■節子への挽歌5336:「認められる欲求を超えてしまっているから」
節子
今日は湯島でオープンサロンでした。
最近、オープンサロンで私の生き方が話題になることがあります。
今日も後半少しそんな話になりました。
サロンでは「不安」が話題になったのですが、そこからみんな誰かに認められたがっているという「承認欲求」の話になりました。
そこから、ある人が、「佐藤さんは誰かに認められたいという欲求を超えている人だから」と言いました。みんなも何となく納得しているようです。
承認欲求は誰にでもあるでしょうし、私にももちろんあります。
しかし問題は、誰に認められたいか、です。
私の場合は、節子には認められたかったという気がしますが、節子がいなくなった今は、たしかにあまり承認欲求的な気持ちはありません。
世間に認められたところで、あまり意味があるとも思えない。
そもそも「認められる」ということの意味もよくわからない。
しかし、外から見ても、いまの私は「認められる欲求を超えてしまっている」ように見えるのでしょう。
私のことがサロンで話題になるのは、私の生き方がやはりどこかおかしいのかもしれません。
どこかで生き方が大きく変わってしあったのでしょうか。
節子がいない今、自分の生き方を評価する基準がないので、どうもすっきりしません。
やはり「生きる基準」と言うか、生きる根拠を与えてくれる人が欲しいです。
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