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2022年9月

2022/09/30

■茶色の朝サロン「政治を我が事と考える」報告

久しぶりの「茶色の朝」サロンは、あえて国民を分断して行われた「国葬」の日に開催。テーマも決め、「政治を我が事とするような意識」としました。
私もいれて8人が参加しました。

Bms202209270

「政治上の民主主義を実現するには、各個人が政治に参与することが、不可欠の要件である。たいせつな政治を、人任せでなく、自分たちの仕事として行うという気持こそ、民主国家の国民の第一の心構えでなければならない」。

これは、敗戦直後に全国の高校で使われた文部省教科書「民主主義」に出てくる言葉です。教科書には続けてこう書かれています。

「政治を人任せにしておいてよいものだろうか。国民の知らないうちに政治家たちによって戦争が計画され、夫やむすこを戦場に奪い去られ、あげくの果ては、家を焼かれ、財産を失い、食べるものにも窮するような悲惨な境遇におとしいれられたのは、ついこの間のことではなかったか」。

この教科書は1948年から1953年まで使われましたが、それは同時に時代の風潮でもあったようです。この教科書がその後も使われていたら、日本の政治は大きく変わっていたように思います。

その教科書にはこんな記述もあります。

「日本人の間には、封建時代からのしきたりで、政治は自分たちの仕事ではないという考えがいまだに残っている。(中略)わが国の政治家も、長い間そういう態度を採って来たために、国民は、自分たちは政治をされる立場にあるのであって、ほんとうに自分たちで「政治をする」という考えにはなかなかなれない」。

この教科書は、そういう日本人の「お上に従う臣民意識」を変えようというものでした。ちなみに、中学生向けにも同じような姿勢の民主主義の副読本がつくられていました。

しかし、なぜか日本政府の姿勢はその後反転し、「由らしむべし、知らしむべからず」という政治状況が広がっています。その結果、最近では「食べるものにも窮するような悲惨な境遇」に置かれる人も増えているようにさえ思います。
案内文に書きましたが、改めて「政治を我が事とする意識」を広げていかないと、またかつての二の舞になりかねません。

長々と余計なことを書いてしまいました、サロンに集まったみなさんもそういう危機感をお持ちのような気がします。

話し合いでは様々なことが話題になりました。
多数決と熟議、政府と個人をつなぐ中間組織(NPOや町内会)、ファシズムとは何か、我が事として考えられる政治とは、……。

政治の話はみんな避けている、という風潮の一方で、自分が動けば変わるようなことには積極的にかかわる人も多いという話も出ました。
問題は、働きかけても変わらないと思う対象が広がってきていることかもしれません。
国の政府は、その最たるものかもしれません。
ただその一方で、自分の身の回りに事に関しては、おかしなことがあればおかしいと言い働きかける人たちは少なくないようです。時にそれがクレーマーになることもあるのでしょうが。

家の近くの道路の工事に周辺住民が意見をいう機会があるとか、自分の住んでいる地域の市(区)役所には働きかけることが可能だとかいう話も出ましたが、政治を我が事と考えるとは、そうした身近な問題に関心を持って関わっていくことだろうと参加者の方が確認してくれました。

そういえば、先の教科書にもこんなくだりがあります。

「政治は国の政治だけとは限らない。もっと狭い、もっと手近なところにも政治がある。町にも政治があり、村にも政治がある。国民は、同時に市民であり、町民であり、村民である。国の政治はむずかしくてわからない場合でも、町の政治や村の政治ならば、だれにもわかりやすい。それを「自分たちの仕事」と考えるのが、民主政治の第一歩である」。

参加者の一人は、今度自分のところの区長が変わり、住民との話し合いを重視しているので、ぜひ区長を応援する活動をしたいと宣言しました。
住民がその気になれば、できることはたくさんあるでしょう。そしてそこから国の政治も変わっていくかもしれません。

「働きかけても変わらないと思わせる範囲」を拡げる風潮に抗って、「働きかければ変わる」のだという意識を広げていくとともに、「政治」と個々人の生活との関係を見えるようにしていくことが大切だなと改めて思いました。

他にもいろいろな話題が出ましたが、こういう場をやはり続けていくことが大事かもしれません。茶色の朝サロンは、不定期ですが、再開します。
できれば自分の住んでいるところで、それぞれがこういう話し合いの場を始めてほしいと思っています。

 

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2022/09/29

■湯島サロン「知識ゼロで挑む無門関パート3〈奚仲造車〉」のお誘い

金子さんの「知識ゼロで挑む無門関」サロン第3回目は、第8則の「奚仲造車」を取り上げます。無門関の中でも一番短い公案ですが、私にはどう取り組めばいいかお手上げなので、金子さんに以下、案内文を書いてもらいました。

「禅問答」は、むずかしいと言うのが通り相場ですが、果たしてそうか? が私のスタンスです。ある視点に立つことができれば、あるいは、人生の中の思い当たる節にぶつかればなにかわかるだろうという立場です。

さて第3弾は第8則「奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)」を取り上げさせていただきます。

車作りの名人が車を作った、そのうち車を分解し始めた。その意味するところは?

これだけのことなのですが……

さて、この話の何が問題なのか?
さて、どうこたえればよいのか?

この話は、そうトリッキーではないので、入門中の入門編にふさわしいのではと思います。私は、ある程度の答えにたどり着いていたので、今回のサロン開催にあたって念のために予習しました。「先人の禅僧」たちの、この解釈に関する文章に触れてみたのですが。意外や意外…。あれぇ、バラバラで超訳的(ふかよみ過ぎ)なこといってるぞぉー。

私は「オッカムの剃刀」というシンプルな答えを最上と考えています。なによりも著者の無門さんには、どう意図があったのかを重視します。

そうすると、どうも変なのです。
説明は、サロンで。ぜひ皆様のご意見をお聞かせください。

前回もテキストとして利用した、岩波文庫の西村恵信訳註「無門関」の「奚仲造車」の和訳部分をPDFで添付させてもらいました。
参加される方はあらかじめ目を通しておいてください。

ダウンロード - e5a59ae4bbb2e980a0e8bb8a_e69cace6968720.pdf

以上が金子さんからの挑戦状?です。
「知識ゼロ」でもいいと金子さんは言ってくださっているので、気楽にご参加ください。
今回は、「無門関」についても、最初に少し金子さんから解説してもらおうと思っています。
日常とはちょっと違う公案の世界を遊ぶ感じで、気楽にご参加ください。

〇日時:2022年10月8日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ: http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇講師:金子英之さん(「無門関」永世愛読者/i2 associates代表 大学で東洋美術史を学んでからデザイナーをやっています)〇テーマ:「知識ゼロで挑む無門関〈奚仲造車〉」
〇会費:500円
〇申込先:佐藤修: qzy00757@nifty.com

 

 

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2022/09/28

■湯島サロン「最期まで身も心も縛られない暮らしを考える」報告

「医療や福祉における拘束”について考える」をテーマにしたサロンで、話題提供者の平岩さんから問いかけられた問題を中心に話し合おうというサロンは、7人が参加しました。

3つの問いかけとは次の通りです。

  • 人生の最後まであきらめたくないこと、大事にしてほしいことは? 実現の方策は?
  • リスクや意思決定過程において、本人と家族では立ち位置が異なるのか、同じなのか。
  • 医療やケアへの期待と可能性、限界とは?

最初に改めてその問いかけへの平岩さんの思いを話してもらい、話し合いに入りました。

①に関しては、やはりみんな「思い通りに生きたい」ということに尽きるようです。自らをコントロールできなくなったら、身体的な拘束もやむを得ないという意見もありますが、おそらくそれは自らはそうならないという確信に基づいた発言のように思います。逆に言えば、自分が身体拘束されるとは誰も思っていない。いずれにしろ基本的にはみんな他者による身体拘束を避けたいと思っていることでしょう。

どうしたら、最後まで思い通りに生きられるのかは日頃の生き方に深くかかわっているように思います。その意味で、これは②につながってきます。
人は一人では生きていません。必ず他者とのかかわりのなかで生きていますが、他者とかかわるということは、お互いに「拘束し合う」というこです。
そこに、この問題を解く大きなヒントがあるような気がします。
自らは他者による拘束を避けたいと思いながら、もしかしたら私たちは気づかないまま他者を拘束していることがあるかもしれません。
また、身体拘束されるような状況は、本人だけではなく、家族にも大きな心理的負担などをかけることもあります。施設利用に際してもこれは重要な判断基準になっています。
つまり「身体拘束」は当人だけの問題ではないのです。

③に関しては、医療とケアが分断されていることに問題があるのではないかという話がありました。医療とケアは提供者側から見れば別のことかもしれませんが、受益者側から見れば、区別できる話でもなく、また区別すべきことでもありません。
ここにも私たちの生き方につながるような大きなヒントがあるような気もします。

話し合いは多岐にわたりましたが、そのなかで平岩さんは、いま厚生労働省が普及に取り組んでいる「人生会議」の話を少ししてくれました。
これは、もしもの時のために、自分の価値観や自分が望む医療やケアについて、前もって家族や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有しておこうという取り組みです。
私にはこれもやはり、日々の生き方の問題のように思います。「会議」という仕組みの話ではなく、人との付き合い方(生き方)の問題のような気がします。

施設においては「身体拘束」しやすい状況に向かっているという話もありました。
医療・福祉施設における「身体拘束」は、看護者や介護者などにとってもかなり抵抗を感ずる行為でしょうが、その抵抗感を緩和させるように、機器材がどんどん「人出」をかけずに済むようになってきているようです。
それでもやはり「正当化」が必要で、よく使われる理由は「人出不足」や「リスク管理」ですが、これに関しても納得する人が増えているようです。
しかし、そういうことでいいのだろうかと平岩さんは言います。

実際に、拘束手段をとらずに対応しているナースや現場を体験してきている平岩さんには、むしろ人出不足やリスク回避のためにも、身体拘束は逆効果だと見えているのかもしれません。
そもそも身体拘束が日本ほど安易に広く使われている国はそんなにないと言います。世界の潮流に日本は逆行しているようです。
なぜそうなっているのか。そこには、いまの日本の社会のあり方や私たちの生き方が投影されているのではないか。そんな話し合いがいろいろとありました。
問題は、施設における「身体拘束」に留まらないのかもしれません。

そこで最後に、私からいま政府が目指している「超スマート社会」の話をさせてもらいました。政府による科学技術基本計画のビジョン「Society5.0」では、「必要なもの・サービスを、必要な人に、必要な時に、必要なだけ提供し、社会の様々なニ-ズにきめ細かに対応でき、あらゆる人が質の高いサービスを受けられ、年齢、性別、地域、言語といった様々な違いを乗り越え、活き活きと快適に暮らすことのできる社会」が目指されています。

一読すれば、生きやすい社会のように感じますが、この社会のポイントはシステムとしての最適化が追及されるということです。
つまりそこでは人間もシステムの最適化に向けて最適化されるということです。
何も考えずに社会に合わせて生きればいいという話です。
しかし、そもそも「必要かどうか」は誰が決めるのか。
コロナが流行り出した頃盛んに言われた「不要不急」という言葉を思い出します。
そこに究極の「心身拘束」を感じてしまうのは私だけでしょうか。

医療や福祉の現場で「身体拘束」が増えているということと「超スマート社会」への動きは、どこかでつながっているように思います。
そして、そうした動きに、私たちも生き方を合わしだしている。
案内に書きましたが、「身も心も縛られているような社会」に向かっているのではないか。そういうことを、医療や福祉現場での「身体拘束」は警告してくれているのではないか。
「身体拘束」問題が問いかけていることは、まさに私の生き方に深くつながっている。
改めてそんなことを思わされたサロンでした。

ここで紹介したことは、話し合いの中でのほんの一部の話です。
話し合いから学ぶことは多かったのですが、残念ながら「当事者の尊厳が大切にされる共生社会」への希望は見えてきませんでした。
諦めるわけにはいきませんが。

Kousoku2022090

 

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■もうじき戦争が起きそうな気配です

昨日は、安倍元首相の「国葬」でした。
その時間、湯島で「政治を自分事と考える」をテーマにサロンをしていました。
国葬は話題にしたくもありませんでした。

参加者は私をいれて8人。なかには国会での国葬反対デモに参加して、途中から参加してくれた人もいます。
基本的にはおそらくみんな「国葬」に違和感をお持ちの方です。
まあ私には、まともに生きている人なら当然「反対」だと思いますが、私の友人にも献花に行った人もいます

フェイスブックには下記投稿をしました。

儀仗兵、空砲、軍歌、そして2万人を越える献花者の行列。
いまの日本の政治状況を見事に象徴しているような気がします。
日本もロシアとそう違わない状況にあるのだなと思い知らされました。
私は1日遅れで、喪に服します。

娘が、銃弾に倒れた人を銃砲で送るとはどういうことだろうと言っていましたが、同感です。
しかし、安倍さんがそうであったように、みんな戦争が好きなのでしょう。ウクライナ戦争の報道の時はあんなに戦争反対の声をあげていたのに、どうして戦争に向かおうとしていた安倍さんには献花するのでしょう。
まったく理解できません。

ちなみに、私が喪に服するのは、日本社会の死を意識してです。
献花に並ぶ人を見て、戦争の近さを感じました。

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2022/09/27

■信仰の力サロン「生き方が選択できる社会」報告

「信仰の力」サロンの2回目は、1回目とは視点を変えて、クリスチャンの増山さんに話題提供していただき、宗教の持つ規範性(暴力性)を踏まえての「生き方が選択できる社会」をテーマにしました。

増山さんは、6枚ものレジメを用意してくれましたが、そこには古今東西にわたる多様な問題が提起されていました。そして、文化を変えるための一つの試みとして「ポ-カーチップ算数」まで提案されていました。

増山さんは、自らの生い立ちから話し出しました。3代目のクリスチャンであること、仕事は化学専攻で環境計量士だったのに、なぜか今は農業に取り組んでいること、…。
そうした話の中に、「信仰の力」を増山さんがどう捉えているかが示唆されていたように思います。

つづいて増山さんは、案内にも書いた遠藤周作の小説『沈黙』で語られている「日本=沼地(どんな苗も育たない)」論を紹介し、そこから、なぜ日本には「沼地」的な状態が出現したかを日本書紀から戦国期に至る日本の歴史を踏まえて解説。特に、『沈黙』の舞台になったキリシタン伝来によって明らかにされてきた日本の宗教の特性を話してくれました。

