■節子への挽歌5344:信仰の力
節子
昨日、応現院を案内してくださったのは阿部夫妻です。
阿部和子さんは、小さな時から病気がちだったそうですが、ある時に真如苑の信仰に出会い、人生を変えたようなお聞きしています。
両親は法華宗徒だったようですが、お経を聞いても意味が分からない。
しかし真如苑の教えはわかりやすい言葉で語りかけてくれるのにとても共感したようです。
節子の両親は浄土真宗でした。
結婚して法事に参加するうちに、読経の後、わかりやウイ言葉で親鸞の教えを説くのです。
それが私にはとても新鮮でした。
意味の分かる説法と意味の分からない不思議な読経。
この組み合わせが、おそらく信仰の核にあるのでしょう。
難病や余命宣告を受けた人が、宗教に帰依することは少なくありません。
それで救われた友人知人もいます。
節子はどうだったのでしょうか。
たぶん信仰には向かわなかった。
勝手な推測ですが、私がいたからです。
節子は発病後は私に完全に身を任せていました。
それもひとつの信仰かもしれません。
にもかかわらず、私はそれに応えてやれなかった。
ただただ節子の病気は回復すると思い込むことによって、問題から逃げていたような気もします。
悔いがたくさん残ったのはそのせいです。
難病で不治を言い渡された人が、いろいろと名医を探して治った話を聞くことがあります。
先日もまさにそうした話を聞いたのですが、そういう話に接するたびに、罪悪感が浮かびます。
節子にはもっと誠実に取り組むべきでした。
そういう思いから、いまもなお、抜け出せません。
時々とても滅入ってしまうのです。
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