■責任までも民営化される時代
福島原発事故で被害を受けた住民たちが国に損害賠償を求めた集団訴訟で、昨日、最高裁は国の責任を認めない判決を言い渡しました。
一人だけ反対意見を述べた裁判官がいたのは、せめてもの救いですが、この判決は予想はしていたものの力が抜けました。
日本においては「責任の民営化」はますます進んでいきそうで心配ですが、無責任体制のまま、原発依存が引き続き進められると思うと憂鬱になります。
判決への疑問はいろいろとありますが、私が危惧するのは、国民無責任体制の中で私もまたその一員に加わっていることへのいやな気分です。
国民主権の日本国においては、国の責任は国民の責任でもあります。
ですからこの判決は、私もまた加害者の一員だったということを認めるかどうかの判決だったというように私は受け止めていました。
この裁判は、原発の安全神話を信じて原発からの電力を利用してきた私たちの生き方を続けるかどうか、にもつながっていました。
福島の事故で、ようやく多くの人は「原発安全」は事実ではなかったことに気づきました。気づいたならば、生き方を変えるのが普通でしょう。でも結局は多くの人たちは元に戻ってしまったような気がします。
原発事故で人生を変えてしまい、いまなお苦労している人がたくさんいるにもかかわらず、そういう事実に政府は誠意を持って対応していないように思いますが、それはつまり私たち国民が誠意をもって対応していないことのように思います。
ですから私はとても気が重いのです。
国が責任を認め、私たち国民全員がもっと被害者に対して支援していけないものか。
その一つのやり方は、税金の一部を避難者個人に(中抜きされることなく)直接支給するとともに、国民みんなが自らの生き方や考え方を悔い改めることが求められているような気がしてなりません。
第二次世界大戦に突入した時の無責任体制がまた繰り返されている。
責任は東電にあって、私たちにはない、と考えれば、楽にはなる。
しかし、どうもすっきりしません。
やはり国家もまた責任の所在をあいまいにする仕組みなのだと思わざるを得ません。
責任までも民営化される時代。
それに便乗して私も責任を回避している。社会の劣化は当然のことでしょう。
またひとつ、私が目指す未来とは違った方向への動きが始まりました。
ちなみに私は、原爆と原発は同じものだと考えていますので、この判決が、ウクライナで起こっていることともつながっているような気がしてなりません。
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