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2022年6月

2022/06/30

■節子への挽歌5363:大学時代の学びをめずらしく思い起こしました

節子

26日のサロンで久しぶりに「新しい経済・新しい政治」をテーマに1時間ほど話させてもらいました。
私のこれまでの生き方の背景にある経済観・政治観をはなしただけですが。

話が「コモンズの経済」に関わった時に、なにげなく玉野井芳郎(元東大教授)さんの名前を出したのですが、参加していた東大の学生から、佐藤さんは玉野井さんの講義を聴いていたのですか、と問われました。彼の先輩が最近修論で玉野井さんを取り上げたのだそうです。
玉野井さんの授業はいまも記憶しているいくつかの授業の一つですが、私には全く退屈で、それで経済学が嫌いになったとさえ言えます。

しかし、東大を定年で退官後、東北大や沖縄大に移ってからの玉野井さんの論考は私の知っている玉野井さんではなく、実に面白く、彼の著作はその後、かなり読みました。
私のコモンズの回復というテーマに見事に重なってきたのです。

また「総有」という言葉を出したら、別の人がいま読んでいる本に「総有」という言葉が出ているが、佐藤さんはどこで「総有」という言葉を知ったのかと訊かれました。
私が「総有」という言葉に出会ったのは、これも大学1年の時で、「社会思想史」の淡野安太郎さんの講義でした。これもはっきりと覚えている講義でした。
「総有」と追う概念にはとても共感し、以後、私の経済観や政治観のベースの一つになっています。

そんな話をしていた、やはり大学時代の学びの大きさに気づきました。
法律関係だけをいつも思い出していましたが、政治学や行政学などのほうが、私のその後に影響を与えていたのかもしれません。
しかしいずれも記憶に残っているのは、講義内容というよりも、その教授の話したことのような気がします。

 

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2022/06/29

■湯島サロン「新しい経済・新しい政治」報告

「新しい経済」「新しい政治」と言っても、今回の私の話は、私のこれまでの生き方の背景にある経済観・政治観を整理しただけのものなので、特に体系的な話ではありません。それにとりわけ新しい思想でもないのです。
案内にも書いたように、国家や社会全体から考えるのではなく、個人の生活から考えるという、発想のベクトル転回という意味で「新しい」と表現させてもらいました。

経済や政治を考える場合、これまで国家を基点に考えるのが基本でした。しかし、いわゆる「成熟社会」にあっては、ベクトルを反転させて、全体よりも個々人の生活や生命を基本とすべきではないかというのが私の考えです。
実際に私は60年ほど前から、そうやって、経済成長や秩序優先の管理社会に抗って生きてきたつもりです。湯島のサロンも、その実践の一つです。

国家(全体)から考えるか、個人から考えるかで、政治や経済への取り組み方は変わってきますし、会社や役所での働き方も変わってくるはずです。そもそも制度設計そのものも変わってくるでしょう。

わかりやすい例が学校です。生徒を学校に合わせた「義務教育」と学校を生徒に合わせた「多様な学びの場」教育とは全く違います。後者では不登校もいじめも起きないでしょう。そういう学校も少しずつ増えてきています。
この発想を基点にいまのいろいろな問題を見直すと、まったく違った世界が見えてきます。国家のための死を求められる戦争は成り立つはずもありませんし、弱者を措置するような金銭による社会保障制度や地方分権制度などのおかしさもわかるでしょう。

ふたつの発想の違いを象徴的に示すのが、消費税とベーシックインカムです。
生活するうえで不可欠の食べ物の購入にまで課される消費税は、なんだか生きているだけで「徴税」される江戸時代の悪代官の暴力行為のように感じます。
この国家を維持しているのは誰でしょうか。国家は国民がいればこそ成り立つと考えれば、国家は国民に向けて生活を保障するためのベーシックインカム(生活支援費)をこそ支給すべきです。それこそが「経世済民」であり「徳政」です。

もちろん国家には税金は必要ですが、それは国民が支えている国家や社会の仕組みを活用して価値を生みだすことができた人、つまり所得を得た人が、その所得の一部を提供すればいいでしょう。利益の一部を「納税」すればいいので、「徴税」感はないでしょう。それが国家起点ではなく、生活起点の発想です。

制度だけではなく、私たちの心構えも変わるでしょう。
仕事のやり方もお金との付き合い方も変わってくるように思います。
最近よく言われる「ブルシットジョブ」はなくすべきですし、逆に私たちの生活にとって大切な「エッセンシャルジョブ」は大事にされなければいけません。場合によっては、みんなで持ち回りでシェアしていくことも必要です。まあすでにそういう仕事をボランタリーに引き受けている人も少なくありませんし、私もできるだけそう心がけています。

まあそんな話を少し言葉に整理して話させてもらいました。

今回の私のサロンのメッセージは、「政治や経済を生活者の手に取り戻そう!」ということですが、これはいいかえれば、「もっと自分の生活を大事に生きよう!」ということです。経済や政治はますます生活とは無縁のところで展開していますが、それは多くの人が自分とは関係ないと手放しているからだろうと思います。そうした生き方をまずは見直す必要があります。自分の生き方なら、その気になればすぐにでも変えられます。
それこそが「新しい経済・新しい政治」のはじまりなのです。

しかし残念ながら話し合いは、知識ベースの話に向かいがちで、やはり今回もほとんど伝わらなかったような無力感が残りました。消費税にさえ多くの人が肯定的(ほかの方法がない!)なのには驚きました。

話の内容はパワーポイントにまとめましたが、もし関心を持っていただけるのであれば、データで送らせてもらいますので、ご連絡ください。
もし実践に取り組みたいという方がいたら、ぜひ生活事業研究会の第2期をそろそろ開始しますので、ご参加ください。

なお、私の話よりももっとわかりやすく、新しい経済を目指して、いま農業に取り組んでいる阪口さんのサロンが72日にあります。
ぜひたくさんの方に阪口さんの生き方や感性に触れてもらいたいと思っています。
まだ参加申し込み可能です。よかったらぜひ。

以下は、私の勝手な思いです。よほどお暇な方のみどうぞ。

サロンでは、古代アテネのオイコノミクスとポリティースの話をさせてもらいました。
オイコノミクスは「家政」と訳されますが、要は生活経済の意味で、そこでの主役は女性や奴隷でした。一方のポリティースは都市国家政治の意味で主役は市民と言われる資産家の男たちでした。古代アテネは民主主義国家などでは全くなく、ただ都市経営のやり方が有産市民による多数決統治(デモクラシー)だっただけの話です。

しかしそれが近世西欧でポリティカルエコノミー(政治経済)という形でオイコノミクスまで男たちが担当することになり、そこから貨幣経済が発展。そしていまや政治と経済が逆転して、エコノミカルポリティクス(経済政治)が世界を席巻してしまいました。主役は男たちの手を離れ、資本に移ってしまった感があります。

それをまた女性や奴隷になってしまった生活者の手に取り戻すというのが私のビジョンなのです。いまの私の立場は言うまでもなく、「奴隷」です。念のために言えば、「お金の奴隷」ではないほうの「奴隷」です。

サロンの後、唯一の女性参加者から、「奴隷と女性たち」のところをもっと説明してほしかったとメールが来たので、蛇足と思いつつ書かせてもらいました。

New-ecopoli2

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■〔参院選で考えたこと:5〕政見放送をみんなが聴く国民休日

参院選なのに、最近は自宅にいると選挙であることに気づきません。選挙カーもあまり回ってきませんので、ついつい選挙を忘れてしまいます。

私は最近、NHKの政見放送をよく聴きます。
これがなかなか面白いのです。
私のように影響を受けやすいタイプだとついついこの人に投票しようかと思ったりするほど、共感できることも多いのです。ちなみに私がそう思うのは、たいていの場合、無所属や無名の人です。

テレビや新聞のニュースでは、たくさんの候補者のうちの誰が実際に当選を争う人たちかは何となく感じさせるような気がしますが、私自身のなかにも、そういう思い込みがあることに気づきます。国会議員の世襲化が問題になっていますが、もしかしたら世襲化を支援しているのは、そうした私たちの思い込みなのかもしれません。

私はN党には不快さしか感じていなかったのですが、立候補者の話を聴いていると共感してしまうことも少なくありません。むしろどうしてこういう主張の人がN党から立候補するのかという疑問は残りますが。
要するに個人で立候補するのが難しいということなのでしょう。

私は以前からブログで書いていますが、もう「政党の時代」は終わったと思っています。
というよりも、「政党」の概念や組織原理を変えるべき時代に来ているように思います。
政党などという支えがなくても、個人として立候補できる政治になってほしいと思っています。

それはともかく、政見放送はとても面白いのです。
いろんな意見や提案や問題意識に触れることができるからです。
でも政見放送になったらチャンネルを変える人も少なくないでしょう。
たしかに大きな政党の話は退屈ですから、面白くない。
しかし、やはり退屈でもきちんと聴く必要があるなと今回は思い出しています。

投票日が国民休日にすべきだと思いますが、それに加えて政見放送を聴く日を公示日の直後に設定し、すべてのテレビやラジオが政見放送と政見論議の番組だけを流すことにし、その日はやはり国民休日にするのはどうでしょうか。
さらに言えば、その日は立候補だけではなく、NHKはじめ複数のチャンネルを持っているテレビ局は、1局以外は立候補者以外の国民に開放し、希望者には抽選で3分の「政権発言」の機会を与えるのはどうでしょうか。
もしかしたら思ってもいなかった素晴らしい提案があるかもしれません。

さまざまな人の意見を広く聴ける日、話したい人は政治家や立候補に対して提案できる日、つまり国民みんなで「政策を話し合う国民休日」にするわけです。
学校ではもちろんみんなで政治に関して話し合う。できれば家庭でも。
官僚も公開の場に出て来て、国民の意見に耳を傾ける日にしていく。

こんなことが実現できれば、サッカーよりも選挙は楽しいお祭りになるかもしれません。
選挙はもっと楽しいものであるべきではないか。私はずっとそう思っています。

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■節子への挽歌5362:小さな奇跡

節子

節子が残した貯金はほぼ底をつきました。
ついに20万円になってしまいました。
これでは湯島の維持も難しくなりました。

これまでも何回かこうした金銭危機に出会ったことがあるのですが、なぜかそのたびに何かが起こって道が開けるのです。
しかし今回は無理だなと思っていたのですが、またまた奇跡が起こりました。
と言っても小さな奇跡ですが。

