサロンのいいところです。

ところでこうした話し合いの合間に、「出版」の話も出ました。
最近、アマゾンで電子出版した竹形さんがその経験を話してくれました。いまではコストもリスクもかけずに書籍が出版できるようです。
これもうまく活用すれば、不安や承認欲求の実現にもつながりそうです。以前、「みんなの出版社」構想を持っていましたが、取り組んでも面白そうです。

考えさせられることの多いオープンサロンでした。

Open20220511

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2022/05/13

■節子への挽歌5339:脳神経外科の定期検査

節子

今日は脳神経外科の定期検査でした。
もう3年ほどでしょうか、2か月ごとに検査に行っています。
最近は、何とか悪化せずに現状維持になっていますが、ともかく水分をきちんととるようにと言われています。

節子の病院通いには私は必ず同行していました。
そのため、節子を見送った後は、病院に行くことができなくなっていましたが、最近はもうすっかり慣れてきました。
時には節子と一緒に数時間も待合室で待たされたことも思い出せるほどになりました。

死への不安感は私の場合、ほとんどありません。
節子に会えるかもしれにと今でも思っていますし、何よりも娘たちよりも早く死にたいと思っているので、できるだけ早く死ねるといいなと思うこともあります。

それに最近は、同世代の友人知人が次々といなくなってきていますので、なんだか日常的なとまでは言いませんが、さほどの異常事ではないような気になっています。
そのせいか病気もあまり気になりません。
もちろんそれなりの注意はしていますが、まあ自然の摂理に身を任せています。

病院での待ち時間には、いろいろな人生ドラマを垣間見ることもできます。
夫婦で来ている高齢者や親子の会話は、時に哀しく、時にほほえましい。
いろいろと考えることの多い待ち時間です。

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■仕掛けた人の背後にある真実

2年ほど前に出版された馬渕睦夫さんの「国際ニュースの読み方」を読んでいたら、こんな文章が出てきました。

(「朝鮮戦争」は北朝鮮が韓国に侵攻したということになっていますが)実態は北朝鮮に韓国侵攻の餌を蒔いたのは、実はアメリカなのです。19501月に、アメリカのディーン・アチソン国務長官は「韓国はアメリカの防衛線の外にある」と演説しました。おわかりのように、北朝鮮が韓国に侵攻してもアメリカは介入しないということを世界に明らかにしたのです。

これを聞いた北朝鮮が625日に38度線を越えて韓国に侵攻しました。韓国軍は総崩れになったのですが、この段階になって国連軍が韓国側に立って参戦します。国連軍の主力はアメリカ軍で、司令官はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)総司令官のダグラス・マツカーサーでした。

なんだかつい最近もそんなことがあったなとウクライナ戦争の端緒になったと言われているバイデン大統領の言葉を思い出しました。

根を絶たなければ、戦争は終わりません。
せめて戦争の当事者を見極めなければいかないなと改めて思いました。
最近、日本のマスコミも少し姿勢が変わってきたように思いますが、たとえフェイク情報でも吟味していけば、真実は垣間見えてくるはずです。

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2022/05/12

■節子への挽歌5338:節子との思い出には時間軸が失われています

節子

テレビで近江八幡の街歩き番組をやっていました。
節子と一緒に行った時のことを思い出しながらユカと観ていました。

節子との記憶は、なぜか時間軸がまったくなくなってしまっているので、いつ行ったのかわかりませんが、たぶん、がんの治療で一時小康状況になった時だったと思います。
会社時代の仲間や上司に声をかけて近江八幡で会いました。
いや、もしかしたら、がんになる前だったでしょうか。

近江八幡には節子の親友の一人が住んでいました。
それでもしかしたら、何回か言っているような気もしますが、それも思い出せません。
少なくとも2回は行っているはずです。

と言うように、どうも節子との思い出が正確には蘇ってこないことが多いのです。
ただ、近江八幡に行ったことや琵琶湖畔の葦の茂みを観たことや、節子が好きだった小魚の佃煮のことは思い出せるのですが、時間軸がないのです。

逆に、ユカはとてもよく覚えています。
母子と夫婦とは、やはり違うのでしょうか。

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■節子への挽歌5337:今日も畑で頑張りました

節子

今日は曇天なので、畑に行く元気が出ませんでした。
しかし昨日植えた苗が心配です。
それでまたジョウロに水を一杯入れて、出かけました。

ところが水をやり終えたら、太陽が出てきました。
これは働けと言うことだなと思い、作業を開始。始めたら止まりません。
また1時間以上に、畑での草取りです。

今日は以前イチゴ畑にしようとしていたところに挑戦したのですが、なんと片隅に3本、覆い繁る野草の下で、イチゴの苗ががんばっていました。なんとか周りの野草を追い払って救出。写真ではわかりませんが、まだ白い実がなっています。
ここは復活させようと思います。2つ目の目標ができました。

しかしこの1年で、野草の植生は大きく変わっています。
節子がやっていたころとはまったくと言っていいほど違っています。

埋もれた鍬はまだ出てきません。
今日もまたたくさんの虫たちと出合いました。
この時期にしては大きなバッタにも出会いました。

今日は用事が重なっているので、倒れる前に引き上げましたが、家に着いたら不思議なことに、太陽が消えました。
節子のおかげでしょうか。

ちなみに昨日植えた苗はみんな元気でした。

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2022/05/11

■節子への挽歌5336:「認められる欲求を超えてしまっているから」

節子

今日は湯島でオープンサロンでした。
最近、オープンサロンで私の生き方が話題になることがあります。
今日も後半少しそんな話になりました。

サロンでは「不安」が話題になったのですが、そこからみんな誰かに認められたがっているという「承認欲求」の話になりました。
そこから、ある人が、「佐藤さんは誰かに認められたいという欲求を超えている人だから」と言いました。みんなも何となく納得しているようです。

