■湯島サロン「今の社会、生きやすい?生きにくい?」報告
「今の社会、生きやすい?生きにくい?」をテーマにしたサロンは、平日にもかかわらず、世代を超えてたくさんの人が参加してくれました。大阪から参加した19歳の若者もいます。
最初に参加者に、簡単な自己紹介と、「今、生きやすいか、生きにくいか」を一言で話してもらいましたが、みんな「一言」では終わりませんでした。話したいことがたくさんありそうで、放っておいたら、これだけで終わりそうでしたが、なんとか一巡。結果的には、「生きやすい」5人、「生きにくい」6人、「どちらとも言えない」3人でした。
みなさんの話を聞きながら、私の問いかけの失敗に気づきました。
「いまの社会は生きやすい社会か」なのか「いまの社会はあなたにとって生きやすいか」なのかでは全く問いかけの内容が変わってしまいます。さらに、「生きやすいこと」は人によっては必ずしもよいことではなく「退屈」かもしれません。
みなさんの話を聞いていて、それに気づきました。
問いかけが的確でないと話し合いはうまくいきません。さて困った、どうしようと思ったのですが、私の反省などにはおかまいなく、なぜか話はどんどん進んでいきました。気づいたら予定の時間をかなりすぎているほど、話し合いは盛り上がっていました。
問題設定がいい加減だと、むしろ話し合いがうまくいくこともあるようです。
生きやすいと言う人は「選択肢が増えている」「多様な価値観が許容されている」などがその理由、逆に生きにくいと言う人は「先が見えない」「夢が持てない」「価値観が窮屈」そして「みんな無機質で人の魅力を感じにくくなった」という感じでした。
しかし、選択肢が増えたら逆に生きにくいという人もいるでしょう。
そもそも生きやすいとか生きにくいということは、きわめて個人的な問題で、個人の生きる姿勢の問題ではないかと指摘した人もいました。まさにその通りです。
若い世代から、生きにくさを感ずる経験として、学校の制服問題や校則問題が出されました。その体験では、学校側に異議申し立てをし、その言い分は理解してもらったにもかかわらず、ルールは変わらず、制服を着続けることになったようです。
たしかに若者にとっては、大人が定めたルールに従うのは窮屈かもしれません。しかし、いまはそうしたことに関して異議申し立てができるようになったということは、逆に自由度(生きやすさ)が増しているとも言えるでしょう。
ルールへの異議申し立てを超えて、さまざまな面でクレーマーが増えているという話も出てきました。なぜクレーマーが増えてきているのか。個人が声を上げやすくなったということもあるでしょうが、逆にみんな素直に思いを表現できずに、八つ当たり的に反論しにくい人に向けてクレームしているのではないかという意見が多かったような気がします。そう考えると逆にみんな我慢をしながら生きているとも言えるでしょう。
事程左様に事態はややこしい。
生きやすさと生きにくさは、実は正の比例関係にあるのかもしれません。つまり生きやすくなればなるほど、生きにくい局面が現れるということです。
そうであれば、私の問いかけは全く意味がなかったというべきかもしれません。
生きやすい社会とは、実は生きにくい社会なのかもしれません。
自由に生きるということは、どうもとても難しいことのようです。
しかし、ちょっと次元の違う話もありました。
たとえば、建前と現実の違い。
転職しやすくなった一方で、実際にはそう簡単には転職できない現実もあります。
建前としての不平等はなくなったようで、実際には陰湿な形で残っていることもある。
冤罪をなくしたいという思いで検事になろうとした若者が、建前通りとは言えない司法の世界の実態の一部に触れてくじけてしまったというような話も出ましたし、使命よりも金銭に左右されがちないまの社会の話も出ました。
建前と現実がずれてしまっていて、何を信じていいのかがわかりにくくなっているという意味では、まさに「生きにくさ」が高まっているのかもしれません。
今回、私は問題設定を間違えてしまったのが気になって、うまく話し合いに乗れませんでしたが、みなさんの話を聞いているうちに、問題がかなり整理できました。
ネット情報社会は生きやすいかどうか、が私の関心事だったのです。
ネット情報社会ではみんな丸裸にされるような状況に置かれます。しかし同時に、個人の言動がネットの支えで大きな力になることもある。個人(プライベート)の世界と公(パブリック)の世界がつながってしまいがちです。
クレーマーの広がりも建前と現実の違いの露呈も、異議申し立ての受容と無視も、もしかしたらみんなネット情報社会によってもたらされたのかもしれません。
イギリスで数年前にベストセラーになった「大衆の狂気」という本があります。
社会的公正(マイノリティに味方する)という「大義」を理由とした過剰な「ハラスメント議論」によって、社会の分断が広がっているというような内容の本です。
私が最近の社会に「生きにくさ」と「不快さ」を感ずるのもそういう風潮です。
私のまわりでさえ、言葉尻を捉えての嫌がらせやうっぷん晴らしとしか思えない不毛な「コメント」が少なくありません。そして、そうしたことが怒りや暴力につながっていくような不安もあります。
非難し合う社会は、私には生きにくい社会です。
そんなわけで、私には気づきの多いサロンでしたが、あまりに主観的な感想が強く、報告が書けずに遅くなってしまいました。すみません。
ちなみにわざわざ大阪から来てくれた19歳の最年少参加者は、とても楽しかった、また来たいと言ってくれました。話し合いは若い世代にも面白かったようです。
しかし最後に彼女は厳しいコメントもくれました。
みんな普段はあんまりしゃべれていなくて、このサロンに話に来て発散しているのではないか。それに、みんな話を聞くよりも、自分の話をするのが好きですね。それも聴き手にとってはあまり興味のないような話を。
私も含めて、大人たちは返す言葉もなく、奇妙に納得していたように感じました。
今回に限らず、最近の湯島のサロンでは、若い世代の人が実に素直に反応してくれます。それをあまり良しとしない大人たちも少なくないですが、私には気づかされることが多いです。相手に合わせて我慢するよりも、正直に対応したほうが、相手にも誠実だろうと思うからです。そう生きていれば、過剰なクレーマーにもならないでしょう。
湯島のサロンのように、自分をさらけ出しても安心できるような社会になってほしいものです。安心して本音で付き合える社会こそ生きやすい。
ちなみに前述の「大衆の狂気」の著者は、「許すこと」の大切さを語っています。ちょっと分厚い本ですが、お暇な方は得非どうぞ。
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