残高がある銀行口座はないものかと探していたのですが、通帳はなかったのですが、カードが出てきました。もう使っていないカードでした。
念のためにネットで口座状況を調べてみました。というのはそのカードはどうも私が使っている銀行口座のものではなく、インターネットバンクだったからです。
そうしたらなんとそこに40万円の残高があったのです。
早速に全額、わが家の口座に振り込みました。

これで当面の金銭工面からは解放です。
まあ最近はこんな感じでの自転車操業です。

金銭管理がだらしないと言えば、それだけの話ですが、節子がいたらこんなことにはならなかったでしょう。
しかし、何とか安定収入を確保しなければ、湯島は維持できなくなりそうです。
これを契機にやめるのが一番すっきりするのですが、これまで2回、そう試みましたが、反対が多いのと私自身が最後に踏み切れずに挫折しています。

それに湯島にはまだ節子がいますから。
まあ湯河原もそうなのですが。
困ったものです。

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2022/06/28

■節子への挽歌5361:夏が始まりました

節子

はやばやと梅雨が明けて、猛暑日が続いています。
梅雨が明けたので、27日から畑にまた少し通いだしましたが、あまりの暑さに無理はやめることにしました。
しかし、行くとついつい草を刈りたくなる。
刈りだすと時間を忘れてしまう。
そうするとユカから「もう帰れ」の電話がかかってきます。

まだ収穫には至りませんが、今年は少し収穫しようかなと思いだしました。
それで昨日、また野菜の苗を買ってきました。
まあいつものことですが、第一陣の野菜は長雨と手入れ不足でほぼ全滅だからです。
いずれにしろ節子の時のような収穫は期待できませんが、きゅうりとトマトくらいは大丈夫でしょう。

ユカは畑には来ませんが、ベランダで野菜作りや花作りを始めました。
土嫌いのユカが、と思いますが、ちょっと張り切っています。

今年も夏が始まりました。
山にも海にも行かない夏。ただただ暑いだけですが、今年は何が起こるでしょうか。

 

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■〔参院選で考えたこと:4〕期日前投票に行く前にもう少し考えてほしいです

最近、期日前投票に行く人が増えています。
最近では期日前投票が3割を占めるような選挙もありました。
期日前投票の制度は悪いものではないと思いますし、私もこれまで1回、利用させてもらいました。しかし公示日に早速に投票に行く人には、大きな疑問もあります。誰かに頼まれて行っているとしか思えないからです。

そもそも選挙とは何でしょうか。
単に投票することにだけ意味があるのでしょうか。
そうではないと私は思います。
選挙期間に国民みんなで日本の未来を考えようということではないかと思います。

選挙とは普段はなかなか考えられない日本の政治や経済のことを考え、熟慮した上で、私たちの政治を担ってくれる代表を選ぶ活動なのです。
ただ投票するのではなく、主権者としての責務(公務)を果たすことなのです。

だから立候補者の政見も聞かずに投票するのは私には賛成できません。
もちろん投票日に投票に行けない人は期日前でいいでしょうが、そもそも投票日は全国的に休業にし、投票を最優先にすべきだと私は思っています。
日給なので休めないという人もいるでしょうが、給与保証すべきでしょうし、責務(公務)であれば報酬を出すべきでしょう。

今回の参院選は立候補者が多いです。
与党側の政党(私は立憲民主党や共産党ですら与党側だと思っています)公認の人の言うことは退屈ですし、すでに新聞やテレビで紹介されていますが、無所属やいわゆる「泡沫候補者」と言われる立候補者の政見放送には新しい発見や示唆がたくさんあります。なかには私にとっては「不快」な主張もないわけではありませんが、だからこそ傾聴する価値があると思っています。少なくとも視野を広げることができます。

選挙で大切なのは、投票だけではありません。
国民が日本の政治について考えることこそ、選挙の意味ではないのか。
その上でしっかりと投票する人を考えることです。

投票する人がいないとか、投票する政党がないとかいう言い訳を言うのは、要するに自分は何も考えていないということの表明でしかありません。
人間は多様ですから、自分の考えと同じ人などいるはずもありません。
しかし自分にとっての最大関心事に関して共感する人を見つけるのはそう難しくないはずです。
そういう努力もせずに、政治を批判しても何も生まれません。

期日投票に行く前に、ぜひ立候補者の政見を聴くようにしてほしいです。
きっといろんな気づきがあるはずですから。

 

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2022/06/26

■節子への挽歌5360:佐藤さんが死んだらサロンはどうするのか

節子

今日も真夏のような暑さです。
朝、畑の野菜に水をやりに行ってきましたが、それだけでももう汗びっしょりです。
畑にはなかなかいけないためか、野菜もあまり元気がありません。
これからはできるだけ行こうかと思います。

今日は湯島で新しい政治と経済を考えるサロンです。
この暑さだとあまり参加者もいないかもしれませんが、新潟在住のあるNPOの代表の人がたまたまザンビアからの帰国で東京にいるのでもしかすると参加すると連絡がありました。うれしい話です。もっとも前の用事がうまく終わったらということではありますが。

先日、20代の若者から佐藤さんが死んだらサロンはどうするのかと訊かれました。
そういえば、その1か月ほど前にも、私と同世代の会社社長からも同じ質問を受けました。
そろそろそう言うことの準備をしておかなければいけません。
まあ理想的には私の死とともにすべてが終わるのがいいのですが、それではいささか無責任と言われそうです。

暑いですが、風がとても快い。
エアコンがどうも好きになれませんが、今日はさすがに湯島ではエアコンをつけないといけません。エアコンの中に長時間いるとなぜか疲労感を残してしまう。
私の身体はまだそれなりに正常のようです。

さてそろそろ出かけないといけません。

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■〔参院選で考えたこと:3〕「憲法改正の是非」は政治の争点にはならないと思うのですが

今回の参院選の争点の一つに「憲法改正」があります。
湯島に集まる人にも「改憲か護憲か」などという人もいますが、私はこれほど無意味な問いはないと思っています。

そもそもは憲法9条を守るかどうかだった争点を、憲法を変えるか変えないかという無意味な問いにしてきたのは、日本の憲法学者の怠慢です。まともな学者であれば、そんな無意味な問いには異議を唱えるべきです。なかには改憲論者から護憲論者になった憲法学者もいますが、彼らは本当に憲法学者なのでしょうか。

まあそれはともかく、憲法は改正すべきだという人のなかにも全く真反対な方向での改正を考えている人がいるのですから、争点などにはなるはずもない。
それにそもそも人間がつくったものですから、不都合なことがあれば変えるのは当然のことです。ですから「護憲か改憲か」は争点にはなり得ようもない。
要するにそういう議論をする人たちは、真面目に問題を考えていないとしか思えない。

問題はシンプルでななければいけません。
非武装平和を憲法に明示するかどうかという、内容のある争点にしなければ、議論のしようもない。
しかし最近の日本では、こうした議論の内容をあいまいにしたままの争点が多いのです。
その結果、多くの人が、「生活」と「政治」や「経済」は別の世界の話だと思い込むようになってきている。そこに「御用学者」たちの「意図」を感じます。

しかし、政治も経済も、私たちの現実の生活の問題なのです。
今日は湯島で午後2時からそんな話をするサロンを開く予定です。

 

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2022/06/25

■節子への挽歌5359:ついに山形には節子と一緒には行けませんでした

節子

山形の一大さんから恒例のサクランボが届きました。
毎年、送ってくれるのです。

一大さんと会ったのは、山形市の仕事をしている時ですが、私にとってはとても刺激的な仕事、数年通い続けました。
いつか節子と一緒に行く予定で、月に数回言っていましたが、ほとんど観光はしていませんでした。
特に行きたかった山寺にも、節子と一緒にという思いがあって、行かずにいましたが、結局、節子と一緒に行くことはできませんでした。
そういう場所がいくつかあるのです。

お礼の電話をしました。
一大さんはいまはワクチン室長という要職にあります。
もうひとりやはり仕事で一緒だった高倉さんはいまではまさかの副市長です。
いつかまた山形にも行きたいのですが、どうも一人ではいく気になりません。

節子がいたら、一緒に行きたいところがたくさんあります。
私の人生も大きく変わっていたでしょう。

久しぶりに一大さんは、相変わらず忙しそうでした。
また会えるといいのですが。

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■節子への挽歌5358:また畑が大変です

節子

また10日以上、畑に行きませんでした。
雨が降ったり、用事があったり、気分が載らなかったりで、なかなか行けないのです。
今日は朝から陽光が眩しい絶好の畑日和。気温も高い。
こういういささか危ない日には畑に行きたくなります。

以前は早朝に行ったのですが、最近は万一を考えて家族が起きてからにしています。
朝食も食べないといけませんし。

9時前に出発。
いささかあまく考えていましたが、畑の入り口の野草を前回ほぼ刈り取ったはずなのに、またぼうぼうと回復していました。野草の成長速度はものすごいです。野菜とどうしてこんなにも違うのでしょうか。
7本の野菜を植えた畑も草にうまってしまい、ミニトマトとナスを除いてはいずれも消え入りそうな状況。急いで周辺の野草を排除し、水をやりました。暑さのせいで声をかけるのを忘れてしまいましたが。
ミニトマトが5つほど赤く熟していました。
一つは食べて、一つは大地に戻しました。

ミョウガは元気がいいですが、収穫に至らず。方法がわからない。
アーティチョークは観賞用ですが、一つだけまだ花をつけていました。誰も見てくれる人がいないので、怒っているかもしれません。

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時半にユカからもう帰れ電話。
さすがに今日は30度越えの厚さなので、はっと気づいて帰ることにしました。
ちなみに今日はさすがに帽子と水筒は持参。帽子は運悪く女性ものしかなかったのでそれを使っています。
水筒は結局飲むことなしで、そのせいか、帰宅後また玄関で15分ほどよこになっていました。起き上がれないのです。それほど疲れます。しかし、すごい汗をかいたので、とても気持ちがいいです。

野菜をもう少し植えようかと思います。
節子がいたら畑仕事も精が出たのですが。

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■〔参院選で考えたこと:2〕物価上昇は良いことなのか悪いことなのか

今回の参院選では物価上昇対策が争点の一つのようです。
たしかに最近の消費者物価の上昇の広がりは私のような者にもちょっと気になります。
今朝の朝日新聞のトップ記事は「物価 5月も2.1%上昇」とあります。