承認欲求は誰にでもあるでしょうし、私にももちろんあります。
しかし問題は、誰に認められたいか、です。
私の場合は、節子には認められたかったという気がしますが、節子がいなくなった今は、たしかにあまり承認欲求的な気持ちはありません。
世間に認められたところで、あまり意味があるとも思えない。
そもそも「認められる」ということの意味もよくわからない。

しかし、外から見ても、いまの私は「認められる欲求を超えてしまっている」ように見えるのでしょう。
私のことがサロンで話題になるのは、私の生き方がやはりどこかおかしいのかもしれません。
どこかで生き方が大きく変わってしあったのでしょうか。

節子がいない今、自分の生き方を評価する基準がないので、どうもすっきりしません。
やはり「生きる基準」と言うか、生きる根拠を与えてくれる人が欲しいです。

 

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■節子への挽歌5335:今日も太陽に誘われました

節子

今朝の太陽はまぶしいほどに元気でした。
それでついふらふらとまた畑に出かけました。
カミユの「異邦人」のムルソーではないですが、太陽の眩しさには克てません。

まだ「畑」の荒れ地は、畑にはなっていないので(昨日も鍬を買いに行ったのに苗を買ってしまい、鍬を買うのを忘れてしまいました)、キチンと苗床をつくってからと思っていましたが、どうせ行くならと思い、買ってきた苗を植えられそうなところに植えてしまいました。
水を持っていくのも忘れてしまったので、心配ですが、刈り取った笹の葉を麦藁の代わりにまわりにおいて水分の蒸発を阻止するようにしました。
まあなんとかなるでしょう。

今回の目玉は小玉スイカです。
さてどうなりますか。

水筒も忘れたので、おかしくならないうちに帰宅。
でもかなりがんばったので、疲れて死にそうです。
ところが、畑から戻ってきたら、太陽が穏やかになった気がします。
太陽が私に合わせてくれているような気がします。

今日は湯島のサロンです。
だいぶリズムが戻ってきました。

 

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2022/05/10

■節子への挽歌5334:「私の中では節子さんはまだ生きています」

 

節子

先日、思いがけない人からお手紙をもらいました。
節子がたぶんせいぜんお世話になったSYさんです。

先日、彼女からお手紙をもらいました。
「先日、身辺整理をしていたら節子さんの頂いたはがきを見つけ、懐かしくペンを取りました」と書かれていました。
節子の葬儀にも来てくださっていたので、節子とも交流があったと思ってはいましたが、どういう交流があったのかは知りませんでした。
ちなみに彼女とは私は全く別につながりで交流がありました。

今年になってから、また彼女からメールが来ました。
「未だに何処か心残りでゆっくりご対面させていただきたいと思っております」と言うのです。もちろん、対面の相手は、私ではなく、節子です。

今日、自宅まで迎えに来てくださり、一緒にお墓に行きました。
こんなにうれしいことはありません。
その方は、「私の中では節子さんはまだ生きています」と言うのです。
節子はなんと幸せなことか。

お墓参りの後、SYさんが好きな手賀沼が見える米舞亭でお話しさせてもらいました。
彼女はフィンランドに住んでいたこともあるそうですが、この場所がフィンランドの雰囲気を感じさせるので大好きなのだそうです。
そう言われれば確かにとても気持ちのいい雰囲気です。
残念ながら節子が元気だったころには、ここはまだありませんでした。

いろいろとお話をして、なぜ節子がその人と交流があったのかわかりました。
最初、彼女は節子が私の妻だとは知らなかったそうです。
おそらくお世話になったのは節子の方だと思いますが、亡くなってから15年も経つのに、こうして思い出して会いに来てくださる方がいるとは、驚きです。

お墓にもお花を供えてもらいましたが、自宅の仏壇にもお花をもらいました。
節子好みの花の組み合わせでした。
お墓でのSYさんの写真も一緒に、早速に自宅の仏壇の節子に報告しました。

私が死んでから15年たってからお墓に来てくれる人はいるでしょうか。
節子は本当に幸せな人です。
いまさら節子の生き方を見習うことはできませんが、思い出しながら、私も少し生き方を変えなければいけません。
亡くなった後も、節子から教えられるとは思ってもいませんでした。

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■「微生物活性化農業研究会」発足準備会へのお誘い

5月8日の湯島サロン「農業と食材を見直し、未病に繋ぐ健全なコミュニティ形成」で、平山典彦さん(奄美農畜水産事業組合代表取締役)から、「微生物活性化農業」を軸にして、日本の農と食を変えていきたいという呼びかけがありました。

その呼びかけを実現するために、平山さんを中心にした研究会を発足させることになりました。まだ細かな内容は決まっていませんが、関心をお持ちの方に集まってもらい、どんな研究会にしていくかを話し合いたいと思います。
そこで、研究会発足のための準備会を下記のとおり開催します。

関心をお持ちの方は、ぜひ参加してください。
また当日は参加できないが、研究会には参加したいという方は、ぜひ当面の事務局役の佐藤修宛にご連絡下さい。研究会がスタートすることになったらご案内を差し上げるようにします。

ただ話し合うだけではなく、実践に取り組む研究会にしたいと思っていますので、みなさんのお知恵やご意見をぜひお願いしたいと思っています。
事務局を分担していただける方がいたら大歓迎です。

〇日時:2022年5月31日(火曜日)午後1時半~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇議事:微生物活性化農業研究会発足について
    ・平山さんから研究会の趣旨について説明
    ・研究会の進め方に関する話し合い
    ・研究会で取り組みたいことへの意見
〇参加申込先:準備会事務局佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2022/05/09

■節子への挽歌5333:孫の誕生日にお呼ばれされました

節子

今日は孫のにこの誕生日です。
今年はジュンの手作りケーキの招待でした。
にこの要望で、今年は手作りケーキになったのだそうです。

にこは6歳になりました。
いろいろとよく考える子です。
というよりも、子どもというのはそういう存在なのでしょう。
孫と付き合ってそういうことがよくわかります。
親の立場だとなかなか気づかないのだろうと思います。

