■第16回益田サロン「頭の論理と体の論理」報告
「頭の論理と体の論理」をテーマにした益田サロンは、参加者が少なかったこともあり、それぞれが思いをしっかりと出し合えるサロンになりました。
やはりきちんとした話し合いのためには、5~6人が一番いいのかもしれません。
話し手の益田さんから、終了後、「今日は一緒に考えているという手ごたえも強く感じた」という感想をもらいましたが、参加者があまり集まらないと話し手の人になんだか申し訳ない気になっていましたが、反省しました。大勢が集まった方がいいサロンもあれば、少ない人数でお互いにしっかりと話し合うのがいいサロンもある。どうも私も、量思考の発想に汚染されていたようです。
今回は、臓器移植の話から始まりました。
臓器移植の場合、もし移植された臓器が自分に合わなければ体はそれを非自己と認識して排除し、その結果、体は死んでしまいます。しかし、頭は死にたくないと思い、抵抗する。そこに「頭の論理と体の論理のずれ」が生ずる。そこで「頭の論理」は、体が非自己として排除しないように、免疫を抑制する方法を考える。そこで医療技術も開発されるというわけです。もっと簡単に言えば、体の論理では、人はいつか死ぬことがわかっている。しかし、頭の論理では、永遠の生を求めてしまう。
ちなみに、言うまでもないと思いますが、ここで「頭」というのは、「体の一部」の「頭」ではなく、「頭が働く」とか「頭を使う」というような時の「頭」です。
益田さんは、こうした「頭の論理と体の論理」は、儒教の魂魄(こんぱく)にたとえられると言います。儒教では、魂は精神を支える気、魄(はく)は肉体を支える気を指しています。人は死ぬと、魂は天にのぼり、魄は白骨だけを残して地に戻ってしまう。
そして益田さんは、体と頭とどっちが主人なのか体あっての頭なのか、頭あっての体なのかと問いかけます。頭が体を動かしているのか、体が頭を動かしているのか。
ここで、益田サロンを通底しているテーマ「生物と環境」の問題がまた示されます。
益田さんは、これまで生物と環境は表裏一体のもので、どっちがどっちという関係ではないと話してきていますが、まさに頭と体はそれを象徴しています。体と頭は、相互に影響し合っているのです。そこから改めて、人間と環境の問題を考えていく示唆が得られます。
さらに益田さんは「体と頭」を記号的に絵にしました。これまでもよく登場していた同心円です。内側の円が頭、それを取り巻くのが体。そして、その同心円が周辺の円をやぶって外に開かれた図も描いてくれました。私にはそれがちょうど東京湾を中心にした関東地方の地図にみえたので、勝手に「東京湾の図」と名付けてしまいましたが、この図がとても思考を刺激してくれました。
頭を体が包み込んでしまっているのか、頭は体の外につながっているのか。
ここからまた話が大きく展開します。
神とつながるともたとえられる二分心仮説の右脳は体の外に開かれているとも考えられますし、平面的に考えれば同心円ですが、立体的に考えれば、同心円の真ん中の円も外部にさらされることになります。
というわけで話はいろいろと膨らんでいきました。
最近のメンタルダウンの増加も、そこから何か見えてくような気さえしました。
まあこれ以上書くと私の妄想になりかねないのでやめますが、参加者それぞれいろんな示唆をもらえたサロンだったのではないかと思います。
ところで、話し合いの中で、我にかえるという時の「我」とは「頭」か「体」、どっちの論理に戻ることなのだろうか、という話も出ました。
これもとても興味深いテーマです。
参加されていないとこの報告はなかなか伝わらないかもしれません。
それに報告も参加者それぞれによってかなり違ったものになるでしょう。
次回はまだ決まっていませんが、どういう切り口になるか楽しみです。
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