思いきり要約すれば、創唱者がいて、経典があって、施設がある「創唱宗教」や自然発生的な信仰である「自然宗教」の文化とは違い、複数の創唱宗教や自然宗教の間を回遊している「回遊型」信仰が日本人の宗教文化というのが現実に即した理解だと言うのが増山さんの主張です。たしかにそう理解するとわかりやすい。
詳しい話は増山さんのレジメがありますので、関心のある方はご連絡ください。

次の話題は、「脱〈沼地(?)〉すべきなのか」ということですが、増山さんは、沼地=悪と考えて、土壌改良したり、盛り土したりして、「普通の耕地」に変える必要があるのかと問います。そしてむしろ、変えるべきは「沼地ではどんな苗も育たない」と考える「文化」ではないかと言います。このあたりから生態系の話や共生の話へと展開されていくのですが、中途半端な報告になりかねないので、内容は省略します。

そして最後に、文化を変えるためのひとつの試みとして、増山さんが開発した「ポーカーチップ算数」の話をしてくれました。

駆け足で紹介しましたが、ここから話し合いに入りました。

沼地論、回遊型信仰など、話し合いの話題には事欠きませんでした。時に信仰のテーマとはつながらないような気がして、何回か「信仰の話に戻しましょう」と発言してしまったのですが、後から考えると、どうもこれは私の間違いだったと反省しました。
信仰というのは、人によって全く違う意味合いを持つことに改めて気づかされたのです。一見、信仰とは関係ない話の中にこそ、信仰の力を読み取るべきだったかもしれません。信仰について語り合うことの難しさを思い知らされたような気がします。

しかし、そんなわけで、話し合いの内容を報告するのは難しい。そこでいつものように、私の印象に残ったことを書かせてもらいます。
サロンでも少し話題になりましたが、信仰や宗教は正反対の2つの力を持っています。

創唱宗教では、経典に帰依した人たちには生きる力を与えますが、そこから外れた人たちには救いの手は届きません。むしろ異教徒として否定されかねない。そこに手を差し伸べるのが新しい宗教で、そのため宗教には状況を変革する力があるわけですが、それを増山さんは「暴力性」という言葉で表現しました。
イエスが磔になり、遠藤周作の『沈黙』でのロドリゲの苦悶があり、宗教戦争まで起こるわけです。信仰は時に、内と外を創りだす。まさに「政治」と同じです。

もちろんすべての人を救済し、すべての人を安堵する宗教もあります。前回のサロンでお話しいただいた阿部和子さんが信仰する真如苑には「一闡提(せんだん)成仏」という教理があり、仏教では成仏しない者とされる人もすべて救済されるとあります。
「信仰」の持つ、平安と暴力性の両義性はいろいろなことを気づかせてくれます。
自分だけの平安追及が、息子を追いやって家族を壊し、社会に不安をもたらすことさえある。まさに今、問われている問題です。

増山さんは、日本の宗教文化は「回遊型」だと言いましたが、回遊とはしっかりした自分があって実現できることかもしれません。ただ流れに任せるということではなさそうです。だからこそ『沈黙』の世界が出現してしまう。
それは増山さんの生き方にも表れている。苦労もあれば、自由もある生き方が、増山さんの生き方のようです。回遊するには中心核を持った柔軟な主体性が必要なのかもしれません。
「回遊」と「信仰」はもう少し考えないと私には整理できない難問です。

信仰は、自分を超えた大きなものに帰依することだとしたら、自分を消していくことかもしれません。しかし、そのためには、消すべき「自分」がなければならない。そもそも「自分」がなければ、消すこともできないですから。
ここにも、信仰ということが持つ両義性があるように思います。

ちなみに今回のサロンには、ラマナ・マハリシというインドの聖者に共感している人が2人参加していましたが、ラマナは自らの中にこそ真なる我、「真我」があり、それに従って生きることを勧めています。

自我を超えた「大いなる存在」に帰依して生きるか、自我の奥底にある「真我」に従って生きるか。生き方が選択できる社会であればこそ、この問題は大きな意味を持っているように思います。

信仰をテーマにした話し合いのサロンをもう少し続けたいと思います。
いつか、ラマナの教えも話題にできればと思っています。

話題提供してくださる方がいたらご連絡ください。

Masuyama2022

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2022/09/26

■節子への挽歌5396:すべてを節子のせいにして、引きこもってしまっている

節子

明日は安倍元首相の国葬です。
私は安倍元首相は日本をだめにした権力者の一人だと思っていますし、そもそも「国葬」などという時代遅れの話には拒否感があります。
最近、英国のエリザベス女王の国葬が行われましたが、それには全く違和感はないのですが、政治権力者の国葬には、どうしても政治色を感じて、生理的になじめません。
おそらく節子がいたら、同じ感覚だったでしょう。

昨日、ネットのユーチューブで、14日に東大で開催されたシンポジウム「国葬を考える」の記録動画が配信されました。
今日は、午前中、それを3時間見てしまいました。
とても示唆に富む内容で共感できました。

時評編にも書きましたが、そのシンポジウムのパネリストの國分功一郎さんや石川健司さんなどみなさんが、ともかく「考える」ことが大切だといっていました。
とても共感できます。

私はもうこの7年ほど、デモ活動には参加したことがありません。
安保法制反対のデモの時に、反対を唱えている人が、何も考えていないような気がしてしまって以来、デモに参加できなくなってしまったのです。
反対することにエネルギー4を注ぐあまり、反対が目的になってしまっているような気がしてしまったのです。

それはおそらく私の勘違いなのでしょうが、一度そう思ってしまうとあのでも空間は実に居心地が悪いものになってしまったのです。
しかし、もし今、節子がいたら、たぶんもう一度、節子と一緒にデモに出かけていることでしょう。
最近そんな気がしてきています。

すべてを節子のせいにして、引きこもってしまっている。
困ったものです。

 

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■考えることの大切さ

朝から3時間、YouTubeデモクラシ-タイムスで、914日に開催されたシンポジウム「国葬を考える」を視聴してしまいました。
主宰者の國分功一郎さんやパネリストの石川健司さんなどみなさんが、ともかく「考える」ことが大切だといっていたのが印象的でした。
ただ「反対」するだけではなく、いまなぜ「国葬」なのか、そしてその後、なにが始まるのか、を自分の問題として考える人が増えるといいと思っています。
https://www.youtube.com/watch?v=rU3niles4-U

先週から今週にかけて、湯島で3回のサロンをやっていますが、「国葬」をテーマにしてはいないのですが、私の中では、いずれもそうした問題につながっているのです。
昨日も少し話させてもらいましたが、「考える」ことをやめたら、もう人間とは言えないでしょう。
考えることをやめてパンのために生きるのは楽ですが、やはり私は最後まで人間として生きたいので、國分さんが以前著書で書かれていたように、バラを大切にしたいと思っています。バラにはトゲがありますから、避けたい気分も強いのですが。

 

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2022/09/25

■節子への挽歌5395:「61番目のホームズ作品」を読みました

節子

久しぶりに長編のミステリーを読みました。
読んだのはアンソニー・ホロヴィッツの「絹の家」です。
「絹の家」はシャーロック・ホームズものの、いわゆる「パスティーシュ」、模倣作ですが、コナン・ドイル財団によって「61番目のホームズ作品」と認定された作品だそうです。

この本を読む気になったのは、テレビドラマ「カササギ殺人事件」を観たからです。
この作品も、コナン・ドイルやクリスティが意識された作品ですが、久しぶりに見ごたえのあるミステリーでした。

それで作者のホロヴィッツに関心を持って、その作品を読もうと思い、1か月ほど前に図書館から何冊か借りたのですが、結局、読めずにいました。最近はともかくフィクションが読めなくなっているのです。

ホロヴィッツにはシャーロックものもあることは知っていましたが、ホームズに関してはドイル以外の作品は読むまいと決めていたので除外していました。しかし、コナン・ドイル財団によって「61番目のホームズ作品」と認定された作品であることを知って、読む気になりました。

それでも長編小説にはどうも抵抗があり、1週間ほど机の上に積まれたままだったのですが、昨日読みだしました。最初はやはりなかなか乗れずに、休み休みだったのですが、少したったら、ようやく慣れてきて、中頃からは面白くなってきました。
「絹の家」は、筋書きやトリックはあまりこってはおらず、結構見え見えの感じですが、なんとなく懐かしさを感じてきたのです。

読み終わったら、早速に次が読みたくなりました。
いま手元にもう1冊のホームズものの「モリアーティ」があるので、明日から読もうと思います。

これを機会に、少しまたかつて読んだミステリーを読もうかと思います。おそらくストーリーやトリックはもう忘れていますので、新作を読むように楽しめるでしょう。
忘れることができるのは幸せなことです。

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2022/09/24

■節子への挽歌5394:ベリングキャット活動をしている友人

節子

我孫子で10年以上、市議会を傍聴し続け、最近はいわゆる「ベリングキャット」的な活動をしている横手さんに最近の活動内容をお聞きしました。
定期的に話を聞きながら、普通の住民感覚で、アドバイスやコメントをさせてもらっています。本来なら私も彼と同じように地道な活動をするのがいいのですが、読み取った内容を客観的に評価するのも大事だと勝手に判断し、楽をしているのです。

しかし毎回驚くべき内容が判明します。
自分自身の不明というか愚鈍さを思い知らされることもある。

もちろんベリングキャット方式とはいえ、読み方次第で、その読み方は変わってくるでしょう。ですからそう簡単には口外できません。口外するためには、もう少し確証が必要です。
できれば、もう少し仲間を増やして、話し合える場ができるといいのですが、注意しないとクレーマーや非難好きの人が紛れ込んでしまうとおかしなことにもなりかねません。

長年活動に取り組んでいる友人も、誰かを貶めようとか混乱を起こそうとか言うのが目的ではなく、行政がおかしな方向に行かないように、建設的な提案をしたいと考えているのです。でもそういう善意はなかなか伝わらないのが、最近のご時世です。
めげることなく続けている友人には頭が下がります。

自分たちが住んでいる自治体について、ベリングキャット的な活動に関心がある若い世代の人のゆるやかなグループができるといいなと思っています。
もし節子が元気だったら、私もこの活動にもっとのめり込めたかもしれません。
せっかく横手さんから話を聞いても、いまはそれをさらに伝える相手もいない。
それが残念です。

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2022/09/23

■節子への挽歌5392:生きていない自分に気づきました

節子

昨日、生きやすさをテーマにしたサロンを開催しました。
湯島のサロンではよく、最近の社会は生きづらいという話題が出るのですが、実際にそのテーマでサロンをしてみたら、自分は生きやすいと思っている人がむしろ多いことがわかりました。
考えてみると当然のことで、湯島のサロンに来るような人は、それだけの余裕があるのです。
生きにくい人は、こうしたサロンには来ないでしょう。

サロンでみんなの話を聞きながら、自分のことを考えてみました。
そこで、いまの私には「生きにくい」とか「生きやすい」とかということはあんまり関係ないなと気づきました。
さらに言えば、いまの私は本当に生きているのだろうかということに行き当たったのです。
その結論は、しかも、生きていないのではないかということです。

たしかに節子がいなくなってから、生きる意味を失ったようで、感情が消えてしまったことに気づきました。
何を見てもワクワクしない。
一見、好奇心を持っていろいろと楽しんでいるようですが、冷静に考えるとむかしとは、つまり節子がいた頃とは全く違う。
感動がないのです。
あるいはそこに行ってみようという気持ちが起きない。
そういうことを考えているうちに、もしかしたら私は生きていないのではないかと気づいたのです。

そう考えるといろんなことが納得できる。
理不尽のことも許容できるようになったし、やらなければいけないことも放置したままのこともある。
どこかでもうどうでもいいという気持ちがあるのかもしれません。

自分ではもう立ち直れたと考えていましたが、どうもそうではないようです。
その成果、また挽歌が書けなくなっていました。

思い出しながらまた少しずつ書いていこうと思います。

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■代表に選ばれて生じるのは、権力ではなく責任

友人がある自治体の議員選挙に立候補することになり、意見を求められました。
その人は、私が住んでいる我孫子市の人ではないので、私には投票権はありません。
その人とは共通の友人がいて、その友人(もう亡くなったのですが)から遺言ではないのですが、意味深長な無言のメッセージももらっていたのです。
その人を応援しなければいけません。
遺言は守らなければいけませんから。

私は現在の基礎自治体の議会制度には大きな疑問を持っています。
国会をモデルに、その下部組織のような形になっていて、その上、最近は国会の利害関係の構図(政党の権力争い)が市町村にまで降りてきているのも違和感を持ちます。それがもし、「地方分権」であるとしたら、まさに中央集権体制の手段になっているわけです。
ちなみに私は地方分権制度には反対で、むしろ地域主権を起点にした中央集権体制が私のビジョンです。

市議会を主権化する方法はいろいろあります。
政治に対する考え方を反転させて、住民主役の発想で考えれば簡単に思いつく話です。
そんな話を少しだけさせてもらいました。

たとえば後援会を話し合いや、それこそベリグキャットや開かれたシンクタンクにしていけばいい。「アメリカのデモクラシー」の著者、トクヴィルがアメリカで見たことを思い出せばいい。
「代表」の意味を取り違えてはいけません。
代表に選ばれて生じるのは、権力ではなく責任です。

いま国会では、新しい発想の議会政治のアクターが生まれてきています。
過渡期的に問題も起こすでしょうが、政治が根底から大きく変化するような予兆を感じます。そういう動きが各地の基礎自治体からもっと起こっていくといいと思っています。
基礎自治体の議会のあり方が変われば、日本の政治を変える大きな力が生まれるかもしれません。

湯島で自治体議会制度のサロンをやりたいと思っていますが、なかなか実現できずにいます。まだあきらめてはいませんが。

 

 

 

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2022/09/22

■節子への挽歌5393:兄夫婦にご馳走になりました

節子

久しぶりに兄夫婦と会食しました。
兄夫婦はまだ元気にいろんな活動をしています。
私より元気かもしれません。

しかし、娘たちがいずれも遠方に住んでいるので、時々、ユカがかり出されます。
と言ってもたいした用事ではなく、旅行先からコンロの火を切ったかどうか心配なので見に行ってくれとかそんな用事です。
兄は心配性ですから。

それとみんなにいわれて兄もようやく昨年、自動車免許を返納しました。
そのため、時々、ユカがかり出されています。
今回はそのお礼を兼ねて、兄がユカを招待し、私はそれにお相伴させてもらったのです。