しかし、つい1年ほど前までは、デフレ脱却に向けて物価上昇2%が目標にされていたような気もします。
物価上昇は良いことなのか悪いことなのか、どうもわかりません。

そもそも「物価」とは何でしょうか。
概念はわかりますし、数値になって示されるとなんとなくわかったような気になりますが、集計の仕方でいかようにも数値は変わってきます。時に改竄をしてしまうこともあるようですが、改竄などする必要などなく、政策に沿った数値は出せるはずです。もちろんそれなりの手続きは必要ですが。
消費者物価指数の数値は、私には恣意的な政策数値にしか思えません。

私は毎週1回ほど、娘に付き合って食品の買い出しにスーパーに行きます。
そのスーパーでは「シニアデイ」というのがあって、私のような高齢者には5%割引になるのです。
もっとも私が同行すると、余計なものを勝手にかごに入れるので支払額が多くなるため、最近は来なくてもいいと言われていますが。

しかし、そのおかげで、食材などの価格の動きには触れていますが、私の漢字では2%どころではありません、2~3割上がっているものも少なくありませんし、ステルス値上げなどという詐欺まがいのものもあるので、実際にはもっと値上がりしている気もします。
その一方で、私には理解不能な「〇〇割」も広がっているようで、価格に対する感覚はかなり麻痺してきている気もします。
いま私たちはきっと何かを学ばせられているのでしょう。

いずれにしろ私が信ずるのは実際に私が買い物をする時の価格です。
現実は嘘をつきませんので。

日本政府の統計数値に信頼をおけなくなってしまったのは、本当に残念です。

 

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2022/06/24

■節子への挽歌5357:鳥の博物館(2022年6月24日)

節子

国際箸学会の小宮山さんが、箸と鳥のくちばしに関心があって、鳥の博物館の館長と話したいというので、私も同行しました。
この4月から私もよく知っている木下さんが館長になったのです。
私自身、鳥の博物館を訪問するのは久しぶりです。木下さんの案内でゆっくりと見せてもらいました。

小宮山さんはもう15年ほど前にも来ていて、鳥のくちばしの動きの模型を見て、それに驚いたのだそうです。
人間の箸使いでは、上の箸は動かさずに下の箸を動かしますが、鳥のくちばしはどうなのか。今回はその模型が見当たらなかったのですが、木下さんが探してきてくれて特別に見せてもらいました。

鳥の博物館の後、小宮山さんと箸学会のスタッフ2人と一緒に食事をしました。
節子がいた頃とはだいぶ変わっていますが、水の館のレストランです。
いや節子がいた頃は、そもそもこのレストランはなかったかもしれません。
何しろ最近の私の記憶はかなりいい加減です。

考えてみると節子と一緒に我孫子をゆっくりと楽しんだこともありませんでした。
湯河原でも同じことを考えていました。
あの頃はいつも何をそんなに忙しくしていたのでしょうか。
返す返すも残念です。

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■〔参院選で考えたこと:1〕選挙における投票は「義務」か「責務」か

選挙における投票率低下に対して「義務投票制」が話題になりだしています。
今朝の朝日新聞でも「耕論」で大きく取り上げられています。

しかし、国民主権体制においては、選挙の投票は「義務」ではなく、「責務」というべきでしょう。
「義務」と「責務」では全く意味合いが違います。
義務に違反すると罰則が課されますが、責務は遂行すれば報酬が与えられる。
この違いが、私のいう「国家視点の政治」から「生活者視点の政治」の発想の転回です。

こんな議論を26日の湯島サロンで話し合いたいと思っています。
午後2時から始めます。よかったらご参加ください。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2022/06/post-26505a.html

消費税もまた「国家視点の税」であって、「生活者視点」からは廃止すべきだと思っています。「生活者視点」から考えられるのは「ベーシックインカム」です。

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■湯島サロン「改めて原発と平和の関係を考える」のご案内

福島原発事故で被害を受けた住民たちが国に損害賠償を求めた集団訴訟で、先日、最高裁は国の責任を認めない判決を言い渡しました。原発は安全だとして国策として原発を推進してきたことを考えると、どうにも納得できません。原発には当初から反対だったとはいえ、原発を結局は黙認してきた私はただただ恥ずかしく思います。

しかし、そればかりではなく、世間はまた原発再稼働に戻ってきているようで、今回の参院選でも多くの政党が原発推進を打ち出しています。
あれほどの事故を体験しながらなぜそうなるのか。
しかもウクライナの戦争で、原発が核兵器につながっていることを思い知らされたにもかかわらず。
私たちはもっと原発や核兵器のことを知らなければいけないと改めて強く感じます。

そこで、今回、第五福竜丸展示館でボランティアをつづけておられる黒田礼子さんにお願いして、核兵器と原発について生活者目線からの問題提起をしてもらおうと思います。

第五福竜丸に関してはご存知ない方も増えてきていると思いますが、米ソ冷戦時代の1954 3月、米国がビキニ環礁で行った水爆実験により、たまたま近くにいたために多量の放射性降下物(死の灰)を浴びた遠洋マグロ漁船で、乗組員 23 人は全員被ばく、無線長久保山愛吉さんは半年後に死亡しました。「ビキニ事件」と呼ばれた、この事件を契機に、世界的に核兵器反対の声が高まり、日本でも原水爆禁止の全国民的運動が広がりました。
1976 年に東京都立第五福竜丸展示館が開館し、現在、船は展示・公開されています。
http://d5f.org/

黒田さんはそこでボランティアとして来館者への説明などの活動を行っていますが、来館者とのやり取りなどを通じて、いろいろなことを感じていると思います。
そこで、そんなことも含めて、原爆(核兵器)の恐ろしさや原子力の平和利用の名のもとでの原発推進などに関して、黒田さんからお話をしていただき、今回の裁判やこれからの原発政策、あるいは核兵器問題を考えていければと思います。

重いテーマですが、ぜひ多くの人に参加していただきたいと思います。
私たちのくらしといのちにかかわる問題ですから。

〇日時:2022年7月12日(火曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「改めて原発と平和の関係を考える」
〇話題提供者:黒田礼子さん(第五福竜丸展示館ボランティア)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2022/06/23

■節子への挽歌5356:病気の話が増えてきました

節子

挽歌を書かなかった間、いろんなことがありました。
うれしいこともあれば気の重くなることもありました。

うれしいと言えば、福岡の蔵田さんがトウモロコシを送ってきてくれました。
地元でとれたトウモロコシがおいしかったのでと言って、わざわざ届けてくれたのです。

早速に電話しました。
お元気そうでしたが、コロナの関係もあって遠出しないようになっているようです。
蔵田さんはたぶんエネルギーを持て余していることでしょう。
それにしても、おいしいからと言ってわざわざ送ってきてくれる蔵田さんのお気持ちはとてもうれしいです。

一方、いささか気が重くなる電話もありました。
新潟の金田さんが検査入院をしていたのですが、ようやく退院し電話をかけてきてくれました。
退院はうれしいのですが、あまり調子がよくなさそうです。
ちょっと心配です。

とまあ、こういう電話や連絡は増えてきました。
そういえば、兄も検査入信していましたし、なぜか病院からの連絡も増えてきました。
私は幸いに病院は通うだけですが、私の周辺もみんなどんどん歳とっていきます。
そうなるとどうしても病気の話が多くなる。

困ったものです。

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■節子への挽歌5355:久しぶりに湯河原と挽歌

節子

お久しぶりです。
挽歌を完全にさぼっていました。
毎朝のおまいりは欠かしてはいないのですが。

2年ぶりに湯河原に行ってきました。
あまりに長く行って栄なかったので、どんな廃墟状況かと心配していたのですが、思っていたよりはあまあ大きな問題はありませんでした。
いずれにしろ掃除などが大変なので、ユカにも一緒に行ってもらいました。

湯河原にはまだ節子の名残がかなりありますが、廃墟になってもなぜか心がやすまります。
しかし湯河原もだいぶ変わってきました。
ここの管理維持も経済的にもう限界なので、今年には売却しようと思いますが、どうも気が進みません。困ったものです。

でもこれを機会に、また(今度こそ)、挽歌を復活しようと思います。
そろそろ私自身の人生の終焉も近づいてきたようですので。

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2022/06/22

■B型オープンサロン「参院選を話題に話し合いませんか」のご案内

最近は、気楽に自由に話し合えるオープンサロンのほうが参加しやすいという人が少なくありません。平日なのに参加者も多いのです。
しかし、なかにはまったくテーマがないと逆に話しにくいという人もいます。
そこで、ゆるやかなテーマを設定したB型オープンサロンを開催することにしました。

今回のテーマは「参院選を話題に話し合いませんか」です。
いまの状況から考えると、結果はもう見えているような気もしますが、であればこそ、何か新しい風が起こってほしいと念じています。
大きなテーマなので、どんな切り口でも自由に話してもらっていいです。
サロンをしたところで何も変わらないだろうと思ったら、それこそなにも変わりませんから、せめてみんなで政治への関心をちょっとでも高める一助にできればと思います。

B型とはいえオープンサロンですので、出入り自由、事前申し込み不要です。
気が向いたら気楽にお立ち寄りください。
こんな小さな動きから、歴史が変わることもないとは言えませんし。

〇日時:2022年6月30日(木曜日)午後2時~4時
〇テーマ:「参院選を話題に話し合いませんか」
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円

 

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■情報デトックスの3日間

ちょっと所用で2年ぶりに生活圏から外部に出かけました。
そのついでに、以前、仕事場にしていて、75歳で転居する予定だった湯河原のマンションに立ち寄りました。転居計画は妻の死で諦めましたが、そのまま放置していました。

なにしろ15年以上、ほとんど空き家状況で、管理維持費を何とか支払っていたのですが、ついにお金が無くなり、維持困難になったのでどうにかしなければいけません。
それもあって、おそるおそる少し足を延ばして立ち寄ってみたのです。
写真を撮るのを忘れてしまいましたが、廃墟に近く大変でした。

光熱費も銀行残高がなくなったため、その時点で切られていましたが、何とか電話で回復してもらいました。電気とガスと水道は確保したものの、ネット環境はなく、予期していなかったのですが、久しぶりにネットから解放された日を過ごしました。
普段使っていないSurfaceは持参しましたが、使いにくいので気になっていた万葉集サロンの報告をまとめるだけで終わりました。
スマホはあるのですが、スマホはメール以外では使っていないのです(電話も基本的には使いません)。

テレビもないし新聞もない。スマホでのネット検索はする習慣もないので、世間からちょっと解放された時間でした。自転車はパンクしていて使用不可。久しぶりに湯河原の街をよく歩きました。

湯河原や熱海には会社時代の先輩など知り合いも少しはいるのですが、連絡先も持ってこなかったので、連絡をせず、結局、無為の日々を過ごしました。
帰宅して気づいたのですが、写真も1枚も撮らず、誰にも会いませんでした。
こういう時間を持つのもいいかもしれません。

