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2022/09/14

■第18回益田サロン「生物と環境を考える益田同心円モデル」報告

今回は、最初に戻って、益田サロンの根底にある「生物と環境」の関係を考える思考の枠組みのようなものを話してもらうことにしました。益田さんは、多重の同心円を使って、いつも説明してくれるのですが、その思考の枠組みをシェアしておかないと「生物」と「環境」という言葉自体の捉え方がそろわないからです。

導入部は「溶原性変換」の話題でした。益田さんは、生物が環境を失ったら生きてはいけないという例として話されたようですが、私にはこれまた益田サロンの大きなテーマである「自己・非自己」を考える上で、とても興味深い話でした。

つづいて、ジフテリア菌の話。

益田さんは、こういう話をしてくれました。
臨床検査室で見つかるジフテリア菌はジフテリア毒素を作ってジフテリアという感染症を起こします。ジフテリアの予防接種を受けると、その人の血液の中にはジフテリア毒素の毒作用を打ち消す抗毒素抗体というものが出現して、この人はジフテリアにかからなくなります。
ジフテリアという病気は、ジフテリア菌が持っているファージにある毒素がのどの粘膜にある毛細血管を破壊し、そこから血液の栄養が大量にジフテリア菌に供給されることで菌が増殖し毒素が大量に血液の中に流れ込むことで心臓が冒されて、その人を死に至らせる感染症です。ところが抗体によって毒素が働かなくなるとジフテリア菌は常在菌と同じ立場に置かれてしまいます。つまり病気を超さない。

ファージ遺伝子や毒素遺伝子はジフテリア菌に扶養家族と同じ負担をかけます。
ジフテリアという病気によって栄養が豊富に与えられないと常在菌に負けてしまいます。
常在菌は貧弱な栄養に適応しているので、余分な遺伝子を持っていないだけ有利なのです。
ファージ遺伝子が毒素遺伝子を持ち歩いているのはジフテリア菌にとって居候であったファージ遺伝子が毒素という才覚を発揮して家主に生存競争に負けないだけの栄養を取らせたようなものでしょう。

要するにジフテリアという病気を起こす必要があったのはジフテリア菌ではなくファージだったという事になります。ジフテリア菌は常在菌としてでも十分に生きていけるはずだからです。

ファージを生物、ジフテリア菌を環境と考えると毒素は環境を豊かにするための道具と考えられます。毒素はファージが生き残るための不可欠な解決手段だったとすると、これは無駄飯食い人間の大きな脳みそが体に提供した知能もジフテリア毒素のようなものだとも考えられるのではないかというわけです。

生物と環境を考える様々なヒントがここには含意されています。

その話を聞いて私が思ったのは次の通りです。
ジフテリア菌にはファージを取り込んだものと取り込まないものがあるが、どちらが存続しやすいだろうかと問いかけが益田さんからありました。私はその問いそのものが成り立たない問いだと答えました。時間軸によって答えが変わるからです。
もし取り込んだファージが、ジフテリア菌にとって何の役にも立たないのであれば、当然、ファージを取り込まないほうがいい。ではなぜ取り込むのか。
それはファージは一緒に「毒素」(こう名付けたとたんにすでに価値観が入ってきますが)を背負っているからです。そして、ある状況において、その「毒素」が活躍し、ジフテリア菌が寄生している人体に影響を与え、ジフテリア病を発症させ、ジフテリア菌の存在する世界を広げることになることがある。そういう意味で、ファージは間接的にジフテリア菌には役立っているわけです。しかし、それによって自らも死んでしまうこともある。

「毒素」にとっての環境はファージ、ファージにとっての環境はジフテリア菌、ジフテリア菌にとっての環境は人体と考えれば、いろいろなことが見えてくる。
一見、何の役に立たないと思われることが、実は大きな意味を持っていたり、生存しようと思ったことが、自らの存在を危うくする。

環境と生物の安定した関係は理論的にはともかく持続せずに変化しますから、まさにこれはリスクマネジメントの話なのかもしれません。リスク(負担)は状況によってはベネフィット(恩恵)になるというわけです。そこにこそ、生物と環境の本質があるような気がします。つまりそれは、単純な対立関係・並置関係ではないのです。さらに言えば、生物にとっても環境にとっても、意味のないものは存在しない。

そうしたことを模式的に示してくれるのが、益田さんの同心円モデルではないかと思います。
今回はもう少し同心円モデルが話題になるかと思っていたのですが、あまり突っ込めなかったのが少し心残りです。

ところで益田さんはこう言うのです。ファージが入ったらジフテリア菌は、その負担によって滅亡するはずなのに、毒素はその負担を解消してくれる。人もただ脳みそが大きいだけで知能が低かったら、腹ばかり減らしているろくでなしという事で葬り去られるのと同じ。だから知能と毒素の比喩は面白い。

というわけで、次回の益田サロンは、「人間の知能はジフテリア菌の毒素のようなものか」になりました。
いよいよ話の舞台が人間社会になってきました。
具体的な内容が決まり次第案内させてもらいます。

Masuda182

 

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