■湯島サロン「ゆとり世代からのメッセージ」報告
ゆとり世代の鈴木あかりさんのサロンは、あかりさんよりももっと若い人や3人の子どもの母親、ゆとり教育前の詰め込み教育の中で育った人など、10人ほどの参加者がありました。話はかなり広がったり盛り上がったりで、今回もまた1時間も伸びてしまいました。
私自身は「ゆとり教育」には高い評価をしているのですが、世間的にはあまり評価されていないようで、ゆとり教育で困ったのは誰なのだろうか、ずっと気になっていました。その後の脱ゆとり教育がどんな方向に向かっているのかも気になっています。
今回は、「ゆとり」についても話し合いたかったのですが、どうも「ゆとり」というのはとても多義的で、一筋縄ではいきません。サロンで「おかねのゆとり」ということを指摘されて、自分の視野には全くなかったことに気づかされました。私は「ゆとり」とは時間とか精神とかしか考えていなかったからです。それに気づいたとたんに、自分の視野の狭さや思い込みを思い知らされ、サロンの報告を書く気力が萎えてしまいました。
そこでサロンで実体験的な話をされていた参加者の方や話し手のあかりさんに感想をお願いして、それで報告に代えようと思いつきました。
まず話し手のあかりさんは、「話し合いの方向性がゆとり教育のネガティブな側面に集中してしまい、ゆとりを持って生きることの意味についてあまり皆で考えられなかった」のが反省点です、と書いてきました。これは私こそが反省すべきことですが、たしかになぜかゆとり教育に否定的な人が多かった気がします。
また、「教育に関連して家庭環境も話題になり、教育と家庭は切り離せない問題であって、思いがけず振り返る良い機会になりました」ともありました。家庭環境の話をした参加者がいたおかげで、その話題になったのですが、「ゆとり教育」と家庭での親子関係をつなげる話し合いにもっていかなかったことを反省しました。学校教育と社会のありようは、相互に映し合う鏡のようなものでしょうから。「ゆとり教育」を考えるなら、大人の生き方や親子関係も一緒に考えなければいけません。
あかりさんは、「詰め込み教育時代の方が概念的な理解が進んでいたということに驚き、羨ましく思った」とも言います。
これは私も意外でした。そこにこそ、ゆとり教育の意味を感じていたからです。「ゆとり教育を受けた当事者としては、教わる内容が減った、易しくなったという印象しかなく、本質的な考えについて学ぶ機会がなかったのが残念でした」というあかりさんは、授業が退屈だったようです。でもその気になれば、物事を深く学ぶように仕向けることはできたはずです。制度の運用側の問題、あるいは社会全体の風潮の問題かもしれません。
デンマークやフィンランドなど、海外の教育との違いも話題になりました。あかりさんも小学校・高校時代と2度、カナダに留学し、日本の教育との違いを肌で感じていたそうですが、「国が気まぐれで決めた教育方針に、義務教育だから、皆がそうしているから、と安易に従うのはやはり危険だなと改めて思いました」と言います。でも当の子どもたちにはどうしようもない。やはりこれは親や大人の課題でしょうか。
あかりさんも、「子供のうちは自身で選択肢を広げることに限界がありますから、個性に合わせた様々な道が開かれていて、家庭環境に寄らずどれも選べて、どれを選んでも認められる社会が良いなと思いました」と言っています。
最後にあかりさんは、こんなことも書いてきました。
「因みに、最近本当の意味でゆとりが加速しているのではないかと思う出来事がありました。たわいの無いことですが、ゆとり世代のように社会は変わっていないのに教育だけの取り組みではなく、ゆとりある社会になって来ているなと感じることがあったのです。ゆとり教育から20年程経ち、やっと社会が教育理念に追いついて来たのでしょうか。私がいつも楽観的なだけかもしれませんが」。
どんな出来事だったのかわかりませんが、私も時々、感ずることです。
「ゆとり」がますます失われている気もしますが、ゆとりを大事にする若者も増えている。私もそこに大きな希望を感じています。
次は世代の違う参加者からの感想です。
まずはあかりさんより若い大学生からの感想。
「学校も「ゆとり教育」もその後に復活した「詰め込み教育」も、僕にとってはそこを生きてきてしまったわけで、そういう学校体験全てありきで今の自分がいて、記憶をもとにあれが良かった悪かったと言っていても仕方ない気がしました。僕にとって良い面も悪い面ありましたし、悪い面も良い面になったり、良い面も悪い面になったりしていると思いますが、だからなんだという気分になってきました」。
とても共感できます。ゆとり教育論について言えば、当事者を抜きにした無責任な観察者(知識人)的議論が多いことがいつも気になっていましたが(これは別にゆとり教育に限ったことではありませんが)、大切なのは、新しい体験から何を学ぶかであって、それは体験した当事者の立場でなければ見えてこないと思っています。
次に、3人の子供が学校に通っている母親の感想。
「ゆとり世代と言われている当事者が、自分たちの何が他の世代と違うのか,はっきりわからないとおっしゃっていたこと。他と比較して育つわけではないので確かにそうですね。当事者もまわりの人間もはっきりわからないまま「ゆとり世代」という言葉だけが世に広がっていたのだと気づきました」。
「あかりさんが「授業が退屈だった」とおっしゃっていたこと。授業がわかってしまう子どもに何か用意すべきだったのでは?と思いましたが、あとから、その退屈な時間がむしろ人間にとって大切な「思索の時間」になったのではないかという思いが浮かびました。一見無駄に思える「思索の時間」があかりさんの軸を作る手助けをした可能性はあると思います」。
「教育に詳しい方が「ゆとり」について教えて下さったものの、誰がなんのためにゆとりをはじめて、誰の力で終了したのか疑問は残っています。日本社会は「誰がやったか」を隠そうとしますよね。誰がなんのために(どこからの力で?)、が明白になれば、今の教育の問題点がもっと見えてくるように思います。
いずれも同感です。
私も、「ゆとり」が「思索」を生み出すと思い込んでいましたが、「おかねのゆとり」はもしかしたら「思索」を阻害するかもしれないと気づきました。
金銭依存社会の教育の話題も出ましたが、子どもや若者の教育が社会の未来を創り出すことを考えると、私たちはもっと学校教育に興味を持つべきだと思います。
他にも話題になったことはたくさんあります。
制度はよかったとしても、制度を活かすことのできる先生が少なかったという話もありました。しかし、実際にその制度で活動する当事者たちが活用しにくい制度が、よい制度であるはずはありません。
ゆとり教育で成果を上げた事例の話もありました。
最後に私の感想を一言。
私は、「おかねなどなくても時間や精神のゆとりの持てる生き方」を目指したいと思っていますが、今や多くの人にとって求める「ゆとり」は「おかね」なのかもしれない。「おかね」はゆとりのための一つの手段だったはずなのに、いつの間にかそれ自身が目的になってしまった。そんな気がしてきました。「ゆとり教育」から「おかね教育」へ?
「ゆとり」とは、いったい何なんでしょうか。
あらためて、考え直さなければいけなさそうです。
長くなってすみません。
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