以前はここで原稿など書いていたので、まだ書籍は書棚5つ分残っています。今回は、あまりやることもなかったので、雑誌や書籍など処分することにし、数百冊の企業経営関係の書籍を廃棄、残していた雑誌も処分しましたが、見た感じ一向に減りません。よくまあ集めたものです。

久しぶりに情報デトックスした気分です。
同時に、死についても少し意識する気になりました。
このまま突然だといかにも迷惑をかけすぎますので。
妻の死がどれほど遺された私にとって大変だったかを思い出したのです。

メールにもあまり返信しませんでした。
帰宅しましたので、少しずつ返信していきます。
情報デトックスはできましたが、身体的疲労はむしろ蓄積されました。
いささか歩きすぎました。

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■第21回万葉集サロン「〈わ〉と〈な〉をつなぐ〈言〉の質感・質量ー天武天皇挽歌に見る持統天皇の孤影」報告

今回は、白鳳万葉最後の「女の挽歌」、持統天皇の天武天皇挽歌を中心に、話し言葉と文字との違いに触れるとともに、天武と持統との関係を読み解きながら、〈わ〉と〈な〉について考えてみようというのがテーマでした。

最初に升田さんは1枚のカラー写真を見せてくれました。飛鳥の北東部から撮影した大和三山が写った写真です。まずはこの風景によって、参加者を飛鳥の気分、あるいは持統天皇の気分へと誘ってくれました。

つづいて、持統天皇の歌といわれている6首をざっと紹介してくれたうえで、日本書紀の記事をベースに持統天皇の事績や人物像を話してくれました。

持統天皇を語る場合、どうしても夫である天武天皇も一緒に語ることになり、両者の関係をどう読むかで、日本の国の成り立ちのイメージも変わってくるように思いますが、今回の升田さんの関心はそこよりも、案内文にもあったように、「持統天皇の歌は少ないが、「言」の質感・質量で複雑な人物像がシンプルに凝縮されて、「わ〈持統天皇〉」と「な〈天武天皇〉」をつなぐ情意が見えるような気がする」と言うところでした。

升田さんは、日本書紀から見えてくる持統天皇像とは違った人物像が、万葉集から見えてくるといいます。それを象徴する天武天皇に対する挽歌を2首、読み比べてくれました。

やすみしし わご大君の 夕されば 見し賜ふらし 明け来れば 問ひ賜ふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも 見し賜はまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しび 明け来れば うらさび暮らし 荒栲の 衣の袖は 乾る時もなし(159番歌)

明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 味ごり あやにともしき 高照らす 日の皇子(162番歌)

たしかに、この2首を声に出して読んでみると違う感じを受けます(ぜひやってみてください)。

升田さんは、後者(162番歌)は、定型表現も多く、いかにもきれいにまとめあげられていて、「書かれた人物像」という感じがするが、前者(159番歌)には人間的な生々しい感情や迷いが感じられ、まるでじかに持統天皇に会っているような気さえすると言います。文字で詠まれた歌と生の言葉で詠まれた違いを感ずるというのです。
前回も話題になった話し言葉の歌と文字の歌の違いです。
ちなみにこの2つの歌には8年の間隔があるそうですから、天武への思いも変わっているのかもしれません。

升田さんは、前者を「古事記」的、後者を「日本書紀」的とも言いましたが、それに関連して、記紀それぞれの冒頭の日本の国づくりのしかたの違いも話してくれました。
古事記は「問い」から始まるのに、日本書紀では「共に計る」ことから始まる。その背景には、記紀それぞれの編纂目的の違いがあったとわかりやすく説明してくれました。
文字や言葉が、国家や生活にとってどういう役割を果たすのかを考える大きなヒントがそこにあるように思います。

升田さんは、次に、「言」を取り上げます。

持統天皇の159番歌にも出てくる「問ふ(言問ふ)」という言葉が詠みこまれている歌を、10首ほど読んでくれました。そこから浮かび上がってくるのは「言問ふ」ことこそ人と人をつなぐ最初の行為であり、つながりやはじまりを生み出し、「いのち」を感じさせる言葉だというのです。

言問いが通じなければ、そこにはいのちはなく、通ずるところに「わ」と「な」が行き来した姿を現し、そこから「命」ある言葉が広がっていく。つまり「わ」と「な」が生み出されていく。159番歌には「悲し(恋し)」や「寂し」という言葉も出てきますが、それらもまた「問い」から始まるのです。

そして、「言(コト)」は人と人をつなぐ豊かな言葉であるとして、「コトアゲ」「コトダマ」「コトドヒ」「コトワザ」などと言った「コトバ」をたくさん例示してくれました。「言」は私たちがいま感じている以上に、当時の人たちには大きな意味を持っていたのです。言霊というように、まさに「言」が生きていた。

文字の発明と普及によって、そうした「いのち」が様式化され、表情豊かな人のつながりも、無表情な人間関係へと絡め取られていってしまったのかもしれません。しかし、それが先進国である大陸諸国に対しての国としての自立につながっていったのです。

私自身は、感情豊かだった持統天皇が、天武崩御後、藤原不比等に乗せられて、次第に文字や制度に絡め取られていって、天武天皇を見捨てたように受け止めているのですが、そういう視点から考えると、持統天皇にとって、自ら(「わ」)を生み出す相手(「な」)が天武天皇からもっと大きなものに変わってしまったために、生き生きした「わ」ではなく、律令国家の中の役割としての「わ」に矮小化されてしまったのではないかという気がしますが、これはいささか個人的な解釈すぎるので升田さんには一笑に付されそうです。
しかし、「言問う」という言葉には、そんな大きな力があるのかもしれません。

中国から文字が入り、その中華思想に伍していくために、飛鳥から平安へと、日本人は大きく変わりだした。改めて「万葉集」の面白さ、不思議さを感じたサロンでした。

なお次回から万葉集サロンの曜日が第3土曜から第2日曜に変更になります。
次回は8月21日です。
ぜひ多くの人に万葉の世界の面白さに触れていただきたいと思っています。

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2022/06/18

■6月のオープンサロンの報告

最近、サロンが増えてきて、なかなかテーマなしのサロンを開くのが難しくなってきました。そのせいか、久しぶりのオープンサロンは、平日だったにもかかわらず10人の参加者がありました。やはりテーマなしに自由に話し合えるオープンサロンのほうが求められているのかもしれません。

今回は最初に位相幾何学的な遊びから始まりました。
以前もサロンでメビウスの輪の遊びを紹介してくれた益田さんが2つの遊びを持ってきてくれたのです。私はいずれもうまくできませんでしたが、課題を手際よくこなす人もいました。どうも私の脳はかなり劣化しているようです。健全な老化はいいことです。

つづいて話題になったのは、ウクライナ話題、仮想通貨/暗号資産話題、マイナンバー話題などが続き、最後は「我とは何か」話題。その間、いろんな話題も混ざりましたが、まあそんな感じがオープンサロンなのです。
サロンの後に用事を入れていることが多いのですが、いつもサロンが延びて、遅刻します。困ったものです。

テーマサロンもいいですが、やはりサロンの中心はオープンサロンだなと改めて実感しました。
できるだけ毎月2回のオープンサロンをしていこうと思います。
サロンをするまでもないけれど、ちょっとこんな話をしたいという方がいたら、ぜひオープンサロンに来てください。

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■責任までも民営化される時代

福島原発事故で被害を受けた住民たちが国に損害賠償を求めた集団訴訟で、昨日、最高裁は国の責任を認めない判決を言い渡しました。
一人だけ反対意見を述べた裁判官がいたのは、せめてもの救いですが、この判決は予想はしていたものの力が抜けました。
日本においては「責任の民営化」はますます進んでいきそうで心配ですが、無責任体制のまま、原発依存が引き続き進められると思うと憂鬱になります。

判決への疑問はいろいろとありますが、私が危惧するのは、国民無責任体制の中で私もまたその一員に加わっていることへのいやな気分です。
国民主権の日本国においては、国の責任は国民の責任でもあります。
ですからこの判決は、私もまた加害者の一員だったということを認めるかどうかの判決だったというように私は受け止めていました。
この裁判は、原発の安全神話を信じて原発からの電力を利用してきた私たちの生き方を続けるかどうか、にもつながっていました。
福島の事故で、ようやく多くの人は「原発安全」は事実ではなかったことに気づきました。気づいたならば、生き方を変えるのが普通でしょう。でも結局は多くの人たちは元に戻ってしまったような気がします。

原発事故で人生を変えてしまい、いまなお苦労している人がたくさんいるにもかかわらず、そういう事実に政府は誠意を持って対応していないように思いますが、それはつまり私たち国民が誠意をもって対応していないことのように思います。
ですから私はとても気が重いのです。

国が責任を認め、私たち国民全員がもっと被害者に対して支援していけないものか。
その一つのやり方は、税金の一部を避難者個人に(中抜きされることなく)直接支給するとともに、国民みんなが自らの生き方や考え方を悔い改めることが求められているような気がしてなりません。
第二次世界大戦に突入した時の無責任体制がまた繰り返されている。

責任は東電にあって、私たちにはない、と考えれば、楽にはなる。
しかし、どうもすっきりしません。
やはり国家もまた責任の所在をあいまいにする仕組みなのだと思わざるを得ません。

責任までも民営化される時代。
それに便乗して私も責任を回避している。社会の劣化は当然のことでしょう。
またひとつ、私が目指す未来とは違った方向への動きが始まりました。

ちなみに私は、原爆と原発は同じものだと考えていますので、この判決が、ウクライナで起こっていることともつながっているような気がしてなりません。

 

 

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2022/06/16

■湯島サロン「新しい経済・新しい政治」のご案内

岸田政権が「新しい資本主義」を打ち出し、経済のあり方を議論しだしています。その内容も少しずつ公表されだしていますが、どうもその方向は私が望んでいるのとは真反対のようです。
一方、政治の世界では、少しずつですが、新しい政治への動きが広がっています。れいわや参政党の発想には、これまでの政治とは違う新しさを感じます。

私の考える「新しい」という意味は、いずれも「個人の生活」を基軸にするという意味です。そうした視点から考えると、新しい動きを感ずることが多くなりました。
しかし、当然とはいえ、いまの政府や経済団体は、そうした新しい流れには否定的です。
そこで、「新しい」という意味が全く真逆に使われてしまうことになります。