私も希望されていた図鑑をプレゼントしました。
ユカは、いささか高価なものを要望されたようですが、にこにとっては価格は関係ないようです。

これも親バカならぬ祖父バカかもしれませんが、にこはとても気づかいの多い子です。
親子の関係を観ていても、それがよくわかります。
節子が元気だったら、親と間に入ることができたでしょうか、私にはそれは難しい。
気になることがあっても、娘にはなかなか言えません。
育児の方針も違うでしょうし。
それに私はあんまり娘たちには信頼されていないのです。
困ったものですが。

それにしても節子がいたら、にこもかなり違った育ちをするだろうなといつも思います。
にこと一緒にいるといつも節子を思い出します。

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■歴史は謀で成っている

最近、2つの中国のテレビドラマを観ています。
「三国志 司馬懿 軍師連盟」と「始皇帝 天下統一」です。

https://www.hulu.jp/the-advisors-alliance/?cmp=10902&waad=rkcgO9Bw&gclid=Cj0KCQjw1N2TBhCOARIsAGVHQc5SxyEV5b0gRfidYkX3pkdIOhtvOFOCDdPWEZWu

https://www.wowow.co.jp/detail/173882

いずれも最初は司馬懿と李斯に興味があっただけなのですが、物語自体に興味を持つようになってきました。
三国志は86話、始皇帝は78話もあるので、両方ともまだ先が長いのですが、面白くなってきました。

「始皇帝」は、焚書の意味がわかったことで、始皇帝の評価が一変しました。
「三国志」は、毎回教えられることが少なくありません。
「陰謀」(いい意味での謀ですが)の大切さを改めて教えられています。
特に今日は、荀彧と崔琰の「陰謀」に感動しました。
私がこれまで知っていた話とは全く違っているのでいつも新鮮なのですが、今日はふたりの意図を読み解けなかった自分にがっかりしました。いずれも2人に対する先入観のせいかもしれません。

「陰謀論」などと言って「陰謀」を揶揄する現代の中途半端な知識人の愚かさや、自らの命を捨てての謀をしなくなったリーダーの多さにいつもがっかりしているのですが、そうした気分を払しょくさせてくれるのも、今回の「三国志」の魅力の一つです。

今日の「三国志」で、人の真実は歴史には伝わらないと誰かが言っていました。
たしかにそうなのでしょう。
これからは、プーチンやゼレンスキーを軽々に非難するのは自重しようと思います。

「始皇帝 天下統一」はお薦めしませんが(筋書きがあまりに安直)、「三国志 司馬懿 軍師連盟」はお薦めのドラマです。学ぶことがたくさんあります。長いので、よほどお暇な方向きではありますが。

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■緊急サロン「ウクライナの戦争状況を止めるためにできることがある」のお誘い

ウクライナ戦争に関するマスコミ情報やネット情報をよく読んでいる人のなかには、何を信じていいか迷っている人も少なくないでしょう。しかし、いずれにしても、ウクライナでの「戦争状況」は一刻も早く終わってほしいと思っている人は多いはずです。

湯島のサロン仲間のnikoさんもそのおひとりです。
nikoさんはこう書いてきました。

知らない事はたくさん、です。動画を見て聴いていても私はついていけなくなることが多いのです。だからまた考えます。そしてときどきまた見てみます。

そう言うnikoさんから、今朝こんなメールが届きました。

ロシアを止めるためにはゼレンスキーの徹底抗戦を止めたい、 そしてアメリカをはじめNATOなどが行う武器供与を止めたい、 日本は、この争いに加担するのではなく、今後ますますひどくなる一方の弱者にあたる国民のこと、国内の様々な問題に目を向けてほしい。 そんな事を発信して、ロシア悪とのセンセーショナルな声や運動を作り出した様に、 ゼレンスキーの徹底抗戦、アメリカNATOの武器供与、日本の加担をやめさせる様な、市民の声や運動を作れないものでしょうか。

私にはどうしていいかわからないので、nikoさんと相談して、湯島でサロンをやって、みなさんの知恵と力を借りようということになりました。
ウクライナの状況は、決して私たちと無縁ではありません。対岸の火事が、いつ自分のまわりに飛び火するかわからないのが、現代です。
急なお誘いですが、ぜひ多くの人に参加していただき、行動につなげていければと思います。

nikoさんは、3人集まれば行動は起こせるだろうと言っています。
ぜひnikoさんと一緒にできることを探しに来てください。
みなさんの参加をお待ちしています。

〇日時:2022年6月1日(水曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ   
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「ウクライナの戦争状況を止めるためにできることはある」
〇話題提供者:小室niko桃子さん(EQ(一休)スマイル代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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■湯島サロン「農業と食材を見直し、未病に繋ぐ健全なコミュニティ形成」報告

平山さんの「農業と食材を見直し、未病に繋ぐ健全なコミュニティ形成」のサロンは、10人を超える参加者があり、関心の高さを実感しました。

平山さんの構想の基本にあるのは、「微生物活性化農業」です。
サロンは、なぜ微生物なのかの話から始まりました。

平山さんは、日本の農業(農政)の実態や食材(食生活)の現状を、ご自身の体験に重ねながら紹介し、いまの日本の農業では土壌が荒廃し未来が開けず、しかも食材の安全性に大きな問題が起こっていることを生々しく話してくれました。そして、そうした問題を引き起こした大きな理由は、いまの農業が農薬や化学肥料によって微生物を排除してきたために、日本の土壌が死んでしまったからだというのです。

流れを変えるためには、微生物を活かして、土壌をよみがえらせなければならない。
これが、平山さんの構想の柱です。

つづいて平山さんは、構想を実現するための方策について、いくつかの視点を説明してくれました。核となるプログラムのひとつが、サロンで配布された「食材評価技能士(食材マスター)」育成プログラムです。まずは「人」を育て、その「人」たちが、微生物活性化農業の実現を「生業」として取り組んでいこうという構想です。

今回、説明はあまりありませんでしたが、タイトルに「未病に繋ぐ健全なコミュニティ形成」とあるように、平山構想は医療改革にもつながっています。土の微生物だけではなく、人の腸内の微生物の活性化も視野に入っているのです。

