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2022/09/27

■信仰の力サロン「生き方が選択できる社会」報告

「信仰の力」サロンの2回目は、1回目とは視点を変えて、クリスチャンの増山さんに話題提供していただき、宗教の持つ規範性(暴力性)を踏まえての「生き方が選択できる社会」をテーマにしました。

増山さんは、6枚ものレジメを用意してくれましたが、そこには古今東西にわたる多様な問題が提起されていました。そして、文化を変えるための一つの試みとして「ポ-カーチップ算数」まで提案されていました。

増山さんは、自らの生い立ちから話し出しました。3代目のクリスチャンであること、仕事は化学専攻で環境計量士だったのに、なぜか今は農業に取り組んでいること、…。
そうした話の中に、「信仰の力」を増山さんがどう捉えているかが示唆されていたように思います。

つづいて増山さんは、案内にも書いた遠藤周作の小説『沈黙』で語られている「日本=沼地(どんな苗も育たない)」論を紹介し、そこから、なぜ日本には「沼地」的な状態が出現したかを日本書紀から戦国期に至る日本の歴史を踏まえて解説。特に、『沈黙』の舞台になったキリシタン伝来によって明らかにされてきた日本の宗教の特性を話してくれました。

思いきり要約すれば、創唱者がいて、経典があって、施設がある「創唱宗教」や自然発生的な信仰である「自然宗教」の文化とは違い、複数の創唱宗教や自然宗教の間を回遊している「回遊型」信仰が日本人の宗教文化というのが現実に即した理解だと言うのが増山さんの主張です。たしかにそう理解するとわかりやすい。
詳しい話は増山さんのレジメがありますので、関心のある方はご連絡ください。

次の話題は、「脱〈沼地(?)〉すべきなのか」ということですが、増山さんは、沼地=悪と考えて、土壌改良したり、盛り土したりして、「普通の耕地」に変える必要があるのかと問います。そしてむしろ、変えるべきは「沼地ではどんな苗も育たない」と考える「文化」ではないかと言います。このあたりから生態系の話や共生の話へと展開されていくのですが、中途半端な報告になりかねないので、内容は省略します。

そして最後に、文化を変えるためのひとつの試みとして、増山さんが開発した「ポーカーチップ算数」の話をしてくれました。

駆け足で紹介しましたが、ここから話し合いに入りました。

沼地論、回遊型信仰など、話し合いの話題には事欠きませんでした。時に信仰のテーマとはつながらないような気がして、何回か「信仰の話に戻しましょう」と発言してしまったのですが、後から考えると、どうもこれは私の間違いだったと反省しました。
信仰というのは、人によって全く違う意味合いを持つことに改めて気づかされたのです。一見、信仰とは関係ない話の中にこそ、信仰の力を読み取るべきだったかもしれません。信仰について語り合うことの難しさを思い知らされたような気がします。

しかし、そんなわけで、話し合いの内容を報告するのは難しい。そこでいつものように、私の印象に残ったことを書かせてもらいます。
サロンでも少し話題になりましたが、信仰や宗教は正反対の2つの力を持っています。

創唱宗教では、経典に帰依した人たちには生きる力を与えますが、そこから外れた人たちには救いの手は届きません。むしろ異教徒として否定されかねない。そこに手を差し伸べるのが新しい宗教で、そのため宗教には状況を変革する力があるわけですが、それを増山さんは「暴力性」という言葉で表現しました。
イエスが磔になり、遠藤周作の『沈黙』でのロドリゲの苦悶があり、宗教戦争まで起こるわけです。信仰は時に、内と外を創りだす。まさに「政治」と同じです。

もちろんすべての人を救済し、すべての人を安堵する宗教もあります。前回のサロンでお話しいただいた阿部和子さんが信仰する真如苑には「一闡提(せんだん)成仏」という教理があり、仏教では成仏しない者とされる人もすべて救済されるとあります。
「信仰」の持つ、平安と暴力性の両義性はいろいろなことを気づかせてくれます。
自分だけの平安追及が、息子を追いやって家族を壊し、社会に不安をもたらすことさえある。まさに今、問われている問題です。

増山さんは、日本の宗教文化は「回遊型」だと言いましたが、回遊とはしっかりした自分があって実現できることかもしれません。ただ流れに任せるということではなさそうです。だからこそ『沈黙』の世界が出現してしまう。
それは増山さんの生き方にも表れている。苦労もあれば、自由もある生き方が、増山さんの生き方のようです。回遊するには中心核を持った柔軟な主体性が必要なのかもしれません。
「回遊」と「信仰」はもう少し考えないと私には整理できない難問です。

信仰は、自分を超えた大きなものに帰依することだとしたら、自分を消していくことかもしれません。しかし、そのためには、消すべき「自分」がなければならない。そもそも「自分」がなければ、消すこともできないですから。
ここにも、信仰ということが持つ両義性があるように思います。

ちなみに今回のサロンには、ラマナ・マハリシというインドの聖者に共感している人が2人参加していましたが、ラマナは自らの中にこそ真なる我、「真我」があり、それに従って生きることを勧めています。

自我を超えた「大いなる存在」に帰依して生きるか、自我の奥底にある「真我」に従って生きるか。生き方が選択できる社会であればこそ、この問題は大きな意味を持っているように思います。

信仰をテーマにした話し合いのサロンをもう少し続けたいと思います。
いつか、ラマナの教えも話題にできればと思っています。

話題提供してくださる方がいたらご連絡ください。

Masuyama2022

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