30年近く前の話ですが、フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールが「経済大国」だった日本にやって来た時、「日本が豊かなのは日本人が貧しいからかもしれない」と言ったそうです。
当時の日本は、「国が豊かになって個人が豊かになる」という豊かさモデルだったと思いますが、ボードリヤールのフランスでは「個人が豊かになって国が豊かになる」というモデルだったのかもしれません。
国から考えるか、個人から考えるかで、経済も政治もまったく変わってきます。

経済成長発想のもとで、いまやあらゆるものが市場化されつつあり、政治もお金に支配されて経済化してしまいそうです。このままだとお金がなければ生きられなくなりそうな不安があります。
むかし読んだ本の中に、沖縄のオバアの「お金がないから貧乏だなんて誰が決めたんだろうね」という言葉を思い出します。

私は33年前に、貨幣経済が覆いだした会社から離脱して、コモンズの回復をテーマに、地域整備や市民活動にささやかに関わり続けてきました。会社に関しても、個人を基点とした会社経営を目指して、ささやかに関わってきましたが、どうも大きな流れは反対の方を向いてきているようです。

昨日の生活事業研究会で、「新しい経済」や「コモンズの経済」に関して少し話し合ったのですが、サロンでも一度、話し合いたくなりました。
そこで、久しぶりに私が話させてもらうサロンをやることにさせてもらいました。
5,6年前にも、同じテーマでサロンさせてもらったのですが、サロンのメンバーもかなり変わってきているので、もう一度、話させてもらってもいいかなと思った次第です。

経済や政治や生活に関心をお持ちの方はよかったら参加してください。
テーマタイトルは大げさですが、要はこれからの経済や政治に関して、みんなの思いを出し合えればと思っています。私たちが、どのような動きを支援していくかで、未来は大きく変わっていくような気がするのです。

急なお誘いですが、よろしくお願いいたします。

〇テーマ:新しい経済・新しい政治
〇日時:2022年6月26日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇話題提供者:佐藤修(CWSコモンズ村村長)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

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■新しい経済・新しい政治への期待と不安

岸田政権が「新しい資本主義」を打ち出し、経済のあり方を議論しだしています。
その内容も少しずつ公表されだしていますが、どうもその方向は私が望んでいるのとは真反対のようです。

一方、政治の世界では、少しずつですが、新しい政治への動きが広がっています。
れいわや参政党の発想には、これまでの政治とは違うパラダイムを感じます。

「新しい政治」や「新しい経済」に関しては、5,6年前に湯島のサロンで話題にさせてもらったことがあります。
私の考える「新しい」という意味は、いずれも「個人の生活」を基軸にするという意味です。そうした視点から考えると、新しい動きを感ずることが多くなりました。

しかし、当然とはいえ、いまの政府や経済団体は、そうした新しい流れには否定的です。
そこで、「新しい」という意味が全く真逆に使われてしまうことになります。
社会は人間の生命までも含めて市場化され、政治はお金に支配されて経済化してしまいそうです。このままだとお金がなければ生きられなくなりそうな不安があります。
むかし読んだ本の中に、沖縄のオバアの「お金がないから貧乏だなんて誰が決めたんだろうね」という言葉を思い出します。

昨日の生活事業研究会でいろいろと話し合って、先に投稿した「経済の捉え方の流れ」を書き変えてみました。現実に起こっているのは、ポリティカルエコノミーからエコノミカルポリティクスへ移行で、私が会社を辞めた時に考えた「コモンズの回復」とは逆に、「コモンズの崩壊」を引き起こし、それが故に私は生きにくくなっているのです。

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そんなことを考えているうちに、久しぶりに私が話させてもらうサロンをやりたくなりました。4年ぶりでしょうか。テーマは「新しい経済・新しい政治」。
サロンをすることが決まったら案内させてもらいます。

 

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2022/06/15

■生活事業研究会の報告とお誘い

湯島ではサロンの他にもいくつかの研究会やワークショップなどが行われています。
サロンは私の主催ですが、研究会はいろいろあって、私が参加しないものもあります。
私が主催している研究会もありますが、その一つが「生活事業研究会」です。
話し合うことをメインにしていますので、人数を抑えるために、毎月、同じ内容で2回やっています。
今日はその第1期の第5回研究会の2回目でした。

 事業研究会と言っているので、ビジネススクールのようなイメージを与えるかもしれませんが、そうではありません。ビジネスや経済の意味を問い直したいと思っているのです。

 私が話すのは今回が最後なので、いつもより長く話させてもらいました。
今回のテーマは「お金と事業」でしたが、その延長で「コモンズ経済」を話させてもらいました。ちなみに私の関心事は「コモンズの共創」です。

コモンズと言えば、ハーディンの「コモンズの悲劇」を思い出す人が多いでしょうが、日本では長いこと、「コモンズの幸せ」をつづけてきました。それに関連して2冊の本を紹介しました。「懐かしい未来」と「パパラギ」です。

その研究会で極めて大雑把に、経済の捉え方の変化を図にしてみたのですが、どうも歴史は逆に流れているように感じました。
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古代アテネの「オイコノミクス」と「ポリティケー」を思い出します。いまの日本もアテネのように、「市民」と「奴隷」の社会に戻ったとまでは思いたくありませんが。

 生活事業研究会は7月から第2期をスタートする予定で、いま会員を募集しています。
いまの経済のあり方に違和感のある人は、よかったら参加してください。
ビジネスと縁のない方も歓迎です。

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2022/06/14

■第16回益田サロン「頭の論理と体の論理」報告

「頭の論理と体の論理」をテーマにした益田サロンは、参加者が少なかったこともあり、それぞれが思いをしっかりと出し合えるサロンになりました。
やはりきちんとした話し合いのためには、5~6人が一番いいのかもしれません。

話し手の益田さんから、終了後、「今日は一緒に考えているという手ごたえも強く感じた」という感想をもらいましたが、参加者があまり集まらないと話し手の人になんだか申し訳ない気になっていましたが、反省しました。大勢が集まった方がいいサロンもあれば、少ない人数でお互いにしっかりと話し合うのがいいサロンもある。どうも私も、量思考の発想に汚染されていたようです。

今回は、臓器移植の話から始まりました。
臓器移植の場合、もし移植された臓器が自分に合わなければ体はそれを非自己と認識して排除し、その結果、体は死んでしまいます。しかし、頭は死にたくないと思い、抵抗する。そこに「頭の論理と体の論理のずれ」が生ずる。そこで「頭の論理」は、体が非自己として排除しないように、免疫を抑制する方法を考える。そこで医療技術も開発されるというわけです。もっと簡単に言えば、体の論理では、人はいつか死ぬことがわかっている。しかし、頭の論理では、永遠の生を求めてしまう。

ちなみに、言うまでもないと思いますが、ここで「頭」というのは、「体の一部」の「頭」ではなく、「頭が働く」とか「頭を使う」というような時の「頭」です。

益田さんは、こうした「頭の論理と体の論理」は、儒教の魂魄(こんぱく)にたとえられると言います。儒教では、魂は精神を支える気、魄(はく)は肉体を支える気を指しています。人は死ぬと、魂は天にのぼり、魄は白骨だけを残して地に戻ってしまう。
そして益田さんは、体と頭とどっちが主人なのか体あっての頭なのか、頭あっての体なのかと問いかけます。頭が体を動かしているのか、体が頭を動かしているのか。
ここで、益田サロンを通底しているテーマ「生物と環境」の問題がまた示されます。

益田さんは、これまで生物と環境は表裏一体のもので、どっちがどっちという関係ではないと話してきていますが、まさに頭と体はそれを象徴しています。体と頭は、相互に影響し合っているのです。そこから改めて、人間と環境の問題を考えていく示唆が得られます。

さらに益田さんは「体と頭」を記号的に絵にしました。これまでもよく登場していた同心円です。内側の円が頭、それを取り巻くのが体。そして、その同心円が周辺の円をやぶって外に開かれた図も描いてくれました。私にはそれがちょうど東京湾を中心にした関東地方の地図にみえたので、勝手に「東京湾の図」と名付けてしまいましたが、この図がとても思考を刺激してくれました。

頭を体が包み込んでしまっているのか、頭は体の外につながっているのか。
ここからまた話が大きく展開します。

神とつながるともたとえられる二分心仮説の右脳は体の外に開かれているとも考えられますし、平面的に考えれば同心円ですが、立体的に考えれば、同心円の真ん中の円も外部にさらされることになります。
というわけで話はいろいろと膨らんでいきました。
最近のメンタルダウンの増加も、そこから何か見えてくような気さえしました。

まあこれ以上書くと私の妄想になりかねないのでやめますが、参加者それぞれいろんな示唆をもらえたサロンだったのではないかと思います。

ところで、話し合いの中で、我にかえるという時の「我」とは「頭」か「体」、どっちの論理に戻ることなのだろうか、という話も出ました。
これもとても興味深いテーマです。

参加されていないとこの報告はなかなか伝わらないかもしれません。
それに報告も参加者それぞれによってかなり違ったものになるでしょう。
次回はまだ決まっていませんが、どういう切り口になるか楽しみです。

Masuda202206

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2022/06/09

■湯島サロン「新しい経済を目指した生き方を実践して」のお誘い

湯島のサロンでは、「働き方」がよく話題になります。
私自身も、25年間の会社での雇用労働人生の後、自分のやりたいことで働く人生へと変えてきましたが、そこでいろいろなことに気づかせてもらいました。
しかし、その人生を苦労しながら楽しみだした時、若い人から、やりたいことを仕事にすると気づくまでに25年間もかかったのですか、と言われてしまいました。たしかに大きな寄り道をしてしまったとも言えないこともありません。

しかし最近は、寄り道することもなく、自分の人生を生きようとする若者も少なくありません。選択肢が見えやすくなってきたからかもしれません。
湯島のサロンに参加する川端さんも、「新しい経済」を学ぼうと大学に入りましたが、いまは自分で新しい経済を体感・実践しようと休学して、自らの生き方や働き方に取り組んでいるようです。学びの場は大学のなかだけにあるわけではありません。

その川端さんから、山梨県の北杜市で自然農に取り組みながら、新しい経済や生き方を実践的に模索している阪口さんの話を聞きました。彼女の書いたものを読ませてもらったり、生活ぶりを動画で見せてもらったりしましたが、彼女は「贈与を主軸とした経済」に共感しているようです。
https://m.youtube.com/watch?v=CtApaaLyDTY&fbclid=IwAR0BdUsFoFARSvgAtR2PFkCZNYd5dyLfNRBAa7j4q0lzUou2zyPl52TiNXE