兄夫婦は、いまは2人暮らしですが、80を過ぎても2人ともとても元気で、兄は毎週、松戸の小中学校で理科学習の支援活動をしていますし、姉は毎週数回、ダンス教室で教えているのです。
まあそれこそが元気の秘訣かもしれません。

久しぶりにゆっくりと話しました。
節子がいないのが本当に残念です。

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2022/09/21

■大衆の反逆は狂気に向かうか共和に向かうか

私はいま「CWSコモンズ村村長」を勝手に自称しています。
と言っても実体はなにもなく、いまは私の思いだけがあるだけです。
かつて一度、CWSコモンズ村づくりに動き出して、村民も30人近くなったことがあるのですが、村長だった私が離村してしまい、頓挫してしまいました。
http://cws.c.ooco.jp/outline.HTM

CWSはいろいろな意味があるのですが、その一つは「コモンウェルスソサイティ」の略です。CWSコモンズ村が目指していたのは、脱貨幣的なゆるやかな支え合い共同体です。
今もその構想には未練がありますが、一度、村長として失敗、というよりも村民を裏切って投げ出してしまったので、再起を呼びかける勇気がありません。

CWSコモンズ村を構想した背景には、オルテガの「大衆の反逆」がありました。
オルテガは、大衆の可能性と危険性を論じていたと思いますが、私が生きているこの時代は、まさに大衆は岐路にいるようです。

村長から逃げ出していた時に、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの「マルチチュード」を読みました。その後、「コモンウェルス」も。
時代はいい方向に向かいそうだと安堵していました。

ところが、最近、ダグラス・マレーの「西洋の自死」や「大衆の狂気」も読みました。安堵はどうも早とちりだったようです。未来は決して明るくはない。どうも大衆の狂気は、ネット社会と相性がいいようです。

そんなわけで、やはりもう一度、小さくてもいいので、CWSコモンズ村に取り組みたくなりました。しかし、構想力も体力・気力も、あるいは活動資源も、20年前とは大違いです。さてどうしたものか。
でも最近の「生きにくい社会」は変えていきたい気がしています。

一度、サロンをさせてもらおうかと思いだしています。
その節はよろしくお願いします。

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2022/09/20

■湯島サロン「今の社会、生きやすい?生きにくい?」報告

「今の社会、生きやすい?生きにくい?」をテーマにしたサロンは、平日にもかかわらず、世代を超えてたくさんの人が参加してくれました。大阪から参加した19歳の若者もいます。

最初に参加者に、簡単な自己紹介と、「今、生きやすいか、生きにくいか」を一言で話してもらいましたが、みんな「一言」では終わりませんでした。話したいことがたくさんありそうで、放っておいたら、これだけで終わりそうでしたが、なんとか一巡。結果的には、「生きやすい」5人、「生きにくい」6人、「どちらとも言えない」3人でした。

みなさんの話を聞きながら、私の問いかけの失敗に気づきました。
「いまの社会は生きやすい社会か」なのか「いまの社会はあなたにとって生きやすいか」なのかでは全く問いかけの内容が変わってしまいます。さらに、「生きやすいこと」は人によっては必ずしもよいことではなく「退屈」かもしれません。
みなさんの話を聞いていて、それに気づきました。
問いかけが的確でないと話し合いはうまくいきません。さて困った、どうしようと思ったのですが、私の反省などにはおかまいなく、なぜか話はどんどん進んでいきました。気づいたら予定の時間をかなりすぎているほど、話し合いは盛り上がっていました。
問題設定がいい加減だと、むしろ話し合いがうまくいくこともあるようです。

生きやすいと言う人は「選択肢が増えている」「多様な価値観が許容されている」などがその理由、逆に生きにくいと言う人は「先が見えない」「夢が持てない」「価値観が窮屈」そして「みんな無機質で人の魅力を感じにくくなった」という感じでした。

しかし、選択肢が増えたら逆に生きにくいという人もいるでしょう。
そもそも生きやすいとか生きにくいということは、きわめて個人的な問題で、個人の生きる姿勢の問題ではないかと指摘した人もいました。まさにその通りです。

若い世代から、生きにくさを感ずる経験として、学校の制服問題や校則問題が出されました。その体験では、学校側に異議申し立てをし、その言い分は理解してもらったにもかかわらず、ルールは変わらず、制服を着続けることになったようです。
たしかに若者にとっては、大人が定めたルールに従うのは窮屈かもしれません。しかし、いまはそうしたことに関して異議申し立てができるようになったということは、逆に自由度(生きやすさ)が増しているとも言えるでしょう。

ルールへの異議申し立てを超えて、さまざまな面でクレーマーが増えているという話も出てきました。なぜクレーマーが増えてきているのか。個人が声を上げやすくなったということもあるでしょうが、逆にみんな素直に思いを表現できずに、八つ当たり的に反論しにくい人に向けてクレームしているのではないかという意見が多かったような気がします。そう考えると逆にみんな我慢をしながら生きているとも言えるでしょう。
事程左様に事態はややこしい。

生きやすさと生きにくさは、実は正の比例関係にあるのかもしれません。つまり生きやすくなればなるほど、生きにくい局面が現れるということです。
そうであれば、私の問いかけは全く意味がなかったというべきかもしれません。
生きやすい社会とは、実は生きにくい社会なのかもしれません。
自由に生きるということは、どうもとても難しいことのようです。

しかし、ちょっと次元の違う話もありました。
たとえば、建前と現実の違い。
転職しやすくなった一方で、実際にはそう簡単には転職できない現実もあります。
建前としての不平等はなくなったようで、実際には陰湿な形で残っていることもある。

冤罪をなくしたいという思いで検事になろうとした若者が、建前通りとは言えない司法の世界の実態の一部に触れてくじけてしまったというような話も出ましたし、使命よりも金銭に左右されがちないまの社会の話も出ました。
建前と現実がずれてしまっていて、何を信じていいのかがわかりにくくなっているという意味では、まさに「生きにくさ」が高まっているのかもしれません。

今回、私は問題設定を間違えてしまったのが気になって、うまく話し合いに乗れませんでしたが、みなさんの話を聞いているうちに、問題がかなり整理できました。
ネット情報社会は生きやすいかどうか、が私の関心事だったのです。
ネット情報社会ではみんな丸裸にされるような状況に置かれます。しかし同時に、個人の言動がネットの支えで大きな力になることもある。個人(プライベート)の世界と公(パブリック)の世界がつながってしまいがちです。
クレーマーの広がりも建前と現実の違いの露呈も、異議申し立ての受容と無視も、もしかしたらみんなネット情報社会によってもたらされたのかもしれません。

イギリスで数年前にベストセラーになった「大衆の狂気」という本があります。
社会的公正(マイノリティに味方する)という「大義」を理由とした過剰な「ハラスメント議論」によって、社会の分断が広がっているというような内容の本です。
私が最近の社会に「生きにくさ」と「不快さ」を感ずるのもそういう風潮です。
私のまわりでさえ、言葉尻を捉えての嫌がらせやうっぷん晴らしとしか思えない不毛な「コメント」が少なくありません。そして、そうしたことが怒りや暴力につながっていくような不安もあります。
非難し合う社会は、私には生きにくい社会です。

そんなわけで、私には気づきの多いサロンでしたが、あまりに主観的な感想が強く、報告が書けずに遅くなってしまいました。すみません。

ちなみにわざわざ大阪から来てくれた19歳の最年少参加者は、とても楽しかった、また来たいと言ってくれました。話し合いは若い世代にも面白かったようです。

しかし最後に彼女は厳しいコメントもくれました。
みんな普段はあんまりしゃべれていなくて、このサロンに話に来て発散しているのではないか。それに、みんな話を聞くよりも、自分の話をするのが好きですね。それも聴き手にとってはあまり興味のないような話を。
私も含めて、大人たちは返す言葉もなく、奇妙に納得していたように感じました。

今回に限らず、最近の湯島のサロンでは、若い世代の人が実に素直に反応してくれます。それをあまり良しとしない大人たちも少なくないですが、私には気づかされることが多いです。相手に合わせて我慢するよりも、正直に対応したほうが、相手にも誠実だろうと思うからです。そう生きていれば、過剰なクレーマーにもならないでしょう。

湯島のサロンのように、自分をさらけ出しても安心できるような社会になってほしいものです。安心して本音で付き合える社会こそ生きやすい。

ちなみに前述の「大衆の狂気」の著者は、「許すこと」の大切さを語っています。ちょっと分厚い本ですが、お暇な方は得非どうぞ。

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■10月オープンサロンのご案内

10月のオープンサロンを次の通り開催します。
いつものように、テーマのない、出入り自由なサロンです。

なにかみんなと話し合いたいテーマがあれば、自由に話題提供してください。
話したいことがある方もない方も、どなたも歓迎の気楽なサロンです。
事前の申し込みも不要です。
気が向いたら気楽にどうぞ。

〇日時:2022年10月3日(月曜日)午後2時~4時
〇場所:CWSコモンズ村湯島オフィス(名前を変えましたがいつものところ)
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円

 

 

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2022/09/19

■湯島サロン「企業で働くということ」のご案内

生き方を考えるサロンとして、今度は「働く」ということを取り上げたいと思います。

仕事とか働くということに関しても、これまで何回か取り上げてきましたが、今回は具体的な体験談をもとにして、それぞれが「自分事」として話し合えればと思っています。
「働く」とか「仕事」という言葉もやっかいで、人によってその意味は違うようです。しかし、このサロンではあまり厳密に定義せずに、「働くってなんだろうか」を自由に話し合えればと思っています。

ただ、働き方に関していえば、「雇用されて働く」「協同して働く」「人を雇って働く」「参加して働く」「独りで働く」など、いろいろなスタイルがあります。

そこで今回は、まずはわかりやすい「雇用されて働く」、つまり「企業で働くこと」を中心に、自らの経験からサロン仲間の横山さんに話してもらい、そこから参加者それぞれが持っている「仕事観」をぶつけ合えればと思っています。
たぶんそれはそれぞれの生き方につながっていくはずですし、あるいは社会の問題に気付かされることかもしれません。

今回話題提供してくださる横山さんは、別に特別の体験をされたり、働くことに特に関心を持って研究されている方ではなく、たまたま今、会社を辞めて次の仕事探しをしている、自称「ただのおじさん」です。

このシリーズはできればしばらく続けたいので、自分の働き方や仕事体験を話したいという方がいたら、ぜひ横山さんにつづいてサロンをお願いできればと思っています。

〇日時:2022年10月2日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「企業で働くということ」
〇話題提供者:横山さん(いま仕事探し中のただのおじさん)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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2022/09/17

■他者を評価するより自己を見つめることが大切

菅前首相の出身地の秋田の湯沢町では市民有志が菅さんの胸像を建立するらしいですが、私は菅さんを犯罪者(憲法や法律違反者)だと思っていますので、人の評価はこんなにも違うものかと思ってしまいます。私の知人の中にも、菅さんを高く評価している人が数名いますが、どこを見るかで人の評価は全く違ってくるのでしょう。

昨日の湯島のサロンで、20歳前後の若者が2人参加していたのですが、彼らの発言は実に耳に痛い指摘でした。
どうしてみんな他者を「評価」したがるのか、というのです。

私自身「評価」という言葉が好きではなく、「行政評価」ブームの時にある報告書を書く羽目になり、その時に捻出したのが「共創型評価」ということでした。
他者評価ではなく、自らも入れこんだ評価という姿勢です。
もっともこの発想は事務局にも受け入れられずに私も途中で放棄してしまいました。

私も「評価」が好きな人がいかに多いかには辟易していますが、自分自身も恣意的に他者を評価していることが少なくないのに時々自己嫌悪しています。
昨日の若者たちは、他者を評価する前に自分を評価したほうがいいよと言ってくれているのです。

湯島のサロンで20代前後の人が話をする時にはいつも参加者が溢れるほど多くなります。みんな若者の声を聴きたいのでしょうか。しかし実際には、「聴く」よりも若者に向けて「話す(放す)」人が多いのです。昨日は若者から、みんな話す場がないのでしょうね。とさえ言われてしまいました。

湯島のサロンでの話し合いを聞いていると、社会が大きく変わろうとしているのを感じます。しかしその先が、私には見ることができないのが残念です。
やはりもう一度、戻ってこないわけにはいきません。
しかし来世に戻ってきたときに、いまの記憶を維持できているといいのですが、何か方策はないものでしょうか。

ちなみに私が菅さんを「犯罪者」だと思う一番の理由は、学術会議任命拒否です。
その持つ意味は、私には実に恐ろしい。この問題はもっとみんな関心を持つべきだと思いますが、残念ながら世間の関心は高くないようです。
この問題も湯島のサロンで取り上げたいですが、どなたか問題提起してくる人はいないでしょうか。

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2022/09/16

■湯島サロン「食と農からの生命系の経済への動き」報告

「農から暮らしを考える実践研究者」を自称する20代の岸本さんのサロンは超満員でした。しかも20代から80代、立場もさまざま。実践者である霜里農場の金子友子さんも参加しました。

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岸本さんは、冒頭、自分がまとめた修士論文を踏まえて、今も実践しながら考えている最中なので、今日は現時点での経過を話し、いろんな人と話すことでさらに深めて実践にもつなげたいとサロンへの姿勢を説明してくれました。

岸本さんは、以前から「現代社会のいろんな問題の根底には何か大きな構造がありそうだ」と考えていました。在学中から“途上国”の貧困問題や環境問題に興味を持ち、実際に現地に調査に行ったりしていたそうです。そして、“途上国”をただ‟先進国化”することでは問題は解決しないのではないかと考えた。そこから「新しい経済」へと関心が向かい、玉野井芳郎さんの生命系の経済に行き着いたようです。

玉野井さんは本来は経済学史が専門でしたが、農業から分離された工業を基礎とする資本主義の限界に問題を感じ、人間の生活と生命を維持するうえに、基本的に重要な領域である農業への関心を深めていきます。そして「地域主義」や生態学、さらにはエントロピー学との交流の中で、「生命系の経済」を構想していくのですが、その根底にあったのが「等身大の生活世界」です。

私は大学時代に玉野井さんの経済学史の講義を聴いて退屈していたのですが、卒業して20年後に出合った玉野井さんの論考にはワクワクしました。専門の知は、現場の実践の知や異質な知と接することで大きく変わることを教えてもらいました。