理念は「微生物活性化」。
微生物が土を救い、農業を救い、食を救い、人を救うというわけです。
根本からいまの農業のあり方を見直し、ついては私たちの生き方を見直そうという大構想ですが、そうした構想を実現するための具体的な手立てや資金調達や運営のための仕組みづくりなどにも、平山さんは取り組んでいます。
今回も、ブロックチェインの専門家が平山さんの誘いで参加してくれました。

しかし、なにしろ大構想ですし、最近でこそ話題になりだしていますが、微生物に関する知識も多くの人にとってはあまり肯定的なものではないでしょう。
昨今のコロナ対策においても、ともかく「殺菌」が合言葉になっているほどですから、微生物が食と農と医療を救うと言われても、すぐにはピンとこない。
それに何しろ最近では「土と触れ合う」機会などほとんどない人が多いでしょう。微生物や細菌は、みんな病原体と思っている人もいるでしょう。
またほとんどの人が農業を産業として捉えている。そこにも微妙なずれを感じます。平山さんが構想しているのは、産業と言うよりも生業を基本とした新しい経済のように私には思えます。だとしたら、これまでの発想ではない発想が必要になるでしょう。

話し合いも含めて、3時間を超えるサロンになりました。
参加者からも平山さんの構想を実現していくための具体的な提案もありました。
平山さんはすでに農地まで確保して動き出していますが、近いうちに食材マスター育成講座を始める計画です。

「日本の農業(農政)の実態や食材(食生活)の現状」を、まずは多くの人に知ってほしいというのが平山さんの思いですが、実態を知れば、必ず動き出す人がいるでしょう。あとはそういう動きを支える仕組みをつくればいい。
この姿勢には私も同感です。事実を知れば、動きは起こるものです。しかし、いまの常識を覆していくための事実を広げていくことは簡単なことではありません。
しかし、平山さんはともかく実態を広く知ってもらうための活動から取り組みだそうとしているのです。そして知った人たちが中心になって、微生物活性化農業を広め、日本の土壌を変えていく。

今回参加されなかった方も含めて、平山さんの構想に関心を持った人がいたらご連絡下さい。できれば、平山さんにお願いして、ひきつづき「微生物活性化農業」を学ぶ場をつくっていきたいと思います。
また、一緒に取り組みたい人がいたら、平山さんにお引き合わせしたいと思います。

今回のサロンから、また新しい物語が生まれるのを楽しみにしています。

Hirayama202205

 

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2022/05/08

■節子への挽歌5332:2850番目の友だち

節子
昨日に引き続き孫のにこの話です。

にこは幼稚園の友だちと遊ぶのが大好きです。
そこで、先日、誰が一番のお友だちかと聞いてみました。
即座に返ってきた返事は、「みんな一番」。
比較するような問いかけをした自分を反省しました。

そしてにこはつづけて、ママもトトも、ユカさんもみんな一番と続けました。
そこで、でわ「おさむさんは?」と聴いたら、なんと2850番だそうです。
孫と私とはそれほどの距離があるのです。困ったものです。

最近、にことの関係はあまりよくありません。
昨日は一緒に散歩に行きましたが、時々、無視されます。
畑に行こうと誘っても行かないと断られますし、会ってもアカンベエされることもあります。
人形を買わなかったり、にこべえとかちびたんとか呼んでしまったりするのがどうも気に入らないようです。

しかし、みんな1番の友だち何に、私だけ2850番目。
昨日、氷をご馳走したので順番が繰り上がったと思い、散歩の途中聞きましたが、残念ながら1番にはなっていませんでした。

今日はにこは地元のイベントで、チアの発表をするそうです。
私は見に行けないのですが、また順番が下がりそうです。
孫に好かれるのは難しいものなのです。

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■戦争を止めるのは人の友好関係を広げていくことでしかありません

今日の朝日新聞のトップ記事の見出しは「友好 崩れ去った」とあります。
キーウ市民がロシアの親族との付き合いをブロックしたという話も出ています。
とても寂しい話ですが、トップ記事にしてほしくはありませんでした。
たしかにそういう話はあるでしょう。しかし、おそらくその反対の話もあるでしょう。
ウクライナの惨状にも拘わらず、ロシア人とウクライナ人が信頼し合い、支え合っている話が、です。

異常な事態の中ではさまざまなことが起こります。
不信も起これば、信頼も生まれる。
友好が失われることもあれば、友好が高まることもある。
そのいずれかに焦点を合わせるかで、事態の見え方は変わってくる。
そしておそらく、それによって未来も変わってくるのではないかと思います。

マスコミは、往々にして、「不幸」で「悲惨」なことを取り上げる。
それによって事態は、ますます「不幸」で「悲惨」になることも少なくないような気がします。
私は、権力や権威は信頼しませんが、人間は信頼しています。
どんなことを起こしている人も、信頼したい。
そう思って毎日を過ごしています。

人の仲を裂くような記事には触れたくありませんし、そんな記事を信じたくない。
人の友好は、そんなに簡単に崩れるはずはない、と思いたい。
親族とのSNSをブロックしたという朝日新聞の記事に出てくるユーリーさんも、本当は親族を信頼し愛しているに違いない。この記事を書いた記者の気持ちもわからないわけではありませんが、もっといい面を伝えてほしいと思います。惨状の中にこそ、人を信頼したくなることはたくさん生まれているはずですから。
そして、それこそがウクライナの現状を変える力になるはずだからです。

戦争を止めるのは核抑止力でも正義の追求でもない。
人の友好関係を育てていくことでしか、戦争はなくならない。
私はそう思っています。

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2022/05/07

■節子への挽歌5331:にことの手賀沼散歩

節子

朝、ユカがにこに会ったら、おさむさんは死んでいないかと娘に訊いたそうです。
昨日、畑に行っていたので心配してくれていたのです。
その後、2回まで確かめに来ました。
にこにとっては、私はもうじき死ぬ人なのでしょう。