阪口さんの生き方には、「会社に雇われなくても生きていける時代」になってきているのだから、世間的な「常識」やお金に縛られずに「やりたいことがあればやろうよ」というメッセージを感じます。いささかの違和感が私にはありますが、一方では、とても共感できる気もします。そういう生き方が社会を変えていくのでしょう。

阪口さんが実際に北杜市に住み始めてからすでに1年以上が経っています。
この1年の体験で阪口さんの考えや生き方がどう変わったのか知りたくなって、川端さんに話したら、阪口さんからサロンをやってもいいというお返事をもらいました。
本当は、北杜市に行って、そこでサロンをやった方がいいのですが、阪口さんのお言葉に甘えて、まずは湯島のサロンでお話を聞かせてもらうことにしました。

自然のなかで農業に触れる生き方をしている人は最近増えていますが、今回はそういう生き方の話をただ聞くだけではなく、そういう生き方からの阪口さんの変化や気づきに触れて、参加者が自らの生き方を問い直すようなサロンになればと思っています。
さらに、川端さんや阪口さんが目指す「新しい経済」も話題にできればと思います。「寄り道」の意味も少し話題にできればうれしいですが。

生き方を模索している若い世代の人はもちろん、いまの生き方に満足していない方にはぜひ参加していただきたいサロンです。

〇日時:2022年7月2日(土曜日)午後2時~4時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇話題提供者:阪口晴香さん(生き生きとした暮らしの探究家)
〇テーマ:「新しい経済を目指した働き方を実践して」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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2022/06/08

■湯島サロン「不登校を考えるパート2」報告

不登校を考えるパート2もまた参加者が多くて、みんなの関心の強さを感じました。
「不登校」はある意味、いまの社会の生きづらさを象徴しているのかもしれません。

今回は、前半は高校生2人と大学生1人の3人が話し合うのを参加者は黙って聞きながら自らの問題を考え、後半で話し合うというスタイルでした。
冒頭、川端さんは次のように呼びかけました。

他人の話を聞き、そこに映る自分の姿を観る。自分の語る言葉に耳を澄まし、知らない自分に出会う。滑らかに言葉を話せてしまうとしたら、今までの考え方の習慣を繰り返しているだけかもしれません。

「不登校」を切り口とした体験から出てくる言葉、あるいは沈黙を起点として、自分の思い込みの向こう側にいる相手の声を聞き、そこに観えてくる「自分の人生」に目を向けていく場にしたい。

「他者の話を聴きながら自分の問題を考える」。最初の1時間は、川端さんが進行役になり、高校生の奏太さんと翔平さんと一緒に、それぞれの体験や思いを話してくれました。時に沈黙の時間があったりしましたが、参加した20代の若者からは終了後、こんなメールももらいました。

「ぎこちなさと沈黙を重要視するという視点は、分かりやすさや弁論術の価値が高まっているネット界隈の逆を行くもので、非常に興味深かったです」。

参加者も途中に口をはさむことなく、真摯に耳を傾けてくれました。私もいつもになく考える時間があって、自らに問いかけることができました。
3人の話は、沈黙のメッセージや表情なども含めて、言葉では伝わらないものを感じさせられるもので、言葉のやりとり以上のものを受けとめた人も多かったと思います。

話し合いにはいってからは、学校の問題だけではなく、参加者それぞれが抱えている自分の問題への言及も含めて、さまざまな話題へと広がりましたが、それぞれ違う問題を語っているようで、根っこはつながっているように感じました。

翔平さんが、学校や教育のせいにするのはやめて、自分の生き方を考えようと思うというような発言をしたのが、私にはとても印象的でした。前回とは少し考え方も変わってきたようで、若い世代の柔軟さにも感心しました。私たちは、不都合があればその理由をついつい外部に探し、そこにこだわってしまいがちですが、そういう生き方では、たぶん事態は変わりにくいでしょう。

参加者の話を聞いていて、改めて気になったのは、不登校に陥った子どもとその家族や専門家とでは、問題の捉え方が全く違うのではないかということです。問題の捉え方が違えば、解決しようという行動が逆に問題をややこしくしかねません。

不登校も引きこもりも、たぶん関係者それぞれの問題の捉え方が違っているが故に、解決しないことも少なくないような気がします。私自身も、自分の子どもに関しては、問題をうまく設定できずに、いまにして思えば反省することが少なくありません。
不登校の子どもの問題と不登校児を抱える家族の問題は違う。問題設定が違うので、なかなか解決はしない。そこに気づくことが大切だと思いますが、それがなかなか難しい。
しかし、その違いを踏まえての、ナラティブアプローチができれば、問題の解き方が見えてくる。私は最近そう思って、話し合いながらのナラティブを大事にしています。

もう一つ話を聞きながら思い出したのが、イギリスの教育学者ニイルの思想です。

ニイルは「子どもを学校に合わせるのではなく、学校を子どもに合わせる」という理念に基づいて学校をつくりました。日本でも30年前に、ニイルの理念に基づいて「きのくに子どもの村学園」がつくられ、ゆっくりですが、その理念は少しずつ各地に広がりだしています。
子どもに合わせた学校になれば、不登校もいじめも起こりにくいでしょう。
学びの理念が全く違うので、日本の学校制度ではなかなか難しいでしょうが、学校の外に目を向ければ「子どもに合わせた学びの場」はいまでは世間にたくさんあります。親が少しだけ意識を変えれば、そういう場はいくらでも見つけられるような気がします。
ということは、まだまだ親が意識を変えられずにいるのかもしれません。
頭(意識)は変えたつもりでも、行動が変わっていなければ、子どもたちはだまされませんから、それが逆に「圧」を高めてしまいかねません。
自分に嘘はつけても、子どもには嘘はつけません。

ちなみに、ニイルの言葉は、こうも言い換えられるように思います。
「事態を問題に合わせるのではなく、問題を事態に合わせる」。
「不登校」や「引きこもり」という、ひとくくりにできるような問題があるのではなく、個々人によって違う問題があると考えるのがいいでしょう。

印象的だったのは、発表してくれた高校生の一人は楽しかったと言い、もうひとりは退屈だったと言ったことです。でも「退屈だ」といった高校生も、最後まで付き合ってくれました。しかも、後で、「あの場所は合わないけど、だから行かないという訳ではなく、それをデメリットとして認識した上で参加するかどうかは決めたいなって思ってます」とメールをくれました。とてもうれしいメールでした。
また彼がやって来て、今度は楽しかったと言えるような場にしていければと思っています。

またまた偏った報告になってしまいました。
3人の発言も参加者の発言も、示唆に富むものがいろいろとあったのですが、言葉にすると不正確になりがちなので、紹介はやめました。

ただサロンが終わった後、なかなかみんな帰ろうとせずに、私は次の約束に1時間近く遅れてしまうほどでした。みんな「学びの場」が好きなのです。だから本当はみんな「不登校」などしたくないのです。
それが今回の私の一番の感想です。

Hutoukou2

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2022/06/07

■第21回万葉集サロン「〈わ〉と〈な〉をつなぐ〈言〉の質感・質量ー天武天皇挽歌に見る持統天皇の孤影」のご案内

今回は、持統天皇の天武天皇挽歌を取り上げて、〈わ〉と〈な〉をつなぐ〈言〉から〈事〉を読み解いていきます。

升田さんからのメッセージです。

古代の「言語」を見ていると、不思議な質感と質量を持つものがたくさんあります。例えば、「心に乗る」が表現の上では荷車に乗っているのを幻視していたり。

特に知覚の核であった「見」「言」には、質感・質量があるゆえに「事」が鮮明に映し出されてくる言葉があるように思います。

「言」で考えれば、「言問」という言葉一つにしてもその意味に潜む古代的真意が幻想を呼び、興味を惹かれます。

今回は、白鳳万葉の最後の「女の挽歌」、持統天皇の天武天皇挽歌をこのような視野で読んでみたいと思っています。

以上が升田さんからのメッセージですが、持統天皇と天武天皇の関係をどう読むかで、日本の国の成り立ちのイメージも変わってきます。升田さんは、「持統天皇の歌は少ないが、「言」の質感・質量で複雑な人物像がシンプルに凝縮されて、「わ〈持統天皇〉」と「な〈天武天皇〉」をつなぐ情意が見えるような気がする」と言っています。
升田さんがどう読み解くか、とても興味深いです。

升田万葉集サロンは、万葉の歌を楽しむだけでなく、私たち日本人の誕生にもつながる大きなテーマも追いかけていますので、そんな関心のある人にもお勧めです。
万葉集を読んだことのない方も含めて、どなたでも歓迎です。
初めての方も気楽にご参加ください。

〇テーマ:「〈わ〉と〈な〉をつなぐ〈言〉の質感・質量ー天武天皇挽歌に見る持統天皇の孤影」
〇日時:2022年6月18日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:升田淑子さん(万葉集大好き研究者/元昭和女子大学教授)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

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■生活事業研究会第2期参加者の募集

「生活事業研究会」第2期の募集のお知らせです。
2月にスタートした第1期が7月で完了しますので、第2期を7月からまたスタートさせようと思います。

これは、サロンとは違い、半年間にわたり月1回開催する会員制の研究会です。私からの話もありますが、基本は参加者本人がワークシートなどの課題をこなしながら、自分の取り組みたい「生活事業」を形にしていくことを目標にしています。

「生活事業」とは、聞きなれない言葉ですが、私の勝手な造語です。
一言で言えば、「自分たちの、自分たちによる、自分たちのための事業」です。つまり社会のための事業ではなく、ましてや収益(金銭)のための事業でもありません。自分たちの生活を豊かにするために自分たちでなければできないことを実現していくプロジェクト、あるいは活動と言ってもいいかもしれません。

「お金を目的とする事業」は対象にしていません。だからと言ってお金を無視しているわけではなく、むしろ重視していますが、金銭は手段であり結果であって、目的とは位置づけないのが「生活事業」です。

さらにいえば、生活事業を考えることで、自らの生き方の問い直しにもつなげていければと思っています。そして、そこからいまの経済や社会のあり方を変えていければと思っています。
ですから、いわゆるビジネススクールのようなものではありません。ある意味では、むしろ「反ビジネス」かもしれません。

もう一つ重視しているのは、参加者同士のつながりです。
すでに第1期として8人の人が研究会のメンバーになって、それぞれの生活事業に取り組んでいますが、その人たちも含めての人のつながりを育てていくことも重視しています。期を重ねて、仲間を増やしていき、ゆるやかなコミュニティが育ち、そうしたコミュニティから、いつか新しい生活事業が生まれていけばいいなと思っています。