岸本さんは問題意識の表明につづいて、生命系の経済を簡潔に説明してくれました。
金銭を基軸にした市場経済(「狭義の経済」)では、いわゆるエントロピー増大則(一方向に進み非可逆)によって限界にぶつかりさまざまな問題が生ずるが、そこに「生命系の視座」を入れることで、生態系に支えられて限界を回避できるとし、それを生命系の経済(「広義の経済」)と呼ぶ。それによって、現代社会の問題は解決へと向かう。

その一例として、岸本さんは、食と農の近代化を取り上げ、工業化の一方で、さまざまな問い直しの動きが見られること、特に生産と消費の提携やCSA(地域で支える農業)の話を紹介してくれました。

このあたりはきちんと紹介するのは難しいので、関心のある人はぜひ岸本さんの修士論文をお読みください。

こうして岸本さんはさまざまな問題に取り組む中で、そうした問題が自分自身の生活と関わっていることに気づいていく。そうして、生産と消費がつながることで、経済を構造から変えられそうだという手応えを得てきたようです。

そうしたことを確信できたのは、修論でも紹介されている3つの事例調査です。
石川県能美市の「日本一小さい農家」の「菜園生活風来」。
生産者と消費者が共に農作物を自給する会員制グループLURAの会。
生産者と消費者をつなぐ「ポケットマルシェ」(株式会社雨風太陽)。
これらの事例に関しても、岸本さんの修論に詳しく紹介されています。

実践研究者を自称する岸本さんの研究はそこでは止まりません。
今春、自ら株式会社雨風太陽に入社し、生命系の経済を志向する取り組みをどうしたら広げていけるのかに取り組みながら、週末には自ら畑を借りて農業に取り組んだり、農家や漁師さんのところへ行って勉強したりしているそうです。

こうした内容の濃い話を岸本さんは簡潔に紹介してくれ、そこから話し合いに入りました。話し合いもさまざまな広がりを見せましたが、ここでは3つだけ紹介しておきたいと思います。

まずは生命系の経済の基軸は何かという問題です。
狭義の経済は言うまでもなく金銭を軸に動いていますが、生命系の基軸は「アイデンティファイ、あるいはアイデンティフィケーション」、つまり「目的と手段が一体化した世界」だと岸本さんは言います。ちょっと難しいですが、岸本さんは「生きるために生きること」とも言いました。
ちなみに、玉野井さんは「生命系」を「系内で生ずるエントロビーを系外に捨てることによって生命活動を維持している系」のことと定義しています。生命系を支えている基盤は、生態系です。

私は岸本さんの話を聞いて、玉野井さんもよく引用していたイヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティ」(自立共生)という言葉を思い出しました。生命系の経済の世界では、みんなが支え合って生きている。
そしてそのことは、岸本さんも学んでいたという折戸えとなさんの「贈与と共生の経済倫理学」(これに関しても前にサロンを開かせてもらいました)に出てくる「もろとも関係」に通ずるように思います。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2019/04/post-2c67e0.html
今回も話題になったCSAも、生命系の経済で考えれば、単に生産者と消費者の連携に留まらずに、まさに「もろとも関係」として再構築できるでしょう。

外部不経済や社会的費用の問題も話題になりました。
外部不経済や最近話題の炭素税などは、あくまでも狭義の経済での発想です。生命系の経済にも、その基盤としての生態系という「外部」は想定されていますが、岸本さんが説明したように、それらは「一体化」発想で論理が構築されています。
そこでは「外部」を手段として利用するだけという発想はなく、金銭を介在しない非市場経済も、まさに一体として考えていくことになります。言い換えれば、すべてが循環発想で捉えられるのです。

「地域主義」という言葉も参加者から出されました。
大地に根差した第一次産業を踏み台にして発展する工業化に対して、玉野井さんは生活者が生きている地域の自立性、つまり地域主義の実践を重視していました。
そこでは当然ながら、人の生き方や関わり方、たとえば隣人との付き合い方が重要になってくる。生命系の経済の主役は、お金ではなく生活者一人ひとりなのです。言い換えれば、お金を媒介に生きるのではなく、生態系を踏まえて自立する生き方なのです。
私は、そうした生き方は、まずは隣人に声をかけることから始まるのではないかと思っています。

他にもさまざまな視点が出されたのですが、長くなるので省略します。

最後に、参加者から翌日届いたメールを、ちょっと長いですが引用させてもらいます。

「市場経済」だ「生命系の経済」だといわれても、なかなか難しくてつかめない。だから横の広がりがなかなかできないのではないかなと、昨日も帰ってからいろいろ考えてみました。大根の葉っぱを大切に思って捨てないで次の料理に使うって、私の実体験の話です。そうするととてもお料理が楽しくていろんなアイデアが浮かんでくるのですよね。世の中でいう「経済」に比べればとるに足らないごく小さなことだけど、これって「私の小さな経済学?」かなって思った。節約ではありません。「自分で生み出す(生み出せる)経済」って言えるかな。これは楽しいです。生きる毎日の、気持ちの豊かさにも繋がるような気がします。消費者がこうなった時に「もろとも」も自然に広がるのかなと一人で勝手に考えてしまった!

生命系の経済の主役は、私たち生活者一人ひとりなのです。

岸本さんのこれからの実践研究に期待したいと思います。
いつかその後の展開を報告してもらえるのを楽しみにしています。

なお、岸本さんの修論を読みたい方はご連絡ください。

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■節子への挽歌5391:昨日はテレビドラマ三昧

節子

昨日も大事をとって在宅でした。
時間がたくさんあったので、たまっていた録画テレビドラマを観てしまいました。


欧サスペンス「刑事ペーテル~未解決事件捜査班~」です。全8話で次の日曜日で完結します。私は基本的には「続き」が嫌いなので、こうしたドラマは録画して間欠してから一気に観るのですが、今回はそのタブーを破ってしまいました。

サスペンスやミステリーは、最近の日本のテレビドラマはいかにも底が浅く、同じパターンばかりで退屈です。それで北欧や欧州のものを見るのが増えています。
最近で言えば、英国のドラマ「カササギ殺人事件」は楽しめました。作り方も面白い。
また今も放映中ですが、2回連続なので、2回ごとに観ている「アストリッドとラファエル」も面白い。

ところで「刑事ペーテル」は、いかにも北欧的な暗いドラマです。
このドラマはストーリーもさることながら、生活文化や人々の生き方がいつもながら面白い。
同じ人間なのに、住んでいる場所によってこんなにも違うのかと思います。

そういえば、説と私は日本の津罪で生きていた人間ですが、奇妙に相性が良かったように思います。たぶん私の両親が新潟出身だからでしょう。

まあそんなことも思いながら、昨日はテレビドラマ三昧でした。
今日は目がしょぼしょぼです。

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2022/09/15

■節子への挽歌5390:8020運動

節子

歯科の定期検査にいま通っていますが、今日は石戸さんから「8020運動」について教えてもらいました。「8050問題」というのは知っていましたが、「8020運動」は知りませんでした。
これは私が会社を辞めた1989年から、厚生省と日本歯科医師会が推進している、「80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」という運動だそうです。石戸さんによれば、北欧などではかなり進んでいるらしいですが、日本では遅れていて、最近ようやく広がりだしているようです。

親知らず歯を除くと普通の人は28本の歯があります。そのうち、20本以上の歯があれば、咀嚼力も維持され、それが長生きと関係するのだそうです。
20本を維持できず、入れ歯などになると咀嚼力は67割も低下するそうで、当然それが健康に影響し、寿命に関係してくるのだそうです。
歯が寿命に影響しているのは素人的にも納得できますが、日本ではそうした検証は遅れていたようです。

今日は歯のレントゲンを撮ったのですが、私の場合は、1本だけ差し歯になっています。
それも石戸さんに来る前の処置だったのですが、あまりうまくなかったようで、たしか石戸さんで入れ直しているはずです。
ちなみに私の場合は、石戸さんで全面的に見直しをしてもらい、その後、大きな歯の劣化は見られません。

石戸さんからは、8020もクリアしているので、大丈夫ですと言われたので、でもまあそんなに長生きする必要はないのですがと言ったら、健康に死ねないのはいやでしょうと言われました。歯の健康は、寝たきりになるリスクにもつながっているようです。

私はPPK(ピンピンコロリ)という言葉が大嫌いですが(死をそんなに軽く扱ってほしくありません)、健康のまま心静かに死を迎えたいと思っています。
それとこれも今日教えてもらったのですが、アメリカなどでは、床屋さんに行くように、毎月歯医者さんに行って手入れをしてもらう風習もあるようです。
私はいまは年に2回ほどですが、もう少し頻繁に行こうと思います。

そういえば、がんとの闘病生活の最初に、節子が行ったのが、歯医者に行って歯をすべて直すことでした。
その時はまだいしど歯科医のことを知らずに、節子は友人の親族がやっているという歯医者さんを紹介してもらい、そこで治療を完了し、闘病に備えるようにしました。
治療が終わった後、節子が「もう歯の心配はなくなった」と安堵していたのを今でも覚えています。
節子は私と違って、歯の大切さを知っていたのでしょう。

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■節子への挽歌5389:実に困ったものです

節子

2日間、ゆっくりしたので体調は回復しました。
今朝は涼しい秋です。

やらなければならないことが山のようにあるのに、どうもやる気が起きません。

節子と私の行動の違いは、節子は「必要度の高いことから」、私は「やりやすくてやりたいこと」から取り組むことでした。これで時々言い合いになっていました。
もっともこのふたつは、必ずしも対立するわけではありません。時に重なることもある。やりやすさも必要と思う度合いも、人によって違うからです。
でもせっついてくれる人がいるかいないかで大きく違います。
節子がいなくなってから、時々娘たちがせっつきますが、まあ諦めているのか、親のことは親の問題だと思っているのか、すぐに諦めるようです。
ですから「やらなければいけないこと」がたまってしまう。

また湯河原の電気料金が引き落としできないと連絡が来ました。
もう使っていないので売却すればいいのですが、そんな面倒なことはなかなかやる気が起きてこない。
電気やガスを一時的に止めておけばよかったのですが、それもまた面倒。
節子がいいたら、節子にやっておいてくれないかというだけですんだのですが。
ついに貯金も底をついてきました。

2日間、養生のために在宅で静かにしていると、こういうことが気になってくる。
そうするとよる目が覚めてしまい、眠れなく。
そんなわけで今朝も早起きしました。
でもサロンの報告を書く気にはまだなれない。

実に困ったものです。

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2022/09/14

■節子への挽歌5388:「禁おかゆ生活」終了

節子

昨日は兄夫婦と会食の予定でした。
なかなか時間が合わずにやっと決めたのですが、朝起きたら、いつもとは少し地が腹痛で不安に感じていたのですが、朝食後、さらに痛みが増してきました。
それまで5日連続で湯島に出かけ、サロンやミーティングをやったせいか、それともこの3週間ほど、さまざまなトラブルや相談事に巻き込まれていたせいか、はたまた無茶な畑作業のせいか、理由は不明ですが、前回の腹痛よりも状況は激しい。
まっすぐに立っていられないほどの痛みと、そのうちに顔から冷や汗まで出てきてしまう状況で、兄には会食中止の連絡をしました。

さすがに動く元気もなく、午前中は寝ていました。
痛みはおさまりましたが、大事をとって昼食は抜き、ユカは夕食はおかゆにしたほうがいいと言いましたが、おかゆはもう金輪際食べないと10数年前に決めていたので、素うどんにしてもらいました。
幸いに一晩寝たら、回復しました。何だったのでしょうか。

朝食は大事をとってサラダと飲み物だけ。珈琲をうっかり飲んでしまいましたが、牛乳もやめ。
お昼ごろに空腹感が出てきたのですが、ユカがやはりおかゆにしろというので、10数年ぶりにおかゆを食べました。

おかゆを食べないことにしたのには理由があります。
10数年前になりますが、親知らず歯の抜歯のため、なぜか8日間の入院したことがあります。なぜそんなにと質問しましたが、高齢者には何があるかわからないというので8日間の入院でした。実は私はそれまで入院経験がなかったので、興味もあって8日間を受け入れ、入院生活も面白かったのですが、問題は食事でした。
水のようなおかゆから徐々にお米が見えるおかゆへと変化したものの8日間、おかゆばかり食べさせられ、しかも塩分なしだったので、もうおかゆ嫌いになってしまったのです。

私がもう少し賢ければ、病院の売店で塩分のあるものを買ってきておかゆに入れればいいだけだったのですが、そういうことに私は全く気付かないところがあるのです。そのためユカからは、なにやら難しい本は読んでいるくせに、生活力もないバカな父親だといつも言われているのです。節子に依存しきって生きていたせいかもしれません。
困ったものです。

ところで10数年ぶりに食べたおかゆは実においしい。
ユカがちょっと味付けをしてくれたのと梅干があったからでしょうか。
そのおかゆを食べたら元気が出てきました。
これで「禁おかゆ生活」は終わることにします。

それにしても2日間、のんびりしたのですが、ずっと寝たり座ったりだったためか、今度は腰が痛くなりそうです。
まったくもって人生は面倒です。
身体のない人生が送れれば、どんなにいいことでしょうか。
でもまあ調子もいいので、夕方には畑に行ってみようと思います。

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■第18回益田サロン「生物と環境を考える益田同心円モデル」報告

今回は、最初に戻って、益田サロンの根底にある「生物と環境」の関係を考える思考の枠組みのようなものを話してもらうことにしました。益田さんは、多重の同心円を使って、いつも説明してくれるのですが、その思考の枠組みをシェアしておかないと「生物」と「環境」という言葉自体の捉え方がそろわないからです。

導入部は「溶原性変換」の話題でした。益田さんは、生物が環境を失ったら生きてはいけないという例として話されたようですが、私にはこれまた益田サロンの大きなテーマである「自己・非自己」を考える上で、とても興味深い話でした。

つづいて、ジフテリア菌の話。

益田さんは、こういう話をしてくれました。
臨床検査室で見つかるジフテリア菌はジフテリア毒素を作ってジフテリアという感染症を起こします。ジフテリアの予防接種を受けると、その人の血液の中にはジフテリア毒素の毒作用を打ち消す抗毒素抗体というものが出現して、この人はジフテリアにかからなくなります。
ジフテリアという病気は、ジフテリア菌が持っているファージにある毒素がのどの粘膜にある毛細血管を破壊し、そこから血液の栄養が大量にジフテリア菌に供給されることで菌が増殖し毒素が大量に血液の中に流れ込むことで心臓が冒されて、その人を死に至らせる感染症です。ところが抗体によって毒素が働かなくなるとジフテリア菌は常在菌と同じ立場に置かれてしまいます。つまり病気を超さない。