そこで、一緒に散歩に行こうと呼びかけたらめずらしく行くという返事です。
それで2人で近くの手賀沼公園に散歩に出かけました。
幸いにさほど混んではいませんでした。

2人での散歩は久しぶりです。
まずは手賀沼の大きな鯉に餌をやり、続いて白鳥とあいさつ。手賀沼のエビ探しもしました。
その後、いつものように競走になりましたが、走りっこでは勝ち目がないので、相撲をすることになりました。
最近なぜかにこは相撲が好きです。幼稚園でもやっているのでしょうか。
先日もやりましたが、思った以上に力がある。
まあ今日は私の負けになりました。

めずらしく、お腹が空いたと言い出しました。
こんなことはこれまでありません。母親がいないときには、いくら勧めても食べないのです。
どうも手賀沼公園に来ていた移動販売店のお店の氷水が食べたくなったようです。
母親のジュンとだったら、たぶん許可されないのでしょう。
そこで、ソフトクリームを食べようかと誘いました。

めずらしく断らない。よほど食べたかったのでしょう。ソフトクリームがいいのではと勧めましたが、暑いから氷がいいというのです。氷はおなかを壊すのではないかと言ったら、いまからだがとても熱くなっているからとお仲間で触らせて、アピールします。念のために母親に了解を取り、氷メロンを食べることになりました。
ジュンもめずらしく許可を出しました。にこが食べたがっていることを知っていたようです。

ベンチで話しながら氷メロンを食べました。
そこから図書館に立ち寄って、本を借りてから、以前、柳宗悦が住んでいた三樹荘近くの天神山緑地公園に行きました。ここは誰もいませんでした。
ここは最近は来たことがないようです。

全行程1時間半ほどのにことの散歩でした。
めずらしいことです。
ちなみに、にこが先の残り少ない私に付き合ったのでしょうか。
そんな気もしないでもありません。

子どもは不思議な存在です。

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2022/05/06

■節子への挽歌5330:カサブランカが満開

節子

連休に入った日、みんなでお墓参りに行きました。
暑くなると花が持たないので、造花にしますが、まだ生花の季節です。
今回は孫のにこが3種類の花を選んでくれました。

自宅の仏壇にも、時々、庭の花を孫が持ってきてくれますが、いまはユカが買ってきたカサブランカが満開です。
今回は7つの花がすべて満開になりました。
すべてのつぼみが咲くことはめずらしいのですが、今回は見事です。

ユリは節子も私も大好きです。
私は香も大好きで、それにつつまれると心がやすまるのです。

花好きの節子のために、仏壇には花が欠かせません。
私は苦手ですが、娘や孫が花をいつもそなえてくれます。

そういえば、2階のベランダにユカが花を植えだしました。
うれしいことです。

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■節子への挽歌5329:畑も2日目

節子

今日は水筒をもって、さらに長靴を履いて、「畑」に行きました。
まずは野草に埋もれていたミョウガを救出し、ミョウガ畑をつくりました。
次に昨日と同じく、野草刈り。
30センチほどにまで伸びています。
ともかく野草の成長は速いのです。

野草の中に桑の木が育っていました。
昨年はなかった木です。夏に最後に行った時にもなかったような気がしますが、半年で2m近くに成長しています。
切り取ろうと思いましが、さすがにこれはのこぎりがないと難しい。

今日は1時間ほどして水を補給。
自宅からも電話があり、不承不承帰宅。
この調子だと畑になるかもしれません。

畑作業も続いたので、挽歌も続けられるでしょう。
書くことはいろいろとありますが、なぜか最近、どうも書く気がなかなか起きないのです。身体は動くのですが、頭が動かない、そんな気がします。

まあゆっくりと戻ろうと思います。

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2022/05/05

■節子への挽歌5328:また(軽く)倒れてしまいました

節子

5月に入ってしまいました。
どうも挽歌を書く習慣が戻ってきません。
まあいろいろとありすぎるのかもしれません。
もちろんそれは理由にはなりませんが。
今日から再開します。

再開と言えば、今日から再開したことがもう一つあります。
今日は初夏のような天気だったのですが、午前中、ユカが外出していたので、今年初めて「畑」に行きました。草が覆い茂っているだろうなとずっと気になっていたのですが、ユカからはもうやめろと言われているのです。
畑と言っても宅地の空き地なので、野草がすごい。それが気になっていました。

ユカが出かけた後、11時前に畑に行きましたが、やはりすごい状況です。
鍬などの農具はどうもこの野草の中に埋もれているようです。
鎌だけは持って行ったのですが、野草を借り出したら実に面白い。
いろんな生き物にも出会いますし、ミョウガやフキなどの食べられる野菜にも出会います。

今日は様子見のつもりだったので、帽子もかぶらずサンダル履きでした。
陽射しは強いですが、水筒なども持っていきませんでした。
しかし覆い茂る野草を見るとなぜか刈りたくなってきます。
作業に熱中していたらユカから電話、畑にいると言ったら、帰って来いと言われました。
そこで気づいたらもう12時を回っています。

さて問題はそこからです。
立ち上がったらめまいがする。少ししゃがんで様子を見ましたが、回復しそうもない。これはもう「気力」で帰るしかない。
自転車に乗るのはあやういので、支えに自転車を使いながら、何とか自宅に到着。玄関に入った途端にたおれて動けなくなりました。
まあ毎年何回かやってしまうのです。

帰宅していたユカに声をかけてスポーツドリンクを持ってきてもらいましたが、それを飲むのもつらい。
何回もあることなので、ユカは呆れて水をおいたままいなくなってしまいました。
困った娘です。いや彼女に言わせると困った親なのですが。

10分ほど倒れていたら何とか歩けるようになりました。
ユカはどうしていつも暑い最中に無防備で畑作業に行くのか、せめて水ぐらい持って行けと言います。長年付き合っているのに、親の性格をまるでわかっていない。
私自身は、暑くないと畑作業には生きたくないし、何かを持って歩くのが嫌いなので、水筒も持ち歩きたくない。この習性は直りようもないのです。