サロンとは違い、6回連続で毎回1000円の有料制です。サロンと違うのは、話し合うだけではなく、参加者それぞれが実際に行動を起こし、構想した事業(プロジェクト)を実現するのが目的です。毎回宿題も出ます。会員登録制を取りますが、途中で脱会とも可能です。
私も含めて、参加者はそれぞれの生活事業にアドバイスしあいながら、自分も事業起こしに取り組んでいくという、汗も知恵も、その上、毎回参加費もかかる研究会です。

全6回のプログラム(予定)は次の通りです。
第1回:生活事業という考え方を話し合う/やりたいことの再確認
第2回:やりたいことを構想する
第3回:構想を計画化する
第4回:計画実現のための仲間づくり
第5回:計画実現のための資金計画
第6回:それぞれの事業計画の発表と最初のアクションプログラムの確認

開催日は参加者と一緒に相談したいと思います。
ちなみに、研究会に参加したからと言って、事業(プロジェクト)が実現できるとはかぎりませんが(ご本人次第です)、ともかく何かが動き出すことを目指したいと思います。
具体的な取り組みたい事業(プロジェクト)のある方もない方も、どなたでも歓迎です。参加をご希望になる方は、私宛にご連絡下さい。
qzy00757@nifty.com

参加希望者が5人になったらスタートさせようと思います。
よろしくお願いいたします。

 

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2022/06/05

■湯島サロン「神(天)の声に耳を傾ける」報

「二分心」をテーマにしたサロンの続編として、いまなお「神(天)の声に耳を傾ける」生き方をしているおふたりのお話を聞くサロンを開催しました。
残念ながら、参加者が少なかったのですが、人知を超えた体験をお持ちの参加者もいて、世界を思いきり広げられたサロンになりました。
人知で知ることができる世界は決して大きくはありません。世界は不思議なことで満ちています。生々しい体験談を多くの人にシェアしてもらえなかったのが残念です。

話題を提供してくださったのは高井しーちゃんと内藤カシュカシュさんです。

しーちゃんは小さいころから、友達とはちょっと違って、みんなには見えないものと出合い、みんなには聞こえない声を聴いて育ちました。
そういう体験をお持ちの方も多いと思いますが、人は次第に、「見えるはずのもの」しか見えなくなってきがちです。さらにそのうち、「見たいもの」しか見なくなってしまう。しかし、しーちゃんはいまも素直に「見えないはずのもの」や「聞こえないはずの声」ときちんと付き合っています。

しーちゃんは、実際に見聞きしてきた「体験」やそれに導かれるようにして取り組んできた「仕事」などを生き生きと話してくれました。
そして、疑いを持ってしまうと、見えていたもの、聞こえていたものも消えてしまうこと、自らのスイッチで見聞きする世界も変えられることなども話してくれました。
近くの植物たちが話し合っていたことを偶然に聞いていたことが数日後に実際に起こった話や外部から聞こえる声で救われた話などは、やはり人知を超えた存在を感じさせます。

しーちゃんは、湯島に来るときも、時々、空間のねじれに迷い込んだように、予想以上に時間がかかったり、手元のものが別空間に迷い込んだようになくなってしまう経験をよくされています。しかもそれに抗うことなく、そうしたことに素直に身を任せているようです。
ちなみに、しーちゃんのサイトは次の通りです。
https://shi-dobe-ginza-sea.jimdofree.com/

カシュカシュさんは、しーちゃんとは対照的に、ある時を境に自らの内部からの声に目覚めたそうです。それまでの生活とは一変した生活に転じたようですが、以来、その声に従って生きているうちに、いまでは、「大いなる神/創造神」とリンクしているような生き方になり、物質世界からかなり自由に生きられるようになっているそうです。

カシュカシュさんは、自らを「自分を信じる自分教」の信者と言い、「内なる神」に従って生きているといいます。それは決して「自分中心」ということではありません。カシュカシュさんによれば、自らの「エゴ」を認識し、排除した後に残るものこそが「内なる神」だそうで、それは、しーちゃんの言う「世界の外からの声」と通じているように思いました。そういえば、しーちゃんも、自分を「から」にすることが大切だと言っています。

カシュカシュさんは、「内なる神」からの声を実現することこそが自らの使命だと受け止め、なんとか「形」にしようと(実現しようと)、長年取り組んできていますが、最近少しずつ現実化しだしてきているそうです。
いまは埼玉県の寄居で「エルモット村」に取り組んでいて、仲間も増えだしているといいます。若い仲間と一緒に、自然に即した畑作業にも取り組んでいます。
関心のある方は是非エルモット村のサイトをご覧ください。村民も募集しています。
https://ermot.club/

このように、おふたりの神とのつながり方は違います。高井さんはどこか外部からの声、内藤さんは逆に自らの内面の深層からの声なのです。しかし、いずれも自分を無にしたところに、そうした声は届いているようです。
おふたりとも、そうした生き方の困難さも感じているようですが、そこから抜け出ようなどとは思っていないようです。

まあこういうお話をお聞きした後、話し合いに入りました。
自らの不思議体験を紹介してくれる参加者もいました。ある人は、子どもの頃の理解しがたい体験を紹介し、それをどう理解したらいいかと投げかけましたが、当然ながら誰も解けませんでした。もちろん、説明の仕方はいろいろとあり、そういう話も出ましたが、いまの科学や人知では説明できないという説明こそが、一番適切な説明ではないかということになりました。科学や学問の知恵は、いまの段階でのとりあえずに「仮説」でしかないことは、歴史を少し知れば誰にでもわかることです。
世の中には、「解けない問題」もあるのです。

話し合いの内容は、文字ではなかなか伝えられませんが、ただ、おふたりから、最近の若い世代には人知を超えたものを受け入れる素地が広がっていて、仲間が増えているというような話がありました。
一般に言われているように、若者の貧困が増え、精神的に障害を起こす若者も増え、いじめや引きこもりも増えているとばかり思っていたのですが、おふたりは、いまの金銭社会や物質社会から抜け出して、精神社会に入ってきている若者も多いというのです。
そして、そういう人たちは幸せそうだと言います。にわかには信じられませんが、実際にそういう生き方をしているおふたりのまわりに、そういう人が増えているのであれば、そうなのでしょう。
そういえば、私も最近、ある宗教の大きな法要に参加させてもらったのですが、若い世代が多いのに驚きました。しかもみんなとてもいい表情をしていました。

金銭頼りの風潮のなかでも、神に従って生きる若者が増えている。
そう思うと何か心がやすまります。
このサロンをどう広げていくか考えたくなりました。

ちなみにここでのまとめは、私の「主観」ですので、おふたりの真意を正確に伝えていないかもしれません。すべての文責は私にあります。
何しろ神の声につながっている話なので、報告が難しい。
参加されていた方、できたらフォローしてください。

Kami2

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■6月オープンサロンのご案内

最近、テーマサロンが増えてきたため、予定していた5月の2回目のオープンサロンが開催できませんでした。約束をたがえて申し訳ありません。

6月のオープンサロンは次の通り開催します。
いつものように、テーマも話題提供者もいない、出入り自由なサロンです。

最近、ある人が「コロナで引きこもっていたら、うつになってしまったという話をまた聞きました。人と会う、話すのは、それだけ大事だということですね」と書いてきました。そんなこともあって、湯島のサロンは、コロナが広がりだしてから、回数を増やしてきています。
とりわけオープンサロンは、話したいことがある方もない方も、どなたも歓迎の気楽なサロンです。事前の申し込みも不要です。
気が向いたら気楽にどうぞ。

〇日時:2022年6月17日(金曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円

 

 

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2022/06/04

■湯島サロン「日本の政治を変えるための活動に向けての一方策」のお誘い

久しぶりにリンカーンクラブ代表の武田さんのお話を中心にサロンを開催したいと思います。

リンカーンクラブは、民主主義国家というなら、もっと国民一人ひとりの声が政治に反映されなければいけないという思いで、40年ほど前に武田さんが立ち上げた組織です。
最近、武田さんはこれまでの著作の集大成を目指す新著に取り組んでいて、なかなか話をする機会がないのですが、今回は、新著でもポイントになっている3つの課題、「日本の国家像を明確にすることの大切さ」「主権者である国民の意見を政治につなげる仕組みの再構築」「新しい政治に向けての革命の取り組む具体策」について、簡単に思いと考えを話してもらおうと思います。

いずれも大きなテーマですが、国家像や直接民主主義の仕組みに関してはさらっと流すだけにしてもらい、今回は3番目のテーマに関して、武田さんのいささか奇想天外な構想を披露していただき、それをもとに話し合いたいと思います。

どうやって、新しい政治に向けての「革命」(暴力革命ではありません)を引き起こすのか。武田さんのアイデアはかなり過激ですが、ともかく大きな流れを変えるには常識を逸脱することも時には必要かもしれません。
賛否両論の面白い話し合いになるかと思いますが、気楽にご参加ください。

〇テーマ:日本の政治を変えるための活動に向けての一方策
〇日時:2021年6月12日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇話題提供者:武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com

 

 

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■緊急サロン「ウクライナの戦争状況を止めるためにできることがある」報告

小室nikoさんのよびかけの緊急サロン「ウクライナの戦争状況を止めるためにできることがある」には20代から80代と、幅広い層の男女16人が集まりました。なかには時間の合間をぬって、1時間でも参加したいという人がいるほどで、みなさんの思いの強さを感じました。

Nikoさんは、最初に参加者に瞑想を呼びかけ、その状況のまま、日本国憲法の前文と9条を読み聴かせてくれました。
そして、どうして今回の呼びかけに至ったのかを話し、誰が悪いのか、なぜ戦争は起こったのかも重要だが、ともかく、一日も早く、ウクライナでの戦争を止めたいと語ってくれました。そして、いまこそ日本国憲法の9条を改めて思い起こし、世界に紹介していきたいとも呼びかけました。
SNSで、あっという間に情報が広がる時代なのに、なぜ一方的な(一部の)情報しか広がらず、戦いをやめようという思いは広がらないのか、というのがNikoさんの思いのようです。

そこから話し合いが始まりました。
話はさまざまに広がりましたが、話し合いを通して、気づかなかったことにも気づくことがある。こうやって世界中で話し合う人が増えてくるだけでも、世界は変わるのではないかと私は改めて思いました。

