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2022/06/29

■湯島サロン「新しい経済・新しい政治」報告

「新しい経済」「新しい政治」と言っても、今回の私の話は、私のこれまでの生き方の背景にある経済観・政治観を整理しただけのものなので、特に体系的な話ではありません。それにとりわけ新しい思想でもないのです。
案内にも書いたように、国家や社会全体から考えるのではなく、個人の生活から考えるという、発想のベクトル転回という意味で「新しい」と表現させてもらいました。

経済や政治を考える場合、これまで国家を基点に考えるのが基本でした。しかし、いわゆる「成熟社会」にあっては、ベクトルを反転させて、全体よりも個々人の生活や生命を基本とすべきではないかというのが私の考えです。
実際に私は60年ほど前から、そうやって、経済成長や秩序優先の管理社会に抗って生きてきたつもりです。湯島のサロンも、その実践の一つです。

国家(全体)から考えるか、個人から考えるかで、政治や経済への取り組み方は変わってきますし、会社や役所での働き方も変わってくるはずです。そもそも制度設計そのものも変わってくるでしょう。

わかりやすい例が学校です。生徒を学校に合わせた「義務教育」と学校を生徒に合わせた「多様な学びの場」教育とは全く違います。後者では不登校もいじめも起きないでしょう。そういう学校も少しずつ増えてきています。
この発想を基点にいまのいろいろな問題を見直すと、まったく違った世界が見えてきます。国家のための死を求められる戦争は成り立つはずもありませんし、弱者を措置するような金銭による社会保障制度や地方分権制度などのおかしさもわかるでしょう。

ふたつの発想の違いを象徴的に示すのが、消費税とベーシックインカムです。
生活するうえで不可欠の食べ物の購入にまで課される消費税は、なんだか生きているだけで「徴税」される江戸時代の悪代官の暴力行為のように感じます。
この国家を維持しているのは誰でしょうか。国家は国民がいればこそ成り立つと考えれば、国家は国民に向けて生活を保障するためのベーシックインカム(生活支援費)をこそ支給すべきです。それこそが「経世済民」であり「徳政」です。

もちろん国家には税金は必要ですが、それは国民が支えている国家や社会の仕組みを活用して価値を生みだすことができた人、つまり所得を得た人が、その所得の一部を提供すればいいでしょう。利益の一部を「納税」すればいいので、「徴税」感はないでしょう。それが国家起点ではなく、生活起点の発想です。

制度だけではなく、私たちの心構えも変わるでしょう。
仕事のやり方もお金との付き合い方も変わってくるように思います。
最近よく言われる「ブルシットジョブ」はなくすべきですし、逆に私たちの生活にとって大切な「エッセンシャルジョブ」は大事にされなければいけません。場合によっては、みんなで持ち回りでシェアしていくことも必要です。まあすでにそういう仕事をボランタリーに引き受けている人も少なくありませんし、私もできるだけそう心がけています。

まあそんな話を少し言葉に整理して話させてもらいました。

今回の私のサロンのメッセージは、「政治や経済を生活者の手に取り戻そう!」ということですが、これはいいかえれば、「もっと自分の生活を大事に生きよう!」ということです。経済や政治はますます生活とは無縁のところで展開していますが、それは多くの人が自分とは関係ないと手放しているからだろうと思います。そうした生き方をまずは見直す必要があります。自分の生き方なら、その気になればすぐにでも変えられます。
それこそが「新しい経済・新しい政治」のはじまりなのです。

しかし残念ながら話し合いは、知識ベースの話に向かいがちで、やはり今回もほとんど伝わらなかったような無力感が残りました。消費税にさえ多くの人が肯定的(ほかの方法がない!)なのには驚きました。

話の内容はパワーポイントにまとめましたが、もし関心を持っていただけるのであれば、データで送らせてもらいますので、ご連絡ください。
もし実践に取り組みたいという方がいたら、ぜひ生活事業研究会の第2期をそろそろ開始しますので、ご参加ください。

なお、私の話よりももっとわかりやすく、新しい経済を目指して、いま農業に取り組んでいる阪口さんのサロンが72日にあります。
ぜひたくさんの方に阪口さんの生き方や感性に触れてもらいたいと思っています。
まだ参加申し込み可能です。よかったらぜひ。

以下は、私の勝手な思いです。よほどお暇な方のみどうぞ。

サロンでは、古代アテネのオイコノミクスとポリティースの話をさせてもらいました。
オイコノミクスは「家政」と訳されますが、要は生活経済の意味で、そこでの主役は女性や奴隷でした。一方のポリティースは都市国家政治の意味で主役は市民と言われる資産家の男たちでした。古代アテネは民主主義国家などでは全くなく、ただ都市経営のやり方が有産市民による多数決統治(デモクラシー)だっただけの話です。

しかしそれが近世西欧でポリティカルエコノミー(政治経済)という形でオイコノミクスまで男たちが担当することになり、そこから貨幣経済が発展。そしていまや政治と経済が逆転して、エコノミカルポリティクス(経済政治)が世界を席巻してしまいました。主役は男たちの手を離れ、資本に移ってしまった感があります。

それをまた女性や奴隷になってしまった生活者の手に取り戻すというのが私のビジョンなのです。いまの私の立場は言うまでもなく、「奴隷」です。念のために言えば、「お金の奴隷」ではないほうの「奴隷」です。

サロンの後、唯一の女性参加者から、「奴隷と女性たち」のところをもっと説明してほしかったとメールが来たので、蛇足と思いつつ書かせてもらいました。

New-ecopoli2

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