さて畑というか野草畑は少し刈り取られて道もできました。
今度はにこを誘うと思いますが、行くかどうか。

しかし時々、倒れるほどの状況になるのはいいものです。
いつかそのまま逝けるかもしれませんし。
それに少なくとも、最近、ちょっと滅入っていた気分が少しすっきりしました。

さて明日からは畑も挽歌も再開です。

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■2022年「憲法」サロン報告

今年の湯島の憲法サロンは、ウクライナのこともあって、「平和」をテーマにしました。ただ、9条に焦点を合わせるのではなく、「安全保障」と「人権尊重」の軸をおいて、参加者それぞれが自らの生き方を問い直してみようというサロンを呼びかけました。
結果的には、参加者が一家言ある男性が多かったこともあり、生き方論には残念ながらいきませんでしたが。

最初に、私から話し合いの論点を話させてもらいました。

話し合いの入り口は、ウクライナ戦争報道が起こしている最近の9条に関連した最近の風潮にしたいと思いました。大きく言えば、「核武装論を含む軍事力強化論」と逆に「国連改革も含めた非武装思想の徹底」との2つの流れが出ているように思います。

私が大きな不安を感じたのは、ウクライナのゼレンスキー大統領の国会でのスピーチを聞いた後、山東議員が「命をかえりみず祖国のために戦う勇気」を讃えた発言です。「個人のいのちよりも国家を守ること」が大切であり、「国のために死ぬこと」が讃えられる。まるで第二次世界大戦前の日本です。その先にある社会は目に見えるようです。
そうした風潮に対して、日本国憲法はどう機能するのか。

第2に、「憲法が守ろうとしているのは誰か」という問題。言い換えれば、平和とは、「国家にとっての平和」なのか、「個人にとっての平和」なのか、です。ウクライナ戦争では、この2つの平和観が可視化されているように思います。

それはまた、「日本国憲法9条を支えるもの」につながっています。これに関しては、「国際連合を中心にした世界平和への期待」と「核兵器を含む米国軍事力への依存」とともに、「日本国民の非戦平和の覚悟」とが考えられますが、最近はどうも1番目と3番目の要素は遠のいてしまっています。したがって、9条は今や風前の灯火という感じがします。つまり支える根拠を失いつつあります。

4番目の論点は、どの段階での平和を問題にするかということで、私たちの生き方は変わってくるという論点です。
「現実としての平和」としては、構造的な格差問題も論点になるでしょうし、「手段としての平和」に焦点を合わせれば、核抑止論も含めて、武装の問題(非武装も含めて)が重要になります。さらに「目標としての平和」を問題にするのであれば、「平和」とは何かが重要な論点になるでしょう。
いまはそうしたさまざまな「平和」が混同されて議論されているような気がします。

したがって最後の論点は、「平和とは何か」ということです。平和とは戦争の問題なのか、あるいは社会の問題なのか。もし社会の問題であれば、格差問題や人権問題こそが、平和の本質と言えるでしょう。
今回のサロンは、この最後の論点を目的にしていたのです。つまり、「国家よりも人間を優先」、さらには「(抽象的な)人間よりも個人を優先」した平和に関する話し合いをし、そこから私たちの生き方を問い直そうと思っていました。

最後に、議論の背景としての共通基盤として、添付の図に従って、「5つの暴力行為」に関して整理させてもらいました。
ダウンロード - 2022e686b2e6b395e382b5e383ade383b3e8b387e69699.docx

そして話し合い。
話し合いは、ウクライナ戦争から入ったために、いささか現実論に入り込んでしまい、憲法サロンのテーマとは違った方向に動いてしまいました。またどうしてもいまの日本国憲法に呪縛されてしまい、理念よりも手続き論に話題が行きがちでした。
話し合いは盛り上がりましたが、残念ながら「平和」と「憲法」に関する議論にはなかなかいけませんでした。

サロンの最後に、あまり憲法の話にならなかったのが残念だという指摘もありましたが、これは進行役の私の責任です。私の最初の説明もあまりに簡単すぎて、十分に伝わらなかったのかもしれません。

最後に、住民活動に関わっている参加者から、実際の住民活動の中では、「安全」「安心」という言葉は出てきても、「平和」という言葉はほとんど出てこない、という話がありました。
そこで気づかされたのですが、そもそも「平和」という言葉そのものが、生活者の言葉ではないのかもしれません。
企画者として、また問題提起者として、大いに反省させられました。
せっかくの憲法記念日に集まってくださったみなさんには申し訳ないことをしてしまい、気が滅入ってしまっています。

元気が戻ったら、改めて、個人の安全・安心にとって憲法とは何かを話し合うサロンを企画したいと思います。
今度はもう少していねいに、論点も説明し、できれば「攻撃力」は武器だけではないこと(今回も話しましたが、まったくと言っていいほど共感してもらえませんでした)も話させてもらおうと思います。

Kenpou2022

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2022/05/04

■5月オープンサロンのご案内

5月1回目のオープンサロンのご案内です。
いつものようにテーマはなく、出入り自由な気楽なサロンです。
事前申し込みも不要です。
どなたでも気楽に「話し」に来てください。もちろん「聞き」に来ていただくのも歓迎です。
5月は下旬にもう一度、開催する予定です。

〇日時:2022年5月11日(水曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円

 

 

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2022/05/03

■湯島サロン「神(天)の声に耳を傾ける」のご案内

先日、「二分心」をテーマにしたサロンを開催しました。
二分心とは、報告でも書いたように、古代人は右脳で神の声を聴き、左脳で自らの意識を育ててきたという仮説です。仮説を提唱した、ジェインズは、「遠い昔、人間の心は、命令を下す『神』と呼ばれる部分と、それに従う『人間』と呼ばれる部分に二分されていた」と書いています。
そして、ジェインズによれば、3000年ほど前に神々は沈黙しだし、人間は自分たちの心を育て意識で生きるようになったというのです。