ファージ遺伝子や毒素遺伝子はジフテリア菌に扶養家族と同じ負担をかけます。
ジフテリアという病気によって栄養が豊富に与えられないと常在菌に負けてしまいます。
常在菌は貧弱な栄養に適応しているので、余分な遺伝子を持っていないだけ有利なのです。
ファージ遺伝子が毒素遺伝子を持ち歩いているのはジフテリア菌にとって居候であったファージ遺伝子が毒素という才覚を発揮して家主に生存競争に負けないだけの栄養を取らせたようなものでしょう。

要するにジフテリアという病気を起こす必要があったのはジフテリア菌ではなくファージだったという事になります。ジフテリア菌は常在菌としてでも十分に生きていけるはずだからです。

ファージを生物、ジフテリア菌を環境と考えると毒素は環境を豊かにするための道具と考えられます。毒素はファージが生き残るための不可欠な解決手段だったとすると、これは無駄飯食い人間の大きな脳みそが体に提供した知能もジフテリア毒素のようなものだとも考えられるのではないかというわけです。

生物と環境を考える様々なヒントがここには含意されています。

その話を聞いて私が思ったのは次の通りです。
ジフテリア菌にはファージを取り込んだものと取り込まないものがあるが、どちらが存続しやすいだろうかと問いかけが益田さんからありました。私はその問いそのものが成り立たない問いだと答えました。時間軸によって答えが変わるからです。
もし取り込んだファージが、ジフテリア菌にとって何の役にも立たないのであれば、当然、ファージを取り込まないほうがいい。ではなぜ取り込むのか。
それはファージは一緒に「毒素」(こう名付けたとたんにすでに価値観が入ってきますが)を背負っているからです。そして、ある状況において、その「毒素」が活躍し、ジフテリア菌が寄生している人体に影響を与え、ジフテリア病を発症させ、ジフテリア菌の存在する世界を広げることになることがある。そういう意味で、ファージは間接的にジフテリア菌には役立っているわけです。しかし、それによって自らも死んでしまうこともある。

「毒素」にとっての環境はファージ、ファージにとっての環境はジフテリア菌、ジフテリア菌にとっての環境は人体と考えれば、いろいろなことが見えてくる。
一見、何の役に立たないと思われることが、実は大きな意味を持っていたり、生存しようと思ったことが、自らの存在を危うくする。

環境と生物の安定した関係は理論的にはともかく持続せずに変化しますから、まさにこれはリスクマネジメントの話なのかもしれません。リスク(負担)は状況によってはベネフィット(恩恵)になるというわけです。そこにこそ、生物と環境の本質があるような気がします。つまりそれは、単純な対立関係・並置関係ではないのです。さらに言えば、生物にとっても環境にとっても、意味のないものは存在しない。

そうしたことを模式的に示してくれるのが、益田さんの同心円モデルではないかと思います。
今回はもう少し同心円モデルが話題になるかと思っていたのですが、あまり突っ込めなかったのが少し心残りです。

ところで益田さんはこう言うのです。ファージが入ったらジフテリア菌は、その負担によって滅亡するはずなのに、毒素はその負担を解消してくれる。人もただ脳みそが大きいだけで知能が低かったら、腹ばかり減らしているろくでなしという事で葬り去られるのと同じ。だから知能と毒素の比喩は面白い。

というわけで、次回の益田サロンは、「人間の知能はジフテリア菌の毒素のようなものか」になりました。
いよいよ話の舞台が人間社会になってきました。
具体的な内容が決まり次第案内させてもらいます。

Masuda182

 

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■茶色の朝サロン「政治を我が事と考える」のご案内

しばらく休んでいたBMS(茶色の朝サロン)を再開します。
「茶色の朝」サロンについては次をご参照ください。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2018/01/post-dd3c.html

日程を、あえて927日に決めました。
この日は、「国葬」に参加する人も、国葬反対の活動に参加する人もいると思いますが、まあ「国葬」と関係ない政治談議をする場もあっていいかなと思いました。
できれば、「国葬」は話題にしたくはありません。

最近知ったのですが、日本に民主的な政治を根付かせようとしていた明治時代の吉野作造は、「近代的政治意識」を「政治を我が事とするような意識」と捉えていたそうです。
民主主義と民主政治は、別のものだと私は思っていますが、湯島のサロンの「政治観」はまさに「政治を我が事として考える」を基本に置いてきました。
もちろん「政治」だけではなく、「経済」も「宗教」も、「我が事として考えよう」と呼びかけてきたつもりです。 

そう考えれば、政治も経済も、誰かがやってくれるものではなく、私たちの生活にとっての単なる「与件」でもないことに気づけるでしょう。
政府や経済界を批判しているだけではなく、自分で動けることが見えてくるかもしれません。

そんなわけで、今回の茶色の朝サロンは、「政治を我が事と考える」とした場合の「政治」について話し合えればと思います。
そのために、実際の政策や政府の行動が、自らの生活に影響を与えたという経験や気になっていることなどを気楽に話し合えればと思います。

ついでに蛇足ですが、昨日の朝日新聞に書店をやっている金野典彦さんという方が、「大きな主語」で語られると、語られることを個人として引き受けられずに、対話がなりたないと言っていました(「耕論」)。湯島でサロンをして、私もいつも感ずることです。
特に政治関係の話になると、「大きな主語」の語りが増えがちですが、茶色の朝サロンはできるだけ「一人称単数」で話し合えればと思います。
それだと個人でもできることが見えてきますので。

〇日時:2022年9月27日(火曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「政治を我が事と考える」
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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2022/09/13

■抗顔坐食の人たちが統治する社会

最近、湯島のサロンに参加しだした柿嶋さんから、加藤陽子さんと奥泉光さんの対談「この国の戦争」を薦められました。副題に「太平洋戦争をどう読むか」とありますが、なぜあんな戦争を始めたのか、そして勝利する可能戦がゼロになってもなぜやめられなかったのかを、歴史家の加藤さんと作家の奥泉さんが対談しているのです。

いろいろと知らなかったことを学ばせてもらいましたが、非常に面白かったのは、明治新政府が徴兵制を国民に知らせるために出した「徴兵告諭」です。

徴兵告諭は、中世から近世までの武家政権を強く批判しているのですが、そこに武士に関して、「双刀を帯び、武士と称し、抗顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し」ても罪に問われなかったと書かれていたそうです。
加藤さんは、「抗顔坐食とは、働かないのにおごり高ぶっている人といった意味です。武士の特権をなくし、四民に自由の権利を与えると謳っています」と言っています。

私が関心を持ったのは、この「抗顔坐食の武士」は、いまの政財界のトップ層とそこへ寄生する人たちのように感じたのです。「甚しきに至ては人を殺し」も含めてです。
ふたたび特権階級が支配する社会に戻ってきたのでしょうか。
少なくとも彼らがやっている活動の多くは、グレーバーの言うブルシットジョブのように思います。

この本を読むと、まさにいまのウクライナ戦争につながるような話もたくさん出てきます。朝鮮半島は、日本にとってのウクライナになっていたのかもしれません。
そう考えると、ウクライナ戦争の見方がまた違って見えてきます。
歴史から学ぶことは本当にたくさんあります。

もう一つ、この本で知ったのは、民本主義の命名者吉野作造が、「近代的政治意識」を「政治を我が事とするような意識」と捉えていたことです。
私は、国会で展開されているのは「小さな政治」で、「政治を我が事とするような意識」で行われる政治を「大きな政治」と呼んでいて、政治を生活者の手に取り戻そうというサロンを30年以上続けてきていますので、まさに我が意を得たりという気がしました。

そういえば最近、「茶色の朝サロン」をやっていません。
近いうちに開催しようと思います。
小さな政治は統一教会や電通に任せて、政府にも邪魔させない大きな政治を取り戻したいものです。そういう政治からは、ウクライナ戦争もまったく違って見えてくるはずですから。

 

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■湯島サロン「地域での学習体験会から気になること」のお誘い

最近、子どもたちの世界をテーマにしたサロンが少なくなっていますが、私たちの社会の過去と未来が、もちろん現在も、子どもたちから見えてきます。しかし子どもたちの世界は、実に多様ですから、どこから見るかで全く違った世界が見えてきますので、注意しないといけません。

今回は、長年、地域で子どもたちや母子を対象にした無料の学習体験会に取り組んでいる日高さんに、久しぶりにサロンをしてもらうことにしました。
学校や学童活動とはまた違った社会の実相が見えてきているようです。

日高さんは、たとえばこんなことを感じているようです。サロンでもこういう話題が出てくると思います。

・学びへの欲求と教育情報過多の中で子どもたちは困惑している。いま大切なのは、子どもたちが自分スタイルの学び方を身につけていくことではないか。
・学ぶことが多すぎて子どもたちの学びが浅くなっているのではないか。「きらびやかな学び」は増えているが、その一方で、応用力を培う学びが見向かれなくなっていないだろうか。
・近頃は行き過ぎた対応が多すぎるのではないか。
・楽しい遊びの中で、子どものうちに体験しておくべきことがたくさんあるのではないか。

こんな切り口から、日頃、子どもたちや母子と触れ合っている日高さんの社会観や疑問、あるいは提案を話してもらい、それを踏まえて、参加者みなさんと一緒に社会のありようや教育について話し合えればと思っています。

ちょっと子育て中の人向けの内容に思えるかもしれませんが、子育ては両親だけの問題ではなく、社会の問題ではないかと思います。子育て中の方はもちろんですが、ぜひいろいろな立場の人に参加していただければと思っています。

〇日時:2022年10月14日(金曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「地域での学習体験会から気になること」
〇話題提供者:日高正晃さん(ひだまりサロン主宰)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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2022/09/11

■数字が事実を覆い隠す社会

最近いろいろと発表される数字は、私には全く信頼できないものばかりですが、その傾向は最近極度に広がっています。
率先して数字を改ざんし、それがわかっても調査もしない政府によって統治されている社会ですから、まあ当然と言えば、当然ですが。

最近の数字で言えば、国葬の費用ですが、おそらく少し事実を調べたことがある人ならば、16億数千万円などでおさまるはずがないことはすぐわかるでしょう。しかし、マスコミは16億数千万円が高いことを問題としています。私には白々しさ極まれりとしか思えません。

自民党議員で統一教会に関与した議員は179人という数字も、「そんなに多かったのか」という論調で報道されていますが、私にはそんなに少ししか自己申告しなかったのかとしか思えません。

いずれも数字で「ある事実」が捏造されているとしか思えません。

嘘を言い事実を隠すことは政治家にとっては何のマイナスにはならないようですが、せめて数字だけは嘘を言わない状況であってほしいと思っていました。しかし、いまではむしろ、数字は事実を覆い隠すための、あるいは都合のいい事実を創出するための道具になってきているように思います。

しかし、数字が信頼できないとなると社会をどう判断していいかわからなくなります。
自分が生きている小さな社会を相対化できなくなる。
何を拠り所にして世界を見ればいいのか、とても悩ましい時代になってしまいました。

 

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2022/09/10

■節子への挽歌5387:酷暑の悲劇

節子

孫のにこにはまだ話していないのですが、湯島の小さな金魚が2匹とも死んでしまいました。
8月の暑いときにしばらく湯島に行かなかった時に、うっかり水槽を涼しいところに置くのを忘れてしまい、テーブルの上に置いたままにしていたのです。
そのため部屋の温度が高まり、それがつづいたために水温が上がり、2匹とも死んでしまいました。
せっかく大きくなってきていたのに残念です。

にこから分けてもらった金魚なので、まだにこには内緒です。
実は自宅でにこが育てている金魚の子を2匹分けてもらいました。
湯島で順調に育てていた時の写真を見せていたので、前と変わって信頼されていたのです。なにしろにこが育てているのよりも大きく育っていたからです。

ところが、自宅のその2匹の小さいほうがまた死んでしまいました。
残ったほうも、1匹ではかわいそうだと言って、にこが引き取ってしまいました。
湯島の金魚の話はますますできなくなってしまいました。

ところが、その後、さらに悲劇が続き、家で飼っていた5匹のメダカのうち、3匹が死んでしまいました。
そして今日、湯島に来て、大きな水素を見たら、ここに入れておいたはずの今年生まれたメダカが見当たりません。
3年目に入ったメダカのカップルは元気なのですが。

というわけで、今年は金魚とメダカがまた全滅に近く、老メダカ4匹しか残っていません。
生き物と共に生きるのは実に難しい。

どうしようか迷っていたら、今日、サロンをやってくれる益田さんが、自宅の水槽で貝が元気に育っているので持ていくと連絡が来ました。
貝は大丈夫でしょう。
そんなわけで、湯島は当分、貝が癒してくれることになりました。

昨日、やってきた人から、メダカたちはどこに行ったのと言われてしまいましたが、水槽に癒されていたのは、どうも私だけではなかったようです。

 

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■第2回生活事業研究会の報告

湯島ではサロンの他にもいろいろな集まりをやっていますが、一昨日は生活事業研究会の2回目の集まりでした。
これは6回シリーズのメンバー制の研究会ですが、今回までオブザーバー参加も受け入れました。すでに第1期は終了していますが、第1期の修了者は以後、自由に参加できる仕組みになっています。

今回は1期修了者やオブザーバー参加も含めて、7人の参加になりました。
ところが突然の飛び込み参加がありました。
今日の集まりが何かをよく知らずに、ともかく人に会いたくなったと言って一人の若者が参加しました。まあ、そういう場合も、断るのではなく、受け入れるのが湯島の考え方なのです。

今回は「やりたいことの構想の確認」がテーマでしたが、各人からの発表と話し合いの後、「時代認識」「社会とは何か」「構想の計画化に向けて」などを少し話させてもらいました。

生活事業研究会という名前からか、ほとんどの人はいわゆる起業支援をイメージしていますが、私の思いはむしろそれとは真反対なのです。
もうそろそろ金銭基準での発想から離れようという呼びかけなのです。
今回も「事業」とか「ビジネス」とかいうと「お金儲け」のことと受け止めやすいという話も出ましたが、そういう「常識」を変えていきたいのです。
人はお金のために事業や仕事をする訳ではないでしょう。
そんな人生から自由になれば、生き方も社会も大きく変わってきます。
そういうことを考え直す契機にしたいのです。