話し合いがある程度進んだ頃合いを見計らって、Nikoさんは参加者みんなに「戦いを止めるアイデア」を一人5つずつ出すように提案し、各自カードに書いて、発表してもらいました。nikoさんからも例示的に10個ほどのアイデアが紹介されました。
たくさんのアイデアが出されましたが、それを整理して話を深めるところまで行く前に、話題が思わぬ方向に転じてしまい、なぜウクライナ戦争は起こったのかという話から、日本の平和や憲法問題にまで発展、時間の関係もあり(なんと1時間半も延びてしまいました)、みんなが出したアイデアはnikoさんが預かることになりました。

そして、nikoさんの呼びかけで、思いを共有する人たちでゆるやかなネットワーク組織をつくり、メールで情報共有したり、何か一緒にできることがあれば実際に取り組んだりしていくことになりました。近いうちにこのメーリングリストでも、nikoさんから呼びかけがあると思いますので、思いを共感する人はぜひご参加ください。

参加者からのアイデアの報告は、nikoさんからあるかもしれませんので、私からは話し合いを通じて感じた3つの「私にできること」を書かせてもらいます。

1は、「戦っているいずれかを、さらにはいずれをも支援しない」ということです。喧嘩をしている人を止めるのに、どちらかを応援するようなことはだれもしないでしょう。応援するということは「火に油を注ぐ」ということではないかと思います。ですから私はいまウクライナで戦争しているロシア政府とウクライナ政府のいずれをも非難もしなければ応援もしないようにしたいと思います。

しかし、それは、ウクライナやロシアに暮らしている人を支援しないという意味ではありません。戦争をしているのは、それぞれの政府やその背後にいるどこかの政府や産軍複合体や多国籍企業であって、市民ではないでしょう。ロシア軍の兵士たちも、もしかしたら、「戦わせられている」のであって、「戦っていない」兵士も少なくないと思います。もちろんウクライナ軍の兵士や国民たちも、ですが。

ですから第2に、「戦火の周辺で生命さえをも脅かされる惨状にあるウクライナやロシアの人たちは支援する」ということです。
サロンでは、あるNPOの人がご自分の体験を紹介してくれました。その人は、自閉症支援などの活動をされているのですが、自分たちと同じような活動をしているウクライナのNPOを探し出して、直接その人たちへの資金援助などをしているそうです。
この話は、とても示唆に富む話です。国家や国際組織を通さずに、直接、同じ立場の人たちを支援することによって、戦いの一方を支援するような結果を避けると同時に、市民たちのつながりが国家間の戦争への大きな対抗力になるような気がします。
国家を超えた支援体制ができれば、人々の国家依存度は低下し、自国政府に対する異議申し立てもしやすくなるかもしれません。市民同士のつながりが深まれば国家間の戦争も止められるかもしれません。これは、これからの「平和のあり方」にも通じています。

そして第3に、「私自らもみんなと仲良くしよう」ということです。
nikoさんも話していましたが、平和に向けて活動をしていた人たちのなかにも、「正義の戦争論」を持ち出して、「侵略国家」ロシアを非難している人もいます。日本の国会議員たちは、ウクライナの大統領の演説に拍手喝采し、なかには「祖国のために戦っている姿に感動」したと発言する人さえいました。9.11後のアメリカや経済規制を受けていた(ロシアではなく)第二次世界大戦前の日本を思い出します。
プーチンを狂人扱いしたり、悪口雑言したりする人も、結局は戦争の火に油を注いでいるように感じます。憎悪や非難からは戦争を止める力は生まれない。
私は、ロシアへの経済制裁にも反対です。困るのは決して政府ではないからです。

戦争をすぐに終わらせる策はそう簡単には見つからないかもしれません。
しかし、その思いで何かを始めることは大切です。nikoさんの呼びかけを待つだけではなく、できることをそれぞれが始められればと思います。

ところで、サロンでは、人間の攻撃本能の話題が少し出ました。
しかし、私は今回のウクライナ戦争関係の報道のなかで、改めて人間の「性善説」を確信できる言動にたくさん触れています。
実際に危機に瀕した他者を前にすれば、手を差し伸べようという感情が沸き起こる、それこそ人の性が善である、と孟子は言っていますが、そうした実例に触れる度に、私は未来への希望を感じます。

人への憎悪や非難をいくら重ねても戦争は止まらない。しかし、人の性は「善」なのです。その「善」を信じて、私はまずは憎悪の念や非難の姿勢を捨てたいと思っています。
戦いをなくしたいのであれば、まずは自らがみんなと仲良くなろうとしなければいけませんから。

Niko20220601

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2022/06/03

■「微生物活性化農業研究会(仮称)」発足準備会の報告

ご案内していた「微生物活性化農業研究会(仮称)」を531日に開催しました。
7人の方が参加しました。
今回は新たに、実際に食に関わるネットワークをお持ちの方や企業と一緒に農や食に取り組んでいる方も参加してくださいました。

平山さんが改めて、活動の趣旨などを説明し、それを踏まえて、どう取り組んでいくかなど話し合いましたが、大きなテーマなので、まずは活動の枠組みを整理(可視化)し、プログラム化していくことが必要だということになりました。
そのために、予定通り、研究会を発足させ、メーリングリストで情報交換しながら、定期的にミーティングも持つことになりました。

平山さんは、すでにいくつか農場と連絡を取りながら、土壌活性化の活動に取り組みだしていますので、そこでの活動も始まるかもしれません。
合わせて、平山さんが準備しているZOOMでの呼びかけ講座も有志が中心になって実現に向けて具体的に動き出すことになりました。まずは講座のコンテンツを作成し、そこから基本テキスト作成へと向かう予定です。協力してもいいという方がいたら、ぜひ参加してください。

準備会に参加できなかった方でご連絡いただいた方には、まずはそのメーリングリストに参加していただこうと思います。
もしまだ連絡されていない方で関心のある方がいたら、ご連絡いただければ登録させてもらいます。
また活動を進めていくと、事務局的な役割を担う人が必要になってきます。もし引き受けてもいいという方がいたらご連絡下さい。当面は無償の活動になると思いますが。

日本の食と農は、今やかなり危うい状況にあります。
でもなかなか流れは変わらない。
そういう危機感をお持ちの方は、ぜひご参加ください。

7代先の子どもたちのためにも、いま動き出さないときっと後悔しますので。

 

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2022/06/02

■湯島サロン「原発事故で放出された放射性物質の行方」報告

山森さんの自然科学サロン第2弾です。

福島の原発事故による海洋汚染に関心をお持ちの本間照光さんからの要望もあり、今回は「海流や地殻変動」の面から「原発事故で放出された放射性物質の行方」をテーマにすることになりました。

いつものように山森さんはテーマに即した関連資料を50枚近くのパワーポイントにまとめてくださって参加者に配布してくれました。
それに基づき、原発事故由来の放射性物質といった基礎知識から、いま問題になっている「核のゴミ」の問題まで、図解を使いながら、とてもわかりやすく話してくれました。

福島原発事故によって放出された放射性物質は、8割が海に入り込んでいるようです。大気に放出された量の4倍が海に入り込んでいるわけです。大地や森林の汚染は目立ちますが、海に入ってしまうとなかなか実感できない。しかし、それは海流に乗って世界中に拡がっていっているのです。もちろん大気中に飛散した放射性物質も地球全域に広がっているわけですが、いずれにしろ放射性物質は福島や日本に留まっているわけではないのです。

そうした動きを、山森さんは地図で示してくれました。とてもわかりやすく、改めて福島の事故はじわじわと世界中に影響を与え、しかも私たちの食生活にもどんどんつながってきていることがわかります。

念のために言えば、放射性物質は「事故」だけで放出されるわけではありません。そもそも核実験による放出がありますが、原発を稼働していれば微量とはいえ放射性物質は放出されているでしょう。原発事故は、それを体感させてくれたとも言えるでしょうが、10年も経つとそれも忘れられがちです。

つづいて地殻変動の面からの原発の危険性や核ゴミ問題についても、同じようにさまざまな調査結果や変動地形学の知見などを踏まえて解説してくれました。
なんとなく知っていたことも、こうやって体系的に説明を聞くと、改めて問題の深刻さがわかります。

山森さんは、電力会社や地質学者の意見の違いなども一部説明してくれましたが、いずれを信じていいか、私たち一般市民にはなかなかわからない。そこから過剰な不安や過剰な信頼が生まれかねません。今回の山森さんからの説明を聞くだけでも、少し現実が見えてきます。山森さんが以前から言っているように、自然科学に関しても、もっと私たち市民が関心をもって理解を深めていくことが大切です。山森さんのお話はいつも世界を広げてくれます。

残念だったのは参加者が少なかったことです。たくさんの人に聞いてほしかった内容です。

山森さんのお話を詳しく紹介することは難しいので、もし関心を持ってくださる方がいたら、山森さん(7804003yama@gmail.com)か私(qzy00757@nifty.com)に連絡していただければ、当日の資料をお届けしますのでご連絡下さい。

山森さんの説明の後、本間さんから、「週刊エコノミスト」や「科学」への最近の寄稿論考も紹介してくれながら、「核のごみ最終処分地選定」をめぐる問題などの話をしてくれました。

本間さんは、いま起こっている、「言われていること」と「現実」のずれの先に、「危機から破局へ」の不安を強くお持ちです。そして、戦後日本のGHQ支配下での「原爆報道規制」の繰り返しが、今度は日本政府によって行われているのではないかと言います。
さらに、問題の焦点が「実害」から「風評被害」へと置き換えられてしまっているのではないか。実害の調査こそ大切なはずなのに、終わったことだと言って、しっかりした調査もしない、いや時にはさせない。本間さんは、そこに大きな不安を感じています。

今年初めに、原発汚染水は安全だというチラシが、経産省と復興庁連名で福島県の一部の学校に配られるようなことも起こっているそうです。本間さんが「破局」という言葉を使うことがよくわかります。

ちなみに、本間さんの最近の原発事故関連の論考や当日配布の資料も、前述の山森さんのデータと一緒に、山森さんがまとめてくださっていますので、ぜひお読みください。

話し合いもさまざまなに拡がりましたが、やはりもっと「現実」の情報を拡げていくことが大切です。私たちは、あまりに知らなすぎる。山森さんのサロンでいつも感ずることです。
専門分野だから専門家に任せよう、科学は難しい、知っても動きようがない、などとつい思いがちですが、「言われていること」をそのまま受け入れるのではなく、「現実」を知ろうとする姿勢は持ちつづけたいものです。

もしこんなことを知りたいという方がいたら、ご連絡下さい。できるだけサロンを企画したいと思います。すべては「知ること」から始まりますから。
また、こんな分野であれば話してもいいという方がいたら、ぜひご連絡下さい。

自然科学サロンは、引き続き開催していければと思います。

Yamamori2022051

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