しかし、その後もなお、神の声が聴こえている人は少なくありません。
いやだれでも聴こうと思えば、神の声は聞こえてくる、のかもしれません。
私も時々、聞こえることもありますから。
声は聞こえなくとも、人知を超えた存在を感じたことのある人は多いでしょう。
ここではそれを「神」と表現しています。「天」「宇宙」「自然」と言ってもいいかもしれません。

湯島のサロンに参加している人のなかにも、神(天)との交流を続けている人はいます。
先日の二分心サロンでは、こうした「神の世界の心」に関する話がほとんどなかったのですが、報告にも書いたように、「神の世界の心」を大切にしているおふたりにお願いしてサロンを開くことにしました。
できれば、おふたりの話を聞いて、「二分心仮説」の意味を改めて考えたいと思います。

おふたりにはこれまで別のテーマでのサロンをお願いしたことがありますが、今回はおふたりの生き方に大きな影響を与えている神(天)との交流のお話を聞き、参加者も耳を澄ませてみたらと思います。
小賢しい人間の知恵だけで生きるには、生きづらい時代になってきましたから。

話題提供者のおひとりの内藤カシュカシュ明子さんからのメッセージを日時などのお知らせの後に載せていますのでお読みください。
内藤さんが運営するサイト「五次元の玄関口・エルモット村」の紹介も出ています。少し話の一部が見えてくるかもしれません。
https://ermot.club/

もうひとりの高井さんからは、なぜ「神(天)の声が聞こえるようになったのか」という体験談をお話しいただけるそうです。高井さんのホームページもぜひ。
https://shi-dobe-ginza-sea.jimdofree.com/

さてさてどんなサロンになるか。
それはまさに、神のみぞ知る、です。
よかったら参加してください。

〇日時:2022年6月2日(木曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ   
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「神(天)の声に耳を傾ける」
〇話題提供者:内藤カシュカシュ明子さん+タカイシオミさん(神との付き合いをいまも続けている現代人)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

〔話題提供者のおひとり、内藤明子さんからのメッセージ〕

宗教については、私は「自分を信じる自分教」の信者です。
「内なる神」に従って生きています。

「エゴ」を認識し、排除した後に残るもの。
それが「内なる神」であると私は認識しています。

そして、それは「大いなる神/創造神」とリンクしているので物質中心ではなくなります。
なので、「内なる神」に従う生き方は、現代においては、非常に困難です。
言うは易し、行うは難し。

当日、どんな展開になるのか、参加者の皆様の波動の影響で予想もつきませんが
お手柔らかに、よろしくお願いします。

エルモット村運営者・カシュカシュ/内藤明子
https://ermot.club/

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2022/05/02

■第15回益田サロン「ものの力と言葉の力」報告

細菌学者の益田さんの今回のサロンは「ものの力と言葉の力」。
そのタイトルの力もあってか、初めての益田サロン参加者も含めて10人近い参加者がありました。これは「言葉の力」でしょうか。

話の前に、いつものように益田さん手づくりの大きな紙の独楽や動く人形や空飛ぶ紙トンボが紹介されました。
そして、回っている独楽から何を感ずるかと、いつものような禅問答的問いかけでサロンは始まりました。各自、ものの力を実感してみようというわけです。

そこから自由な話し合いが始まりました。
ものがあるおかげで、誰でも話しやすいサロンですが、時々、益田さんからは問いかけが出されます。「ものの力」と「言葉の力」が相まって、話し合いはいろいろと広がり盛り上がりました。時には大きく脱線しながら。

そのやりとりは、それこそ文字では伝えられませんが、そのなかから物の力と言葉の力の違いが少しずつ見えてきました。
また「もの」と言ってもいろいろとあるし、「言葉」と言ってもいろいろあることも明らかになってきたように思います。
簡単に言えば、ものの力は人に「思い」を起こさせることであり、言葉の力はその思いを他者に伝えることではないかというのが、みんなが行き着いた一つの捉え方です。
そうであれば、「もの」と「言葉」をつなぐのは、「人の思い」だと言えるかもしれません。

益田さんからは今回新たに「アフォーダンス」という言葉が出されました。
「アフォーダンス」とは心理学者ジェームス・ギブソンによる造語で,もともとは「自然が人間を含めた動物に提供(アフォード)する価値」ということですが、最近では環境のみならず広い意味で使われています。
益田さんは、ものはまわりに向けて、さまざまな誘いをしているという意味で、この言葉を出したと思いますが、たしかにそこに独楽があれば、回したくなる。壁に穴があれば覗きたくなる。それこそが「ものの力」だというわけです。

しかし、独楽は回るものだということを知っていないと回すことはないかもしれません。とすれば、最初に回すことに気づくという「起源」の問題をどう考えるか。それが次の益田さんの問いかけでした。
そこで出てきたのが、これまでも何回か話題になっている「偶然性」です。
その偶然性を引き起こすのもまた「ものの力」かもしれません。
このあたりは今回あまり深入りはしませんでしたが、「偶然性」は益田サロンの重要なテーマのひとつだろうと思います。

ものは人を誘ってくるとしても、言葉もまた人を誘います。
その違いは何か。
言葉の世界では「比喩」が可能になりますが、比喩によって世界の理解は深まります。
比喩がものの世界を広げ豊かにしていく、といってもいいでしょう。
広くなった世界を「分類」することで、さらにわかりやすくなる。
そして、言葉は「文明」へと発展していく。

しかし、その一方で失われていくもの、落とされていくものも多い。
ものの世界に比べて、言葉の世界は言葉になったものを中心に構成され、言葉にならない「名もなきもの」は外へと排除されかねない。在ったとしても、私たちの認識世界からは消えてしまう。

これこそ、前回の二分心のサロンで話題になった「神の世界」と「人間の世界」の違いです。環境から来た刺激を感覚器官が受容し、それを脳が処理して、意味を持った世界へと矮小化してしまう。
これに関してもかなりの話し合いがありましたが、合意には至りませんでした。「神」とか「呪」という言葉が邪魔をしていたのかもしれません。それこそがまた「言葉の力」です。言葉には伝える力と拒む力があるようです。