そんなことを言うと、しかしお金がないと食べることもできないという人がいます。
その「常識」がそもそもおかしい。
私が子どもの頃はお金などなくても生きていくことはできる余地がまだあった気がします。
それにお腹が減ってもお金は食べられません。
なぜそんなことにみんな気付かないのか。

私の常識と世間の常識の、どちらが間違っているのか。
そもそも今の経済学は、不足の時代の中で生まれた学問ですから、いまのようなモノやヒトや情報が過剰な成熟社会では役にたつはずがないのです。

今回は1時間も伸びてしまいました。
オブザーバー参加の方は正式に参加することになりました。

事業という言葉にこだわらず、ともかく「よく生きたい」という人を対象とした研究会です。関心のある方はぜひご連絡ください。
新たな参加者希望者が3人を超したら第3期をスタートさせますので。

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■節子への挽歌5386:主役交代

節子

升田さんが送ってくれたカサブランカとユカが買ったカサブランカを同じ花瓶で供えていました。
今朝、起きたら最後のつぼみが開花していました。
17202209102

最初に開花したのと今朝のとでは1週間以上の間がありますので、最初に咲いたのはすでに枯れかかっていますが、今回は切らずに残していました。
開花した花とつぼみは3本で17つあったのですが、果たしてすべてが開花するかどうか楽しみにしていたのです。
それが今朝、最後のつぼみが開花。17つの大輪の花が香っているのです。
最初に咲いた花もがんばってくれたし、最後のつぼみも開花してくれた。
それがなんだと言われそうですが、とてもうれしくなりました。

昨日は、いろいろあって、ちょっと大変な日でしたが、今日はいい日になるでしょう。
今夜の中秋の月のための花は、昨日、ユカが買ってきてくれたので窓辺で、これも静かに咲いています。
今日から主役交代です。
202209102

ちょうど今、太陽が顔を出してきました。
畑は今日もさぼることにしました。
いろんなことがありすぎるこの頃です。
昔とは反対に、元気になるよりも疲れます。
困ったものです。

 

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2022/09/09

■ドラマ「始皇帝」

昨日、中国ドラマ「三国志」について書いたのですが、思っていた以上に観ている人が多く、コメントもいただきました。なかには、三国志をテーマにサロンをやったらという提案までありました。
それで、ついでに同時に観ていた「始皇帝」についても一言。
これも78話という長編でした。

制作に14年かかったそうですが、ドラマとしては無声時代の映画を観ているようでかなり前の制作作品だと思います。「三国志」と比べると時代の変化を強く感じますが、内容を通底する精神(文化)は同じです。
忠孝思想が強く流れています。
中国が共産主義や社会主義国家などとはとても思えません。

私の関心事は、なぜ始皇帝は焚書坑儒というような「蛮行」を行ったのか。
それと彼の出生の秘密や名前だけしか知らなかった李斯のことを知りたかったのが、観始めた理由です。
焚書坑儒に関しては、納得できました。
異文化を統合して平和を実現するためには、当時の状況ではまだ多様性は許されなかったのです。
いわゆるゼロベースからのグレートリセットのためには、多様な知識や文字は邪魔になったわけです。言葉自体が未熟だった当時の状況では、それは合理的だったのだと思います。
しかし、20世紀の中国の文化大革命やカンボジヤでの蛮行は、合理的とは言えないでしょう。

また、「三国志」でもそうですが、重要な会話は、決められた表現が使われています。古書古伝に残された「言葉」を子どもの頃から学んで、それを駆使して会話が成り立つのです。つまり、当時の言葉は、個人の言葉というよりも「神の言葉」だったような気がします。これも改めて確信できました。
これは、湯島での万葉集サロンのテーマのひとつでもありますが、日本でも同じことが起こっていたのです。教養とは、神の言葉、古人の言葉を記憶することだったわけです。

知のあり方がいまとは全く違っていたようにも思いますが、よく考えてみると、いまもまだ同じかもしれません。
昨日の湯島の集まりでも、ある人が、言葉の数(ヴォキャブラリー)が少ないと話についていけないことがあるというようなことを指摘していました。
しかし、言葉を媒介とした知には限界がある。いやむしろ知を阻害するのではないかと私は思っていますが、しかしその一方で、言葉は知らない世界への入り口になりえるとも思っています。

「始皇帝」から話が離れていますね。
中国ドラマの「始皇帝」は史実を丁寧に追ったもののようですが、悪名高い呂不韋に関してはかなり好意的に描かれていました。
しかし始皇帝が呂不韋の子どもかもしれないということはかなり明確に示唆されていました。

一説では呂不韋はユダヤ系の人だと言われていて、もしそうなら始皇帝にはユダヤ人の血が入っていますが、さらに秦が滅びた後、秦の王家は華南に移り、朝鮮半島を経て、日本列島に来たと言われていますから、日本ユダヤ同祖説につながっていきます。
古代日本の秦一族はユダヤ系かもしれませんし、私が好感を持っている天武天皇は新羅系(ユダヤ系?)とも言われていますので、もしかしたらユダヤ系かもしれません。

また本題から外れました。
「始皇帝」では、統一前の七国それぞれを支配する人たちは、婚姻関係でみんなつながっています。ヨーロッパの近世と同じです。そこでは支配層と生活層が分離していたわけです。国家は、生活者にとっては迷惑な制度だったと思います。
昨今のグローバルな世界は、1%の富裕層と99%の生活者層とに分かれだしていますが、まあそのモデルが秦の時代にあったわけです。

もう一つ現代と通ずると感じたのは、李斯や韓非のような「参謀」や「知識人」が大きな力を持っていたことです。
これは三国志における司馬懿や諸葛孔明にもつながっていくわけですが、参謀の役割はたぶんいまや終わったように思います。これからその役割を果たすのはAIでしょうが、AIを支えるのは生活者たちのビッグデータです。
つまり集団(社会・国家)の統治の視座が全く変わってしまっているのです。
もはや李斯や司馬懿の時代は終わったのです。

しかし、参謀が地位を得たはじまりの頃の話として、「始皇帝」は興味深かったです。
同時に、最近の日本の政治や経済の世界で、「参謀」や「人脈利用者」が私腹を肥えさせているのが、いささか悲しいです。まだそんなことをやっているのか、と。

このドラマにはたくさんの人が出てきますが、私にはほとんど名前も知らない人ばかりでした。しかし78話も見てしまうと、無機質だった秦の話が私の中では生き生きとしてきました。始皇帝はやはり好きになれませんでしたが。

今度はアニメ「キングダム」を見てみようと思います。
これも長編ですので、大変そうですが。

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■節子への挽歌5385:気になっていた若者がやってきました

節子

昨日は生活事業研究会でしたが、突然、しばらく連絡がなかった若者がやってきました。
1か月前にはかなり精神的に落ち込んでいて、家から一歩も出られないと言ってきた若者です。
その後、別のところに住んでいる母親から、突然のメールが来たので、またメールしたのですが、連絡がこないので気になっていたのです。

その若者が突然やって来たのです。
元気そうでほっとしました。
今日は何の集まりかわからずに彼は来たのですが、ついでだから参加したらといって、参加者にも納得してもらって、一緒に4時間を過ごしました。
まあ、そういう融通無礙なところが湯島のおもしろさでもあるのです。

親子の確執で、引きこもったり家を出たりする若者は少なくありません。
いまも気になっている人が他にも一人いるのですが、そうした人への対処は気を使います。どこまでやっていいかが難しいのです。
そういう人たちと付き合っていると、親との確執はほとんどが親への愛や感謝の念が根底にあります。しかし、それが反転して現れてくる。しかも、親にはその深意がなかなかわからない。それで微妙な行き違いが生まれてしまい、次第にその溝が大きくなっていく。まあそういう事例が少なくないように思います。

憎悪と愛情や信頼は、コインの裏表なのです。
愛や信頼が深ければ深いほど、関係はこじれやすいのです。
そして親はいつまでも親目線(保護者目線)で子供に接してしまいがちです。
でもいつの間にか、実際の関係は逆転しているのです。
親はなかなかそこから抜け出せない。

昨日はもう一人、年齢不詳の、最近、湯島によく来る人と一緒に話しながら帰りました。
彼のこともずっと気になっているのですが、両親と一緒に暮らしているということを始めて聴きました。
その彼が、ぽつりとつぶやきました。
世話をしてもらっていたのに、最近は世話をしなければいけなくなってきた、と。
その言葉を聞いて、もう彼は大丈夫だと思いました。

若者たちからはいつもいろんなことに気づかせてもらいます。
そう思えるようになったのは、娘たちのおかげかもしれません。

昨日やってきた若者の母親に、昨夜、報告しました。
また少し余計なことまで書いてしまったので、心配していましたが、うまく受け止めてくださったようで、安心しました。

人と付き合うのは本当に疲れます。
でもまあそれで私の元気も維持されているのかもしれないと思うと感謝しなければいけません。

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2022/09/08

■節子への挽歌5384:パソコンの気持ちも少しわかるような気がします

節子

パソコンが直っていました。
といってもbluetoothが回復していたということですが。
やはりパソコンも時に疲れてサボタージュするのかもしれません。

ところで昨日はパソコン不調で気づかなかったのですが、ある人からのメールが「迷惑メール」に仕分けられていたのに今朝気づくすぐに返信しました。
息子さんのことで相談のメールが届いていたのです。
昨夜はそれが気になっていてパソコンをいじっていたのですが、実はその連絡はすでに届いていたのです。私のパソコンも性格がいいとは言えません。

今どきはメールなど、さまざまな連絡方法があるので、簡単に相談事もできます。
しかしそれにすべて対応していたら、それこそ身が持ちません。

いろんなことが効率的にできるようになると、時間の余裕ができるように考えますが、実際にはどうも逆のようです。
効率的にできるようになると、仕事や相談はそれを見越したように指数関数的に増加するのです。
これはおそらく労働時間にも言えることでしょう。

仕事をうまくこなす人ほど忙しくなる。
そして同時に、自分では直接には仕事をせずに、仕事をさせる人ほど、収入は多くなる。
いわゆる「ブルシットジョブ」が増殖するのです。
このことは自分の生活からも実感できます。

ネットからはさまざまな社会の動きが入ってきます。
世界がよく見える。
でも世界がよく見えることが生活の豊かさにつながるとは限りません。
気の重いことがどんどん増えていく。

人と付き合うのは疲れます。
パソコンの気持ちもなんだか少しわかるような気がします。
パソコンは、私よりもたくさんの世界を見ているでしょうから。

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2022/09/07

■節子への挽歌5383:またまたパソコンに振り回されました

節子

またパソコントラブルです。
この2か月、3回目です。これも暑さのせいかもしれません。

今回は例によってbluetoothが作動しなくなったのです。
ワイアレスマウスを使っていますが、それが使えないわけです。
私の場合、ワイアレスマウスがないと作業効率が極度に低下します。

いろいろと調べて今回はデバイスマネージャーの欠点を見つけたので、それを入れ替えようとしたら、途端にパソコンが動かなくなってしまいました。
まあよくわからないでいろいろと動かせてしまうのでよくあることです。
急いでまたアンインストールしたのですが、それがまたうまくいきません。
なんとかそれは克服しましたが、やはり何となく動きが悪い。

ちょうど1か月ほど前にもひどいトラブルに陥りました。
いろいろとやっているうちにメールアドレスが一挙に消えてしまったのです。
これも苦労してなんとか回復。

まあこうやっていろいろと覚えていくのですが、あまり論理的に対応していないので、直った理由がわからないこともあります。
1か月前もbluetoothがダメになったのですが、いろいろとやっているうちに直ってしまいましたが、今回はどうもうまくいかない。

それと不思議なのですが、パソコンの修理をしていると時間がなぜか速く進むのです。
それに私のパソコンは安価なので、私にさえも遅いと感ずるほど処理速度が遅いのです。

そんなわけで、今日も午後はずっとパソコンと格闘していました。
夕方になって、なんとか使えるようになりましたが、bluetoothは回復しないのでワイアレスマウスは使えません。
困ったものです。 

一晩寝たら直っているといいのですが、

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■価値観がどう変わろうとしっかりと大地の上で生きている人はすばらしい

この数か月、2つの中国制作のテレビドラマを観ていました。
「三国志〜司馬懿 軍師連盟〜」と「始皇帝」です。
いずれも80話前後の長編ですが、先月終了しました。
物語はともかく、さまざまなことを学ばせてもらいました。

今回の「三国志」は、曹家と司馬家の関係を主軸にしたドラマでした。
三国志では、私は曹操が一番好きなのですが、司馬懿には前からあまりいい印象を持っていませんでした。
しかしこれも中国ドラマの「三国志の秘密」(漢王朝側からの三国志)を観て、司馬懿が中国ではとても好かれているのだと知りました。

今回のドラマも主役は司馬懿で、少なくとも70話くらいまでは司馬懿は理想的な人物として描かれていました。その影響で、私もかなり好きになってしまいましたが、最後のあたりでまた以前の評価に戻ってしまいました。彼の生き方は潔いようで潔くない気がするのです。

そこで思い出したのが、昔読んだ阿部謹也さんの「「教養」とは何か」に書かれていた「魏の君子の生き方」です。そこでは司馬家に対立していた嵆康の生き方が書かれていました。それを思い出して、本を探したのですが、残念ながら見つかりません。そこでしかたなく図書館から借りてきて、昨日読み直しました。まあその部分だけですが。

嵆康はいわゆる竹林の七賢人の一人ですが、39歳で刑死しています。
竹林の賢人たちの生き方は、仙人とは違い、韜晦的な生き方ですから、刑死はある意味では理想的だったのかもしれません。
私はお酒を飲めませんので、彼らのような生き方はできませんし、それ以上に嘘が嫌いなので、私にはなじまない生き方です。しかし、三国志の時代にもし生まれたら、そういう生き方をしたかもしれません。なにしろ才がないうえに気が弱いですから。

ところで嵆康が司馬家に不評を買った一つは、司馬家とも親しかった鍾会への態度です。
鍾会もドラマ「三国志」には重要な役で登場しますが、父親とは大きく違った社会に生きています。今で言えば、「合理的」なのです。

今回の「三国志」で強く感じたのは、曹操の時代とその次の時代、さらにはそのまた次の時代とで、「合理」の中身が全く違っていることです。つまり、理と利が全く違っている。みんな「理と利」の世界に生きているのですが、どうもその内容が違うのです。
ちなみに私は曹操の世代の価値観ですが、私よりも若い世代は明らかに違います。しかも最近は、さらに新しい価値観世代が出始めています。湯島でサロンをやっていると、そういう風景が見えてきます。

