■節子への挽歌5396:すべてを節子のせいにして、引きこもってしまっている
節子
明日は安倍元首相の国葬です。
私は安倍元首相は日本をだめにした権力者の一人だと思っていますし、そもそも「国葬」などという時代遅れの話には拒否感があります。
最近、英国のエリザベス女王の国葬が行われましたが、それには全く違和感はないのですが、政治権力者の国葬には、どうしても政治色を感じて、生理的になじめません。
おそらく節子がいたら、同じ感覚だったでしょう。
昨日、ネットのユーチューブで、14日に東大で開催されたシンポジウム「国葬を考える」の記録動画が配信されました。
今日は、午前中、それを3時間見てしまいました。
とても示唆に富む内容で共感できました。
時評編にも書きましたが、そのシンポジウムのパネリストの國分功一郎さんや石川健司さんなどみなさんが、ともかく「考える」ことが大切だといっていました。
とても共感できます。
私はもうこの7年ほど、デモ活動には参加したことがありません。
安保法制反対のデモの時に、反対を唱えている人が、何も考えていないような気がしてしまって以来、デモに参加できなくなってしまったのです。
反対することにエネルギー4を注ぐあまり、反対が目的になってしまっているような気がしてしまったのです。
それはおそらく私の勘違いなのでしょうが、一度そう思ってしまうとあのでも空間は実に居心地が悪いものになってしまったのです。
しかし、もし今、節子がいたら、たぶんもう一度、節子と一緒にデモに出かけていることでしょう。
最近そんな気がしてきています。
すべてを節子のせいにして、引きこもってしまっている。
困ったものです。
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