他にも論点はいろいろとありました。
以上は私の視点でのまとめであることは言うまでもありませんが、みなさんそれぞれに「ものの力」と「言葉の力」を考えるサロンになったと思います。

Masuda15

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2022/05/01

■湯島サロン「理学療法士から見て最近思うこと」報告

理学療法士の山本尚司さんのサロンには、急なご案内にもかかわらず、10人を超える参加者がありました。

Ptsalon
山本さんは最初に、東日本大震災後の福島にリハビリ専門職の人たちでチームをつくり、3年間、現地で活動した時の話をしてくれました。
そこで、混沌とした人間のリアルな姿を目の当たりにして、さまざまな気付きをもらったそうです。「心技体」という言葉がありますが、身体や技に関しては、それまでに多くの蓄積を得ていましたが、この被災地体験で、それに加えて「心」について多くの気づきを得たと山本さんは言います。
被災地のような場所では、「言葉」の会話よりも「身体」の会話、つまり「頭の会話」よりも「心の会話」が多く行き交うのかもしれません。

山本さんは「思いは力である」と、サロンでは何回か話されました。
思いは何かを変える原動力になる、そして思いは場のエネルギーを支配するとも話されました。
お話を聞いていて、山本さんの中では、被災地体験で「心技体」がより深く統合されて、一段と高まったのかもしれないと思いました。

つづいて、話題を変えて、中国に人たちに対する理学療法体験からの話をしてくれました。
同じ身体と言っても、日本人と中国人とは違うのだそうです。
そういえば、マッサージも地域によってやり方が違います。そんなお話もありました。

言い換えれば、身体は自然や食生活や生活習慣によって、規定されているというわけです。同じ日本人も、時代によって変わっていくのかもしれません。
山本さんは、まだそう大きな変化は感じられていないようですが。

つづいて理学療法士の仕事やその基本にあるリハビリテーションの話をしてくれました。
リハビリテーションの場合、理学療法士(に限らず作業療法士などのリハビリ専門職も同じですが)にとって、まず大切なことは、「治ると信ずること」だそうです。
言い換えれば、リハビリとは「治す」ことではなく、「治る」のを手助けするということかもしれません。お話を聞いていて、私はそう受け止めました。

ここでも山本さんは「思いこそ力」と話されましたが、心が大きな役割を果たすわけです。
心と体はつながっている。そしてそれをつなげながら力を引き出し育ていくのが技なのかもしれないなと私は勝手に聴いていました。

お話の内容は書きだしたらきりがないのでやめますが、私の印象に残った話を一つだけ紹介します。

これも被災地での体験からのお話ですが、人が元気になる最初のきっかけは、みんなと一緒になって歌い踊ることだというお話をされました。身体を動かすこと、踊りこそが元気の出発点、そしてそこから歌が出てくる。
私の勝手な解釈ですが、万葉集サロンでいま話題になっている「うたの誕生」や二分心サロンで話題になった「意識の誕生」を思い出しました。
私自身まだ十分に咀嚼できていませんが、何かとても大切なことを示唆しているような気がしています。

今回は時間が足りずに、山本さんもたぶん話したりなかったと思います。参加者からももっとお話をお聞きしたかったという声もあったのですが、残念ながら時間切れになってしまいました。
たくさんの人たちの身体からの声を聴き続けている山本さんの話は、いつかまたお聞きしたいと思います。

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■湯島サロン「ゆとり世代からのメッセージ」のお誘い

湯島のサロンで、先日、「ゆとり世代」が話題になりました。

ゆとり世代とは、1980年度からはじまった「ゆとり教育」を受けた世代のことですが、ゆとり教育そのものへの賛否も含めて、様々な評価を受けています。
結局、ゆとり教育は、「学力」との関係もあって、脱ゆとり教育へとまた変わってしまいました。そのこと自体に、日本の教育政策には理念やビジョンのないことが顕れていると思います、子どもたちにとっては迷惑な話です。
また「ゆとり教育」そのものも、表層的にしか理解されておらず、生半可な知識で論評する人が多いのが気になります。

湯島のサロンには、ゆとり教育に実践的にかかわった人もいますし、実際にゆとり世代を自覚している人もいますので、いつかしっかりと教育に関するサロンを開きたいと思っていましたが、今回、ゆとり世代の当事者である鈴木あかりさんが、サロンを引き受けてくれました。

鈴木あかりさんからのメッセージをお読みください。

私は、平成生まれのゆとり世代です。
円周率が3と教科書が変わったり、そろばんではなく電卓を数学の時間に習ったり、土曜の授業がなくなったりと、学年は上がるのに教育水準が下がることに子供ながら違和感を覚えつつも、学外での習い事などを楽しみながらのんびりと過ごしていました。社会人になると「非常識」「使えない」と言われた同世代の人、また彼らに対してそう感じてきた人も多いのではないでしょうか。

一方で、オリンピックや将棋などの分野において、技術や精神性までもが素晴らしい若い選手たちが目立って活躍するようになったのも、この頃からである気がしています。

ホームスクーリングなど学校教育以外の選択肢があれば良かったのにと思うことがありますが、これは不登校の問題にも通じることではないでしょうか。

「ゆとり」の意味するところを考えて、それぞれの生き方を問い直すことは、忙しく生きることを強いられがちな私たちにとって、とても意義のあることだと思います。

この鈴木あかりさんの呼びかけに応じて、みんなで改めて「ゆとり」について話し合えればと思います。できれば「教育」や「学習」とは何かについても。
あまり「ゆとり」なく生きている方も、ぜひ「ゆとり」をつくってご参加ください。
もちろん「ゆとり」をもって生きている方も。

〇日時:2022年5月25日(水曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「ゆとり世代からのメッセージ」
〇話題提供者:鈴木あかりさん(ホリスティックヘルスコーチ)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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