そんな大きな時代の変わり目を、今回のドラマ「三国志」とてもはわかりやすく見せてくれましたが、同時にいまの時代を見るにも大いに役立ちました。

ところで、嵆康の親しい友人で司馬家に仕えていた山濤が、世間から離れて生きていた嵆康に仕官の道を斡旋しようとするのですが、嵆康は逆に山濤を絶交してしまいます。
いろいろな見方があるようですが、要は潔しとしなかったのでしょう。
そういう生き方をした嵆康に、やはり少し憧れます。
残念ながら嵆康はドラマには登場しませんでした。

ドラマに登場した人物で、私が共感できた人物は、司馬家につかえる料理人の候吉です。
私自身は、候吉のような生き方はできませんが、友にしたい人物です。
おおらかに生きながらも、司馬家の家族とは共に怒り哀しみ喜ぶ。
そしておそらく誰よりも賢く、誰よりも長生きした。

価値観がどう変わろうといつの時代にも、しっかりと大地の上で生きている人はすばらしい。
そこにこそ普遍的な知が育っている。
やはり嵆康よりも候吉が私には理想です。もちろん司馬懿や曹操よりも。

自分の生き方を顧みて、いろいろと思うことのあったドラマでした。

 

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2022/09/06

■節子への挽歌5382:柏市柳戸の弘誓院(ぐぜいん)

節子

先月、すぎの梨園に行った時に、杉野さんから梨園の下の谷津に建立されている弘誓院のことを教えてもらいました。その時は、次に用事があったので、立ち寄れなかったのですが、今日、時間ができたのでユカに頼んで連れて行ってもらいました。

調べてみるとわが家の菩提寺と同じく真言宗豊山派のお寺で、9世紀はじめに行基が開山したと伝えられているそうです。現在の本堂は江戸初期の建立だそうですが、たくさんの文化財が残っているようです。

地元の人たちからは「柳戸の観音さま」として親しまれているようで、今も昔からの行事が行われています。私も時々、杉野さんのフェイスブックでそうした地元の祭礼の様子を見せてもらっていましたが、その場所がここだったのです。

あらためてここに立つと、住民たちの思いが何となく伝わってくるような気がします。
ご本尊の観音像は秘仏として公開されていませんが、代わりに本堂を守っている僧侶?の像に出合いました。なんだかとても親しみを感じました。

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本堂の前には2本の銀杏樹がありました。
それとは別に、本堂の近くにやはり古木の銀杏樹があり、これは雷が落ちたために途中で折れています。谷津の低い場所に立っているのに、なぜ雷を受けてくれたのか、地元の人たちは自分たちを守ってくれたのだと言っているような話を、たしか杉野さんから聞いたような気がします。

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もう一つ、人工の池の中の島に弁財天が祀ってありました。
そういえば、やはり近くの柏市大井の福満寺も上野寛永寺の不忍池の弁財天を勧請していましたが、弁財天信仰はこのあたりには広がっているのでしょうか。
ここの弁財天は迫力がありました。石造なのに口紅が塗ってありました。

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杉野さんが話していた鐘楼にも行ってみました。よく手入れがなされていました。住民たちに思いが伝わってきます。
しばらくそのあたりを歩いてみましたが、誰とも会いませんでした。
ちょっとタイムスリップしたような気になりました。

谷津にはやはりたくさんの霊が潜んでいるような気がします。
杉野さんも話していましたが、手賀沼周辺には谷津の名残も多いのです。
この近くには「将門記」にも出てくる大津もあります。
わが家の近くにも「船戸の森」がありますが、「戸」は「津」に通じますから、ここも昔は船着き場だったのでしょう。

節子がいたら、手賀沼周辺の谷津まわりやお寺まわりができるのですが、一人ではよほどでないと行く気が起きません。
今日はユカのおかげでお参りできましたが。

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■節子への挽歌5381:いしど歯科医の定期検査(2022年9月6日)

節子

今日は歯科医の定期検査に行ってきました。
私が通っているのは近くのいしど歯科医ですが、年に2回ほど定期検査に通っています。節子がいなくなってから開業した歯医者さんです。
節子がいたら間違いなく気に行ったでしょう。とても残念です。

いしどさんに通いだしてからもう15年ほどになりますが、おかげで歯痛などで困ることはなくなりました。
歯だけではありません。いろんなことを教えてくれるので、心身の健康も良くなっています。風邪は万病の元といいますが、歯もまた万病の元なのです。

私のようにだらしのない人間は、何もなければ歯磨きさえさぼるのですが、歯科医の定期検査があると、少なくともその前には歯磨きをていねいにするようになります。
今日は磨き残し9%という好成績でした。
虫歯も見つかりませんでした。
次回は歯石などのクリーニングです。

まあどうでもいい話ですが、ワクチンよりはコロナ対策にも効果があると思っています。
節子がいなくなって一番つらい時に、いしどさんに通いだしました。
ですからその頃の思いがいまも残っています。
時々節子を思い出しながら、治療を受けています。
あの頃の思いが時々ふっと湧いてくるのです。

だからいしどさんではいつも節子と一緒に治療を受けている気がします。

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2022/09/05

■節子への挽歌5380:久しぶりの畑作業

節子

午後から太陽が出てきて暑くなったので、畑に行く気が出てきました。
久しぶりに畑作業です。

まずは水やり。
百日草がたくさん花を咲かせていましたが、それ以上に元気なのは道沿いの垣を覆っている琉球朝顔です。あまり花を咲かせていませんが、もうすごい状況です。
この一群が西の端から畑領域へと広がっているのです。
なぜか今年はあまり花を咲かせません。

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畑は先日タネを播いたところが芽を出していました。白菜です。
周りの野草を刈っていたら、近くの農家の青木さんがやってきました。
それを見るなり、こんなに詰めておいたらだめだよと言います。見たとたんに白菜と見分けるとはすごい。30センチ間隔でないとだめだといいます。
しかしタネの袋にたくさん入っていたので、みんな播いたのだと言ったら、もう少し大きくなったら間引いて、それをおひたしか何かにして食べるとおいしいと教えてくれました。

まあそれはともかく、青木さんも座り込んで政治談議です。
話は円安からキャッシュレスのカード化の話になり、だんだん人間がいなくなってきたと言う愚痴話になってしまいました。
俺たちも若いころは、親世代のやり方を批判していたが、いまや自分が批判される立場になってしまった、という話で終わりました。
話し相手がいたので、作業もほどほどで、いい感じでした。
そこで気づいたのですが、いつも一人で作業するのではまり込んでしまい、倒れるまでやってしまうのです。

しかし青木さんと話していると、いつも節子の話が出ます。
青木さんは節子に頼んで花かご会に参加したこともありますが、すぐに退会してしまいました。まあそれもあって、節子には恩義を感じているようです。
節子がここで花壇づくりや畑をやっていたこともよく覚えています。
節子をほめていました。

今日も汗をかきましたが、やはり夏の汗と秋の汗は違います。
畑作業をしていると、春と秋との違いがよくわかります。
季節とともに人間の意識がこんなにも変わるものだと実感しています。うまく説明はできないのですが。

秋の畑作業は、やはりどうも好きになれません。困ったものです。

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■湯島サロン「最期まで身も心も縛られない暮らしを考える」のご案内

身も心も縛られない暮らしを模索する社会福祉士の平岩千代子さんによる「医療や福祉における拘束”について考える」は、いまの社会やそこで生きる私たちの生き方を問い直すうえで、たくさんの示唆をもらえたサロンでした。

サロンでは、平岩さんから3つの問いかけをいただきましたが、生々しい平岩さんの問題提起に焦点が行き、せっかくの平岩さんの問いかけに関しての話し合いが十分できませんでした。
そこで報告でも書きましたが、改めて平岩さんの3つの問いかけを話し合うサロンを開催することにしました。

3つの問いかけとは次の通りです。

・人生の最後まであきらめたくないこと、大事にしてほしいことは? 実現の方策は?
・リスクや意思決定過程において、本人と家族では立ち位置が異なるのか、同じなのか。
・医療やケアへの期待と可能性、限界とは?

この問いの根底にあるのは、「最期まで身も心も縛られない暮らし」をどう実現するかです。おそらく誰もが願っていることでしょう。だからこのテーマなら、誰もが自分の問題として、自分の言葉で話し合えると思います。そして、その話し合いの中から、「当事者の尊厳が大切にされる共生社会」が見えてくればうれしいです。

残念ながら昨今の社会状況は、認知症や精神医療に限らず、あらゆる面で「拘束」状況が広がっているように思います。他者による拘束や空気(社会)による拘束、さらには自発的な自己拘束。私たちは、身心を拘束されることに慣れ過ぎてしまい、それがもしかしたら、身心の拘束への抵抗感の希薄化を引き起こしているのかもしれません。そうだとしたら、いまの「身も心も縛られているような社会」を支えているのは、私たち自身です。そして、その一つの現れが、人生の最終局面で私たちに覆いかぶさってきているのかもしれません。

いささか大仰に言えば、それは日本社会における「人権」とか「共生」にもつながっていきます。そしてまさに私たちの人生に大きな影響を与えているはずです。

話はいささか大きくなりすぎましたが、要は、仮に認知機能が低下したとしても、みんなが最期まで自由に納得できる生き方をする社会にするにはどうしたらいいかという話です。それを、それぞれ自分の問題として考え、そのために平岩さんが問いかけた3つの問いを話し合えればと思っています。
出発点は、平岩さんが問うように、自分が一番大切にしたいものを思い出すことからです。

重いテーマですが、終わった後には明るい未来が見えてくるかもしれません。
ぜひ多くの人に参加してもらい、元気を分かち合えればと思っています。
平岩さんにも参加していただく予定です。

前回の平岩さんのサロンに参加した人も参加できなかった人もどなたも歓迎ですが、もし参加されなかった方は、平岩さんがサロンで話した動画記録がありますので、ぜひそれを事前に視聴しておいてください。
https://youtu.be/72XMTm0-kGg

〇日時:2022年9月25日(日曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「最期まで身も心も縛られない暮らしを考える」
〇進行役:佐藤修(CWSコモンズ村村長)
〇会費:500円
〇参加申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

 

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■節子への挽歌5379:もう秋です

節子

すっかり秋らしくなりました。
節子の命日を超えると、いつも秋です。

節子は秋が好きでした。病気になってからは、特にバス旅行で紅葉地によく行きました。
私もほぼすべて付き合いました。
秋と春はバスツアーによく参加したものです。

節子がいなくなってからは、桜も紅葉も私には縁がなくなりました。
誘われても基本的には辞退していました。
やむを得ず行ったこともありますが、ただただ退屈でした。
いまもまだあまり行く気は持てません。
何回か気分を変えようと思っては見たのですが、あまり変わりません。
困ったものです。

秋になると畑にもあまり行きたくなくなります。
だから収穫はできないのです。
今日も、朝、畑に行こうと思い起きてきましたが、やはり行く気になれずにいます。
畑はかなり荒れているのでいかないといけないのですが。

フェイスブックで16回忌のことを書いたら、いろんな人からメッセージが届きました。
ダージリン紅茶を一緒に飲んだことを思い出したという人や我孫子駅に降りる度に駅前の花壇を見て思い出すという人もいました。節子はいろんな人に思い出を残しているようです。私とは違います。

節子は私と違って「思い出」を大事にした人です。
桜や紅葉を見に私と一緒にバスツアーによく行ったのも、そのためだったように思います。
節子は私にたくさんの思い出を残してくれたのです。
しかし私は、思い出がそう好きではありません。というよりも、思い出をしっかりと残すことがあまりできないのです。だから節子と一体どこに紅葉を見に行ったのかもあまり覚えていないのです。

しかし、そんなことなどなくても私のなかで、節子はいまもしっかりと生きています。
私の人生は、節子によって豊かにしてもらったのですから、忘れようとも忘れられないのです。

太陽が出てきました。
おかげでちょっと元気が出てきました。
さて動き出しましょう。

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2022/09/04

■節子への挽歌5378:孫と2人での遠出の許可が出ました

節子

今日の会食の席で、ジュン家族に、秋になったらにこと2人で国立科学博物館に行きたいと提案しました。
断られるかなと思っていたのですが、意外とすんなりと了解が取れました。
むしろユカが、2人は無理じゃないのと心配していましたが。

肝腎のにこも珍しく反対しませんでした。
たぶん科学博物館とは何かがわかっていないのでしょう。
先日、秋に山に行こうと誘ったら、即座におさむさんとは絶対に行かないと断られたのですが。

最近、にこはミイラや恐竜に関心をもっているそうです。
星座にも関心があって、時々、夜空を見ているようです。

さて「初めてのお使い」ではないですが、初めての孫との遠出。さてさてどうなりますか。
いずれにしろにこを説得しなければいけません。
卵アレルギーもあるので、いろいろと注意事項があるようですから、それも学ばなければいけません。
まあその前に途中で倒れないようにしなければいけません。

節子がいたらこんな苦労は不要なのですが。

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■節子への挽歌5377:みんなで会食

節子

節子の命日の前後には毎年家族みんなで会食することになっています。
今年はみんなでしゃぶしゃぶを食べに行きました。

といっても近くのチェーン店のしゃぶしゃぶなので、食べ放題ですが、とても安いところです。
わが家の家族はみんなあまり食べないので、「食べ放題」というのにはあまりいったことがありません。節子が元気だったころにも、そういうお店にいった記憶がありません。
食べ放題というのですが、結局はさほど食べられないものです。

それに食べ放題はそれなりにせわしない。
時間制限があるようで、残り時間は何分ですなどと表示されるのです。
もちろんそんなに時間通りに管理されるわけでもないでしょうが、これもわが家向きではありません。
それでも今回は、いつもよりも食べてしまったようです。
帰宅したら眠くなってきてしまいました。

じゅんの連れ合いの峰行から、節子がいた頃はどういうお店によく行ったのかと訊かれました。そう訊かれると思い出すのは中華料理店くらいです。
節子と一緒に、あるいは家族とみんなで、おしゃれなレストランにいった記憶はあまりないのです。いまから思えば、節子をもう少しおしゃれなお店に招待すればよかったと思うこともあります。でも節子はそういうことをあまり喜ばないかもしれないという気もします。

ちょっとだけ贅沢をしたのは中華料理くらいです。
部屋を借りて家族みんなで円卓を囲んで食事をしたことも何回かありますが、節子も一緒に行ったことのある、そうしたお店も今はどこも残っていません。
たまにはあの時のようなコース料理を食べようかと思うこともありますが、最近のわが家の家計ではついつい躊躇してしまいます。

