■湯島サロン「信仰の力」報告
真言宗系の真如苑の信徒の阿部和子さんにお願いした「信仰」をテーマにしたサロンは、さまざまな思いと関心を持った人が集まってくれました。
「不安の時代」とも言われ、しかも自己責任が問われる最近の状況では、信仰への関心は高く、会場が溢れるほどの人が集まるのではないかと思っていたのですが、そう思っている人はそう多くはないのだと知ったことが私には驚きでしたが。
しかし、考えてみれば、信仰とは極めて個人的な問題であり、またどうしても「宗教」につながっていくので、話し合いのテーマとしては、難しいのかもしれません。
「私が信ずるもの」というテーマならば、また違った印象を与えたのかもしれません。
和子さんは若いころに入信し、おそらく信仰が和子さんの人生を大きく支えてきたのだと思いますが、入信した経緯も含めて、ご自身のこれまでの人生を信仰とつなげながら語ってくれました。
「信仰の内容」についての話というよりも、「信仰のある人生」という話をお願いしたのですが、その語り口にも信仰の力のようなものを感じました。
時間があれば、参加者それぞれの「信仰」「信ずるもの」についても話し合いたかったのですが、今回はそこまではいきませんでした。
信仰や宗教の捉え方は、人によって大きく違うでしょう。
ただ今回、和子さんのお話や参加者のみなさんの話し合いを聞いていて、信仰を通して、その人が見えてくると同時に、自分もまた見えてくることに気づかせてもらいました。
私は、「信仰」の意味をかなり広義に捉え、生きる上での拠り所と考えています。そしてその「拠り所」が、自分の生きる世界を決めている。言い換えれば、自らの信仰こそが、友との出会いをもたらし、人とのつながりを育て、自らの居場所をつくってくれる。その意味で、すべての人は意識の有無にかかわらず、みんな信仰(信ずるもの/信じたいもの)を持っているはずだと思っています。
ですから、信仰を語り合うことがとても大事なのではないかと思っているのです。
何か信ずるものがあれば、人は平安に生きられる。しかし、そうした信ずるもの(信仰)を見つけられずに、心の平安を得られずにいる人が増えてきているような気がします。湯島のサロンが、そうした「信ずるもの」に出会える場になればという思いもあります。何かが信じられれば、元気が出るからです。そして、信ずるものがあればこそ、前向きの話し合いができる。愚痴や非難で終わることもない。
信仰が宗教や宗教組織とつながることもあれば、そうした既存のものとは違う自分だけが辿り着いた信仰もある。その意味で、宗教についても理解を深めたいと思っています。念のために言えば、信仰を利用した宗教教団とは切り離して考えています。それらには別の意味で(その危険性と可能性に)大きな関心を持っていますが、
参加者の話し合いも、考えさせられることがたくさんありました。
自らの信仰とは別の意味での関心からの質問(なぜ真如苑に人が集まるのか)もありましたが、そういう問いかけからの気づきもありました。
ある参加者の最後の感想が、和子さんの話の内容を要約していると思いますので、本人の了解を得て紹介させてもらいます。
阿部さんは、最近は家族や人との繋がりが希薄なため、居場所として教団が魅力になっている。特に若い人にとっては、悩みを相談し、解決する貴重な場になっていると話されましたが、実社会で格差、分断が広がり個人の孤立化が進むと、宗教組織の役割が大きくなっていくのかもしれません。
阿部さんを見ていると、宗教組織がバランスのとれた人格を育てる側面もあると思いますが、もともとある程度バランスがとれている人が、バランスのとれた組織を選んでいる側面もあるのかもしれません。"類は友を呼ぶ"と言いますし…。
共感できる意見です。
信仰とは、自らが安堵できる世界を見つけることと言ってもいいかもしれません。
しかし、そこには信仰する主体としての自己がなければいけない。
信仰を通して、自らに気づいていく。あるいは自らを育てていく。
和子さんは、参加者の質問に応じる形で、信仰生活の一つとして、真如苑で行われている「接心」についても、ご自身の体験として、少し紹介してくれました。
真如苑での接心は、「霊能者」と言われる信徒との対話のスタイルで行われます。「霊能者」は、信徒が信仰から自らの判断を自分で導きだすことを支える役割を果たす人で、上からのお説教などをするのではありません。
「接心」を受けるのは、今様に言えば、カウンセリングやコーチングのような感じで、結局、答えは自分で見つけ出すようです。霊能者との接心で、自分が直面している問題への理解を深め、解決への糸口が得られた体験を何回もしているそうです。その時には気づかなくとも、後から振り返ると自分に必要なものだったとわかるのだと和子さんが言っていたのが印象的だったと、参加者のひとりは言っていました。
今回はいろいろと思うことが多くて、なかなか報告が書けませんでした。
「信仰」というテーマの重さにも気づきました。
同時に、宗教や信仰について語り合うサロンの意義を改めて感じました。
人のつながりやコミュニティの核にも、メンバーが共有している「信仰」があるような気がします。そもそも信仰のないコミュニティなど成り立つのか。コミュニティを束ねる、あるいは生み出す核は何なのか。
興味がどんどん広がって、考えがまとまりません。
話し手になってくれる人がいたらご連絡ください。
信仰の話でも宗教の話でも、あるいは「信仰と宗教」の話でも大歓迎です。
いや大きく「生きる意味」とか「生きる力」というテーマでもいい。
「信仰」は、個人の問題あると同時に、社会の問題でもある。
それに気づかせてもらったサロンでした。
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