でも今日は、にこは6歳なので格安、私もシニア割引のようなものがあり、その上、割引クーポンもあって、5人で食べても1万円ほどでした。孫もデザートがいろいろとあったので、満足していました。

来年は17回忌です。
お寺での法事につなげて、家族以外も呼んで、少しがんばったお店での会食にしようと思います。17回忌が終わると少しホッとできます。
もうそろそろ彼岸に行っても、節子も許してくれるでしょうから。

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■湯島サロン「医療や福祉における‟拘束”について考える」報告

久しぶりの「福祉」関係のサロンでした。事前の参加申し込みが少なかったので心配していましたが、当日は10人を超す参加者がありました。

Hiraiwa2022

平岩さんは、まず、なぜ自分がこの問題に取り組みだしたか、から話しだしました。
きっかけは父親の入院に当たって「身体拘束同意書」への署名を求められたという衝撃的な体験だったそうです。併せてそれまでにも見聞していた老人病院での記憶とともに、自分自身が人生の最終楽章で尊厳あるケアを受けて旅立ちたいという思い。この話だけで、これは自分とつながっている問題だと受けとめた人は多かったでしょう。

そこから平岩さんは、ていねいに作成してきてくださったレジメに沿って、「当事者の尊厳が大切にされる共生社会」という理念、「認知症に関わる現状や国の施策」という現実、そしてそれらを踏まえての「人権や権利」「将来に備えての課題」を整理してくれました。そして、最後に話し合いのための3つの問いかけをしてくれました。

このレジメだけでも読み応えのあるものですので、もしご希望の方がいたらデータでお届けするようにしますので、私宛(qzy00757@nifty.com)ご連絡ください。

話が認知症や病院での身体拘束といった、生々しい話だったこともあり、話し合いは、自分の問題とつながるような質問や意見で盛り上がり、平岩さんの問いかけにはなかなかたどりつけませんでした。「病院や施設での身体拘束」の話は、初めて聞く人にとってはかなりショックだったようです。
前日の原発の話に限らず、私たちはまだまだ知らないこと(知らされていないこと)がたくさんあることに気づく必要があります。

話題になったひとつはやはり認知症でした。
認知症は、当事者としてまた関係者として、誰にも関係してくる問題ですが、実際に直接体験しないとわかりにくい一面を持っています。それに一言で「認知症」と捉えられがちですが、その実態はさまざまです。

平岩さんは、「認知症は双方向のコミュニケーション障害」だという上野秀樹さんの捉え方を紹介してくれました。認知の違いによるコミュニケーション障害であれば、別に認知症に限った問題ではありません。そもそも人の認知は、一人ひとり違いますから、多様な認知の世界を持つ人が、うまく住み合える共生社会を工夫していくことが大切です。認知症への処し方は大きく変わっていくはずです。一方的に身心を拘束することは、むしろコミュニケーションを阻害することになりかねません。
ある参加者が体験談として話してくれましたが、こちらの対応次第で、「認知症」と言われる人の対応も変わってくるのです。

私も知りませんでしたが、たまたま先週、障害者権利条約の日本審査がジュネーブで行われ、近くその審査結果が発表されるそうです。そこではいまだに隔離状態が続いている日本の精神科病院の実体が問題にされているようで、脱施設化、脱精神医療へと動いている世界的な潮流のなかで、日本は相変わらずまだ身体拘束や部屋への閉じ込めが多いという事実を私たちはもっと認識する必要があります。
また、認知症に関しても、人権尊重を視点に考えるのと国家経済の視点で考えるのとでは全く違った施策になっていくと思いますが、日本の政策は後者にあるようです。
私も20年ほど前に少子化問題に関わったことがありますが、その時もまさに政財界共に経済視点で発想しているのを知って愕然としたことがあります。
認知症(高齢者の人生)が医療産業の市場にされてはたまったものではありません。

平岩さんの話で、私が一番印象に残ったのは、「生物学的ないのち」に対する「物語を紡ぐいのち」という言葉です。
平岩さんは、「物語を紡ぐいのち」をどう実現するかが大切だと言います。身心が拘束されていて果たして自分らしい物語を紡げるのか。これに関連して、平岩さんは「リスクや意思決定過程において、本人と家族では立ち位置が異なるのか、同じなのか」という問いかけもしてくれていました。この問いは、まさにどういう物語を紡いでいくのかにつながっているように思います。

平岩さんはこのほかにも、「人生の最後まであきらめたくないこと、大事にしてほしいことは? 実現の方策は?」も問いかけてくださったのですが、話し合いが盛り上がりすぎて、十分な話し合いには至りませんでした。できれば、改めて、平岩さんの問いかけを話し合うサロンを企画したいと思っています。

ちなみに、平岩さんの第3の問いかけは「医療やケアへの期待と可能性、限界とは?」です。みなさんもぜひそれぞれに考えていただければと思います。
みんながこういうことを考えることだけでも、私は社会が変わっていくように思います。

今回のサロンのテーマである「拘束」については、幅広い視点から話題になりました。認知症や精神医療に限らず、今やあらゆる面で「拘束」状況が広がっているのではないか。つまり、他者による拘束や空気(社会)による拘束に加えて、自発的な自己拘束もまた広がっているのではないかというような話も出ました。
であればこそ、改めて「人権」とか「共に生きる」とは何かを考えることが大切だと平岩さんは考えているようです。

平岩さんのお話をうまく伝えることができないのが残念ですが、当日の平岩さんのお話を動画で記録させていただきましたので、お時間が許す方は是非ご覧ください。
https://youtu.be/72XMTm0-kGg

ちなみに、平岩さんがまとめたブックレット「認知症と拘束尊厳回復に挑むナースたち」もお勧めです。平岩さんが問いかけた「医療やケアへの期待と可能性、限界」を考えさせられるとともに、現場で健闘されているナースたちの声に気づかされることはとても多いですから。
https://dpj.jnapcdc.com/archives/2828

 

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■節子への挽歌5376:下の畑の花壇がだいぶきれいになりました

節子

台風を心配していましたが、静かな日になりました。
最近、少なくとも1週間は畑に行っています。

フェイスブックでは定期的に「畑もどき作業記録」を投稿しています。
意外と呼んでくれる人がいて、反響もあります。
先日も節子の好きだった梨を分けてもらいに杉野ファームに行った時に、杉野さんから冷やかされました。

収穫はほとんどありませんが、たとえば今年のお盆のお迎え役と送り役脳死ときゅうりは、畑でなったナスときゅうりでつくりました。
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2,3日、激しい雨だったので、昨日の夕方、畑に見に行きました。
タネをまいて芽が出て来ていた野菜が全滅していました。

それに対してかなり育っていた百日草は元気で、もうかなり花を咲かせていました。
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節子が傾斜地を活かしたロックガーデン仕立てにしたいと言っていたところは一時期野草で覆荒れていましたが、今年はだいぶ花壇らしくなってきています。
しかし種を蒔くのが遅かったので、なかなか花が咲きそろいません。

畑の方はかなりひどい状況になってしまったのでいささか気が重いです。
今日はたぶん畑には行けませんし。

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2022/09/03

■節子への挽歌5375:たこべえ

前の挽歌に載せたカサブランカの横に、おかしな物体が一緒に供えられています。
これは「たこべえ」です。

1か月ほど前の82日に、孫のにこと娘たちはスカイツリーの隅田水族館に行っていました。にこはクラゲが大好きなのです。
私も誘われましたが、まあ足手まといになるだろうと思い、辞退しました。
科学博物館であれば、喜んで同行したのですが。

夜、にこがお土産をもって報告にやってきました。
それがこの奇妙な「たこべえ」なのです。
やわらかなプラスティック製で、自由に変形します。

早速に「たこべえ」と命名しましたが、にこはこれは女の子だからたこべえはおかしいと異議申し立てをしてきました。にこは、私がにこのことを「にこべえ」というのも嫌っていて返事をしないのです。
まあこの呼び方で、私はにこに嫌われているのかもしれません。

困ったものです。

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■節子への挽歌5374:久しぶりにカサブランカの香りが充満しています

節子

朝、小学校時代の同級生の升田さんから、カサブランカが届きました。
そういえば、去年も届いたのを思い出しました。

節子は花が好きだったので、命日にはいつも幼なじみから花が届いていましたが、13回忌が終わったところで辞退させてもらいました。
あまりに立派な花だったのと何となく仏花のイメージがあったので、私たちには何となく合わないという気分がありました。
私の好みは、何気ない日常的な花が供えてある雰囲気なのです。
しかし、花を送ってもらうことはうれしいこともまた事実です。
なにしろ節子のことを思い出してくださるのですから。

近くのMさんも、命日ではないですが、お盆に自摸、節子好みの花を届けてくださっていました。節子が一度だけしたことのある行為のことを、いつも花と一緒に話してくれました。それへの気持ちだというのです。
しかし、そうしたうれしいお心遣いを、身勝手ながらすべて13回忌が終わったところで辞退させてもらいました。

ところが昨年、突然に升田さんからカサブランカが届いたのです。カサブランカは、妻も私も大好きな花でした。それを私が話してしまったのかもしれません。
そのカサブランカが、今年も届いたわけです。

節子がいた頃もカサブランカはよく活けられていましたが、最近は高いこともあって、カサブランカはめったに供えられません。
久しぶりのカサブランカです。

娘家族と同居したため、節子の位牌と仏壇は2階に転居しました。
場所がつくれず、いまはチェストの上に置いているのですが、飾る場所がないので、小さなテーブルを横に置いて飾ることにしました。

Yuri2 Photo_20220904100101 カサブランカの花にカードが添えてありました。梁塵秘抄からの言葉と贈ってくださった人の言葉が書かれていました。カードも一緒に供えさせてもらいました。
家族みんなでお墓参りに行く前に、般若心経をあげさせてもらいました。

節子を見送ってもう16年目ですが、人生を切り換えることがなかなかできずにいます。
一つ大きく変わったのは、死が不安でなくなったことです。
彼岸に節子がいると思うと、死もまたいいものだなと思えるようになったのです。
2昔前のように家族のつながりが強かった時代には、もしかしたらみんなそうだったのかもしれません。

今日と明日は自宅で静かに過ごす予定です。

 

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■節子への挽歌5373:16回目の命日

節子

ずっと挽歌をアップしてきていません。
実は時々書いていたのですが、アップするまでに至っていません。
もう2か月近く間が空いてしまいました。

いつも命日には頑張って日数とナンバーを合わせるようにしていたのですが、今年は数字が100近くずれてしまいました。
特段理由があるわけではなく、ただただなんとなくアップできなくなっていたのです。
文字を書くのがいささか面倒になってしまったということもあります。
まあ、気分の動きを大切にするのが私の生き方ですので、無理に書こうとしなかったのです。

この間、節子にも報告したいことも少なからずありました。
節子を思い出させることもありました。
でも挽歌はどうも書けませんでした。

実は昨日、突然なんということのない「不安感」が襲ってきました。
理由はまったく心当たらず、しかも不安の内容もわからない。
もしかしたら、挽歌を書いていないことが一因かもしれないと思いました。
まあそんなことはないでしょうが。

いずれにしろ今日からまた挽歌を書こうと思います。
今度こそ、つづけられるようにしたいです。
何しろもう16年目なのですから。

 

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2022/09/02

■昨日のオープンサロンの報告

昨日のオープンサロンは、引きこもりが大きな話題になりました。
というのも、引きこもり当事者、引きこもりの息子をお持ちの母親、引きこもりの人たちの居場所づくりに関わっている人などが偶然に集まったからです。
私自身は、都会に住んで企業や役所に勤めている人たちは、ほぼみんな「引きこもり族」ではないかと思っているので、いわゆる「引きこもりの人」に対して特別視する感覚はないのですが、そうした引きこもりの人たちの家族の大変さは一応理解しています。ですから逆に、それはむしろポジティブに捉えるべきだと言いたいのですが、なかなかわかってもらえません。

後半では、引きこもりの議論から発展して、なぜお金を稼がないといけないのかという話から、ベーシックインカムや限界費用ゼロ社会(ほとんどのものが無料になる社会)も話題になりました。
こういう議論は、経済成長を目指して頑張っている人たちが聞いたら、どう思うでしょうか。一度、議論したい気もしますが、前には「どうしてそんな生産性のない議論をしているのか」と言われたこともあるので、言いだす勇気が出てきません。
困ったものです。はい。

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2022/09/01

■国葬に関して思うこと

昨日も安倍元首相の国葬反対の集会が各地で行われていました。
国会前の集会に参加していた友人が写真を送ってきてくれました。
それでフェイスブックに写真とともに下記投稿をしました。

国民の半数以上が反対しているにもかかわらず、国葬が行われる国家とは、どういう国家でしょうか。
国民半数以上が反対していて行動を起こしているのに、それをほとんど報道しない国営的放送(NHK)とは、どういうメディアでしょうか。
友人たちが国会前などで意思表示してくれています。
6時現在で国会前は5000人くらい集まっているそうです。

そうしたらいろんな人がコメントしてきてくれました。
それで今朝、また次の投稿をしました。

国葬に関して昨日投稿したらいろんな方からコメントをもらいました。
ありがとうございました。
国葬に関しては、賛否それぞれです。
ただ私の関心は、国家とは何か、報道とは何かにあります。

先日投稿しましたが、数年前に出版された「世界を変えた14の密約」をまた読み直しました。昨年、文春から文庫化されて再出版されています。
国家がどう変わってきたかが示唆されています。改めてお薦めします。

今湯島でやっている生活事業研究会でのテーマのひとつでもありますが、ポリティカルエコノミーからエコノミックポリティクスへと政治や経済が大きく変わってしまったなかで、改めて生活を回復させたいと思っています。分断されつつある二項を取りちがえないようにしたいものです。

私の視点は、1968年ころから始まった「システムもしくはアルゴリズム対人間」です。それが明確になってきたような気がします。私はもちろん今なお「人間」でいつづけているつもりです。

それに人の死は、静かに悼むもので、手段にすべきではありません。
国民の多くが、自然と悼んでこその国葬ではないかと私は思います。ですから日本で行われようとしているのは、私には醜いマネーゲームにしか見えません。オリンピックと同じように。
ちなみに、私は国葬反対ですが、国葬騒動で、いまの日本の政治の実相もまた見えてきたように思います。

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